「……ご主人様……。ご主人様……」
耳元で声がした。
宝玄仙は眼を開けた。
暗い――。
身体が揺れている。
天井に近い小さな明かり取りから弱い光が差している。
馬車の中?
しかも、檻車だ。
檻車というのは、囚人を護送するための乗り物だ。
その中にいるのか……?
「……ご主人様……」
また声がした。
やっと、孫空女の声だとわかった。
はっとした。
宝玄仙は今度ははっきりと眼を開けた。
どうやら、囚人を輸送する檻車の床で横たわっていたようだ。
孫空女が、心配そうに自分を見下ろしている。
宝玄仙は、身体を起こした。
すると、鎖の音がした。
「なんだい、これ?」
首を鎖で檻車の壁に繋がれている。
鎖の長さは手の長さほどはある。
どうやら、首輪をされているようだ。
その首輪に鎖があり、それが檻車の壁に繋がっているのだ。
宝玄仙は、首輪に触れようとして、首に手をやろうとした。
ぎょっとした。
動かない。
別に拘束されている様子はないのに、首に手をやれないのだ。
なにが起ったかわからず、自分の手を見た。
両方の手首に真っ黒な太い線がある。
刺青だ。
宝玄仙は巫女服の裾を剥ぐって足首を見た。
両方の足首にも同じものがある。
そして、右手の甲にはおかしな紋様がある。
「なんだい、これは? それに、首に触れない……」
宝玄仙は呟いた。
「連中のかけた法術のせいだよ、ご主人様。その手首と足首の黒い線は、あたしらが逃げることを防止するものらしいよ。だから、首輪を外すようなことはできないんだ」
「法術?」
宝玄仙は孫空女に視線を向けた。
ふと見ると、孫空女の服はぼろぼろだ。
朱姫の服を着せていたはずだが、びりびりに破かれていて、ほとんど孫空女の裸身を隠してはいない。
まるで布切れを巻いているような格好だ。
そして、暗がりでよくわからないが、口の横に青痣ができている。
殴られた痕のようだ。
「そ、孫空女、なんだい、お前のその恰好――? しかも、怪我しているのかい?」
「ああ、これかい?」
孫空女は、自分の服と頬に手を振れた。
「……ちょっとばかり抵抗したら、ぶん殴られたんだよ。その代わり、ふたりほど、脚の骨を叩き折ってやったけどね……。まあ、結局はやられたけど」
孫空女は自嘲気味に笑った。
「やられた?」
「犯されたんだよ――」
孫空女は、悔しそうに口元を歪めた。
「……まあいいよ。洗えば済むことさ。もっとも、まだ、洗わせてもらってないけど……」
「ちょ、ちょっと待ちな、孫空女。いったい、これはどういうことなんだい? なんで、わたしらは、囚人のように檻車の中で鎖によって繋がれているんだい? どこに向かうんだよ? しかも、法術とはどういうことだい?」
宝玄仙はまくし立てた。
だんだんと異常な状況がわかってきた。
「……それよりも、ご主人様、道術は遣える?」
孫空女が言った。
怪訝なことを言うのだと思った。
術が遣えるかだと……?
宝玄仙は、孫空女を見て、孫空女の口の横の痣に集中する。
『治療術』を試みた。
だが、なぜか、霊気が動かない。
道術を封じられている。
宝玄仙は愕然とした。
「やっぱりか……。その手の甲の紋様だよ、ご主人様。それが霊気を動かすのを封印しているんだって。そう
孫空女が残念そうな顔をした。
「羊力というのは?」
宝玄仙は、そう言いながら、もう一度、自分の手の甲を見た。
そこにあるのは、見たことのない紋様だ。
天教の魔術遣いが刻む道術紋に似ているが、それとは違うもののようだ。
「羊力というのは、あたしたちを護送している隊の隊長だよ。ついでに言えば、あたしたちを城郭で捕えた男さ」
孫空女が面白くなさそうな表情で言った。
「捕らえた? なんのことだい?」
「どこまで憶えているのさ、ご主人様?」
孫空女が言った。
宝玄仙は考えた。
憶えているのは、城郭の料理屋で食事をしながら孫空女をいたぶって遊んでいたことまでだ。
そして、意識が遠くなった。
料理の中に眠り薬でも入っていたのかもしれない。
そして気がついたのがここだ。
宝玄仙はそう説明した。
「……だったら、それから丸一日が経っている」
「丸一日だって、孫空女──?」
宝玄仙は驚愕した。
だが、そう言われてみれば腹が空いている。
喉も少し乾いているような……。
「そうだよ、あんた」
すると、別の声が遮った。
女の声だが、聞き覚えのない声だ。
宝玄仙はそっちに視線を向ける。
「……羊力は法術遣いさ。法術というのは、天教の術遣いがいう“道術”のことだよ、宝玄仙さん」
声の主は宝玄仙と孫空女が繋げられている向かい側の壁だった。
そこに頬に小さな傷のある若い女がいる。
長く青い髪をした引き締まった身体をしていて、頬に傷があることを除けば、美しい女だ。
歳は孫空女と同じくらいだろう。
宝玄仙と同じように首に首輪をして壁に鎖で繋がれている。
首輪は細い革だ。
宝玄仙も同じような首輪をしているのだろう。
青い髪の女は、壁にもたれて膝を抱えて座っている。
その女も孫空女ほどではないが服が破れている。
膝を抱えた
そして、よく見ると、もうひとりいる。
青い髪の女から少し離れた壁に、別の若い娘が同じように首輪で壁に繋がれている。
これは、宝玄仙もよく知っている天教の法衣だ。
しかし、灰色の下級女法師のものだ。
この娘は、天教の神官なのだろう。
どこかの田舎娘という感じだが、やはり、服がところどころ破れている。
青い髪の女は、どこか孫空女のような気の強さを感じるが、こっちの娘巫女は怯えきっていて、小さな嗚咽を繰り返している。
思わず、宝玄仙は自分の法衣を見た。
どこにも変わったところはない。
「とにかく、ご主人様が、気がついてよかったじゃないか、孫空女。強い眠り薬だったみたいだから、心配していたんだろう?」
青い髪の女が言った。
「うん」
孫空女が頷いた。
「一体全体、なにが起ったんだい、孫空女?」
宝玄仙は、声をあげた。
檻車は揺れ続けている。
窓は、上側に明かり取りの小さな穴があるだけなので景色は見えない。
ただ、外は馬に乗った兵に囲まれている気配がある。
つまり、檻車に入れられて、どこかに護送されているのだ。
「説明するよ、ご主人様。それよりも、そこに食べ物があるよ。おいしいものじゃないけど、食べた方がいいと思う。到着したら大変みたいだし、ご主人様は丸一日眠っていたんだ」
「丸一日?」
宝玄仙は、驚いた。
「そうだよ。ご主人様は、丸一日、繰り返し薬を飲まされて、眠っていたんだよ。水は一緒に飲ませていたみたいだけど、お腹空いていない?」
孫空女は言った。
ふと見ると、宝玄仙が繋がれている壁側に、汚れた乾し肉二枚と固まった
「……そ、そんなものでも、ご主人様はましなんだよ。あたしらなんか……。と、とにかく、いつか逃げるためには、少しでも体力をつけないと……。沙那たちも、きっとあたしらを探してくれているはずだから……」
孫空女が悔しそうに顔を曲げた。
なにがあったのだろう。
宝玄仙は、床から
水がなくて食べにくかったが、なんとか身体の中に入れる。
それでわかったが、空腹なんてものじゃなく、極度にお腹が減っている。
本当ならどんなに空腹になったり喉が渇いたりしても、宝玄仙の身体に充ちている霊気が、生きるのに必要な栄養や水分を身体に満たしてくれる。
だから、宝玄仙も普通に空腹も感じるし、喉も乾くが、そういう道術の補助機能があるので、あまり極端な空腹という状態を感じたことはないのだ。
つまり、自分の中の霊気が動いていないということだ。
しかし、霊気が消滅しているわけではない。
自分の中にいつものように霊気が充満しているのは感じる。
いまも、周りから霊気を吸収することも可能だ。だが、発散ができないようだ。
霊気を動かせないということは、道術が遣えない。
道術が動かせないということで、目の前の孫空女のことが心配だったが、それも大丈夫のようだ。
食べ物を半分ほど口に入れて、横に置いた。
もう十分だ。
肉も麺麭も不味い。
とても食べられたものじゃない。
「ねえ……、ご主人様……。おいしくないと思うけど、口に入れた方がいいよ。食べられるときは食べる。そうじゃないと、身体が弱って、逃げられるときに、逃げられなくなるよ。さっきも言ったけど、沙那たちがいる。絶対に逃げる機会はある。その時まで、体力は持たせとかないと……」
「もう、お腹が一杯なんだよ、孫空女」
宝玄仙は言った。
「ねえ、だったら、あたいたちに、くれないかい、孫空女? あたいたちは、昨日と今日はまだもらってないんだ。一度、朝飯代わりに、連中の小便をもらっただけでさあ」
反対側の壁に繋がれている青い髪の女が言った。
だが、小便だと?
なにを言ってるんだ、こいつ?
「……あげてもいいかい、ご主人様?」
宝玄仙は頷いた。
孫空女は、宝玄仙の食べ残した
干し肉と
残ったのは自分用のようだ。
孫空女は、すぐにそれを口に入れた。
見ると青い髪の娘も同じように、すぐに口に入れた。
巫女の娘は、泣くだけで手に取らない。
「ねえ、
青い髪の女が言った。
下級法師の名は楊鈴のようだ。
楊鈴はまだすすり泣いている。
「孫空女、そろそろ、説明してくれるかい? どういうことになっているんだい?」
宝玄仙は訊ねた。
「うん、まず、こいつらを紹介するよ。あの青い髪をしているのは、
孫空女は言った。
「天教狩り?」
宝玄仙は思わず繰り返した。
すると、七星が口を開いた。
すでに、
「そうだよ。この国の軍が、禁止されている天教の神官や信者を捕えるのが“天教狩り”さ。あんたらは、この
七星が笑った。
「うるさいよ、七星──。お前だって、似たようなものじゃないか。城郭の郊外で、堂々と布教活動をしていたんだろう。それで、通報を受けた城郭兵に取り囲まれて捕縛されたんじゃないか。どこか違うんだよ。知っていて捕まっただけ、あたしらより間抜けじゃないか」
孫空女が言い返した。
「あたいは、危ないって、何度も警告したさ。だけど、雇い主の法師が、車遅国の法術師なんかには、負けないって豪語するから、仕方なく承知したのさ。金を貰って護衛をしている身では、それ以上は言えないよ」
「それで、護衛の役目を果たさず、雇い主もろとも捕えられたんだろう? 情けない話さ。護衛なら護衛で、命懸けでも雇い主を逃がさなきゃいけないんじゃないかい。ほとんど無抵抗で捕えられたんだろう、七星? 最初に軍営の牢で会ったときには、怪我らしい怪我もなかったものねえ」
孫空女がそう言うと、七星が腹立ちで真っ赤な顔をした。
「あ、あたいじゃないよ。雇い主が勝手に手をあげたんだ。それに、百名はいるような軍に囲まれたんだよ。どうしようもないだろう、孫空女――」
「百名くらい、蹴散らすのは簡単じゃないか」
「そのお前は、たったひとりの羊力に捕まったんだろうが、孫空女」
「あたしは、薬を盛られたんだ。しかも、このご主人様に……途中で……」
孫空女が赤い顔をして口をつぐんだ。
そう言えば、宝玄仙と孫空女が料理屋で捕えられたとき、孫空女に色責めをしていた。
あんな風に身体を欲情させられていなければ、眠り薬くらいの毒なら孫空女もひと舐めで気がついたかもしれない。
「……ご主人様になにされていたって、孫空女? 言ってみな」
七星が孫空女を見下すような表情で言った。
どうやら、宝玄仙と孫空女が料理屋で痴情に耽っていたのを知っているようだ。
「うるさい、七星。もう、やめよう。あたしは、ご主人様に説明しなきゃいけないんだ」
「言いなよ、孫空女。そのご主人様に、道術で股をいじくられてあそこをぐしょぐしょにして、我を忘れていたところで、薬を盛られて、気がつきませんでしたってね。本当に、馬鹿だねえ、あんたらは――」
七星がせせら笑った。
「お前みたいな、娼婦に言われたくないよ、七星」
「しょ、娼婦って、なんだよ、孫空女。あたいは、用心棒だよ。天教の術遣いに雇われていた傭兵だよ」
「でも、その雇い主の夜の相手も務めるんだろう? それを娼婦っていうんだよ、七星」
「そりゃあ、金を貰えば、身体だって提供することもあるさ。だけど、本業は用心棒だ」
「護衛は、役に立たなかったんだろう? 夜の相手はどうだった? 雇い主は満足したかい?」
孫空女がからかうような口調で言った。
「したさ――。あたいの身体で満足してたよ」
七星は大きな声で言い返した。
「ほうら見ろ、七星。本業が娼婦で、副業は用心棒って言えよ」
「なんだと、孫空女――」
七星が噛みつくような表情をした。
だが、ふと、自分の身体の自由を阻んでいる首輪に気がついて、がっかりしたような表情になる。
孫空女も同じだ。
そして、ふたりで同時に嘆息した。
「ほう、お前を味わうのは、金を払えばいいのかい、七星? いくらなんだい?」
宝玄仙は興味を覚えて言った。
なかなかの女だし、宝玄仙好みの気の強い若い女だ。
「……孫空女から聞いて、冗談かと思っていたけど、本当に変態法師なんだね、宝玄仙さん。この状況で、本当にそんなこと知りたいのかい?」
七星が呆れた表情を宝玄仙に向けた。
「それにしても、孫空女、わたしらが料理屋でやっていたことを喋ったのかい?」
「じょ、情報交換だよ……。お、お互いに知っていることを教え合ったんだ。そのとき、ちょっと、口を滑らせちゃったんだよ」
宝玄仙が睨むと、孫空女は顔色を変えた。
本当に面白い。
宝玄仙が表情を緩めると、孫空女はほっとした顔をした。
「さて、じゃあ、いい加減に説明してもらおうか、孫空女。まず、この檻車が向かっている天教教徒用の牢城である『智淵城』というのは、まだ遠いのかい? どんなところなんだい?」
「そんなのわからないよ、ご主人様。この檻車に入れられて、二刻(約二時間)だよ。羊力は、着くのは夕方とか言っていたような気がするかなあ……?」
「いや、そう言っていたよ、孫空女。とんでもなく、怖ろしい場所だって言っていたよ。あたいらは、そこで奴隷になるんだ」
七星が言った。
「奴隷?」
宝玄仙は、眉をひそめた。
「天教徒の女は、そこで徹底的に躾けられて、この国に逆らえないように、思想矯正をするとか言っていたかな。まあ、とにかく、そこで心を作り変えると言っていたっけ」
七星が思い出すように言った。
「思想矯正だと?」
宝玄仙は鼻白んだ。
どうやら、とんでもないものに巻き込まれてしまったと気がついてきた。
いや、巻き込まれたというか、なるべくして、当事者になったというか……。
「そういうことさ、宝玄仙さん。とにかく、あたいたちは、智淵城で奴隷になるために、こうやって移送させられているのさ」
七星があっけらかんと言った。
相変わらず、隣の楊鈴は泣いてばかりだが、七星は余程に胆力があるのだろう。
結構平然としている。
「いや、違うよ、七星──。奴隷になるんじゃないよ。もうなってる。この手首と手の甲の紋様は、奴隷の証だって、羊力があたしを犯しながら言ってた」
「そうだったよ、孫空女──。確かに、あたいらは、すでに奴隷さ」
七星はけらけらと笑った。
宝玄仙はちょっと笑ってしまった。
この状況で笑えるというのは、なかなか頼もしい。
孫空女がまた宝玄仙に顔を向ける。
「ねえ、ご主人様、もうご主人様だけが頼りなんだよ──。この手首と足首の帯のような黒線は、あたしらを命令に従わせる力があるんだよ、ご主人様。それに、あたしやご主人様の手の甲には、術封じの紋様があるだろう? あたしはもともとだけど、ご主人様は、やっぱり、どうしても術は無理かい?」
宝玄仙は、もう一度、術を試みた。
自分の手の甲の紋様に集中する。
今度は道術でその紋様を消滅させようと思ったのだ。
『治療術』『解呪術』を組み合わせる。
やはり、駄目だ。霊気が動かない。
だから、紋様は消滅しない。
「駄目かい……。でも、その紋様は、一生消えないって言っていたよ、ご主人様」
孫空女ががっかりしたように言った。
「じゃあ、一生術は遣えないってことかい?」
「だから、奴隷なんだってさ」
孫空女は悔しそうだ。
「冗談じゃないよ」
宝玄仙は吐き捨てた。
「とにかく、まずは逃げることを考えようよ、ご主人様。道術の回復は、それからのことにしてさあ……」
孫空女が溜息をつく。
そして、これまでの経緯を語り始めた。