胎間忍 作:内府
市女笠をかぶった女が慣れない足で美濃の山中を歩いていた。
彼女は岐阜城から逃げ出した響子であった。
響子はどこに逃げるかもまだ決めていないがとにかく人目のない方へと逃げてこうして山の中を徘徊していた。
既に日も落ちて辺りは暗くなった。
響子はこれ以上夜道を歩くことは避けて近くにあった巨木の根に腰を下ろした。
夜になるまで山道を歩き続けたことにより疲労感がどっと押し寄せてきた。
この場で暫し休まねば立つこともできそうになく、巨木に体を預けた。
響子「貴方は何があってもこの母が守りますからね…。」
響子は胎の中の我が子に向けて優しく語りかけた。
自分の腹に触れている手から我が子の鼓動が響子の思いに反応したかのように感じられた。
だがこの親子の繋がりを断ち切るように醜悪な陰が近づいていた。
巨木で休んでいた響子は自分に近づく得体の知れない存在に気づき身構えた。
何としても胎の子だけは助けたいと響子はおもっていた。
木々の間の暗闇から何かが迫ってくるのが直感的に感じられた。
もう少しで目視できるという直前で響子に迫っていた謎の気配は消えてしまった。
響子は自分に迫っていたのが織田家の追っ手かあるいは狼や熊といった獣かも分からなかったがひとまず気配が消えたことに安堵した。
緊張から解放されて再び巨木へと響子はもたれかかった。
もたれかかる巨木の感触が違った。
先程まで響子がもたれていた大木の安心感のある堅い感触ではなく人の感触がした。
響子が跳ね起き後ろを振り返るとそこには気味の悪い笑みを浮かべる細長い男が立っていた。
響子「貴方は……誰?」
細長い男「ふっふっふ、いけませんねえ勝手に逃げては。私の医術をせっかく体験できるというのに。」
響子は信長が自分を訪れた際に現れたダンゾウと一緒にいた男であることを思い出した。
響子は逃げ出そとするも容易く片手を掴まれ捻り上げられてしまった。
響子「いっ、嫌、やめて、離して!」
佐馬斗「離すわけないでしょ。膣から胎児を掻きだすなんて滅多にできることじゃないし。」
響子は何とか振り解こうとするも佐馬斗にしっかりと握られた上に地面から吊り上げられてしまい思うように体が動かせなかった。
佐馬斗「いい加減、大人しくしてくれませんかねえ。欲しいのは胎の子の命だけなんですがねえ。」
佐馬斗が響子を大人しくさせるために当て身をくらわせようとして響子が自分の腹をかばったその時、佐馬斗と響子の頭上に陰が現れた。
その陰の正体は響子を助けるために岐阜城へと向かっていたムラサキであった。
偶然山道を駆けていた時に響子の悲鳴が聞こえてこの場に駆けつけることができた。
響子が佐馬斗に捕まるところを見て鳥のように飛翔したかと思うと佐馬斗の頭上から彼を攻撃した。
ムラサキの上空からの一閃により響子を掴んでいた腕は肩から両断されてしまいそれにより響子は尻もちを突きながらもかいほうされた。
佐馬斗「グアアアアアッうっ、腕があ私の腕が!」
ムラサキ「ふん、汚い手で響子様にふれるな。」
いきなり腕をなくした佐馬斗が絶叫していた。
佐馬斗の傷口からは血が勢いよく噴き出し彼の足下に血の海を作り出していた。
ムラサキは佐馬斗にとどめを刺そうと彼の血で濡れた忍び刀を構えた。
佐馬斗「やっ、やめろ…来るな、来るなあ!」
ムラサキ「死ね。」
ムラサキの忍び刀が佐馬斗の頸を貫いた。
佐馬斗「ガッ…………………」
佐馬斗が短く断末魔の声を上げ、事切れた。
ムラサキは血振るいをして刀を納めると響子へと向かった。
響子は先程までの体験と辺りの血の海により震えが止まらず腰が抜けて立てずにいた。
ムラサキ「響子様、お怪我は?」
響子「ムラサキさん?……ええ、怪我はしておりません。」
ムラサキ「それはよかった。……ウッ、オェッゲホゲボッ。」
響子が無傷で安堵したのもつかの間、ムラサキが悪阻により嘔吐してしまいしゃがみ込んでしまった。
響子「ムラサキさん!しっかりしてください、大丈夫ですか?」
嘔吐を続けるムラサキの背中を響子はさすって介抱をしてやった。
ムラサキ「ハァハァ……ングッ…もう…大丈夫です。ありがとうございました。」
響子「こちらの方こそ、貴女のおかげで危ないところを助けていただき本当にありがとうございました。」
多少回復したムラサキは響子の手を借りて立ち上がり響子を今まで自分が来た道へ手を引いた。
ムラサキ「私についてきてください。このまま近江の坂本まで行きます。」
響子「はい、どこへでも行きます。……あっ!」
ムラサキ「どうかされましたか?」
ムラサキの問いかけに響子は懐から青銅の板を取り出した。
響子「覚えておいでですか?」
ムラサキは微笑み同じように青銅の板を取り出し二つをつなぎ合わせた。
響子「こうして割り符を合わせることができてとても嬉しく思います。」
ムラサキ「こんなに早く再会できるとは思ってもいませんでした。」
だが、このような感動的な再会は長くは続かなかった。
ムラサキは響子の後を追ってくる異様な気配を感じた。
ムラサキ「響子様、御願いがございます。貴女様の衣とその笠をお貸し下さい。」
響子「えっ、ええ。お使い下さい。」
響子から笠と衣を受け取るとムラサキはそれらを身に付け響子に変装した。
ムラサキ「この坂を下り、目の前にある林をそのまままっすぐに抜けると街道に出ます。街道の右手には山が広がり左手はなだらかな道が続いています。左にまっすぐ進めば坂本までいけます。」
手早く坂本までの道のりを教えるとムラサキは割り符をまた二つに分けた。
ムラサキ「縁があればまた、お会いしましょう。それまでお元気で。」
響子「また、会えますよね?」
ムラサキ「はい、必ず。」
響子は後ろ髪を引かれながらも街道を目指して歩き始めた。
ムラサキは響子の姿が見えなくなると、彼女の痕跡を消し響子が山の中を進んでいるかのように偽装した。
徐々に先ほど感じた気配が自分へと迫ってくるのがかんじられた。