見知らぬ女だ。
だが、まだ若く、ちょっと見ただけで忘れられなくなるような美女だった。
女にしては背が高い方だと思ったが、身体の線はとても女性らしく色っぽい。胸も大きい。
真っ赤な髪が鮮やかであり、杜穂は思わず唾を飲み込んだ。
男をひと目でその気にさせるような女だ……。
杜遷はそう思った。
「あんたの馬かい?」
杜遷がやって来ると、赤毛の美女が顔だけを向けて言った。
「杜遷だ。馬は俺のものだ。俺のものというよりは商品だな。全部、売り物だ」
杜遷は、馬商人だ。
ここにいる馬は、もっと郊外の山の中にある牧から買い取って連れてきたものだ。
あちこちの牧を回って、いい馬がいれば買い取り、この牧に一時的に集めておく。そして、定期的に城郭内で開かれる馬市で売りさばくということをしていた。
杜遷は、なんの取り柄もないが、馬を見る目だけはある。
固定客もつき、まあ、そこそこ儲かっている。
ただ、酒と女にだらしがないので、金持ちにはなれないが、人生を愉しく生きていくのに十分なものは手に入っている。
そんな生活をしていた。
「馬を買いたいんだ。ご主人様から、全部、あたしに任せると言われていてね。この中で売り手の決まっている馬はあるかい」
女は言った。
馬を……?
杜遷はちょっと驚いた。
馬は高価だ。
若い女がふらりとやって来て、余所行きの服の一枚でも買うような気軽さで贖うものではない。
それに、女が「ご主人様」と口にしたことも気になった。
ご主人様……。
そんな物言いは、分限者に仕える侍女の物言いだが、女はどう見ても、侍女という雰囲気ではない。
おそらく、旅人だろうし、身のこなしは、女といえども、それなりに腕がたちそうな雰囲気はある。
杜遷は、女が何者だろうかと思って、首を捻った。
そのとき、杜遷は、女が首や手首足首にしている赤い輪に、霊気が刻まれていることに気がついた。
つまりは、霊具だ。
霊具というは、道術師が霊気を込めて作った道具であり、そんなものを首輪にしているというのは、奴隷女なのではないかと思った。
この辺りには、奴隷というものはいないが、帝都では罪人や異国人、ときには、亜族などを捕らえて、霊具の首輪で逆らえないようにして、奴隷にすることがあると耳にしたことがある。
この女は、もしかして奴隷女なのではないだろうか……。
そんなことをふと思った。
「これは全部、明後日、城郭で開かれる馬市に連れていく予定だ。売り手はそのときに決まる」
「だったら、ここで一頭売ってくれないかい。金子は預かっているんだ」
女は言った。
杜遷は、それにしてもいい女だと思った。
いい女とあれば、抱いてみたくなる。
それが杜遷の病気のようなものだ。
突然にやって来たこの女は、かなりの上玉だ。
杜遷は、こんなに心が浮き立つ気持ちになったのは、久しぶりだ。
美人なだけじゃない。
この女は随分と色っぽい。
喋り方も粗野だし、仕草も男っぽいが、不思議な艶めかしさがある。
杜遷は興味を抱いた。
「な、なんだい。じろじろ見んなよ。あたしがどうかしたかい」
女が眉をひそめた。
杜遷があからさまに、女の身体に視線を送っているのがわかったようだ。
「売ってもいいが、名前を教えてくれるかい、美人の嬢ちゃん」
「孫空女だよ」
赤毛女が言った。
孫空女か……。
やはり、聞き覚えがない。
余所者であることに間違いない。
「金はあるのか。あんたに払えるかい?」
「十分に持っているさ。足りなければ、貰ってくる。ご主人様は、城郭の中の宿屋にいるのさ」
「ご主人様か……。あんたは、さしずめ、主人に連れられて旅をしている奴隷か?」
杜遷はかまをかけてみた。
奴隷女であれば、小遣い程度の金で簡単に抱けるだろう思ったのだ。
「奴隷?」
「その首輪だ。それは霊具だ。奴隷女は大抵、首に霊具を付けられて、自由を奪われる。お前もそうなんだろう?」
「あんたは、道術師かい?」
孫空女は表情を一変させて、目を大きく見開いた。
だが、その表情には怒ったというよりは、図星を突かれたことに対して、驚いたという感じだ。
「道術師なんかじゃないさ。そうなら、こんなけちな馬商人はしてねえ。まあ、だけど、昔からなぜか、霊気のこもったものには、鼻が利くのさ」
杜遷は言った。
本当のことだった。
道術とは、霊気という見えない力を動かす技であり、霊具とはあらかじめ術師が道具に霊気を込めて、不思議な効果を発生させるようにした道具のことだ。
だが、霊具を作れるのは、道術師でも、天教に属するような高度の術師のみであり、普通の人間には、霊気を感じることさえできない。
しかし、杜遷にはなぜか、それができた。
霊気のかかっている物は、なんとなくわかる。
もっとも、ただ、それだけのことであり、あまり、それで得をしたことはないが……。
「ふうん……」
孫空女は半信半疑の顔をしている。
とにかく、やっぱり、奴隷女のようだ。
杜遷は内心で狂喜した。
だったら、せっかくの女だ。
なにがなんでも抱いてやろう。
それにしても、どこの男主人なのかは知らないが、こんなにいい女を奴隷にするなど、羨ましい身分の男だ。
この孫空女の妙な色っぽさも、女として毎日抱かれていることから、自然と醸し出されるものだとわかった。
「奴隷……なのかな……? まあいいや……。奴隷だとしたら、馬は売れないのかい、あんた?」
孫空女が言った。
おかしな物言いだが、孫空女はあっさりと奴隷であることを認めた。
こりゃあ、いい……。
杜遷はにっこりと微笑んだ。
「奴隷でも馬は売れる。金子と交換でな。馬だけじゃない。馬具もつけるぞ。鞭もな。鞭は馬を躾けるために使う。奴隷女を躾けるときにも使うがな」
杜遷は白い歯を見せてやった。
だが、孫空女が気分を悪くしたような顔になる。
「つまんないことを言ってんじゃないよ。売ってくれるなら、あれをおくれ。あの白い馬だ」
孫空女が牧の中の一頭の馬を指さした。
杜遷は少し驚いた。
その白い馬は、確かに、ここにいる馬の中では、間違いなく一番いい馬だったからだ。
馬を見る目はあるようだ。
杜遷は思った。
「金両十枚だ。馬具もつける」
この程度の馬一頭の値段としては、ちょっと高額だ。
本来は、金両七枚で御の字だと思っている。
相場に上乗せしたのは、ちょっと思惑があるからだ。
孫空女はちょっと考える仕草になった。
明らかに、高いと考えている顔だ。
どうやら、馬の相場も承知している感じだ。
馬の価値がわかるなら、相場もわかるのだろう。
「まあいいさ。どうせ、あたしの金じゃないしね。金両十枚を渡すよ。証文を書いておくれ」
しかし、意外にも、孫空女はあっさりと承諾し、手にしていた袋をさっと差し出した。
だが、杜遷は、首を横に振った。
「まあ、待てよ、孫空女。そう慌てるもんじゃない。証文は渡すし、売上書も書く。だが、売上書には、金両十枚と書くものの、実際には七枚でいい。残りの三枚はお前がとっておけよ」
杜遷は言った。
「変なことを言うなあ、あんた」
すると、孫空女がきょとんとした顔になった。
*
「変なことを言うなあ、あんた」
孫空女は、首を傾げた。
杜遷は、馬を売るにあたって、金両十枚と書類には書くが、実際には七枚でいいと口にしたのだ。
孫空女には、なんのためにそんなことをするのか、意味がわからなかった。
「……金両七枚でいいなら、そう書類に書きなよ」
とりあえず、そう言った。
「わかっちゃ、いねえなあ」
杜遷は、にやにやしながら、首を横に振った。
なんだか、いやな感じだ。
いずれにしても、この男が孫空女を見る目は気に入らない。
目付きが、とてもいやらしいのだ。
孫空女は、自分が女として、ある程度見てくれがいいのは承知しているので、男に眺められるのは慣れているが、杜遷が孫空女に向ける視線は、眺めるというよりは、視姦という感じだ。
いまだって、孫空女の胸の膨らみから目を離さず、舐めるように凝視してくる。
「まあ、いいや。とにかく、小屋に来な」
杜遷が孫空女の右手首をぐいと掴んだ。
孫空女はかっとなった。
「手を離せよ」
ぶっ飛ばしてやろうかと思ったが、懸命に耐えて、それだけを言った。
宝玄仙には、馬を買って来いと命じられたのだ。
いま、こいつを殴れば、馬は手に入らない。
「悪い話じゃないはずだぜ。書類には俺が十枚の金両をもらったと書く。だが、受けとるのは七枚だ……。つまり……」
杜遷がすっと孫空女に寄ってくる。
孫空女は、杜遷を睨みつけた。
「手を離せってんのが、聞こえないのかよ、お前」
怒鳴りつけた。
さすがに、杜遷がびくりと身体をすくませて、手を離す。
「おっかねえ、姉ちゃんだなあ。俺は誠意を持って話しているつもりだぜ」
杜遷は、一瞬だけは恐怖に顔を歪めたが、すぐに、怒鳴られたのが不満そうな表情になった。
孫空女には、なんで杜遷がそんな強気の顔をしているのかわからない。
殴りたいのを我慢してやっているのはこっちだ。
孫空女こそ、杜遷の遠慮のない好色な目付きに腹がたっているのだ。
「……まあいいや……。ちょっと奴隷には難しくてわかんねえか……。わかるように話してやるから、小屋に来な。俺が寝泊まりている場所だ」
杜遷は大袈裟な素振りで肩を竦めると、顎で右を示した。
そっちには、杜遷が出てきた小屋がある。
「なんで、そっちに行かないとならないんだい。やだよ」
孫空女は言った。
しかし、杜遷は、また、嫌なにやにや笑いを顔に浮かべた。
「小屋に行かないでどうするんだよ。証文は小屋じゃないと作れないぜ」
杜遷が、からかうような口調で言った。
むっとした。
だが、言われてみれば、その通りなので、孫空女はそれ以上、なにも言うことができなくなった。
「わかったよ……。じゃあ、早くしておくれ」
孫空女は、杜遷についていった。
小屋の隣には納屋を兼ねた物置のような場所があったが、小屋そのものは、机と寝台があるだけの小さな場所だった。
部屋はたくさんの酒瓶が転がっていて散らかっている。
だが、なによりも、むっとするような悪臭がして、それが孫空女をいやな気分にさせた。
その匂いは、間違いなく、男女が抱き合ったときのものに違いなかった。
ふと見ると、寝台にもそれらしい染みがある。
「まあ、寝台にでも座ってくれよ。書類はすぐにできるさ」
杜遷は机に向かう椅子に腰掛けた。
孫空女は、宝玄仙から預かってきた袋を机の上に置いた。中はちょうど金両十枚だ。
杜遷が中身を確かめてから、口笛を吹いた。
「確かに、金両十枚だ。奴隷女のわりには、よくもこんな大金を預かってきたなあ」
「なら、証文を書きなよ」
孫空女は少し声を荒げてしまった。
杜遷は、金両を数えた後、机に向かう様子もなく、孫空女の方を向いたままだったからだ。
「まあ、急ぐなよ。それより、さっきの話の続きだ。金両が欲しくねえのか? いいから、座りな」
杜遷は言った。
孫空女は、どこにも座ることなく、壁に背をつけて立ったままでいたのだ。
あんな、寝台に座るなんて冗談じゃない。
それにしても、どうも、こいつの言っていることはわからない。金両十枚だが、七枚でいいとか、だが書類は十枚と書くとか、変な発言ばかりだ。
孫空女としては、もうどっちでもいい気分だ。
早く証文を書かせて、馬を連れて帰りたい。
そのとき、孫空女は、寝台の四隅に革紐があることに気がついた。
すると、杜遷がにやりと微笑んだ。
「俺は女を縛って抱くのが好きでな。今朝までここにいた娼婦も、その革紐で縛って、筆で延々とくすぐってやったんだ。泣き叫んだが、それなりにいい思いもさせた。それに、俺は縛らせれば、約束の代金にかなりの上乗せをしてやる。朝、帰った女も満足して去っていったぜ」
「つまんないことをべらべら、喋るんじゃないよ」
怒鳴った。
証文を書かせないと馬が手に入らないから、我慢しているのだが、本当にこいつは虫が好かない。
孫空女に対する視線は、本当に露骨なものになっていた。
こうなると、孫空女も、この杜遷が孫空女の身体を狙っているのは、気がつかざるを得なかった。
馬を売ってもらわないといけないということがなければ、とっくの昔に、蹴り飛ばしている。
「いいか、奴隷女──。よく考えろ。俺はお前が得になる話をしてるんだぜ……。たとえば、お前は幾らで奴隷になったんだ?」
そのとき、杜遷が不意にそう訊ねた。
「お前に関係ないだろ」
声をあげた。
もちろん、金で奴隷に売られたわけじゃないから、値段などないが、本当のことを説明するために、これ以上、この男と話をする気にはなれない。
だが、ますます杜遷がにやついた顔になった。
「まあいい。だったら、俺の言うことに従って、金両三枚を貰っておけ。ただし、主人には言うな。お前のものにして隠しておくんだ。金両三枚だぞ。もしかしたら、自分のことを買い戻せるかもしれねえぞ。もちろん、いまの主人がいるうちには難しいかもしれないが、金両は邪魔にはならん。いずれ、奴隷女のお前には絶対に役に立つ」
「はあっ? お前、なに言ってんだよ」
孫空女は吐き捨てた
馬鹿馬鹿しい……。
この帝国の奴隷制度は複雑だ。
金さえあれば、奴隷身分から開放されるわけじゃない。そもそも、奴隷が自分の財産を持つなどできないのだ。
どうやら、そんなことは知らないようだ。
だが、これでわかった。
この杜遷は、つまりは差額の金両三枚をやるから、孫空女を抱かせろと言っているのだ。
「いいから、座れって。一回寝るだけで、金両三枚なんて、あり得ねえぞ。ほら、これが、お前の取り分だ」
杜遷が袋から金両三枚を孫空女に向けて、机の隅に押しやった。
そして、立ちあがる。
さらに、孫空女の肩を抱いて、寝台に倒す仕草をする……。
「いたっ、痛いっ、いたたた……」
次の瞬間、杜遷が悲鳴をあげた。
孫空女が杜遷の片腕を掴んで、背中に捩りあげたのだ。
「触んじゃないよ。代金は十枚でいい。全部、持っていきな。だから、すぐに証文を書くんだ。それとも、腕をへし折られたいかい」
孫空女は、腕が折れるぎりぎりのところで留めて凄んだ。
杜遷が暴れるが、このくらいなら片手で抑えられる。
「わ、わかった。わかったよ。は、離してくれ。証文を書くから」
杜遷が泣き叫んだ。
孫空女は、手を離した。
「ち、畜生……。お、おっかねえ、女だ。おお、痛え……」
杜遷は自分の腕を擦りながら、机に向かう。
紙を出して、筆で書類を作り始める。
孫空女は、じっとそれを見張った。
やがて、二枚の書類ができあがった。
「ほらよ」
杜遷が不機嫌そうに、二枚の書類をかざす。
多分、どっちかが証文で、どっちかが売上げ書なのだろう。
だが、孫空女は困ってしまった。
孫空女は字が読めないのだ。
すると、孫空女の困惑顔で悟ったのか、杜遷がにやりと笑った。
「もしかして、お前、字が読めねえのか? 呆れたな。お前の主人は、字の読めねえ奴隷を証文を交わす必要があるような使いに出すのかい」
杜遷が笑いかけたが、孫空女が睨みつけると、顔を蒼くして黙り込んだ。
孫空女は書類をとりあげて、準備していた油紙に挟んで、布袋に入れて肩にかける。
そのとき、突然にばたんと馬小屋の扉が外から開いた。
孫空女が視線を向けると、屈強そうな男がふたり、そこに立っていた。
「おや、
杜遷が転椅子から立ちあがった。
すると、さらに男が現われた。
年齢は三十すぎくらいだろうか。
随分と身なりがいい。
腰にさげる剣や首にかけている装飾具も、一見して高価だとわかる立派なものだ。
先に入ってきたふたりは、この男の護衛だろう。
そして、孫空女は、さらに外には十名ほどの男たちがいることにも気がついた。
「こ、これは、
杜遷は転がるように進み出た。
陽明崔と呼んだ身なりのいい男に向かって、深々と頭をさげる。
「お前のところに、ほかに用事などあるか──。馬を購いに来てやったのだ」
陽明崔が言った。
「へっ、馬が?」
杜遷はぺこぺこしている。
その態度から考えて、余程に身分の高い相手に違いない。
おそらく、貴族だろう。
孫空女は、杜遷が片膝をついて跪いたのに合わせて、両脚を床につけた。
沙那から、八仙の宝玄仙の供をすることになった以上、最小限の礼儀作法は必要だと言われて、覚えたのだ。
貴族に際しては、平民の男は片脚をついて、女は両膝を地面につける。
それが礼なのだそうだ。
「うむ。父上の生誕の宴の催し物として馬合わせをするのだが、どうしても一頭白馬が足りなくてな。あちこち、捜しまわっていたのだが、お前のところにも、白馬があると耳にしたのだ。すると、牧に、確かに白馬がいるではないか。ちょうどいいから、貰っていくぞ。値段は言い値でよい。ただし、吹っ掛けすぎるなよ」
陽明崔が笑った。
随分と親しそうだ。
だが、牧にいた白馬というには、おそらくたったいま証文を書いてもらった馬のことだろう。
外の牧にいた白馬といえば、一頭だけだった。
「だ、駄目だよ。あの白馬は、あたしがいま買ったんだ。あれは、もうあたしのご主人様のものだよ」
孫空女は慌てて言った。
陽明崔は、初めて孫空女の存在に気がついたような表情で、こっちに視線を向ける。
「なんだ、お前?」
陽明崔の隣にいるふたりの部下のうち、ひとりが声を荒げて怒鳴った。
だが、陽明崔がそれを手で制す。
「お前のものとはどういう意味だ、女? この牧にいるのは、そこにいる馬商人の杜遷のものだぞ。こいつは、だらしのない男だが、馬を見る目だけはあってな、陽明家の馬も、かなり杜遷から仕入れている」
陽明崔は、「陽明家」という言葉に、いやに力を込めて言った。
だが、もちろん、陽明家など知らない。
「知らないよ。たったいま、あたしが買ったんだ。ほら、これが証文だ」
孫空女は、袋からさっきの書類を出して示した。
どっちが証文で、どっちが売上げ書なのかはわからないので、両方出した。
陽明崔は、眉をひそめた。
「本当か?」
陽明崔が杜遷を睨む。
「ま、まあ、確かに、そういうわけなんですが……」
杜遷が困ったように言った。
陽明崔は嘆息した。
「仕方あるまい。じゃあ、お前から買ってやる。いくらで売ったのだ、杜遷?」
陽明崔が杜遷に訊ねた。
「き、金両十枚です」
杜遷が頭をさげる。
陽明崔はくすりと笑った。
「吹っ掛けたもんだな。まあいい。じゃあ、女、金両十五枚で俺が買い直す。父上の生誕の宴で披露するのに必要なのだ。馬の色を揃える演出なのだが、どうしても白馬が足りなくてな……。おいっ」
陽明崔が横の部下に声をかけた。
その部下が、持っていた袋から金料を何枚か抜いて、数え直してから孫空女の前にぽんと投げた。
どさりという音がした。
「これで、よいな。じゃあ、貰っていくぞ」
陽明崔が外に出ていく。
孫空女はびっくりして、後を追って小屋の外に出た。
そして、陽明崔の前に立ちはだかる。
「無礼な。なんのつもりだ──?」
「女、なんだ?」
すぐに両側の男たちが、さっと孫空女と陽明崔のあいだに入る。
しかも、ふたりとも、すでに腰の剣に手をかけている。
「あれは、あたしが買った馬だと言っただろう。勝手に決めんじゃないよ。あれは、ご主人様に命令されて、あたしが買った馬だ。宿屋にこのまま連れて帰る。売らないよ──」
孫空女は怒鳴った。
「金両を十五枚渡したぞ。まだ、不足なのか?」
部下の後ろの陽明崔が言った。
「値の問題じゃないよ。売らないと言っただろう。あれは、この牧で一番の馬だ。あたしは、一番いい馬をご主人様に届けるんだ」
孫空女は声をあげた。
「ご主人様?」
陽明崔は首を傾げた。
「……城郭に泊まっている旅の者の奴隷女のようです……。ご主人様というのは、こいつの主人らしくて……」
追いかけてきた杜遷が陽明崔に耳打ちするように言った。
陽明崔が、改めて孫空女を見る。
「俺はどうしても白馬がいる。俺に譲れ、女奴隷」
陽明崔は言った。
内容はともかく、口調は完全な命令調だった。態度も威圧的だ。
孫空女は、むっとした。
「売らないと言ったら、売らないよ。じゃあ、あたしは行くからね」
孫空女は、馬の柵を乗り越えて、買った白馬を連れていこうと思った。
だが、いきなり、ぐいと肩を掴まれた。
「どこに行くか。崔様の話は終わっておらんぞ」
護衛のひとりのようだ。
「なにすんだい」
孫空女はそいつの腕を掴んで、地面に投げ飛ばした。
「うわっ」
そいつが地面に叩きつけられて倒れる。
「こいつ──」
「女だが、なかなかやるぞ」
「なにをするか、お前は──」
陽明崔の周りには、十名ほどの部下がいたが、そいらが色めきだって、一斉に剣を抜いた。
孫空女も耳から、如意棒を出す。
「伸びろ──」
如意棒を身長程の長さにする。
一番、戦いやすい長さだ。
「うわっ」
「霊具遣いだ」
「気をつけろ」
陽明崔の部下たちが斬りかかってきた。
孫空女は、如意棒を一閃させた。
それで、数名がまとめて倒れる。
さらに、突っかかって来たのを如意棒の先で、軽く腹を突いて倒し、後ろから斬りつけてきたのを弾き飛ばす。
あっという間に、向こうで立ってるのが半分になる。
すると、明らかに残りの男たちがひるんだ。
「まだ、やんのかい?」
孫空女はすかさず怒鳴った。
「やめよっ」
陽明崔の声がした。
男たちが一斉にとまった。
それ以上は、孫空女にかかって来なくなったのを確かめてから、孫空女は如意棒を小さくして耳に隠した。
「霊具遣い……。つまり、道術師なのか?」
陽明崔が孫空女に近づいてきた。
「そんなんじゃないよ。ただ、この如意棒だけは遣えるのさ。それよりも、もう部下をけしかけるのはやめな。あんたの部下が束になってかかってきても、あたしにはかなわないよ」
孫空女は陽明崔に言った。
「そのようだ。俺の部下が突然に乱暴したのがきっかけだったな。失礼した。名を教えてくれるか?」
陽明崔は苦笑はしているが、それほどに腹をたてているという感じではなかった。
一方で、孫空女に倒された部下たちが、逐次に身体を起こし始める。
手加減をしたから、骨は折れてはいないと思うが、何人かは上体を起こしただけで、地面に座ったままでいる。また、まだ元気な者は、陽明崔と距離を縮めて語り合い始めた孫空女を警戒するように、そばに来る。
「孫空女だよ」
それだけを言った。
「おい、この方は、県令のご子息の陽明崔だぞ。さっきから、失礼な態度をとるな、孫空女」
孫空女と陽明崔の部下が争い始めたのを驚愕して眺めていた杜遷が、寄ってきて怒鳴った。
「県令?」
孫空女は驚いた。
県令といえば、宝玄仙たちが待っている伊府の城郭で一番偉い男だ。
その息子ということだから、かなりの影響力を持っていると思っていい。
杜遷がぺこぺことしている理由がわかった。
「まあいい……。わかった。どうあっても、あの白馬は売らんというのだな、孫空女」
陽明崔が言った。
「売らないよ」
きっぱりと言った。
すると、陽明崔が大きく頷いた。
「……わかった。じゃあ、ここは引きさがろう。ところで、すごい腕だったな。こいつらは、俺の部下たちの中でも、特に力のある者たちだったのだ。それが子ども扱いだ。お前は強いな、孫空女」
陽明崔がにっこりと笑った。
「まあね」
孫空女は肩を竦めた。
なんと返していいかわからなかったのだ。
だが、なんとなく、納得してくれたようで、よかった。
県令の息子だというが、いい人のようだ。
ほっとした。
「ところで、実は、白馬を見つけたら、そのまま連れ帰ろうと思っていたので、馬具を準備していた。素晴らしい武術の腕を見せてくれたお前に、これをやろう。あの白馬とともに、持っていくがいい」
陽明崔が突如として言った。
ふと見ると、柵に馬具がかけてある。
一見して高級品だ。
孫空女は驚いて首を横に振った。
「い、いいよ。こんなのをもらう理由がないよ」
「いや、理由はある。これは、口止め料だ。この陽明崔の部下が十人以上かかって、ひとりの女に倒されたと知られては、いろいろと支障があるのでな。いまあったことは、誰にも言わないで欲しい。その代わりに、その馬具をやる」
「で、でも……」
黙っているということに異存はないが、随分といい馬具なので、まだ躊躇している。
こんなものをもらってもいいのだろうか……?
「馬を買ったら、一緒にもらったと言え。それに、お前の主人が乗るのだろう? いい馬具だと、乗り心地も違う。お前の主人は喜ぶはずだ」
陽明崔が言った。
確かに、そうだと思った。
馬があれば、歩かなくてもいいから楽になるが、確かに鞍がよければ、長く乗っていても疲れない。孫空女は、宝玄仙のために、この馬具を持っていってあげたくなってきた。
「わかった。じゃあ、貰う。その代わり、誰にも言わないよ」
「それでいい」
陽明崔がにっこりと微笑んだ。
*
孫空女が去っていくと、にこやかだった陽明崔の形相が一変した。
顔に怒りが込みあがっている。
陽明崔の気性を知っている杜遷は、孫空女の前で機嫌がよさそうだった陽明崔が、実のところ、かなり、腹を立てているだろうと思っていた。
やはり、そうだったようだ。
どんなことがあっても、柔和そうな顔を崩さないのが陽明崔の武器だが、実は本当に恐ろしい男である。
杜遷は、それを十分に知っている。
「なんという生意気な女だ──。確か、主人と一緒に旅をしている奴隷女だと言ったな、杜遷?」
陽明崔が杜遷を見た。
杜遷は、そのようだと答えた。
残念ながら、それ以上は知らない。
主人はどういう者なのかと訊ねられたので、まったくわかないと答えた。
陽明崔は舌打ちした。
「まあいい。だったら、どこに泊まっている奴隷女か、突きとめて来い、杜遷。お前が売った馬だ。それが繋いである宿屋を探せばいい。難しい仕事ではないはずだ。見つけらた、すぐに俺の屋敷に報告に来い」
「そ、そりゃあ……。でも、なにをするので?」
杜遷は呆気にとられた。
「知れたことだ。この伊府の城郭で、陽明家に逆らう者をただで済ますわけにはいかんだろう。こいつらが、もう少し、しっかりとしていれば、とりあえず、逃がすような面倒なことをしなくてもよかったが、あれは本当に強い。おそらく、どうあっても、この場で捕らえることはできんかっただろう。おまけに霊具遣いともなればな。道術を封じる拘束具もいる。しっかりとした軍に捕らえさせる」
陽明崔が吐き捨てた。
杜遷は、にんまりとしてしまった。
「つまりは、あの孫空女を逮捕するのですね? だったら、あっしにも、いい目をさせてもらえませんか? 俺も小屋の中で腕を折られかけたんですよ。まだ、痛いくらいで」
杜遷は、孫空女に捻じ曲げられた腕を陽明崔に差し出しなら言った。
実のところ、杜遷は陽明崔とは懇意だ。
表立っては動きにくい陽明崔のために、影で動いて邪魔な相手を罠に嵌めたり、襲ったりするという仕事をしている。
陽明崔は、そうやって裏で動く者を幾人か抱えているが、杜遷はそのひとりだ。
「お前のことだから、あの孫空女に言い寄ろうとしたのだろう。それで腕を捻じ曲げられたか?」
図星を突かれて、杜遷は顔を赤くした。
陽明崔が声をあげて笑った。
「……まあいい。あの孫空女を捕らえた後、牢に入れる前に、その機会をやろう。確かに、いい女ではあったな。すぐに罪人として処刑させてしまうのは惜しい。先に陽明家の別宅で弄んでから、営牢送りにするか」
「そう来なくっちゃ」
杜遷は手を叩いた。
あからさまに悦ぶ杜遷に、陽明崔が苦笑を浮かべた。
「じゃあ、必ず、居場所を突きとめて来いよ、杜遷」
「もちろんです」
杜遷は言った。
伊府は大陸街道沿いにある城郭なので宿屋は多いが、それでも白馬を探すのは、手の折れる仕事ではない。
白馬を見つけたら、宿屋の小僧にでも小遣いを渡せば、孫空女の居場所はすぐにわかるはずだ。
杜遷は、さっそく城郭に向かうために、馬を一頭引き出して、城郭の向かう支度を開始した。
※:1里=1km。1里=100間、1間=10m=10歩、1歩=1m