153 純情青年の初恋
通りに足を踏み入れたときから、孫空女は、その男たちの存在には気がついていた。一定の距離をおいて、後ろからついてくる。
通天河に沿って南に向かうように、この北梁国、
特に、女人国というのは、なんと男が存在せず、女しか住んでいない国なのだそうだ。
そんなところ本当にあるのだろうかと不思議に思ったりする。
それはともかく、今夜は、この北梁国の地方都市で宿をとることになったのだが、食量調達のためにひとりで宿から出てきたところ、帰り道で誰かに付けられているのを感じた。
物取りの類いかもしれないし、孫空女の身体が目的なのかもしれない。
もしくは、その両方だろう。
道中で消費する保存食料をこの町の市場で調達した帰り道だった。
孫空女が背負っている袋には、五人で十日以上は大丈夫なくらいの食料が入っている。
市でそれを購うときに、もしかしたら、まとまった銀粒を袋に持っていたのを見られたのだろうか。
宝玄仙たちが泊っている宿に戻るために、近道をしようと思ったのが間違いだったかもしれない。
人通りが少なくなり、道幅が狭くなると、はっきりとした尾行として、彼らの気配を感じられるようになってきた。
孫空女は、内心で舌打ちした。
こっぴどく叩きのめしてやってもいいが、それは実際に襲われてからでも遅くない。
もしかしたら、このまま追跡を続けた挙句に諦めるかもしれない。
孫空女の物腰を観察すれば、孫空女が只者ではないことくらいはわかるはずだ。
そうであれば問題はない。
面倒は避けたいのだ。
しかし、歩みを進めるにつれ、追跡者たちの気配は、次第にすぐ後ろに感じられるようになる。
孫空女は、少しだけ歩みの速度をあげることにした。
それが彼らの襲撃のきっかけになるのか、孫空女に気づかれていることを知って、襲うことを思い留まることになるのかわからない。
ただ、いつまでもずっと後をつけられるのが、うっとうしいと思っただけだ。
孫空女が歩みを速めると、迫っていた尾行の気配がすっと消えた。
どうやら、諦めたようだ。
孫空女は、歩みの速度を戻した。
「姉ちゃん、あんた、いくらでやらしてくれるんだよ?」
ふと、前から声がかけられた。
気がつくと、物陰から出てきた与太者が三人ほどで、前を塞いでいる。
そして、背後――。
そこにも二人出てきた。
なんのことはない。先回りして、回り込まれただけだった。
「うるさいよ、邪魔だよ」
孫空女は、前を塞いでいる男たちを払いのけて進もうと思った。
すると、風が頬を掠めた。
三人のうちの真ん中の男が剣を抜いて、孫空女に剣を払ったのだ。
意外な剣技だった。
触れはしなかったが、孫空女が思わず眼を見開く程度には、剣は鋭かった。
孫空女が、態勢を整えて身構えたときには、孫空女を囲んでいた五人の全員が剣を抜いていた。
「背中に背負っているものは、最終的には持って帰っていいぜ。ただし、懐に入れている銀粒は置いていくんだ」
「それと、裸になって、股ぐらを開きな。大人しくしてれば、服は破かないでおいてやる。抵抗すれば、怪我をした挙句に抱き潰した後で、素っ裸で帰ることになる。俺たちはどっちでもいいがな」
男たちがげらげらと笑った。
かっとした。
全員を叩きのめしてやろうと思って、孫空女は耳に隠している『如意棒』を手の中に移動させた。
しかし、突然、眼の前に小さな爆発音が起こり、急に視界が真っ白になった。
ただの闇ではない。完全な闇だ。
なにが起こったのかわからない孫空女は、途方に暮れた。
すると、視界を失って、呆気にとられている孫空女の手首が急に掴まれた。
「こっちに――」
誰かが孫空女を強引に引っ張る。
その手と言葉に悪意のようなものは感じなかった。
孫空女は引っ張られるまま、手首を掴まれたまま路地を駆けた。
「走って」
「走ってるよ」
孫空女を引っ張っているのは、ひとりの青年だ。
少し小太りで、全力で駆ける割りには、随分と遅く感じた。
だが、この辺りは、かって知っているらしく、右に左にと小さな脇道を進んでいく。
そして、いつの間にか、大きな通りに出た。
孫空女を襲おうとした五人は、もう、姿かたちもない。
「はあ……はあ……はあ……。だ、大丈夫……です……か? あ、危ない……ところでしたね」
襲撃者に襲われていた孫空女を助けたのは、意外なくらいに若い青年だ。
まだ、少年と言ってくらいの面影が顔にある。
ただ、身体は大人だった。
ほんの少し走っただけなのに、その青年は激しく息切れをしていた。
懸命に息を整えようとする彼の年齢は、十七、八ではないだろうかと思った。
青年は、まだ、孫空女の手首を掴んでいる。
「あ、あいつらは、あの界隈を根城にしているごろつきなんです。あ、あの路地は、あんたみたいな、綺麗な女の人が、ひとりで歩いちゃいけないところだよ」
その青年は言った。
やっと息も整ってきたようだ。
その一生懸命な口調がなんとなく好印象だ。
「あたしを助けてくれたのかい?」
孫空女は言った。
「うん」
青年は頷いた。
しかし、まだ、孫空女の手首を握ったままだったことに気がついて、慌てて手を離して、顔を紅らめた。
孫空女は、その様子に思わず小さく噴き出した。
「ご、ごめん……。笑うのは失礼だよね――。お礼を言うよ。あたしは孫空女だ。助けてくれてありがとう」
孫空女は頭をさげて謝った。
噴き出したとき、青年が失望したように紅らめた顔を伏せたのだ。
気を悪くさせたのかもしれない。
どう見ても、闘いに長けているという様子はないにも関わらず、煙玉のようなものを使って助けてくれたのだ。
感謝の言葉こそ言うべきであり、笑うなど失礼だった。
相手がまだ少年に近い青年であり、実は助けなどまるで必要なかったとしてもだ。
「い、いえ……」
青年は、また、顔を紅くして頭を掻いた。
「さっきの煙玉はなにさ?」
「あ、ああ……。あれは、僕が作ったんだ。ちょっとした霊具で、地面に叩きつけると、さっきみたいに、煙で周囲一帯の視界を見えなくするんだ」
「あんた、術遣いかい?」
孫空女は、意外さに声をあげた。
彼のなんとなく純朴な野暮ったさが、道術遣いということと結びつかない。
道術遣いというのは、どこにいっても重宝される存在で、ある意味では、術が遣えるというだけで、優勢人種ともいえるのだ。
「た、大した術遣いじゃないよ。遣える術なんてないんだ。だけど、霊具だけは、なぜか作れるんだ。もっとも、それだって、つまらないものしか作れないけどね。さっきのだって、本当は爆発して敵を倒す目的で作ったんだ。だけど、できあがったのは、あんなに小さな爆発しかしなくて、それでいて、やたらに煙が出るものだったし……」
「いいじゃないか。お陰で助けられたんだ。あれが、爆発するものだったら、あたしも怪我をしていた。あの煙玉は役に立つ。立派なものだよ」
「あ、ありがとう」
孫空女の言葉に、青年が嬉しそうな顔をした。
「あんた、この辺の人?」
孫空女は言った。
「いや、隣町だよ。だけど、霊具の注文があるんで、よくこの城郭にも来るんだ。今日も注文の品物を届けた帰りさ。もう、戻ろうとしていたんだけど、そしたら、あんたを見つけて……。なにか、たちのよくない男たちがつけているようだったら……」
やっぱり、市で目を付けられて、さっきの男たちに、すっと後をつけられていたのだと確信した。
「お陰で助かったよ」
孫空女はもう一度言った。
本当は、あんな連中を叩きのめすのに、数瞬しかかからない。
だが、助けなど必要なかったと言えば、勇気を出して助けてくれたらしいこの青年を傷つける気がした。
「孫空女さんは、旅の人?」
青年が言った。
「そうだよ。道術遣いの女主人に仕えて、南に向かって旅をしている途中だよ。ほかに、仲間が三人いる。みんな女だ――。そう言えば、あんた名前は?」
「そうだった。僕は、
「じゃあ、呂奇斗、さっきは、ありがとう」
孫空女は手を振って、その場を立ち去った。
*
とても綺麗な女の人だと呂奇斗は思った。
女性にしては背が高い方だろう。
髪は赤毛で、癖のなく首の後ろで束ねたきれいな髪が胸の後ろまで伸びている。
そして、きびきびとした歩き方がとても印象的だった。
この辺りではちょっと見ないくらいの美人だ。
それに、呂奇斗が、これまでの人生で感じたことのない清々しさが彼女にはあった。
だが、それとともに、あんな物騒な場所に、たったひとりでどんどん進んでいく彼女に、呂奇斗は少し不安も感じた。
あの界隈は、この城郭でも一番物騒な場所だ。
食い詰めた労働者や軍兵に追われる手配者などがうようよしているところであり、ほんの少しの金を得るために、なんのためらいもなく人を殺せる連中ばかりが集まるところだ。
そんな場所に、若い女がたったひとりでやって来るなんて、あまりにも無謀だと思った。
傭兵風の格好をしているし、隙のない身のこなしからも、それなりに腕に覚えはあるのだろう。
しかし、大きな荷物を背負って路地を進んでいく彼女は、寸鉄も帯びていない丸腰だ。
そして、彼女はあまりにも堂々としていて、もしかしたら、この一帯が危険であることに気がついていないのではないかと思った。
彼女に気に留めてみるとすぐに、距離を開けて、彼女を追跡している五人組にも気がついた。
それで、呂奇斗にはどうしても、彼女を無視することができなくなってしまった。
呂奇斗が、その五人のことを知っていたからだ――。
その五人組は、さっきの路地を根城にしている者の中でも、一番厄介な連中で、強盗も殺人も、強姦もなんとも思っていない連中だ。
あの連中に、あの女の人が犯されたり、殺されたりするかもしれないと思うと、なにか熱くなるものがあった。
普段なら絶対に湧いてこない、あの連中に対する怒りのようなものが沸き起こった。
しばらく、赤毛の綺麗な女性と、彼女をつける五人を追っていた。
すると、やっと尾行されていることに気がついたのか、赤毛の女性が少し歩みを速めた。
しかし、それは、連中に襲撃のきっかけを与えたにすぎなかった。
連中がさっと二手に分かれた。
彼らが進む方向で、どこでなにをしようとしているのかがわかった。
この先で再び合流する路地がある。そこで挟み撃ちにするつもりなのだ。
いつの間にか呂奇斗は走っていた。
後になって考えても、なにを考えて自分が走り出したのか、よくわからない。
普段の呂奇斗だったら、彼らを遠くから見ただけで、歩く方向を変えて逃げていくだろう。
しかし、あの綺麗な赤毛の女性が、これから彼らにされるだろうことを想像すると、なにも考えることができなくなった。
すぐに赤毛の女は見つかった。
呂奇斗は、すぐに飛び込みたい心を押さえて、赤毛の女が囲まれているすぐそばの建物の影に隠れた。
彼女は、すでに、あの五人に囲まれていた。
「姉ちゃん、あんた、いくらでやらしてくれるんだよ?」
男たちのひとりが言った。
「うるさいよ、邪魔だよ」
赤毛の女が応じた。
すると、男のひとりが剣を払って、赤毛の女の顔に斬りつけた。
呂奇斗は、思わず叫びそうになった口を自分の手で押さえた。
「背中に背負っているものは、最終的には持って帰っていいぜ。ただし、懐に入れている銀粒は置いていくんだ」
「それと、裸になって、股ぐらを開きな。大人しくしてれば、服は破かないでおいてやる。抵抗すれば、怪我をした挙句に抱き潰した後で、素っ裸で帰ることになる。俺たちはどっちでもいいがな」
男たちがげらげらと笑った。
我慢できたのは、ここまでだった。
呂奇斗は、たまたま持っていた『煙玉』を赤毛の女が囲まれている場所に向かって叩きつけた。
どすんという呂奇斗の『煙玉』特有の音がして、真っ白い煙が辺りに立ちこめた。
ほんの少しの時間だけだが、その白い煙に囲まれている一帯は、突然に光を失い完全な闇に覆われているはずだ。
呂奇斗は、白い煙の中に跳び込んだ。
赤毛の女の立っていた位置は、頭に刻み込んでいる。
闇の中で手を伸ばすと、呂奇斗の手が腕輪に触れた。
あの赤毛の女は、首と手首と足首におそろいの赤い装飾具を付けていた。彼女の髪の毛と同じ赤い色の首輪と腕輪と足環だ。
呂奇斗は、その手首を握った。
「こっちに――」
彼女を強引に引っ張って、煙の外に連れ出す。
「走って」
呂奇斗は駆けながら叫ぶ。
「走ってるよ」
彼女は抵抗しなかった。
呂奇斗に引っぱられるままについてくる。
駆けながら、一度だけ後ろを振り返った。
男たちは、突然に視力を失い、まだ煙の中で右往左往していた。
後は逃げるだけだ。
追いかけて来られないように、滅茶苦茶に脇道を変えて駆けた。
やがて、宿屋街に面する大通りに着いた。
ここまでくれば大丈夫のはずだ。
呂奇斗はほっとした。
全力で駆けたので息が苦しい。
なによりも、助かったという安堵感が、いまになって激しい動悸を呂奇斗に引き起こしていた。
「はあ……はあ……はあ……。だ、大丈夫……です……か? あ、危ない……ところでしたね」
やっとのこと呂奇斗は言った。
振り返って、その女性を見た。
激しく呼吸をしている息がとまる。
近くで見た彼女は、遠くから見るよりも遥かに美しいと思った。
呂奇斗は、息をするのも忘れて、じっと彼女の顔に吸い込まれていた。
彼女は、呂奇斗のことを不思議そうに見ていた。
それで、ふと気がついた。
考えてみれば、いきなり彼女の手を引っ張って、ここまで強引に連れて来たのだ。
彼女にしてみれば、さっき彼女を襲おうとした五人組同様に、呂奇斗もまた、見知らぬ怪しい男に違いない。
弁解しなければ――。
呂奇斗は、慌てて、事情を説明するために口を開いた。
「あ、あいつらは、あの界隈を根城にしているごろつきなんです。あ、あの路地は、あんたみたいな、綺麗な女の人が、ひとりで歩いちゃいけないところだよ」
やっと息も整ってきた。
激しかった息も整うくらいの長い時間、呂奇斗は、自分が彼女を見つめたままだったことを知った。
なにか、急に恥ずかしい思いに包まれる。
「あたしを助けてくれたのかい?」
彼女はそう言った。
ぶっきらぼうな物言いだが、それは彼女によく似合っていた。同時になぜか胸の痛みを感じた。
何歳くらいだろうか。
呂奇斗は十八だったが、自分よりも歳上だろうか?
すると、彼女がにっこりと微笑んだ。
ものすごく、きれいで爽やかぬ笑顔だった。
「うん」
呂奇斗はそう言って、自分がまだ、眼の前の女性の手首を握ったままだったことに気がついた。
慌ててその腕を離す。
いったいどれだけの長い時間、自分は手を握っていたのだろう。
恥ずかしさでかっと顔が熱くなった。
下を向いた呂奇斗の耳に、彼女がぷっと噴いた音が聞こえた。
なにかまごまごしているのを笑われたのだと思った――。
どうして、自分はいつも、こうなのだろう。
いざというときにあたふたしてしまう。
本当は、もっと格好よく助けたかったのだ。
「ご、ごめん……。笑うのは失礼だよね――。お礼を言うよ。あたしは孫空女だ。助けてくれてありがとう」
「い、いえ……」
孫空女というのだと思った。
呂奇斗が顔をあげると、彼女が呂奇斗の顔を見つめていた。
胸の痛みが大きくなる。
「さっきの煙玉はなに?」
孫空女が言った。
「あ、ああ。あれは、僕が作ったんだ。ちょっとした霊具で、地面に叩きつけると、さっきみたいに、煙で周囲一帯の視界を見えなくするんだ」
「あんた、道術遣いかい?」
孫空女が少しだけ驚いた顔をした。
「た、大した術遣いじゃないよ。遣える術なんてないんだよ。だけど、霊具だけは、なぜか作れるんだ。もっとも、それだって、つまらないものしか作れないけどね。さっきのだって、本当は爆発して敵を倒す目的で作ったんだ。だけど、できあがったのは、あんなに小さな爆発しかしなくて、それでいて、やたらに煙が出るものだったし……」
「いいじゃないか。お陰で助けられたんだ。あれが、爆発するものだったら、あたしも怪我をしていた。あの煙玉は役に立つ。立派なものだよ」
「あ、ありがとう」
嬉しかった。
孫空女が、呂奇斗のことを褒めたとき、踊るような気持ちを感じた。
「あんた、この辺の人?」
孫空女は言った。
「いや、隣町だよ。だけど、霊具の注文があるんで、よくこの城郭にも来るんだ。今日も注文の品物を届けた帰りだったんだ。もう、戻ろうとしていたんだけど、そしたら、あんたを見つけて……。なにか、たちのよくない男たちがつけているようだったら……」
「お陰で助かったよ」
「孫空女さんは、旅の人?」
呂奇斗は訊ねた。
なにも考えずに、あんな物騒な場所にひとりで行ってしまうのだ。
この城郭については、詳しくないのだろうと思った。
「そうだよ――。道術遣いの女主人に仕えて、南に向かって旅をしている途中だよ。ほかに、仲間が三人いる。みんな女だ。そう言えば、あんた名前は?」
「そうだった。僕は、呂奇斗っていうんだ」
呂奇斗は慌てて言った。
「じゃあ、呂奇斗、さっきは、ありがとう」
孫空女は手を振って、立ち去っていった。
なにか言わなきゃ……。
そう思った。
しかし、孫空女はどんどん歩き去ってしまう。
すぐに、孫空女の姿は小さくなった。
そして、角を曲がって消えた。
なにかが、呂奇斗の中で起こった。
このまま別れちゃいけない――。
異性に対してこんな想いを抱いたのは、生まれて初めてだ。
いつの間にか、さっきの男たちのように、孫空女を追いかけていた。
いた――。
彼女は、やっぱりなんの警戒もなしに、通りを歩いている。
孫空女の姿をもう一度見つけたとき、胸に痛みが走った。
そのまま、ずっと向こうを歩いている孫空女を眺めながら歩いた。
歩きながら、なんのために自分は、彼女を追いかけているのだろうと思った。
彼女は旅人だと言った。
さっき、一度、呂奇斗と出遭い、そして、もう、二度と遭うことのない女性だ。
再会することのない女性だ――。
そのことが、呂奇斗に締めつけるような苦しさを与えていた。
孫空女が、曲がった角を曲がった。
慌ててその角まで駆けていく。
その角から離れた先に三軒ほど並んだ宿屋がある。
孫空女が一軒の宿屋の前で立っていた――。
呂奇斗は、慌てて身を隠した。
かなり先だから、随分と人影は小さい。
だが、確かに、さっきの孫空女だ。
孫空女は、宿屋の前の長椅子に腰を降ろしている黒髪の女性となにかを話している。
なにを話しているのだろうか?
そういえば、女主人の供として旅をしていると語っていた。
あの黒髪の女性が、女主人だろうか。
遠目だが、雰囲気はそんな感じだ。
だが、黒髪の女性もまた若い。
孫空女とそれほど変わらないようにも思える。
それとも、彼女は、孫空女の仲間のひとりなのだろうか?
女主人のほかに、仲間も三人いると言っていた。
女主人というからには、やっぱり、もう少し年配の女性のような気がする。
そんなことを思っていた矢先、驚愕すべきことが向こうで起こった。
呂奇斗は、自分の眼を疑った。
長椅子に座っていた黒髪の女性が、突然、孫空女の股間を
孫空女の身体が、前に折れ曲がる。
前のめりに倒れかかる孫空女を、黒髪の女が股間を握る手で支えるように持ちあげている。
黒髪の女が孫空女になにをしているのかはわからなかったが、孫空女がどういう状態であるかは遠目でもわかった。
孫空女が口を開く。
なにかの声をあげている。
その声は聞こえなかったが、なにを口にしているのかはわかる。
それは、なにかを語っているわけじゃない。
ただ、声を出しているだけだ。
喘ぎ声だ――。
孫空女は、黒髪の女に理不尽にも股間を刺激されて、立っていられないくらいに悶えているのだ。
そんな目に遭っているのに、孫空女は黒髪の女の行為を避けようとはしていなかった。
ただ、倒れそうになる身体を支えるために、自分の股間に伸びている黒髪の女の腕を両手で掴んでいる。
孫空女が、喉を反りかえらせた。
黒髪の女がやっと孫空女の股間から手を離す。
その顔は嘲笑っているようだ。
黒髪の女が笑いながら手を離すと、孫空女は荷物を背負ったまま、その場にしゃがみ込んだ。
そんな孫空女を置き去りにして、黒髪の女が宿屋の中に引っ込んでいった。
少しのあいだ、孫空女はしゃがみ込んだままだった。
やがて、身体をだるそうにしながら立ちあがらせると、黒髪の女が消えた宿屋の中に入っていった。
呂奇斗は、しばらくのあいだ、ずっと立ち尽くしたままでいた。