「ご主人様の道術も普通に人の役に立つことがあるんですね。驚きました」
「お黙り、沙那。それ以上、このわたしを馬鹿にするような口にしたら、承知しないよ」
宝玄仙がぴしゃりと言う。
沙那は、肩をすくめてみせた。
もちろん、宝玄仙も沙那が本気で宝玄仙の悪口を言っているのではないことはわかっている。
だから、宝玄仙はそれ以上なにも言わない。
沙那の軽口の裏には、ここにはいない孫空女と朱姫への心配が込められている。
宝玄仙が集落の人々を治療しながら、まだ見つけることができないふたりのことを本当に心配しているのがわかっている。
だから、少しでも雰囲気を明るくしよう思った。
やっと集落の人間がいなくなり、感謝の言葉とともに姿を消したのはすっかり夜になっていた。
ただし、河の東側じゃない。
西側だ。
信じられないことだが、沙那たちは、あの通天河の真ん中に放り捨てられたのも関わらず、溺れ死ぬことなく反対側の岸に辿り着いたのだ。
沙那が宝玄仙とともに通天河の岸辺に打ちあげられたのは、今日の昼過ぎのことだった。
いまは、夜だから、あれから半日ほど経ったことになる。
三人が岸に流れ着いたとき、沙那たちを見つけてくれたのは、この集落の人たちだ。河から流れ着いた沙那たちを驚愕したように見たのを覚えている。
いずれにしても、集落の中にあるこの廃屋に加え、食料や衣類等の提供をしてくれる代償として、宝玄仙の『治療術』を集落の人間に施すために、沙那と宝玄仙が働くあいだ、七星は周辺を訊きまわって、孫空女と朱姫の行方を探している。
まだ、七星は戻って来ないが、なんらかの情報はわかるはずだ。
絶対にこの近くに流れ着いたはずなのだ。
それにしても、宝玄仙の術が助けてくれたとはいえ、あの通天河を泳いで渡りきったのだ。いまだにそのことが沙那には信じられない。
諸王国の西側の端である
しっかりとした船だとは言われたが、普通の船とは異なり、半透明の繭は半分が水に浸かった状態であり、まるで水の中そのものだっや。
五人で唯一泳げない沙那は、それこそ、必死になって七星の腰紐にしがみついていた。
しかし、通天河の半分ほどを渡ったところで、突如としてあの倚海龍は、それまでの態度を変えた。
いま思い出しても、なんということをしてくれたのだと思うが、宝玄仙のために危うくなった金角と牛魔王の関係を修復するために、あろうことか倚海龍は、宝玄仙の命を奪おうとしたのだ。
突如として、『海亀の繭』を消滅させ、宝玄仙以下の全員を通天河に放り出したというわけだ。
水の中に放り投げられた沙那は、懸命に七星の腰紐を掴み続けた。
すぐに巨大な魚の群に襲われたが、それよりも沙那の恐怖は、河の水そのものだった。
だが、すぐに宝玄仙は、河の水の中で沙那を術で捉えてくれた。
宝玄仙は、自らも通天河の急流に巻かれながらも、沙那、七星、そして、孫空女と朱姫を道術で引き寄せ、小さな結界を張ったのだ。
もっとも、水中の中なので、地上にいるときのように完全な結界というわけにはいかない。
だが、お陰で数刻も急流に流されながらも溺れることもなく、水の上を漂い続けることができた。
そうやって、かなりの時間を宝玄仙の魔力に護られながら水に流され続けたと思う。
通天河を流されているあいだ、そうやって宝玄仙に守られていたことについて、沙那は承知していたが、一緒に岸に辿り着いた七星はその自覚がないようだった。
まあ、守られていたといっても、力尽きて水中に没するのを防いでくれていただけだから、沙那のように泳ぎのできない人間でなければ、自分の力で泳ぎ続けていたと錯覚してしまったのかもしれない。
だが、沙那にはわかる。
沙那はまったく泳げないのだから、その沙那が水に沈まなかったということは、宝玄仙であろうと、ほかの誰かであろうと、沙那以外の者が沙那を沈まないようにしてくれたことに間違いない。
どれくらい流され、そして、どれだけ、通天河を渡り進んだのかはわからないが、太陽が西の山に傾きかける頃に、沙那は、宝玄仙と七星とともに、岸に辿り着いた。
宝玄仙によれば、通天河は、東側の半分は急流だが西側の半分は穏やかな流れだったらしい。
どうやら、同じ通天河でありながらまったく別の顔を持っていたのが幸いしたようだ。
とにかく、そうやって、生きて陸地に辿り着いた。
しかも、通天河の反対の岸に着いたのだ。
あの通天河を泳いで渡りきった……。
何度も同じことを思うが、とても信じられない。
辿り着いたのは、どこかの小さな集落の近くのようだった。
すぐ近くに平屋の家並みが集まっているのが見えたし、漁をやって暮らしている生活の匂いもあった。
そこに、疲れきってずぶ濡れで倒れたままでいた沙那たちの前に、ひとりの老人が通りかかった。
その老人は、声をあげた後、すぐにいなくなったが、すぐに十名ほどの人間を連れて戻って来た。
助けを呼びにいってくれたのだ。
だが、そのときには、宝玄仙は、その間に術で沙那と七星の身体を探り、疲労を回復してくれていた。
孫空女と朱姫の姿が見えなかったのがひどく気になったが、宝玄仙によれば、必ずこの近くに辿り着いたはずらしかった。
最後の最後に離してしまったが、岸に辿り着く寸前まで、宝玄仙の道術はふたりのこともしっかりと捉えていたと言っていた。
やってきた村人たちは、宝玄仙が道術を遣うのを見て驚愕していた。
この地域では、術遣いというのは本当に珍しい存在らしかった。
宝玄仙の『治療術』により、すっかりと回復してもらったことで、死んだように疲労しきっていた沙那の身体も動くようになった。
集落の人たちは、目を丸くして驚いていた。
その後、集まっていた人間たちによって、三人は、引きずられるように集落に連れていかれた。
そのときに、顔を頭から隠す覆いのついた上着を三人とも被せられた。
この地域では、若い女が歩くときには、そうやって顔を隠すのが習わしらしい。
集落の人たちにより、宝玄仙と沙那と七星は、集落の外れにある廃屋に連れていかれた。
本当は、この集落の長に当たる人物の屋敷に宿泊場所を提供してくれるはずだったのだが、派手なもてなしを宝玄仙が嫌がったので、空き家を提供してもらうことになったのだ。
その代わりに、濡れた衣類を拭く布と乾いた衣類──。
さらに、食べ物などの提供を受けた。
代償は、宝玄仙の『治療術』だ。
どうやら、この集落には、流行り病の死病にかかっている子供が数名いるらしかった。
沙那は宝玄仙に命じられて、宝玄仙とともに、その子供たちが隔離されている家に赴くことになった。
そのあいだ、七星は、周辺に孫空女と朱姫の行方を探しにいった。
道術の基本は、『道術は霊気に共鳴する』──だ。
それは、さんざん宝玄仙に教えられていた。
霊気を持たない人間には、本来、宝玄仙の『治療術』は通じない。
しかし、この集落の人間たちは、そんなことは知らない。
宝玄仙のことを術が遣える偉大な女性という目でしか思っていない。
隔離されていた子供たちは十名ほどだったが、宝玄仙は、まずは、その子供たちの身体に、ほんの小さな内丹印を刻んだ。
内丹印とは霊気の出入り口となる紋様であり、一度刻むと消すことはできないようだが、それを施すことで宝玄仙の道術を子供たちが受け入れることができるようになる。
沙那も孫空女も朱姫も、その宝玄仙の刻んだ内丹印を刻まれている。
この内丹印を使って、何度、宝玄仙に身体を玩具にされられたことか……。
ただ、沙那や孫空女や朱姫が施されているような本格的なものではなくて、応急の小さなものを使ったらしい。
それでも、内丹印を刻むときには、なんらかの苦痛が伴う。
子どもたちも、その瞬間は、顔をしかめていた。
もっとも、流行り病のせいで、高熱を発している子供たちには、それは大したことではなかったようだ。
宝玄仙は、できあがった内丹印を通じて『治療術』を施した。
沙那は、施術を見守りながら、宝玄仙に確かめたところ、子供たちに刻んだ内丹印は一時的なもので、すぐに消滅してしまうらしい。
そんなこともできるのかと、沙那は少し驚きはしたが……。
いずれにしても、宝玄仙の治療術の効果はあっという間だった。
沙那は、熱で汗びっしょりとなっていた子供たちの身体を拭き、清潔な衣類に着替えさせたが、たった今まで死にかけていたようだった子供たちが、途中からは自分でそれをやり出した。
子供たちの着ていた衣類は、病気の元が付着している可能性があるということで、外に持ち出して焼却をするように宝玄仙に命じられた。
沙那が、それをするために外に出ると、心配そうに取り巻く子供たちの家族の姿があった。
流行り病が伝染するのを防ぐために、自分の子供といえども不用意に近づくのを禁止されているらしかった。
そして、親たちの前にすっかりと元気になった子供たちが現れたときの効果は劇的だった。
その瞬間、宝玄仙は、この集落の賓客になった。
面倒くささに鼻白む宝玄仙に、次々にお礼の言葉を言いに来る人間がいなくなったのは、ついさっきのことだ。
「それにしても、七星は、遅いですね、ご主人様?」
「そうだね」
宝玄仙の顔が少し曇った気がした。
岸に打ちあげられた直後は、孫空女と朱姫が近くにいるだろうということについて、宝玄仙は疑ってはいなかった。だから、自分で探し回るということをせずに、集落の人間の求めのまま子供たちの治療に応じたのだろう。
しかし、いまはかなり夜も更けてきた。
孫空女と朱姫を探しにいった七星も戻って来ない。
その七星が戻って来たのは、さらにしばらくしてからだ。
期待をしたが、残念ながら孫空女も朱姫も一緒ではないようだ。
「いやあ、お腹が減ったよ……。あら、おいしそうだねえ──。貰っていいから、宝玄仙さん」
部屋の隅にある卓には、集落の人間が運んできたご馳走の残りが置いてある。
七星は、宝玄仙の返事を待たずに、皿に載った羊の肉を手掴みで口に入れた。
「七星、食べるのはいいけど、わかったことをさっさと説明しないかい。まさか、なんの情報もなく、手ぶらで戻って来たんじゃないだろうね」
宝玄仙がぴしゃりと言った。
「そ、そんな言い方酷いじゃないか、宝玄仙さん。あたいは、あれから食べるものも食べず、休むことなしにずっと人に訊きまわったり、あちこちを探しに行っていたんだよ」
「ぐずぐず言うんじゃないよ。わたしが質問したことにはすぐに答えるんだよ。孫空女と朱姫はいたのかい。いなかったのかい?」
宝玄仙は容赦ない。
七星は、食べかけていた肉を小皿に戻した。
「孫空女と朱姫は、無事といえば無事だよ。だけど、無事じゃないといえば無事じゃないみたいだね」
七星は言った。
「どういうことだい?」
「ふたりを見た者がいたよ。宝玄仙さんの言うとおりに、あのふたりは、ほんのすぐそばの岸に打ちあげられていたよ。それこそ、あたいらが流れ着いた場所と目と鼻の先にね。だけど、連れていかれたみたいだね」
「連れていかれた?」
「そうだよ。無理矢理にね」
「誰にだい? あいつらが?」
宝玄仙は言った。
「うん。
「連れていかれたって、どういうこと、七星?」
沙那は訊ねた。
「それよりも、腹が減ったんだよ。食べながら説明していいかい?」
七星は、食べかけの肉を載せた皿に眼をやった。
「喋ることを喋ってからだよ。わたしの許可なく食事をしたら承知しないよ」
宝玄仙が怒鳴った。
「きょ、許可って……。な、なんで、そんなことを言われなきゃならないんだよ。あたいは、あんたの奴隷じゃないよ」
「奴隷だよ。罰が欲しいのかい、七星」
宝玄仙がそう言うと、七星は悔しそうな表情をしたが、やがて、不機嫌そうに話を続け始めた。
「独角兕が孫空女と朱姫を連れていった理由は、この辺りの若い女が顔がわからないようにみんな覆いで顔を隠す風習の理由と同じさ。ほら、あたいらが最初に着せられた覆いつきの服だよ、沙那」
七星は言った。
なんのことなのかよくわからない。
服がなんだというのだ。
「わかるように説明しな、七星」
宝玄仙が苛ついたように怒鳴った。
七星が溜息をつく。
「わかったよ。その独角兕は、とんでもない女たらしという噂さ。美人と見たら、片っ端から自分の棲み処に連れていって飼うって話だよ。何十人も妻がいるという話だね。もっとも、全員が浚われた女たちだけどね」
「なんですって?」
沙那は叫んだ。
「朱姫はともかく、孫空女までそいつに浚われたということかい?」
「そういうことだよ、宝玄仙さん。孫空女とその独角兕が一対一で戦っていたのを見た人間がいたよ。孫空女は、そいつに倒されて犯されたみたいだよ」
「まさか……」
沙那は思わず唸った。
孫空女の戦闘力は並大抵ではない。
その孫空女が連れていかれたということであれば、その魔王が一筋縄でいかないということが予想できる。
「詳しく話しな、七星」
宝玄仙が落ち着いた声で言った。