117 ご禁制の教義
「な、なんで止めないのよ、馬鹿朱姫──」
いつも冷静な沙那が激怒している。
朱姫はすくみあがった。
「だ、だって……」
「だってじゃないわよ。城郭は危ないかもしれないから、わたしが様子を見にいってからにしましょうって、あれ程言ったじゃない。どうして、ご主人様を城郭に行かせたのよ」
車遅国は西方諸国の西側にある王国としては、比較的大きな王国である、その領域に入ったばかりだった。
大きな街道や城郭を避けながら西に進んでいる一行としては、久しぶりに人の賑やかな場所に近いところにやってきたといえる。
車遅国に入ったところで、その東閣という地方都市にぶつかった。
天教教団の陰謀で賞金付きの手配犯とされている一行は、これまでずっと城郭に入ることは避けていた。
城郭には軍がいるし、手配中の犯罪者として追いかけ回されるからだ。
実際、うっかり入った城郭で軍に捕えられたり、襲撃を受けたりしたことも少なくない。
だが、この車遅国は事情が違う。
この車遅国は、天教の深い影響を受けている国が多い諸王国では珍しく、天教を認めていない国だ。
従って、天教の手配書を受け入れるわけがなく、この車遅国については宝玄仙一行にとっては、安全な場所かもしれなかった。
いずれにしても、城郭が本当に安全かどうか、沙那だけが偵察に入り、それで様子を見ようということになったのだ。
その間、残った者は、沙那の指示に従い山の中に隠れていた。
確かに、沙那はそう厳しく言って、ひとりで城郭に向かった。
それは、朱姫も承知している。
だが、どうせよというのだ。
あの宝玄仙の我が儘を朱姫に止めよとでも言っているのだろうか。
「でも、あたしがどうしたらよかったと言うのです、沙那姉さん? あたしに、ご主人様を止められると思います?」
「そ、そりゃあ、そうね……。ごめんなさい、朱姫。わたしも興奮しちゃって……。それで、一体全体、どうして、わたしの帰りを待たずに、ご主人様と孫女が、城郭に向かうことになったの? しかも、あなたを置いて……」
「あたしを置いていったのは、沙那姉さんに伝言を残すためです」
「それで、伝言は?」
沙那が、深く息を吐いて、朱姫に向かい合うように地面に腰を降ろした。
そして、抱えていた小さな荷を横に置いた。
宝玄仙の伝言を沙那に言ったら、絶対に不機嫌になると思うので、あまり気が進まない。
そもそも、なんだって、宝玄仙も、沙那も朱姫を挟んで文句を言うのか。
お互いに言いたいことがあれば、口にすればいいのに……。
とりあえず、朱姫は沙那に訊ねた。
「……その前に、その荷はなんですか、沙那姉さん?」
「ご主人様の服よ。着てもらおうと思って。いつのも法衣はまずいのよ。それよりも、伝言は、朱姫?」
沙那が厳しい表情になる。
仕方がない。
朱姫は口を開いた。
「ああ、そうでした……。ご主人様は、沙那姉さんは、なんでも慎重すぎるから駄目だって。この国の王が教団嫌いなら、教団の回したご主人様の手配書なんて関係ないに決まっている。さっさと入ればいいんだって……。あたしじゃないですよ、ご主人様が言ったんですよ……。だから、沙那姉さんが戻るのを待たなくてもいいって……。ご主人様は、沙那姉さんが戻ったら、先に向かっているから、城郭に来るように伝えろって……」
「伝えろったって……。だって、確かに、ご主人様は、偵察なんていらないって、うるさかったけど、わたしの説明で一度は納得してくれたのよ。どうして、こんなことになったの?」
「その……、お腹が空いたって」
朱姫は仕方なく言った。
案の定、沙那が怪訝な顔になる。
「お腹が空いた? 食べればいいでしょう。荷の中に保存食が残っているわ」
「孫姉さんもそう言いました。でも、飽きたんだそうです。一刻(約三十分)も進めば、城郭に入れるんだから、そこで温かいものを食べるってきかなくて……。孫姉さんも、沙那姉さんの帰りを待とうって、言ったんですけど、だったらひとりでも先に行くって……」
「それで、仕方なく、孫空女も同行したのね……。でも、変ね。わたしは、その東閣の城郭からこっちに戻って来たのよ。どうして、すれ違わなかったのかしら? わたしが、城郭でいろいろと聞きまわっている間に、城郭に入ったのかしら?」
沙那は言った。
「い、いえ、そうじゃないと思います。沙那姉さんにすれ違わないように、裏街道から進むと言っていましたから」
「なぜ、わざわざ、すれ違わないような経路を選ぶの?」
沙那が、また不機嫌になってきた。
朱姫だって、宝玄仙のやる事は小児病的だと思う。
だけど、あの宝玄仙が供の忠告に耳を貸すようなご主人様でないことは、沙那も知っているはずだ。
「……そのう……。間違って、城郭に入る前に沙那姉さんと出遭って、やっぱり危険だからとめられたら困るって……。さっさと、城郭に入って安全であることを証明するって。沙那姉さんには、宿が決まったらいつもの赤い布の目印をつけておくから探せって……」
「宿の目印はともかく、すれ違いたくないっていうのは、どういうこと? たとえ、とめたとしても、それは危険だからそう言うわけで、安全なら途中で出会っても止めたりしないわよ」
沙那が声をあげた。
朱姫は閉口した。
「それは、ご主人様に言ってくださいよ。何度も言いますけど、あのご主人様が、耳を傾けるのは、沙那姉さんの言葉だけです。孫姉さんやあたしなんて、いまだに虫けら扱いですよ」
朱姫も声をあげた。
「そんなことないわよ」
「そんなことあります──。ご主人様は酷いです。理不尽です。我が儘です。一生懸命に忠告しても、せせら笑うだけだし、しつこく言えば、苛めるし……。機嫌の悪いときには、関係ないのに霊具や道術で人の身体をいじくって遊ぶし……」
朱姫は、沸き起こった興奮のまま捲し立てた。
すると沙那がそっと朱姫の頭に手を置いた。
「そうだったわね。声をあげてごめんなさい。確かに、あの理不尽で我が儘なご主人様に、理屈は通用しないわね。とにかく、そんなご主人様の供になった者同士、仲良くしましょう。とにかく、孫女だけでも一緒に行ったのはよかったわね」
「……よかったって。城郭は危険なんですか?」
朱姫は言った。
「ご主人様はね――。わたしたちは、どうということはない。教団の手配書なんて、回っていない。城門に懸賞付きで張り出されている手配書は、別の人間ばかりだったわ」
「あたしたちの手配書はないんですね、沙那姉さん?」
「ないわ。ただ、逆に天教教団の神官の手配書だらけだったわ。この国では、天教教団の神官であることが犯罪なのよ」
「ええ?」
朱姫は驚いた。
「でも、ご主人様は、いつもの法衣よね?」
「はい……。そ、そのう、ご主人様は、いつもの格好で……」
朱姫は“ご主人様は”という言葉を強調しながら言った。
「なにか、もってまわった言い回しね。ご主人様がいつもの服なら、孫女は違うの?」
沙那が首を傾げた。
朱姫は黙って横の着替えの服をしまっている葛籠から孫空女の服を出した。
「……それは、孫空女が着ていたものよね。それがここにあるということは、どういうこと?」
「孫姉さんはご主人様に脱がされたんです。孫姉さんも嫌がったんですけど、さっきも言いましたけど、ご主人様は言い出したらしつこいし、それに……」
「わかったわ、朱姫。拒否すれば道術の罰。孫女も仕方なく、ご主人様の理不尽な命令に従ったのね。だけど、孫女の服がここにあるということは、まさか、裸ってことはないわよね」
沙那が眉をひそめた。
「裸じゃあありません。あたしの服を着ていきました。上下が繋いだ貫頭衣です」
「あなたの服? だって、孫女の背丈じゃあ、丈が足りないでしょう?」
そうなのだ。
朱姫が着れば膝まである丈でも、孫空女が着れば、股下に近いかなり短い破廉恥な服装になった。
孫空女が恥ずかしがったため、宝玄仙は大喜びで、さらに、悪戯を施してから連れていった。
孫空女が今頃どうしているか知らないが、大変に恥ずかしい目に遭っているに違いない。
朱姫はそう説明した。
そして、一枚の布を見せた。
「なに、その布?」
沙那が訊いた。
「あたしの服を着てから、さらに短くするために、ご主人様が孫姉さんが身に着けた貫頭衣の裾を切ったんです――。沙那姉さん、孫姉さんは、沙那姉さんが考えられないくらい、恥ずかしい恰好で行きましたよ」
朱姫がそう言うと、沙那が何度目かの嘆息をした。
「とにかく、わたしたちも城郭に向かいましょう。面倒なことになってなければいいけど……」
沙那が立ちあがりながら言った。
「面倒なこととはなんですか?」
朱姫も出発の準備をしながら言った。
「ご主人様が、わたしの帰りを待ち、わたしが買ってきたこの普通の服に着替えていただいていたら、なにも起きなかったと思うわ。さっきも言ったけど、この国じゃあ、天教教団の神官であることは犯罪なのよ。いままでも教団の巡礼なんかで、うっかりとこの国に入り込んだ神官はいたらしいわ。すべて、捕えられて、思想を矯正する牢城に送られるらしいわ」
「思想を矯正する牢城ですか?」
「天教徒囚人を収容して働かせる場所よ。特に、女囚用の牢城は『
「へえ、城のような牢だから、“牢城”ですか。面白いですね」
朱姫は言った。
「笑いごとじゃないわ。城門に貼ってあった手配書によれば多額の賞金も付いているし、一度、手配されたら、この国から逃げるのは難しいかもね。まあ、わたしたちにとっては、それもこれまでと変わらないけど……。とにかく、神官というだけで捕まるし、通報には賞金もでるのよ。そんなところに、のこのこと神官の法衣で城郭に入り込めばどうなると思う、朱姫?」
「どうなるって……。ご主人様は、捕まってしまいますよ」
朱姫ははっとした。
「そういうことよ――。それにしても、どうして、もらわなくてもいい騒動を呼び寄せるのかしら、あのご主人様は──。とにかく、さっさと城郭に行って、ご主人様を回収するわよ」
沙那がそう言って、荷物を担ぐと、すたすたと城郭に向かい街道を歩き始めた。