100 忌まわしき過去
ここは……?
宝玄仙は、呆然としてしまった。
自分がどこにいるのか、咄嗟に判断がつかなかったのだ。
どこかの屋敷の庭……?
そんな感じだ。
視界の先には、広い庭園が拡がり、その先には二階建ての豪華そうな屋敷が見える。
また、周囲一帯は、高い壁で囲まれていて、背後には大きな門がある。門には衛兵のような者もいて、外側に対して警戒をしている。
「ほら、宝玄仙、さっさと両手を後ろに回しな」
突然に声をかけられた。
宝玄仙ははっとした。
その横には小さな馬車がある。
そして、宝玄仙は、やっと自分がいる場所は、帝都の中にある皇太子の別宅であり、漢里仙に連れられて、ここに性奉仕にやってきたのだということを思い出した。
一年前に、目の前にいる漢里仙をはじめとして、
三人は、八仙ほどの地位にある女三蔵の異名まで持つ宝玄仙を娼婦のように抱くだけでは飽き足らず、日々調教という名の性的嗜虐を繰り返しながら、宝玄仙から何もかも奪い、宝玄仙の家人まで入れ替えて、その家人たちにまで宝玄仙を嗜虐的に責めさせて、悦に興じるということをしているのだ。
その嗜虐の相手に皇太子まで加わったのは、しばらく前のことだ。
あの変態にまた抱かれるのか……。
宝玄仙は暗い気持ちになった。
「聞こえんのか──。ちゃんとやらねば、精はやらんぞ。今日がそろそろ、刻限の時期ではないのか? いき狂いの呪術にかかりたければどうでもいいがな。淫乱で変態のお前のことだから、もしかしたら、それが望みなのかもしれんが」
漢離仙が大笑いした。
宝玄仙は歯噛みした。
この連中には、一切逆らわない奴隷になることを誓った『真言の誓約』を始めとして、さまざまな手段で、絶対に逆らえない立場に陥らされている。
その手段のひとつが、こいつらに呑まされた道術薬による「呪い」だ。
すなわち、十日に一回の頻度で、宝玄仙は漢離仙、たち三人から、精か小便を飲ましてもらわないと、何日も続くいき狂いの発作に襲われるようにされているのだ。
あれは苦しい。
ほとんど数瞬に一度、強制的に絶頂させられ、小便どころか大便まで垂れ流しながら、繰り返し昇天を繰り返すのだ。
呪術のせいで、失神すらできない。
まさに地獄である。
あれを一度味わわされたら、さすがに宝玄仙も、こいつらの命令に従わないわけにはいかない。
この漢離仙のいうとおり、この十日で闘勝仙の小便と、呂洞仙の精液は集めて飲んだが、まだ、漢離仙の分はもらっていないのだ。
「し、縛らなくても、逆らえないのはわかっているじゃないか……。逃げられやしないし、今更、抵抗もしないよ……」
「縛って連れてきた方が、皇太子殿下も悦ぶんだよ。さっさとしろ」
漢離仙が縄を出しながら言った。
宝玄仙は、はらわたが煮えたぎるのに耐えながら、両腕を背中に回して、両手首を交差させる。
皇太子の待っている屋敷にそのまま入らずに、わざわざ、入口の門で馬車を停めて、宝玄仙をおろしたのはこいつの嫌がらせだ。
つまり、皇太子の家臣とはいえ、その連中の前で宝玄仙をいたぶることで、さらに宝玄仙の心を追い詰めようということだ。
八仙という天教最高身分でありながら、同じ八仙の闘勝仙たちの性奴隷──。
余人に知られるわけにはいかない恥ずべき宝玄仙の秘密なのだが、こいつらがこうやって、内密の宴などをして、広めるので、いまや宝玄仙の惨めな境遇は、帝都の貴人たちのあいだでは、公然の秘密だ。
いまも、門衛に立っている衛兵がちらちらとこっちに視線をやるのがわかる。
「ほらよ、お前の好きな縄だ」
漢離仙が笑いながら、宝玄仙の背中の両手首に縄をかけ、女法師の装束越しに乳房の上下にぎりぎりと縄を喰い込ませる。
「うっ」
苦しさに思わず呻いたほどの容赦のない縛めだ。
さらに、首の左右にも縄をかけて、服の上から菱形に締めあげ、次いで縄尻に結び瘤を作り出した。
「や、やめておくれ。な、なにを考えているんだい──」
宝玄仙は、漢里仙がやろうとすることがわかり、自分の顔色が変わるのがわかった。
いつもやられていることだから、これから受ける仕打ちの想像はついたが、まさか、衛兵が見ているような門の真ん前でそれをするつもりなのだろうか。
「遠慮するんじゃねえよ、宝玄仙。お前もいきなり、尻を犯されちゃあ、たまんねえだろう。だから、わざわざ、屋敷に入るまでに気分が出るように手伝ってやろうとしてるんだ。逆らうな──。命令だ」
「くっ」
縄掛けのまま、暴れてでも阻止しようとしたが、“命令”という単語が鍵となり、宝玄仙に暗示が掛かる。
宝玄仙の心から、抵抗の意思が消滅させられた。
漢離仙が宝玄仙の法衣の腰に手をやった。
いま、着させられているのは外観では、当たり前の女法師の装束だが、上下が分かれており、簡単な操作で脱がすことができるようになっている。
漢離仙は片手で腰の留め具を外して、ばさりと宝玄仙の下半分を地面に落とした。
「あっ、いやっ」
家人たちに下着を隠されている宝玄仙は、もう一年くらいは一切の下着はつけさせてもらっていない。
下半身の装束を脱がされた宝玄仙は、上半身の法師の衣装を着け、下半身は陰毛も剥き出しの全裸よりも恥ずかしい格好にされてしまった。
後ろの衛兵たちが息を呑む声が聞こえる。
宝玄仙は、あまりの恥辱にぶるぶると身体が震えるのがわかった。
「ほう、やっぱり、変態じゃねえか、わざわざ、下着なしで来るとはなあ。お前は変態だ。そうだろう。大きな声で言え。“わたしは変態だから、いつも下着はつけていませんとな”──。命令だ」
漢離仙がげらげらと笑った。
殺してやりたいと思ったが、“命令”と口にされたら、勝手に宝玄仙の身体と心は、その言葉に従うのだ。
宝玄仙は、漢里仙の嗜虐が満足するまで、衛兵どころか、門の外の通行人にも聞こえるかもしれないくらいの大声で、「変態だから、いつも下着はつけていません」という言葉を何度も叫ばされた。
「さて、じゃあ、お待ちかねの縄瘤をしてやる。いつもの油剤もつけておいてやるぞ。痒くなるが腰を振りながら進むといい。皇太子殿下に癒してもらいな」
しばらくして、やっと満足したのか、漢離仙が縄瘤を作った縄を持って、宝玄仙の前に屈みこんだ。
そして、大小の瘤に、たっぷりと油剤を縫っていく。
油剤の効果をいやというほど知り尽くしている宝玄仙は、これから味わわなければならない醜態を想像して、目の前が真っ暗になる。
「ね、ねえ、そんなことしなくても、言うことはきく……」
「うるさい──」
有無を言わさずに、縄尻を宝玄仙の太腿のあいだに潜らせて、後ろにまわすと、ぐいぐいと縄を絞りあげてきた。
「ああっ、いやっ、あああっ」
宝玄仙は伸びあがるようにして、ぶるぶると腰を震わせてしまった。
きつく縄が股間に喰い込み、結び目の縄瘤は、しっかりと肉芽と女陰とお尻の穴にめり込んでいる。
「ひっ、いいいいっ」
宝玄仙は呻いた。
漢離仙がさらに力いっぱいに縄を引き絞ったのだ。
そして、やっと後手縛りの縄尻に繋ぎとめた。
「くっ、はあ、はあ、はあ……」
宝玄仙は早くも息が荒くなり、顔を俯かせた。
下半身を丸出しにして、股縄をされて、屋敷まで歩かされる……。
想像しただけで、屈辱と羞恥にめまいがしそうだ。
だが、皇太子の待っている屋敷の部屋に辿り着くまでには、大勢の男女の家人がいるだろう。
箝口令が敷かれているだろうとはいえ、関係のない者たちの前で、こんな醜態をさらされるのは、あまりにも惨めだ。
「それじゃあ、そろそろかな」
漢離仙はなにを思ったのが、宝玄仙の首に長くて細い鎖のついた首輪をつける。
そのまま鎖を引っ張って歩かせるのかと思えば、なかなか動こうとはしない。
ただ、なにかを待っているようだ。
宝玄仙は首を傾げた。
すると、屋敷側から大きな馬に乗った人物がやって来るのが見えた。
宝玄仙は驚いた。
それは、皇太子だった。
ふたりほどの護衛騎士を従えている。
でっぷりと肥って身体の大きい皇太子は、乗馬する馬も特別性の巨体だ。普通の馬の二倍もあるかと思うような馬に、大きな身体の皇太子が乗っている姿は圧巻だ。
それが近づいてくる。
「漢離仙、大義だ」
宝玄仙たちのところにやって来ると、乗馬のまま皇太子が大きな声で漢里仙に声をかけた。
思わず、股間を隠そうと、宝玄仙は皇太子や護衛騎士たちに背中を向けようとするが、漢離仙に縄尻を取られて、真っ直ぐ前を向かされる。
皇太子は、そんな宝玄仙の姿に、ほくほく顔で好色な視線を向けてくる。
一方で、護衛騎士のふたりは、驚いて目を丸くしている。
前に来たときとは違う騎士らしく、宝玄仙も初めて見る顔だ。
わざわざ、事情を知らない者を連れてくるのは、この皇太子特有の宝玄仙へのいたぶりだ。
「皇太子殿下おかれましては、ご機嫌麗しく、恐悦至極……。約束通りに連れて来ました」
漢離仙が儀礼通りに頭をさげる。
皇帝に匹敵するほどの権威の八仙といえども、一応は皇族には頭をさげる。
まあ、宝玄仙も八仙なのだが……。
「おう、愉しみにしておった。この前、話の合ったことについては、宰相に伝えておいた。相談するがいい」
「有り難き」
漢離仙が再び頭をさげる。
こうやって、宝玄仙を抱かせる代償に、漢離仙がなにを皇太子と約束したかは知らない。
しかし、なにかの裏取引があるのだろう。
どうでもいいが……。
「では、ここに繋げておきます。朝には迎えに参りますが、それでよろしいですか。一切の魔道を封じておりますが、逆らうようなら“命令”と発しください。それで、これはなにもできなくなります」
漢離仙は言った。
闘勝仙には、彼ら同様に逆らえない人物を幾人か指名されている。宝玄仙の屋敷にいる鳴智や桃源もそうだが、この皇太子も少し前に、付け加えられた。
だから、宝玄仙は、この皇太子に隷属する状態でもあるのだ。
「うむ」
皇太子が鷹揚に頷くと、なにを思ったか、漢離仙は宝玄仙の首輪に繋がっている鎖を皇太子が乗馬する馬の鞍の後ろ側の金具に繋げた。
宝玄仙は呆気にとられた。
「な、なんだい?」
思わず声をあげる。
「かかりつけの医師に、多少運動するように言われておってな。いま、それで乗馬をしていたところだ。まだ一刻ほど続ける。一緒について来い、宝玄」
皇太子が嗜虐の笑みを浮かべて、宝玄仙に向けて白い歯を見せた。
「なっ?」
言われたことがあまり理解できずに、宝玄仙は思わず問い返した。
しかし、すぐに皇太子は、馬の肚を蹴って、馬を進めだす。
「あっ、ま、待って、いやああっ」
馬は走るというほどではなく、ゆっくりと進んでいく。
しかし、馬の鞍と首輪を繋げられている宝玄仙は、当然についていくしかない。
歩くと、縄瘤がさらに食い込んで、宝玄仙は悲鳴をあげてしまった。
「ほらほら、宝玄、どうした? もっと速くするぞ。慣れたら走ってもらうからな。なにしろ、さもないと、俺の運動にならん」
馬の歩みが速まる。
宝玄仙の足は、すでに小走りの状態だ。
股縄をして、こんなに速くは進めない。
股縄の瘤がこれでもかと、局部とお尻を刺激する。
「ああっ、あああっ、はっ、いやあっ、いやっ、あああっ、お願い、ああっ、はああっ」
宝玄仙は必死に足を駆けさせるとともに、悲鳴をあげた。
すぐに足がもつれて、その場に倒れてしまった。
「ひぎいいっ、痛いいっ、いいいいっ」
だがすぐにはとまってもらえずに、少しのあいだ引きずられる。
やがて、速度が落ちて、なんとか体勢を整えることができた。
懸命に身体を起きあがらせる。
「宝玄、“命令”だ。全力でついてまいれ。倒れることは許さん」
皇太子が笑いながら、馬から叫んだ。
命令の言葉に反応する宝玄仙の身体は、それを最優先にして勝手に手足を動かしだす。
しかし、縄目が女陰を擦り、肉芽とお尻に喰い込んで、激しい疼きが湧き起こる。
宝玄仙は泣き声をあげた。
「よし、もう少し速度を増すぞ」
皇太子が声をあげて馬を蹴る。
鎖に首を引っ張られて、宝玄仙は全力疾走した。
*
「いやあっ、はああっ」
宝玄仙は目が覚めて、身体をがばりと起こした。
夢……?
全身にたっぷりと汗をかいていた。
息も荒い。
なにしろ、夢の中とはいえ、たったいままで、股縄をされて全力疾走をしていたのだ。
「はあはあ……。くっ」
股間に手を伸ばした。
まるで、本当に股縄をされて苛まれていたように熱くなっている。
薄い下着には、ねっとりと愛液が噴きこぼれもいた。
「な、なんで……」
宝玄仙はあまりの現実的だった夢に困惑してしまっていた。
忘れていたはずのことを悪夢として思い出すとは嫌な気分だ。
闇の中で眼を開けた宝玄仙は、自分が
城郭といっても、東方帝国の城郭のように、城壁で囲まれた明確な城郭内と郊外を持つわけではない。
この国の城郭には城壁がない。
だから、郊外と呼ぶ地域がどこから始まるのか定かではないが、宝玄仙たちが泊まる宿は、東帝国の基準であれば、郊外と呼んでいいほど、中心の部分から離れた場所にあった。
宝玄仙は、その河川に近い郊外の宿屋の二階に泊っていたのだ。
宝玄仙は、寝台から裸身を起こした。
隣には、『拘束環』と『自在の鎖』で寝台の上側に両腕をまとめて拘束されて脇晒しになっている孫空女がいる。
もちろん全裸だ。
昨夜は、孫空女を相手にして遊んでいたが、そのままふたりで寝入ってしまったようだ。
宝玄仙が身体を起こすことで、孫空女の胸元からも掛け布が剥がれた。
闇の中で、孫空女のふたつの乳房が、彼女の呼吸で上下に動く。
なんとなく宝玄仙は、孫空女の乳首を指でぐいと押し込んだ。
孫空女がびくりと身体を震わせた。
「うわっ」
孫空女は慌てて身体を起こそうとして、鎖に阻まれた。
「な、なに、ご主人様? いま、何刻頃?」
孫空女は焦りと戸惑いの表情を浮かべている。
宝玄仙は、その様子がおかしくて、乳房にめり込ませた指をぐりぐりと回す。
「も、もう、ご主人様……。か、勘弁して……よ」
孫空女がすぐに甘い声を出し始めた。
強い気性に潜む被虐の心――。
それが孫空女だ。
いや、宝玄仙が、孫空女をそういう身体にしたのかもしれない。
もともと、宝玄仙を襲おうとした五行山の女盗賊だった孫空女は、女を捨てて生きていた。
もちろん、処女ではないし、性に対して奥手というわけではなかった。
ただ、孫空女は、多くの男を率いた若い女頭領だった。
女は捨てなければならない。
その孫空女に、宝玄仙は被虐の快楽を覚え込ませた。
それが孫空女の不幸なのか幸福なのかは知らないが、孫空女の心の底には、拭い落とせない被虐性が染みついてしまった。
だから、孫空女が、実は、宝玄仙から恥辱的に扱われれば扱われるほど、濡れてしまう。
それでいて、宝玄仙以外の人間に責められても、大した愉悦も感じないようなのだ。
おそらく、孫空女は、肉体的な快楽よりも、精神的な責めに孫空女は弱い。
だから、誰に責められているかということが、孫空女が感じる快楽に大きく関係する。
孫空女は、宝玄仙を含めた三人の前ならいくらでも淫らによがり狂う。
「ほんの少し、乳首を乳房に食い込まされただけで、下の口でもう涎を垂れ流し始めたのかい?」
「そ、そんなことないよっ」
孫空女が慌てて顔を横に振った。
だが、触らなくても、もう孫空女が濡れはじめているのはわかる。
股間から孫空女の淫靡な雌の匂いが発散し始めている。
「そうかい、孫空女?」
宝玄仙は、垂れ下がった掛け布を引きはがし、孫空女の下半身も剝き出しにした。
肩幅に開いた孫空女の脚にも、『拘束環』と『自在の鎖』により、寝台の下側に繋がっている。
身動きできない孫空女の股間を触るのは簡単だ。
「あっ……」
孫空女が可愛らしい声を出して身悶えた。
宝玄仙が孫空女の愛液を指にまぶしたのだ。
やっぱり、孫空女の股間は、もうたっぷりと愛液を溢れ出していた。
宝玄仙の指を感じた孫空女の腰が震えている。
孫空女の淫液のついたその指を孫空女の口の前に持ってきた。
「舐めるんだよ。これが、お前の淫乱の味だよ」
孫空女が、宝玄仙の指を咥えた。
宝玄仙は、指で孫空女の舌を愛撫する。孫空女の鼻息が荒くなる。
「……どうだった?」
宝玄仙は、孫空女の口の中から指を抜いた。
「あ、あたしの……味……」
「そうだよ、お前の味だよ、孫空女。お前は、この宝玄仙がなにをどうしても震えるような快感を受けてしまう。例えば、こんなのはどうだい?」
宝玄仙は、愛撫をしている乳首の反対側の乳首を指で弾いた。
「痛っ――」
孫空女が小さな悲鳴をあげる。
それととともに、反対の手で撫ぜている乳首に与える刺激を大きくする。
右で官能の刺激――。
左で痛みの刺激――。
それぞれに別の刺激を与える。
対応のできなくなった孫空女は、すぐに荒い息をしながら、淫らに身体をくねらせはじめる。
「ご主人様……」
そのときだった。
部屋の外から沙那の緊張した声が聞こえた。
その沙那の声から、宝玄仙は、ただならぬ事態が発生したということを悟った。
それに、余程のことがなければ、沙那は宝玄仙の「愉しみ」を中断させるようなことはしない。
宝玄仙は、孫空女へのいたぶりをやめた。
「どうかしたのかい、沙那?」
宝玄仙は、もう孫空女から離れている。
孫空女を拘束していた『自在の鎖』も消滅していて、孫空女も身体を起こした。
「申し訳ありませんが、大殷国の城郭軍に宿を囲まれました。気がつくのが遅れてしまい、朱姫によれば、すでに『逆結界』を刻まれているようです。もう、強行突破しかありません」
道術によって、移動術用の道術紋から道術紋に身体を瞬間移動させるのが『結界術』であるのに対し、それを妨げるのが『逆結界』だ。
宝玄仙のような術遣いを捕縛するときには、『逆結界』をかけられる道術遣いを複数加えるのが捕縛の基本だ。
「包囲している兵は、どのくらいの数なの、沙那?」
まだ全裸の孫空女が、宝玄仙が服を着るのを手伝いながら、扉の向こうの沙那に叫んだ。
「わからない――。多分、二千を下回ることはないと思う、孫女」
沙那が言った。
「二千だって? それじゃあ、城郭中の全軍が出動しているんじゃないの?」
「もしかしたら、この大殷国に入ってから、どこかの時点で見張られていたのかもしれないわね。こんなに手際よく軍を出動できるなんてね。あるいは、通報ひとつで全軍を動かせるだけの精鋭ということか……」
「いずれにしても、突破には骨が折れるね、沙那」
宝玄仙は扉を開けた。
沙那が扉の外に立っていた。
半身になり、外に警戒をしながら、こちらの様子を伺っている。
宝玄仙は衣服を整え終わったが、孫空女は、宝玄仙の身支度を手伝っていたので、まだ全裸だ。
孫空女も、すぐに身支度を始める。
「それでも、強引に出るしかないわ、孫女。わたしが突破口を開く。あなたは、ご主人様をお願い――。ところで、大丈夫?」
「なにが“大丈夫”なのさ?」
孫空女がやっと衣服を整え、その上に腰帯を締め終わった。
その腰紐のさらに上に革の帯を巻き、脛を腕にそれぞれ革当てをつけて終わりだ。
「随分と気持ちよさそうだったからね。声をかけるのを迷ったわ」
沙那が笑った。
「なに言っているのさ、沙那。今夜は、あんたの番だからね――。さあ、終わったよ」
沙那と孫空女が、こんな軽口をわざわざと言い合うのは、むしろ、いまはかなり危険な状況なのだろう。
軽口で宝玄仙に心配をかけまいとしているのだ。
そうでなければ、わざわざ、宝玄仙の前で際どい冗談を言うような沙那と孫空女ではない。
「ご主人様、申し訳ありませんが、荷物は手に持てるだけのものしか持っていけません。残念ですが、大部分はここに捨てていくことになります」
沙那が言った。
「捨てることで、この国の軍に押収されて、多くのわたしの貴重な霊具がまわり回って教団の連中の手に入るのも癪に障るね」
「この宿に置いていけば大丈夫です、ご主人様。ここの宿主には、申し訳ありませんが、この宿は、火をつけて燃やします。炎と煙に紛れて脱出するしかありませんから」
沙那がそう言っている間に、宝玄仙は、雑嚢の中に適当な霊具を突っ込む。失った霊具は新しく作り直すことは簡単だ。
詰め込んでいるのは、この危機を切り抜けるために必要だと思うものだけだ。沙那も荷を作り出した。やはり、小さな雑嚢だけの分だけまとめている。
そして、それは、それほど多いものでない。
「ところで、宿の人間やほかの客はどうしたんだい、沙那?」
「気がついたら、みんないなくなっていました。だから、これは仕組まれていたものだと思います。だとすれば、気がつかなかったのはわたしの失敗です。申し訳ありません、ご主人様」
沙那が頭を下げた。
「そうだね、沙那。だったら罰だよ。とりあえず、この危機を脱出できたらね」
宝玄仙は微笑んだ。
「はい……」
沙那は頷く。
「まあ、いずれにしても、この宿の亭主もぐるなら、遠慮なく、この宿を燃やせるね」
宝玄仙は、行燈を蹴飛ばして部屋に油をぶちまけた。
沙那が、それに火をつける。
あっという間に、煙が部屋に立ちこめはじめた。
宝玄仙は、沙那と孫空女に挟まれて、階下に降りる階段に進む。
一階に到着する。
沙那が、外に通じる扉に張りついて、外を伺う。
「宿をすでに兵で囲まれているのは確かです。ただ、朱姫が隙をみて河まで辿りつきました。そこまで辿りつけば、包囲を突破できる可能性があります」
沙那が、背後の宝玄仙に囁いた。
教団が手を回して、諸王国に宝玄仙を手配させたのはわかっていたし、捕縛のために軍を向けられるのは初めてではない。
だが、ここまで本格的なものは初めてだ。
もちろん、これまでも警戒をしていた。
大殷国の手前の衝陽国では、沙那が捕えられて拷問にもかけられた。
だが、その前の烏鶏国は、宝玄仙の手配は、教団や東方帝国の影響力の手前、仕方なくやっているという感じのおざなりのもので、烏鶏国の新しい国王は、宝玄仙らのために偽の手形まで準備してくれた。
諸王国も、教団からの捕縛依頼には対応もそれぞれだ。
「孫女、ご主人様から離れないでね」
「わかっているよ、沙那。いつでも合図して」
孫空女が、耳から『如意棒』を出して、大きくした。
「朱姫の待つ舟のある河のはしけまで十間(約百メートル)というところです。申し訳ありませんが、ご主人様、走って頂きます」
沙那が言った。
「ああ」
「行きます――」
沙那が飛び出した。
宝玄仙と孫空女が続く。
すでに大きく燃え始めている宿から出る炎の明かりに照らされる道を駆ける。
両側の建物から、わらわらと兵が出てくる。
沙那の細剣が動く。
沙那はとまらない。
全力で駆ける速度のまま剣を振るう。
正面に立つ兵が次々に倒れる。
道が拓ける。
横からも兵――。
孫空女が『如意棒』で突く。
飛ばされたその兵が、ほかの兵を巻き込んで倒れた。
河の水が見えてきた。
河岸で小さな角灯の光が軽く一周するのがわかった。
そこに朱姫がいるのだろう。
沙那の脚がそっちに向かう。
だが、眼の前に不意に梯子が出てきた。
両側に梯子を持った兵が前に立ちはだかる。
梯子の数は、五本、十本と増えていく。
沙那が方向を変えて、梯子を持つ兵に斬りかかった。
隊列が乱れる。
その乱れの中に飛び込んで新たな道を拓く。
突破した。
「沙那姉さん――」
朱姫の声。
はしけからだ。
小さな船に棹を持った朱姫が立っている。
こちらに手を振る姿が、背から照らされる炎の光によりにはっきりと視界に入った。
沙那がはしけで身体を反転させた。
宝玄仙の腰が掴まれた。
身体が宙に浮く。
孫空女が、宝玄仙の身体を抱いて、舟に飛び込んだのだ。
宝玄仙と孫空女が舟に倒れると、その振動で舟が大きく傾いた。
「舟を出して、朱姫――」
まだ岸にいる沙那の声だ。
宝玄仙は顔をあげた。
岸では、まだ、数名の兵と沙那は斬り結んでいる。
それで気がついたが、朱姫が準備した舟以外は、岸から離れるか、浸水して傾くかしている。
おそらく、朱姫が事前にほかの舟を処置したのだろう。
岸で将校らしき男が舟がどうのこうのと騒いでいるのが聞こえた。
その宝玄仙にさっとなにかが被された。
おそらく、矢避けの布かなにかだろう。
舟に横になった宝玄仙の視界が隠された。
舟が一気に進む。
岸から離れようとしているのがわかる。
その舟がまた大きく揺れた。
「矢が来るわよ、孫女――」
沙那の声だ。
飛び乗ったのだ。
孫空女の返事も聞こえる。
剣と棒でそのふたりが、矢を払う音もした。
「とりあえず、矢の射程からは離れました、ご主人様。大丈夫ですか?」
矢避けの布がはがされる。
心配そうに宝玄仙の顔を覗いているのは沙那だ。
宝玄仙は、沙那に手伝われて、舟の中央に座った。
「朱姫、変わるよ」
孫空女が朱姫から棹を取りあげた。
朱姫も宝玄仙の前に向かい合うように座る。
それほど大きな舟ではない。
四人も乗ればかなり沈んでいる。
その舟に宝玄仙と朱姫が座り、前に剣を抜いたままの沙那、後尾に棹で舟を操る孫空女がそれぞれに立つ。
「あーあ。全部、荷物燃えちゃいましたね。路銀だって、あの宿が二軒でも三軒でも買えるくらいあったのに」
朱姫が遠くになった岸の明かりを見ながら言った。
城郭の郊外を流れるかなり大きな河だ。
河の真ん中に出れば、両岸は遠い。
月明かりに照らされる暗い水の上を四人を載せた舟だけが走っている。
「どのくらい路銀を持ち出せたの、朱姫?」
沙那だ。
「金粒と銀粒の袋ひとつずつだけです、沙那姉さん」
「それだけあれば十分よ。よくやったわね、朱姫」
この小舟は、万が一のためにあらかじめ準備してあったのだろう。
そうでなければ、あの襲撃のさなかに都合よく舟が見つかるわけがない。
宝玄仙は、改めて三人の供に護られている自分を自覚した。
「これからどうするんだい、沙那?」
宝玄仙は、舟の床にごろりと横になった。
空には満天の星が見える。
帝都にいたときには、こんな風に夜空を見ることがあるとは想像していなかった。
「このまま城郭軍の勢力圏から離れることができれば、どこかで舟を捨てて対岸に渡ります。大殷国の西の国境も遠くありません。山越えで国境を越えれば、しばらくは、大規模に軍を動かせるような諸王国はないはずです」
沙那が言った。
宝玄仙は返事をしなかった。
星空に飽きて眼を閉じると急に睡魔が襲ってきたからだ。
「ご主人様、眠ったのかい?」
孫空女の声だ。
眠ってなんかいないよ――。
そう応じようとしたが、睡魔に包まれている宝玄仙の口から、その言葉が出ることはなかった。