191 優しき女薬師
山の緑が濃い季節になった。
城郭の中心にあるこの橋は、旅人の往来が多い。
この城郭は、女人国を南北に縦断する大きな街道沿いにある。
従って、この付近にすんでいる女や旅の者の多くが橋を渡っていくのだ。
琵琶子は、この橋のたもとにむしろを敷き、薬を売っていた。
生業は旅の薬師だ。
旅をしながら薬草を求め、そして、それを薬にして売り、路銀が貯まれば、また旅をする――。
そうやって生きている。
だが、今日の朝からじっとむしろに座っているが、まだひとりの客も来ない。
売る薬が悪いのではない。
祖母の代から受け継いだ薬師の技は、自慢ではないがこの女人国でも一、二を争うものだと自負している。
ただ、薬のことだ。
信用のない見も知らずの旅の女から求めた薬を飲もうという者は少ない。
それに、琵琶子はまだ二十歳だ。
薬師としては見た目が若すぎた。だから売れないだけだ。
もっとも、琵琶子には焦ったものはない。
琵琶子の薬は、飲めば驚くほど効く。
だから、最初に誰か薬を買いさえすれば、その買った客がその怖ろしいほどの効き目を喧伝してくれる。
その評判でまた新しい客が集まり、彼女たちがまた琵琶子の薬の効果を広め、そして、さらに客がやって来る。
そうやって、琵琶子の薬が大評判となり、旅を再開する路銀が集まる。そういうことになるはずだ。
従って、やってきたばかりのこの城郭では、まだ、琵琶子の薬の評判は広まるところまではいっていないだけなのだ。
いまは、琵琶子の座るむしろに拡げた薬に眼を止める者はいないが、これがあと十日もすれば、かなりの客が琵琶子の前に集まることになるのは間違いない。
琵琶子は、橋のたもとに座ったまま、大勢の通行人に眼を配っていた。そして、ふと、その中のひとりのきれいな女に眼がとまった。
年齢は琵琶子と同じくらいだろう。
だが、ごつごつとした肌と大柄で日に焼けた肌の琵琶子には及びもつかない美しい肌の美女だ。
武道着を身に着け、腰にベルトを巻き、そこに細剣を差している。
そして、背に大きな籠を背負い、食料を入れている。
旅の女に間違いない。
おそらく、城郭で旅に必要なものを調達して戻るところだろう。
だが顔が蒼白い。
どことなく足元がおかしく、苦しそうだ。
顔には脂汗のようなものが浮かんでいる。琵琶子には、その理由がすぐわかった。
「ちょっと、おめえ──。そこの細剣を帯びた女の人──。んだ、おめえさんだ。ちょっと、こっちにけれ」
最初は自分が呼ばれたことにも気がつかなかったようだが、琵琶子が何度か声をかけたので、しばらくしてから、その女は琵琶子の座る場所の前までやってきた。
やはり、そうだ──。
間違いない。
その女の腰から漂う微かな匂いが、琵琶子の勘が正しいことを物語っていた。
「それを飲むといいだ。まあ、宣伝代わりだ。ただでいいだ──。その代わり、薬が効いたら、この琵琶子の薬はよく効くと、旅先でもいいから機会があれば喧伝してけれ。それでええから……」
「薬……?」
女はむしろに胡坐で座っている琵琶子の視線に合わせるためにしゃがみ込もうとしたが、途中で顔をしかめてやめた。
そして、立ったまま、琵琶子をいぶかしげに視線を送っている。
「腹を壊しているんだろう? それも、少しばかり、漏らしているみてえじゃないか。これを飲めばてきめんだ。すぐに効いて楽になるから……。騙されたと思って飲めや」
琵琶子は、声をひそめてその女だけに聞こえるような声で囁いた。
漏らしていることを指摘されたら、さすがにその女も恥ずかしいと思ったからだ。
だが、余程に腹が痛いのは、琵琶子にはすぐにわかった。
腹を下したまま、どこからどこに行くのかは知らないけど、耐えられなくて、ほんの少しもらしたに違いない。
その匂いが敏感な琵琶子の鼻に漂っている。
すると女が真っ赤な顔をした。
「ど、どうして、それを……」
女が引きつったような表情になった。
「わかるんだ。おらには、大抵の身体の不調はひと目でわかる。おめえさんが、どこに行くのか知らねっけど、そんなに腹を下しちゃままじゃあ、苦しいだろう? ここで飲んでいきな。四半刻の半分もすればすっかり効くはずだ。嘘だと思って、試してけれ」
女はほんの少しの間、迷っていたみたいだけど、やがて首を横に振った。
「心遣いは嬉しいんだけど……」
女のその言葉を琵琶子は遮った。
「おらは、まんだ若けえけんども、これでも医術の心得がある。しかも、腕もええのさ。だから、ぱっと見ただけで、大抵の身体の不調はわかるだ。悪いことは言わないから飲みな──。金はいらね。苦しいんだろう? そんままにしておくと、四半刻もしないうちに、
半分は脅しだが、女は明らかに動揺した。
「で、でも……」
「おや、その下袴の内側には下着じゃなくて、布を巻いているのかい? そんなに腹が下っているなら、宿屋に休んでいればええじゃねえか」
すると女が眼を見開いた。
「腰に布を巻いていることまでもわかるの、あなた?」
女は、ゆっくりとした動きで、そこに座り込んだ。
本当に苦しそうだ。
だが、苦しそうに歪む顔は、さらに彼女の美しさを惹きたてている気がする。
本当に綺麗な女の人だ。
「わたしは、沙那よ──。あなたは?」
沙那と名乗った女が言った。
「おらは琵琶子。旅の薬師だ」
「薬師?」
「こうやって薬を売って歩く行商をしているのさ……。いや、逆かな。旅をするために薬を売って、それで路銀を作り、また、あちこちさ旅さする。そうやって、見聞を広めて腕を磨き、天下一の薬師になるのさ。おらは、この女人国を出て外の世界に行くつもりだ」
「天下一の薬師……。素晴らしい志ね。じゃあ、遠慮なく薬はもらうわ、琵琶子……。だけど、効かないと思うわ」
沙那が言った。
琵琶子はむっとした。
「おらの薬が駄目だと言うのけ? 試してもいないのに」
「ごめんなさい、そうじゃないの……。頂くわね……。水も貰うね、琵琶子」
沙那は、琵琶子の渡した薬を口に含み、さらに、琵琶子の水筒を使って、それを流し込んだ。
「そのまま休んでいるとええよ。だけど、そのままどっか行っちゃ駄目だ、沙那。おらの薬を馬鹿にしたんだ。絶対に効くから──。効果を確かめてもらって、きっちりと謝罪をしてもらうからね」
琵琶子は言った。
「気分を悪くしたなら先に謝るわ、琵琶子……。だけど、このお腹の痛みは、なにかにあたったわけでも、病気で腹を下しているわけでもないの──。そうであれば、あなたの薬は効くんでしょうけど、多分これは無理よ……。これは、道術よ」
「道術?」
琵琶子は声をあげた。
道術なんていう言葉は、滅多に耳にする言葉じゃない。
ほかの国はいざ知らず女人国には道術遣いはほとんどいない。
しかし、道術で腹が痛くなったというのはどういうことだろうか?
「道術というのは、腹が痛くなるものかね? あんたは道術遣いかい、沙那?」
琵琶子は訊ねた。
すると沙那は、自嘲気味に微笑んだ。
「なら白状するわ。薬をくれたお礼にね……。馬鹿馬鹿しいこの行動について説明するから、それを聞いて、思い切り笑って、わたしを馬鹿にしていいわ。わたしも、本当は一緒に笑いたい気分よ。実は、これはわたしのご主人様の悪戯なの」
「ご主人様の悪戯?」
琵琶子は首を捻った。
まるで意味が分からない。
「わたしは、ある女主人に仕える供であり、わたしのご主人様は道術遣いなんだけど、わたしは、そのご主人様に道術で便意を意図的にもよおされて、城郭の商屋に買い物に行かされているの。腰に履いているのはおしめよ──。ほんっとに、馬鹿馬鹿しいでしょう、琵琶子?」
沙那は言った。
琵琶子は驚いた。
「道術でわざと便意を起こさせているって……。一体全体、それはどういうことけ? なんでそんなことをしているのさ?」
「なんでこんな仕打ちを受けなければならないのか、わたしが訊きたいわ。とにかく、わたしのご主人様はただの気まぐれで、わたしが困る顔が見たくて、強い便意を道術でわたしの身体に起こしてから、外にお使いに出したのよ。おしめをさせてね。だから、わたしの腹痛は道術によるものであり、普通の薬じゃあ効かないということよ」
「なして、おめえさんのご主人様は、そったら酷いことをするんだ?」
「なぜと言われても……。なぜなのかしら──。まあ、遊びね。ご主人様の遊びよ。ご主人様の愉しみのためにやっているのよ」
「わかんねえなあ……。おめえさんの腹が痛くなり、外で大便を洩らすことが、おめえさんのご主人様の愉しみになるということけ?」
琵琶子は訊ねた。
この沙那の言っていることは、琵琶子の理解の外にある。
「そういうことになるわね……。わたしが困ると、ご主人様は愉しいのよ」
沙那はそれしか言わなかった。
琵琶子は、唖然としてしまった。
「なにが愉しいのけ?」
「わたしが、我慢できなくなって、外でおしめに便を洩らすことよ。そうやって、意地悪をするのが愉しいの。だから、わたしはここでは暇をつぶしているのよ。用事が終わっても、一刻半は宿屋に戻って来るなと言われているのよ」
「したくなったら、厠にいけばいいだ」
琵琶子は言った。
「無理よ。ご主人様がわたしにつけさせたおしめは道術でなければ外せないわ。我慢できなくなれば、わたしはおしめにするしかないわ……。本当に碌なこと考えつかないったら、あのご主人様は……。腹が立つ……」
沙那の言葉の半分は、独り言のようだった。
いずれにしても、そんな理不尽な命令と仕打ちは、とてもじゃないが信じられない。
「おめえさんのご主人様は、どんな人だ?」
そんな酷いことをするのだから、とんでもない意地悪の悪党に違いなく、その悪党にこの沙那は捕えられているのではないか……?
そんな想像が琵琶子の頭に浮かんだ。
「どんな人って……。そうねえ。女道術遣い──。顔はきれい。絶世の美女といっていいわ。髪は黒く、瞳も黒い。年齢は……不詳。見た目は若いわ。わたしよりも少し上に見えるくらい……」
「おめえさんと同じくらい?」
意外だった。意地悪の悪党だから、もっと年寄を想像していた。
しかも、絶世の美女だという。絶世の美女の悪党……。やはり、想像できない。
「……ちょっと待って、琵琶子。おかしいわ」
沙那がお腹をおさえた。
「どうしただ、沙那? 薬が効かねえか?」
「逆よ──。楽になってきた……。こんなのあり得ないのに……」
沙那の言葉に琵琶子は笑った。
「あたりめえだ。おらの薬が効かねえわけがねえ。天下一の薬だぞ」
琵琶子は言った。
「まさか……。ご主人様の道術の効果を失くすことができるだなんて……。琵琶子、本当に凄いわ。こんなことあり得ないけど……。ただの薬がご主人様の道術に打ち勝つなんてありえないはずだけど……でも、本当に効いている。楽になった──。ありがとう」
沙那が眼を見開き、そして、琵琶子に嬉しそうに笑いかけた。
「本当にありがとう」
沙那は琵琶子の手を握る。
「よかっただ。じゃあ、約束通り、お代はいらねえだ──。楽になったんだったら、もう、行くといい、沙那」
「ありがとう、琵琶子。あなたの薬のことは一生懸命宣伝するわ」
沙那は嬉しそうに立ち去っていった。
それから、しばらく客はこなかった。
いや、沙那は客ではなかったから、この橋のたもとで商売を始めて、まだ一度も客は来ていないということか……。
琵琶子は思い直した。
それからしばらく、琵琶子はそこに座っていた。
相変わらず往来は多いが、琵琶子の薬を求めにくる客は、まだいなかった。
琵琶子のむしろの前に二人目の女がやってきたのは、太陽が中天から西に半分ほど傾いた頃だった。
沙那が立ち去ってから二刻(約二時間)は経っている。
今度の女は、まっすぐに琵琶子のところにやってきた。
少し背が高い赤毛の女だ。
美人だ。
傭兵風の軍装をしていたが、特に武器は持っていない。
さっきの沙那と同じように荷物を入れるかごを背負っている。
顔色が悪い。今度の女もさっきの沙那と同じように腹を痛めているようだ。
「あれ?」
琵琶子は近づいてくるその赤毛の女が、さっきの沙那と同じように腰に布をあてていることに気がついた。
沙那の言葉を借りれば“おしめ”というやつだ。
いったい、どういうことだろう。
そんな奇妙な恰好の女が続けてふたりも現れるとは……。
「あ、あんたが、琵琶子?」
赤毛の女はお腹を押さえながら言った。
さっきの沙那と同じように顔に脂汗を流している。
「そんだが……」
「これ──」
赤毛の女は身体を屈めて、編上げの長靴の踵側から小さな紙の包みを取り出した。
身体を屈めたとき、彼女は苦しそうに顔を歪めた。
赤毛の女の出したのは、小さな金粒だった。
琵琶子は驚いた。
大金だ。
路傍の薬売りに使う額ではない。
「沙那が貰った薬をおくれ」
赤毛の女は言った。
「沙那? 知り合いけ?」
「そうだよ。孫空女というんだ……それよりも、お願いだよ。薬を……」
琵琶子は薬と水筒を渡した。
孫空女は、それを飲み、そして、ほっとしたようにその場に座った。
「ねえ、おめえも、あんたのご主人様とかいう人に、道術でお腹を痛くされているけ?」
琵琶子は訊ねた。
「へえ、沙那は、そんなことも話したのかい? そうだよ。あたしらのご主人様がね」
孫空女は頷いた。
「なんで、おめえらのご主人様という人は、そんな酷いことを供のおめえらにするんだ?」
「さあ、なんでかな……。まあ、愉しみなんだろうけど……。だいたい、これのどこが愉しいのか……」
「おめえがしているのも、おしめだろ? おめえらのご主人様は、おめえらにおしめにうんちをさせたいのけ?」
琵琶子がそう言うと、孫空女という女が顔を赤らめた。
「あ、あんた、あたしがおしめしているのもわかるの?」
孫空女が驚いた表情になった。
「わかるさ──。まあ、もっとも、さっきの沙那もそったらことを言っていたしね。道術で脱げなくされているんだろう。ひっどい女だよねえ──。ねえ、おめえらは、なんで、そんな酷いことをされて、我慢しているんだ?」
「まあ、しょうがないさ。そういうご主人様なんだから──」
それから他愛のないことを孫空女と話した。
話せば話すほど、この孫空女が素直で正直で、優しい女だということもわかった。
さっきの沙那もいい人そうだったし、こんなに気立てのいい供に、わざわざ腹を痛くさせるような嫌がわせをする女道術遣いというのは、どんな悪い奴なのだろうと思った。
それから、四半刻の半分(約七分)ほど経った。
「さ、沙那の言う通りだ。本当に薬が効いてきたよ。ありがとう、琵琶子」
楽になったのだろう。
孫空女がにっこりと微笑んだ。
本当に気持ちのいい微笑みだ。
「いいよ……。だけど、こんなには、代金はもらえないよ。おらの薬はそんなにはしないよ」
琵琶子は、孫空女が最初に渡した金粒を差し出した。
「いいや、ご主人様の道術に打ち勝つなんて、これくらいの価値はあるさ」
孫空女は金粒を受け取ろうとしなかった。
「だども……」
「いいからとっておいてよ。あたしらも路銀は自由にはならないから、やっと隠して持ってきたんだ。それよりも、もしかしたら、もうひとり、朱姫という娘がやってくるかもしれない。そのときは、この金粒で、その朱姫にも琵琶子の凄い薬をわけてやってくれないかい?」
孫空女は言った。
「わかっただ」
琵琶子は頷いた。
孫空女が立ち去ると、また、琵琶子は暇になった。
それから、沙那や孫空女とは、関わりのない客が、数名琵琶子のむしろに並べた薬を覗きこんでいった。
そのうち、実際に買い求めたのはひとりだった。
六十は超えた老婆であり、歯痛をやわらげる薬で代価を払って持っていった。
陽が西に傾いてきた。
琵琶子は、その日の商いをやめることにして、売り物を片づけ始めた。
そこに影が差した。
琵琶子が顔をあげると、貫頭衣を身に着けた小柄の可愛らしい少女がそこに立っていた。
顔が蒼白い。
咄嗟に、彼女が孫空女が言っていた朱姫だということがわかった。
沙那や孫空女と同じように、便意による腹痛に悩んでいるのがわかったからだ。
「おめえさんは、朱姫という人だね?」
琵琶子は言った。
「そ、そうです……。く、薬を……お、お願い……します」
朱姫は本当に苦しそうだった。
琵琶子は慌てて、片付けかけていた荷から腹痛を癒す薬を探して、朱姫に差し出した。
「あ、ありがとうございます……」
朱姫はお辞儀をして、それを受け取った。
沙那と孫空女とは違い
本当に可哀そうだ。
「とにかく、飲め。そして、休んでけ」
琵琶子は、水筒を朱姫に差し出した。
しかし、朱姫が水筒を受け取ろうとしたとき、朱姫の反対に手にあった薬がさっと別の手によって、取りあげられた。
「な、なにすんだ?」
琵琶子は声をあげて、朱姫が飲もうとしていた琵琶子の腹痛薬を横取りした人物を見あげる。
「ひいいっ──、ご主人様」
朱姫が小さく叫んだ。
そこに立っているのは、黒い装束を身にまとった黒髪の美女だ。
本当に綺麗な女だと思ったが、若い見た目でありながら、どことなく年齢の印象を与えない不思議な雰囲気がある。
琵琶子は、彼女が沙那や孫空女を酷い目に遭わせているあの悪い女主人だと思った。
「沙那や孫空女を問い詰めても、なにも白状しないから、朱姫をつけてきたけど、こういうことだったのかい?」
その女主人は言った。
「あんた、なにすんだい、それはおらの薬だ」
琵琶子は立ちあがった。
背丈は琵琶子がやや高いくらいだ。
その女主人と琵琶子は向かい合うかたちとなった。琵琶子は女主人をにらみつけた。
わざわざ自分の供を道術で腹痛を起こさせて苛めるような悪い女だ。
文句のひとつやふたつは、言ってやりたい。
「……お前、道術遣いだね」
女主人は琵琶子に視線を送りながら不意に言った。
「道術遣い──? そったらもんじゃねえ。馬鹿を言うな」
そう言えば、沙那はこの女が道術遣いだとか言っていた。だったら、ちょっと危険なんだろうか。
見た感じ、腕っぷしはなさそうだし、武芸の心得もなさそうだ。
武芸の心得だったら、琵琶子の方が遥かに上だろう。
それはひと目でわかる。
だが、道術遣いというのは、おかしな道具や得体の知れない力を振るうことがある。
面と向かって立ち合うのは避けるべきかもしれない。
それにしても、この女主人は、琵琶子のことをいきなり道術遣いだと言った。そんなことがあるわけない。
「いや、お前は道術遣いだよ……。見ればわかるのさ、わたしにはね」
女主人は言った。
「道術なんて遣えねえ。おらは、旅の薬師だ。薬を行商して旅している女だ」
琵琶子は言った。
「霊気はあるけど、術が使えないほどに乏しいのかね……。いいや、そうじゃないようだね。決して霊気も小さくない。だけど、随分と偏っているようだ。だから、道術が遣えないんだね。だけど、この宝玄仙の道術を取り消すような仙薬を作るんだ。道術遣いとしては、一流どころと言っていいほどの霊気があるよ、お前にはね……。もっとも、薬作りに限定されるようだがね」
「仙薬……? 仙薬とはなんだあ?」
琵琶子は思わず言った。
「仙薬のことも知らなくて、薬を作っていたのかい、お前は──。仙薬というには、霊気を込めた薬のことだ。普通、霊気を持たない人間には、道術は効かないけど仙薬は別だ。だから、道術使いの薬師は、ただの道術遣い以上に、重宝される存在だ。だけど、本当にお前は、自分が道術遣いで、仙薬を作る能力があると知らなかったのか?」
女主人が呆れたような声をあげた。
「そったらもんであるわけねえ。死んだおっとうも、おっかあも、道術遣いなんかじゃなかった。もちろん、おらもだ」
「両親が道術遣いでなくても、子が道術力を持って生まれるのは珍しくはないよ──。ところで、お前の名は?」
女主人が言った。
「琵琶子だ」
「そうかい、琵琶子。わたしは、宝玄仙だよ。お前がわたしの供に対する調教を邪魔してくれた礼はちゃんとさせてもらうよ。だけどその前に、こっちを先に片付けたいんだ。ちょっと待ってくれるかい──。さて、朱姫」
宝玄仙と名乗った女主人が朱姫という娘に向き直った。
朱姫は、明らかに恐怖に怯えた表情をした。
普段から苛められて、恐怖を刻み込まれているのだと悟った。
沙那や孫空女の苦痛に歪んだあの表情、そして、眼の前で恐怖に怯えている朱姫の顔……。
琵琶子の中に、宝玄仙に対する怒りが込みあがる。
「は、はい……」
朱姫が怯えた声をあげる。
「この宝玄仙の調教を無視して、勝手な真似をしようとしたんだ。それなりの覚悟はあるんだろうねえ?」
宝玄仙は言った。
「は、はい……。い、いえ、でも……」
「どっちなんだい?」
宝玄仙が強い声をあげる。
「ひいっ──。でも、沙那姉さんも孫姉さんも……」
「わかっているよ、あいつらにはいま罰を与えているところだ。それこそ、怖ろしい目に遭わせている。だけど、お前はどうするんだい。お前もこの薬を勝手に飲んで、わたしに逆らうかい? そして、沙那や孫空女と一緒に、罰を受けるかい?」
宝玄仙がさっき取り上げた琵琶子の薬を朱姫に示した。
朱姫は、頭を振った。
「も、申し訳ありません、ご主人様」
朱姫は、もう宝玄仙を直視していられなくて、眼をつぶってうつむいた。
琵琶子は、こんなに、一方的に人を怯えさせるような人間関係に初めて接した。
「そこでしな」
宝玄仙は言った。
「はっ?」
顔をあげた朱姫は、きょとんとしている。
琵琶子にも、たったいま宝玄仙が口にしたことの意味がわからなかった。
「……いま、この場で立ったまま、お前につけさせたおしめに排便をするんだ。そうしたら、許してやるよ、朱姫」
宝玄仙が微笑みながら言った。
朱姫が信じられない言葉を言われたというように顔色を変えた。
そして、宝玄仙の顔を見て、明らかに表情が引きつった。
朱姫の蒼白い顔がさらに真っ白になる。
「やるんだよ──。いま、ここでね」
朱姫の身体が小刻みに震えてきた。朱姫は、また、眼を閉じ、そして、両方の手をぎゅっと握りしめた。
「くっ……あ、ああ──」
朱姫が震えている。朱姫のお尻から小さな空気音がするとともに、臭気が沸き起こった。
大便の匂いが朱姫から激しくたちこめる。
朱姫がうつむいたまま激しく嗚咽を始めた。
「ひ、ひん、ひん、ひいん──」
だんだんと朱姫の泣き声は大きくなる。
宝玄仙の理不尽な命令に従ったのだということがわかった。
琵琶子は驚いた。
余程、嫌だったのだろう。朱姫は道端で立ったまま泣きじゃくっている。
だが、これだけ泣いているのに、宝玄仙の方は同情するどころか、そんな朱姫を眺めて悦んでいるみたいだ。
琵琶子の頭にかっと血がのぼる。
なにか言ってやろうとして口を開くが、宝玄仙は次の瞬間、琵琶子も唖然とするような行動に出た。
泣きべそをかく朱姫のお尻を下袍越しに思い切り押したのだ。
「ひゃああぁ──」
朱姫が悲鳴をあげた。朱姫の股間を包んでいるおしめには、いま、朱姫がしたばかりの大便があるはずだ。
それを潰して、お尻全体に擦りつけるように宝玄仙は、朱姫のお尻を手で押している。
「ひゃ、ひゃあ……ひゃ──お、お許しを──」
朱姫はそのひと言だけ呻くように言い、あとはさらに激しく泣き出した。
「よし、行きな、朱姫。そこの河でおしりとおしめを洗っておいで。きれいになったら、宿屋まで戻ってきな。それで、お前の罰は勘弁してやるよ」
宝玄仙が言った。
朱姫は、橋のたもとをおりて、橋の下の川めがけて駆けていった。
「お、おめえ、なんて酷い人なんだ……」
琵琶子はそれだけしか言えなかった。
「さて、じゃあ、琵琶子だったね。お前にも、礼をさせてもらうよ」
宝玄仙が言った。
「礼って?」
琵琶子が怒鳴ろうとした途端──。琵琶子が開けた口が大きく開いたまま、閉じなくなるとともに、手足が動かなくなった。
なにが起こったかわからない。
「あ……はが……あが……」
本当に口が閉じない。これが道術というものなのだ。
琵琶子の心に一転して恐怖心が走る。
宝玄仙が、琵琶子の顔を覗き込む。
「陽に焼けているし、手なんて薬と土が染み込んで肌も荒れているけど、よく見れば顔立ちはいいじゃないか。絶世の美女とは言わないが、中の下の美女というとこかね。まあ、ひと晩、可愛がってやるよ。女人国の女は、性に解放的な女が多いから、お前も女と愛し合うのは初めてじゃないだろう、琵琶子?」
「は……が……へ……」
琵琶子は喋ろうとするが、まったく、言葉にならない。
「荷物を持って、ついておいで、琵琶子」
宝玄仙が言った。
すると驚いたことに、琵琶子の手足が琵琶子の意思と関係なく、勝手に動きはじめた。
琵琶子の身体は片付けかけていた薬を収納し直し、琵琶子自身に荷を琵琶子の背に担がせる。その間、まったく口が閉じない。
涎がだらだらと口から流れ落ちる。
「いくよ」
宝玄仙が歩きはじめると、琵琶子の脚は操られるように、その背を追っていった。