「まあ、そのうち県令が慌ててやってくるさ。こんな地方城郭の県令程度じゃあ、八仙であるわたしに手出しして、天教の権威に歯向かう根性はないよ。これでも、天教の最高幹部だからね」
石床に直接に座り込んでいる宝玄仙が、営牢の石壁にもたれかかりながら言った。
薄暗い営牢の中だ。
宿屋の前で檻車に入れられた沙那と宝玄仙は、そのまま軍営らしき場所に連れていかれて、この軍営に放り込まれた。
沙那は武器は奪われたが、宝玄仙については、隠し持っている武器がないか調べられただけで、特に道術を防ぐような処置はされていない。もしかしたら、宝玄仙が道術使いであることに、思いが至らなかったのかもしれない。
こんな地方城郭では、宝玄仙のような本格的な道士は珍しい存在だ。
無理もない。
また、ふたりとも拘束もなしだ。
捕縛の狙いが孫空女であり、沙那と宝玄仙は単なる連れだと考えられたために、このような緩い処置になっているのかもしれないが、いずれにしても、宝玄仙は気楽そうにしている。
営牢に入れられたというのに、少しも慌てる様子はない。
だが、沙那は、ここにはいない孫空女のことを思うと、気が気じゃない。
「また、そんな呑気そうに……」
沙那は不満を漏らした。
「……わかってないねえ……。わたしに危害を加えるということは、天教に刃向かうのも同じなんだよ……。それに、実のところ、ここの天教の神殿長をしている禿はわたしと懇意でね……。面倒だから知らんぷりをしていたけど、問い合わせれば、わたしが何者かはすぐに教えるさ。問題はないよ……。今頃、県令は、間違って、八仙であるわたしを捕縛してしまったことに蒼くなっているさ」
「でも、孫空女は、絶対にわたしたちとは別の場所に連れていかれましたよ。それは間違いありませんから……。わたしは後ろからついてきていたもう一輌の檻車が途中で、どこかに曲がっていくのを小窓から見てました。あれは城門の方でした。孫空女は、この軍営とはまったく別の場所に連れていかれたと思います」
沙那は宝玄仙に言った。
すると、さすがに宝玄仙も困った顔になった。
「だけど、なんで別の場所に行くのさ? 取り調べは軍営だろう。どうして、孫空女が城門の外に檻車で連れ出される道理があるんだい?」
「そんなこと、わたしにわかるわけないですよ、ご主人様。でも、孫空女を乗せた馬車は、間違いなく別の場所に向かいました。それだけは確かです」
沙那はきっぱりと言った。
孫空女が、なぜ沙那たちとはまったく別方向に連れていかれたのかわからない。
だが、とても嫌な予感がする。
やっと宝玄仙も困惑した表情になった。
「……お前、なにか感じるかい?」
宝玄仙が反対側の壁側にいる沙那に視線を向ける。
沙那と孫空女は、宝玄仙の刻んだ内丹印の影響により、お互いに快楽が共鳴し合うようになっている。
しかし、沙那にはなにも感じない。
黙って首を横に振った。
「まあ、快楽の共鳴で伝え合うのは、純粋な快感だけだからねえ……。拷問の痛みは別か……」
宝玄仙が口の中でぶつぶつと言った。
もしも、孫空女が取り調べの兵から、ここで性的虐待を受け入ていたりすれば、それは共鳴を通じて沙那に伝わる。
しかし、いまはなにも感じない。
だが、共鳴で伝えるのは快感だけなので、拷問で孫空女が苦痛を覚えても、それが共鳴で沙那に伝わることはない。
また、快楽の共鳴は、お互いの距離が離れすぎても、まったく影響がなくなってしまう。
もしも、孫空女が沙那の予想通りに、城門の外に連れ出されたとすれば、やはり、共鳴はなにも沙那に伝えないだろう。
とにかく、沙那の身体には、孫空女が近くにいることを示す感覚の伝達はなにもない。
「ご主人様が、大人しく捕まれなんて命じるから……。孫空女だったら、あんな兵くらい蹴散らせたんです」
沙那は文句を言った。
宝玄仙がびっくりした表情になった。
「お前、時々、過激なことを言うねえ……。あんなところで、城郭軍相手に暴れたりしたら、それこそ、手配されて、国境も抜けれなくなるじゃないかい」
「手配されたところで、国境くらい抜けれますよ……。とにかく、わたしは、孫空女が心配なんです。この壁、ご主人様の道術でぶち抜けませんか?」
沙那は訊ねた。
宝玄仙が目を丸くした。
「そんなことができるわけないだろう。わたしにできるのは、この牢内を結界で包んで、力場を支配することくらいだ。それはもうやっている。そもそも、ここは軍営だろう? 牢破りしても、城郭軍の中心に出るだけじゃないかい……。とにかく、冷静になりな、沙那……。お前らしくない」
「だ、だって……」
沙那は声をあげた。
こうしているあいだにも、孫空女がどんな目に遭わされているのか心配なのだ。
あるいは、手遅れになるということも考えられる。
そのとき、急に営牢の外から、慌ただしい気配が伝わって来た。
大勢の人間がやって来る物音がする。
「おいでなすったよ」
宝玄仙がにやりと微笑んだ。
沙那は、さっと宝玄仙の方向に移動して、横に立って宝玄仙を守る態勢を作る。
扉がばんと開かれた。
軍装をしている男たちをはじめ、役人らしき者たちが、その場に土下座をしていた。
その中心に県令の装束を身に着けている初老の男がいることに、沙那は気がついた。
「こ、このたびは……」
その男が口を開いたが、すぐに宝玄仙がそれを遮った。
「県令の
いつもとは異なる宝玄仙の言葉遣いに、横に立っている沙那は少しだけ戸惑った。
「はっ、陽明徳です。知らぬこととはいえ、なんと申し開きをすればよいか……」
県令の陽明徳は、営牢の外で平伏したまま言った。
当然だ。
この帝国で生まれ育った沙那は、天教という教団がどれだけの権威を持っているかということは、肌で知っている。
天教に逆らう者は、この帝国では生きてはいけない。
それは、大貴族でも同じだ。
ましてや、こんな地方城郭の県令程度では、その天教の最高権威である八仙のひとりである宝玄仙の存在は、殿上人にも等しいだろう。
陽明徳からは、宝玄仙に対する心からの怯えが伝わってくる。
改めて思うが、この変態巫女は、やっぱり、それなりの権威の持ち主なのだ。
「わしは宝玄仙だぞ」
宝玄仙が一喝した。
陽明徳の身体がびくりと震えた。
「は、はっ」
「天教最高権威の八仙のひとりにして、三蔵の異名も持つこの宝玄仙に危害を加えるということは、天教に害をなす者も同じじゃ。八仙の名において、お前を天教の“天敵”と宣することもできる。わかっておろうな──」
宝玄仙が怒鳴った。
天教による「天敵宣言」は、この帝国における死刑宣告も同じだ。
その者を誰が殺しても、この国では咎める者はいない。
帝国の法よりも、天教の教義が優先する。
それは、この帝国の民衆であれば、身体に染み着いている価値観だ。
天敵宣言をされてしまった相手を積極的に殺すことは、天教教徒である証になる。
それが天敵宣言だ。
「も、申しわけございません。は、八仙様ほどのお方が、この城郭にお忍びでやって来ているとは夢にも思わず……」
「言い訳はよい。ならば、わしの供が馬を盗んだなどというたわ言の嫌疑は晴れたのであろうな?」
「無論でございます。そもそも、このことは、
「だが、たかだが馬商人の言い分を信じて、八仙たるわしらの物言いを無視して、馬商人を信じたのじゃな。こっちには、証文もあるのに」
宝玄仙が皮肉を言った。
「な、なぜ、このようなことが起こったのか……。と、とにかく、杜遷は責任をもって捕らえ、天教の八仙に危害を加えようとした極悪人として処刑いたしますことになりましょう……」
陽明徳が顔をあげてきっぱりと言った。
杜遷という馬商人に、罪を全部被せて、あとは素知らぬふりをするつもりだろうと悟ったが、沙那は黙っていた。
孫空女が無事に戻って来れば、文句はない。
「……まあよい。なにかの間違いであるというのであれば、それでよい。それよりも、もうひとりの供を早く連れて来い。これでも目的のある巡礼の旅じゃ。すぐに出立する」
「そ、それが……」
すると、陽明徳が困ったような顔になった。
沙那は、なにかを隠すような陽明徳の態度を訝しんだ。
そのとき、宝玄仙がすっくとその場に立ちあがった。
沙那は横目で宝玄仙を見る。
驚いたことに、宝玄仙が激怒の表情をしていた。
「なんじゃ、陽明徳──。まさか、わしの供をすでに害したわけじゃないであろうな──。ならば、どうするか見ておれ──。天敵宣言をするまでもない。このわし手ずからお前を八つ裂きにしてやる。八仙たる宝玄仙を舐めるな──」
宝玄仙が怒鳴りあげた。
見たことのもないような宝玄仙の怒りの姿だ。
沙那は横で目を丸くした。
「ひいっ──。い、いま、捜させております。だ、だが、何分にも連絡が取れず……」
陽明徳が再び頭を床につけた。
宝玄仙が大きく一度足を踏み鳴らした。
「捜すとはどういう意味じゃ──。わしの供をどこに連れていきおったか──」
それとともに、営牢の中に突如として炎が噴きあがった。
だが、まったく熱くはない。
どうやら、結界を利用した宝玄仙の幻術のようだ。
しかし、目の前で宝玄仙の道術を目の当たりにした陽明徳をはじめとした者たちは、その場で悲鳴をあげた。
「べ、別の場所で取り調べを……」
「なんでじゃ?」
宝玄仙の大声に陽明徳がびくりとした。
だが、沙那はそのとき、やっと違和感を覚えた。
この県令は、態度ほどには、それほどに怖がってはいない……?
むしろ、宝玄仙にすっかりと呑まれているふりをしているだけで、実際にはこの場をしたたかに、凌ごうと企てている……?
そんな風に思ったのだ。
もしかして、なにかを隠しているか、誰かを庇おうとしている……?
陽明徳の態度から思いつくのはそれくらいだが、沙那には、こうまでして、県令の陽明徳が庇おうとしているその相手を思いつかない。
「そ、それゆえに、手違いと……。と、ともかく、なにか起きたときには、陽明家の全財産をもって、女奴隷の償いをいたしますので……。それで……それで……平にご容赦を……」
陽明徳が床に額を擦りつけたまま言った。
奴隷?
孫空女のことに対して、おかしな言い方をするものだと思ったが、それではっとした。
そういえば、昨夜馬商人のところから戻ったとき、孫空女が自分の身分が奴隷なのかと宝玄仙に訊ねたのを思い出した。
宝玄仙は、いつものように鼻であしらったが、おそらく、馬商人の杜遷とかいう男のところで、孫空女が奴隷であるというようなやり取りがあったのでは……?
だから、陽明徳は孫空女を奴隷だと口にした?
さらに、孫空女は、杜遷のところで騒動を起こしたが、その相手が陽明徳の息子とだとか言っていたっけ……。
沙那ははっとした。
そのとき、横で宝玄仙が不快そうな声をあげた。
「奴隷? 貴様、よりにもよって、わしの供を奴隷と称したか──?」
宝玄仙が叫んだ。
その迫力は、沙那でも竦みあがるほどだ。
だが、いまはそれよりも、沙那は自分の推量に恐れおののいた。
もしも、沙那の勘が当たっていれば、いま、孫空女はかなり危険な状況だ。
「ご主人様、孫空女が危険です。おそらく、この県令は、孫空女を殺せと命じたかもしれません。この騒動の張本人は、県令の息子の
沙那はわざと声に出して言った。
確証のない当て推量だったが、それが当たっていることは、沙那の言葉に対する陽明徳の反応の十分だ。
沙那は恐怖に襲われた。
宝玄仙も顔色を変えている。
「陽明徳──。いまの沙那の言葉は本当だな? 死人に口なしというわけか──? それで、奴隷の対価を金子で償うなどと訳のわからんことを申したのだな──。だが、そうはいかんぞ。そもそも、わしの供を奴隷と言ったが、なにか勘違いをしておるな。八仙のわしが、奴隷を供にするわけがないであろう」
「あっ」
陽明徳がはっとした声をあげた。
「言うに事欠き、わしの供を奴隷呼ばわりとは、それだけで、天教に対する許されざる罪ぞ、陽明徳」
陽明徳の顔色が真っ白になった。
宝玄仙がさらに言葉を続ける。
「……お前が奴隷と呼んだ孫空女は、わしの供となるために出家して、戒名は
陽明徳が宝玄仙の権幕にひっくり返った。
だが、すぐに起きあがって、なにかを取り巻きのひとりにささやく。
その男が脱兎のごとく駆けていく。
「ひ、平に……平に、ご容赦を……。す、すぐに居場所を探します。と、とにかく、もっとくつろげる場所を準備しておりますので、そこにご移動を……」
陽明徳が再び床に頭をつける。
沙那は、やはり、この県令は気に入らない。
絶対に、孫空女の居場所を知っているに決まっている。
さっきの男はそこに向かったに違いない。
「ご主人様、わたしが孫空女のところに行きます」
沙那はきっぱりと言った。
宝玄仙が驚いた顔になった。
「だ、だが、どこに? 孫空女の居場所はまだわからんのだぞ」
当惑した表情の宝玄仙の前に沙那は進み出る。
陽明徳の前に立つ。
「あなたと腹の読み合いはごめんです。孫空女……いえ、孫玉蔡の居場所を言いなさい、県令殿──。孫空女を連れていったのは軍です。軍の動きをあなたが知らぬわけがありません」
「ほ、本当に確認できんのだ……」
陽明徳が不貞腐れたように言った。
沙那は、陽明徳の襟首を両手で掴むと、営牢の中に引き摺り込む。
その場にいた全員が沙那の乱暴な行為に驚愕の声をあげた。
「ご主人様、こいつを締めあげてください。息子を守りたいから、のらりくらりと惚けているだけです。絶対に、こいつは、孫空女の居場所を知っています」
沙那が県令に暴力を振るったことで、県令の部下たちが色めきだったが、沙那が睨みつけると、それで大人しくなった。
「なるほど……」
宝玄仙がすっと手をあげた。
営牢の中は宝玄仙が結界を刻んでいる。
この場の力場を支配している宝玄仙が、県令の身体を宙に浮かべた。
営牢の外で悲鳴があがる。
「さっさと言え、陽明徳……。わしの道術による拷問は、自白剤よりも効くぞ。全身の骨を一本ずつ砕いてやるからな。それでも知らんというなら、思い出すまで痛めつけるまでじゃ」
宝玄仙が脅迫した。
陽明徳の顔が苦痛に曲がる。
やっと、その陽明徳が、城外にある楊家の別宅の場所を口にした。
楊家の別宅というよりは、息子の陽明崔の別宅のようだ。
「行きます」
沙那は営牢を出ようとした。
宝玄仙がそれを留めた。
「待て、沙那──。陽明徳、わしらが買った馬と馬具は、一緒に軍営に連れてきているか?」
宝玄仙が陽明徳の身体を宙に浮かべたまま言った。
陽明徳は、この軍営の外に証拠として繋がれているはずだと、呻き声とともに言った。
「ならば、沙那、それに乗っていきな──。あの馬具は誰でも使えるように細工をしてある。風のように走るはずだ。それから、馬のところで少し待つんだ。逸るだろうが、この男にもう一仕事させる」
「わかりました。さあ、あなたたちは、わたしを馬のところに案内しなさい」
沙那は後ろにいた兵たちに叫んだ。