215 単話・一炊の人生【
ある春の日の暮れのことだった。
街道沿いにある小さな宿町だ。
大きな城郭と城郭を結ぶ街道沿いであり、ここはその街道を旅する者を目当てにした宿屋や食堂が並ぶ町だ。
疲れていた。
生きていることにだ……。
盧成は、その宿町の橋のたもとでぼんやりと、行き交う人を眺めていた……。
死ぬつもりだった……。
だが、死ぬ気力さえも盧成にはなかった……。
誰かが、自分を殺してくれないだろうか……。
そんな気持ちで、盧成はなんとなく、目の前を見ていた……。
*
盧成は、かつては、ある城郭で一番の財産家である高利貸しの息子であり、分限者の父親が早世したために、その莫大な財を受け継ぎ、使いきれないほどの財を自由に扱える身分だった。
だが、いまや、この日に食べ物にも困るほどの哀れな立場になっていたのだ。
それというのも、あの女のせいだ。
盧成の父親は、分限者といっても大変な吝嗇家であり、無駄な金は一切使わないという男だった。
だから、盧成も分限者の息子といっても、贅沢などひとつもしたこともなく、朝に昼に夕に、さまざまな仕事で、父親からこき使われながら、慎ましい生活を送っていた。
しかし、その吝嗇家の父親が死んだ。
盧成には、これまで使うことの許されなかった莫大な財が手に入った。
資産家だった父親は、財を貯めることだけが生き甲斐という男であり、住んでいた屋敷も小さく、家人など誰ひとりいなかった。
家のことで、必要なことは盧成ひとりでやっていた。
母親は知らない。
盧成が物心つく前に死んだと聞く。
盧成が子供のときは、盧成の世話をする婆やが雇われていたようだが、盧成が十歳のときに、その婆やが死ぬと、もう家にやって来る者は誰もいなくなった。
父親は、極端な人間嫌いでもあったのだ。
自分に親しく近づく者があると、きっと、自分の財を奪おうとしているのだろうと言って、絶対に自分の周辺に人を寄せつけなかった。
従って、青年になった盧成にも、親しい知人や友人などおらず、ただ、父親の身の周りを世話する家人のような生活を送っていたのだ。
だが、その父親がやっと死んだ。
盧成には、厳しかった父親が死んだ哀しみなどほとんどなく、ただ、莫大な財が自由にできる立場になったのが嬉しかった。
すぐに大きな屋敷を購い、大勢の家人を雇って、贅沢な暮らしを始めた。
遠くの銘酒があると聞けば、すぐに取り寄せ、珍しい食べ物があると耳にすれば、財に物を言わせて取り寄せた。
庭には一日に四度色を変えるという花を植え、白孔雀を放し飼いにし、あるいは、錦を縫わせ、玉を集め、香木の車両を走らせるとか、とにかく、考えられる限りの贅沢をした。
たちまちに、盧成の名は、城郭で知らぬ者のないものになり、大勢の「知人」や「友人」が毎日、盧成の屋敷に集まった。
それでも、一生、使い切らないくらいの財が盧成にはあったのだ。
やがて、盧成にひとりの恋人ができた。
城郭の女ではなく、旅の女ということであったが、盧成がこれまでに遭ったことのないほどの美女だった。
盧成は、その女の虜になった。
そして、結婚した。
だが、妻になった途端に、その女の態度が豹変した。
盧成を寝屋に近づけないようになり、勝手に盧成の財も使い始めた。
そして、あるとき、あろうことか、盧成の留守のとき、若い男を連れ込んで淫行をしていたのだ。
たまたま、屋敷に戻って、その淫行の現場に遭遇した盧成は、思わずかっとなり、妻と若い男に殴りかかった。
妻は逃げ、その若い男は、盧成がひと殴りしただけで動かなくなった。
死んだのだ。
盧成は愕然とした。
殺すつもりで殴ったののではない。
しかも、頭をひと殴りしただけだ。
それで、死んでしまうとは……。
そして、すぐに四十くらいの役人と、兵がやってきた。あっという間にやってきたのは、逃げた妻が呼んだのだと思ったが、実は、その妻とその役人は結託していたのだ。それは後でわかった。
とにかく、その役人は、悪いようにはしないと言って、間男に出くわしたので、思わずかっとなって殺したと自白せよと言われた。
そして、せいぜい罰金を払って罪を許されるようにしてやるから、賄賂を準備しろとも言われて、言われただけの財も渡した。
そして、盧成に言い渡された判決は、流刑地で三十年の労働だった。
盧成は呆然とした。
そして、盧成は流刑地に送られた。
しかし、その流刑地で半年ほどがすぎたときだった。
驚くことに、盧成は自分が殴り殺したと思っていた男と、その流刑地でばったりと出遭ったのだ。
腰が抜けるほど、びっくりした。
問い詰めると、男は金をもらって、盧成に殺された演技をしただけだと笑った。
だが、その金も使い果たし、くだらない罪を犯して捕らえられ、たまたま盧成と同じ流刑地に送られたらしかった。
盧成は流刑地を脱走した。
脱走は死罪だが、死は覚悟した。
苦労して故郷に辿り着いた。
自分の屋敷だった場所で見たのは、夫婦となっている妻と、盧成に自白を進めたあの役人だった。
このふたりがぐるになって、盧成から財を奪ったのだと悟った。
盧成は、自分のものだった屋敷に忍び込んで、女と役人を惨殺した。
今度は本当の殺人だ。
盧成は逃走した。
それから、半年……。
盧成は、食べるものさえ困るほどの哀れな立場になっていた。
そして、名前も知らない宿町に辿り着き、死ぬことを考えていた……。
*
そのとき、盧成は、眼の前の食堂に入ろうとしている四人組の女に眼がいった。
四人が四人とも大変な美女の女連れだった。
だが、盧成ははっとした。
四人の中の黒髪の女にだ──。
盧成の妻だったあの女か──?
そう思ったのだ。
だが、よく見れば、まったくの別人だ。
同じなのは、そのすらりとした身体つきと、黒髪くらいだろう……。
当たり前だ。
あの悪女は、盧成がこの手で殺したのだ。
目の前を歩いているわけない。
それに、よく見れば、眼の前を通り過ぎた黒髪の女は、盧成の妻だった女に比べてもずっと美人だった。
世の中には、あんな美女もあるのだと思うほどの美女だ。
盧成は溜息をついた。
素晴らしい美貌だ……。
気がつくと、盧成は立ちあがっていた。
死ぬ理由を思いついたのだ。
あの女を抱くために死のう……。
そう思った。
ただの通りすがりの女だが、おそらく、盧成の人生で、あれほどの美女には、二度と遭うことはないだろうと思った。
その女を抱くために襲い、それが理由で殺される。
なんという意味のある死だろうか……。
四人の女のうち、栗毛の髪をした女は腰に剣をさげていた。
先頭を歩いていた赤毛は丸腰だったが、背が高くて、女ながらも遣い手のように思えた。
もうひとりは、ただの少女に思えた。
いずれにしても、こんなすきっ腹を抱えた盧成など、あの女を襲うことには成功しないのは明白だ……。
女たちに遣り込められなくても、食堂にいるほかの客が盧成を押さえつけてしまうに違いない。
そして、やられて死ぬのだ……。
あの女を襲おうとして死ぬ。
それほどの価値のある美貌だと盧成は思った。
盧成は、その女たちが入っていった食堂に向かった。
橋の前で一本の棒きれを見つけた。
盧成は、その棒を持って食堂に入っていった。
*
「だから、なんで、わたしなのよ、朱姫──。いい加減にしないと怒るわよ」
沙那が真っ赤な顔をして怒鳴っている。
本当に根が生真面目だから、からかうと愉しい。
それにもかかわらず、ちょっと身体を触れば、たちまちに淫情に襲われる感じやすい身体をしているのだ。
それが実に面白いのだ。
沙那には悪いが、朱姫の手管からすれば、沙那をどんな風にも料理できる。
ちょっとした鍵になる言葉を聞かせることで、身体が動かなくなる暗示をひそかにかけているし、そんなものを使わなくても、朱姫が沙那の身体に触れることができれば、一瞬にして沙那を脱力させるような快感を与えることもできる。
朱姫の手管に、沙那は大した抵抗もできずに、拘束を許してしまうに決まっている。
だが、真っ赤な顔して、生真面目に腹をたてる沙那を眺めていると、本当にそれをしてやりたいような誘惑にかられる。
「でも、新しい淫具の実験台といえば、なんとなく、沙那姉さんの係なんじゃないですか……? 今度の試作品は凄いですよ。普段は普通の下着なのに、ちょっとした音を聞かせると、その下着が股間に貼りついて脱げなくなるだけじゃなく、下着の内側から無数の小さな触手が飛び出して、股間全体に悪戯するんですよ……。そんなのはいてみたいと思いませんか、沙那姉さん?」
朱姫は言った。
立ち寄った宿町の食堂だが、少し食事の時間とは離れているので、四人のほかに客はいなかった。
店にいるのは、この店をやっている老夫婦だけだ。
その老夫婦も、四人の卓に注文の雑炊の鍋を置くと、店の奥に引っ込んでしまった。
すでに代金は払っているので、別に朱姫たちを見張る必要もないのだろう。
だから、少しくらい卑猥な話をしても、四人のほかに聞く者もいない。
「こ、答えになっていないわよ、朱姫──。くだらない淫具の試作品にわたしを使ったら、承知しないわよ」
沙那は真っ赤な顔をして、必死に言っている。
その視線は、朱姫ではなく、横でにこにこ笑っている宝玄仙にちらちらと向いている。
沙那は、気紛れの宝玄仙が、朱姫の戯言を気に入って、沙那に朱姫の新しく作成した下着のかたちの責め具の実験台になれと言うのではないかと冷や冷やしているのだ。
「でも、今度のは出来がいいんですよ、沙那姉さん……。だって、触手を作動する前には、ただの普通の下着にしか見えないし、肌触りも普通です。淫具だとわからないように細工をしているので、おそらく、ご主人様にだって、わからないと思います。もちろん、沙那姉さんには見破るのは不可能です……。それが、ちょっとしたきっかけで、城郭の真ん中で、股間を責める貞操帯のようになるんです。凄いでしょう──」
「頭を叩き割るわよ、朱姫──。だ、だったら、孫空女にしなさいよ。わたしの名を出すんじゃないわよ──」
沙那が朱姫に詰め寄るように椅子から立ちあがって、朱姫に顔を寄せた。
「な、なんで、あたしなんだよ──。沙那こそ、名を出すんじゃないよ──」
雑炊を四人の椀に取り分けかけていた孫空女が、びっくりしたように声をあげた。
「でも、もう遅いんですよ、沙那姉さん」
朱姫はにっこりを沙那に微笑みかけた。
「遅い?」
沙那は不審な表情になった。
「だって、本当に触手を活性化させる前には、本当にただの下着なんです……。沙那姉さんだって、ちっとも気がつかなかったでしょう……」
朱姫は、その場で手拍子を打った。
二回……三回……一回……。
「ひっ──」
沙那がその場に伸びあがった。
そして、真っ赤な顔になる。
「しゅ、朱姫──」
両手で崩れ落ちそうになる腰を支えるように、両手でがっしりと卓の縁を掴んだ。
沙那にはかせていた朱姫の新しい触手下着が動き出したのだ。
いまの手拍子は、眠っていた触手を一斉に活性化させる音だ。
いまごろ、沙那の股間は一斉に襲い掛かった小さな触手に苛まれ始めているだろう。
沙那の顔からみるみる汗が吹き出してくる。
そして、耐えきれなくなったように、沙那が小さな声をあげて、両手で股間を押さえて椅子に崩れ落ちた。
「あっ、あっ、あっ……」
沙那は荒くて細かい息をしはじめた。
一生懸命に声を耐えるように、歯を噛みしめている。
それでも、我慢できない声が沙那の口から漏れ出ているのだ。
「おやおや、もう、すでに仕込んであったのかい……。しかし、この沙那がまったく気がつかないとはねえ。そりゃあ、大したものじゃないかい、朱姫……。だったら、この触手下着の胸当てというのも作ったらどうだい? どうせなら、上下で責めたてる方が面白じゃないかい」
宝玄仙が沙那の様子に面白がって言った。
「……もう、それも作ってありますよ。動かしてみますか、ご主人様」
朱姫はあっけらかんと言った。
そして、沙那をじろりと見た。
沙那の眼が大きく開く。
「あ、あんた……ま、まさか……」
沙那が真っ赤な顔で呟いた。
朱姫は手拍子をした。
今度は三回続けて……。
「あはあっ──」
沙那がびっくりするくらいの大声を出した。
そして、両手で胸を抱く。
股間に加えて、沙那のつけている胸当ての内側でも、触手が動き出したはずだ。
「さ、沙那──。こ、声が大きい──」
あまりの沙那の大きな嬌声に、孫空女も驚いて声をあげた。
「だ、だって……だって……だって……あ、あああっ……」
沙那ががくがくと身体を揺すって、喉を突きあげるように顔をあげた。
早速達したようだ……。
「実験は成功ですね……。じゃあ、次は、達しそうになったら自動的に触手が動かなくなるように、命令を与えますね。焦らし責めの動きをさせます……」
朱姫は沙那の身に着けている上下の下着に、合図の手拍子を送ろうとした。
そのとき、食堂に見知らぬ男がのそりと入ってきた。
眼が血走っている。
右手に棒を持っている。
異常な雰囲気だ。
しかも、その目線は、まっすぐに宝玄仙を見つめていた。
「なんだ、お前──?」
すでに孫空女は立ちあがっている。
朱姫は、慌てて口笛を吹いた。
これで、沙那を苛んでいる下着の触手は活動を静止して、下着の布の中に完全に同化したはずだ。
しかし、沙那は椅子から崩れ落ちて、床に座り込んでしまった。
「やらせろ、女──」
男は言った。
「やらせろ? わたしかい?」
卓に座ったままの宝玄仙がいきなり出現した暴漢にちょっと興味を抱いたような声を発した。
そして、男が眼の前の孫空女に向かって、棒を振りあげた。
「こ、このう──」
しかし、次の瞬間、その男がその場に崩れ落ちた。
床に座り込んだ沙那が、宝玄仙に近づいた男の足を払ったのだ。
「うわっ──、あぐっ──」
男が倒れるところを沙那が膝で待ち構えて、顎を思い切り打ち砕いた。
顎の急所に沙那の膝を受けたかたちになった男は、そのまま動かなくなった。
「沙那、あんたが出るまでもなく、こんなの指一本でやっつけられたのに」
孫空女は不満そうに言った。
「わ、わかっているわよ──。八つ当たりの腹癒せよ──」
沙那が怒鳴った。
そして、淫情の余韻で汗びっしょりの沙那が立ちあがった。
「それにしても、なんだい、こいつは──?」
宝玄仙が床に倒れている暴漢を眺めて言った。
孫空女と沙那の視線も男に向く。
奥に引っ込んでいる店の老夫婦は出てこない。
もしかしたら、一瞬のことで騒動に気がつかなかったのかもしれない。
「……この男、とても悲しそうな感情をしてました、ご主人様……。なんとなく、死にたがっているような心をこの暴漢から感じました……」
襲ってきた暴漢からやってきた強い感情について、朱姫は宝玄仙たちに説明した。
朱姫は、『縛心術』だけじゃなく、その気になれば、相手がどんな感情を抱いているかを漠然と感じることができる。
この男からは、非常に強い感情があった。
だから、意図することなく、朱姫の心に男のその感情が雪崩れ込んだのだ。
「死にたがっていた? 穏やかじゃないねえ……。それに、そんな男がわたしになんの用があったんだい?」
宝玄仙が不思議そうに、顔を朱姫に向けた。
*
「こらっ、起きな」
頬を叩かれた。
盧成は眼を開いた。
気がつくと、椅子に座らせられていた。
はっとした。
両側に赤毛の女と栗毛の女がいる。盧成の腰かけさせられている椅子に密着して自分たちの椅子を寄せて、盧成の身体を椅子に押しつけていた。
頬を叩いたのは、赤毛の女の方のようだ。眼が覚めた途端に、両側の女たちの殺気のようなものが伝わってきた。
「わっ、わっ──。た、助けてくれ──」
盧成は思わず声をあげた。
「助けてくれとはなんだい? お前がわたしらを襲ったんだろう」
卓を挟んで、盧成の向かい側に座っていた黒髪の女が声をあげて笑った。
盧成はやっと、自分がこの黒髪の女を襲おうとしたことを思い出すとともに、どうやら、簡単にやられてしまったらしいということを悟った。
「い、いや、覚悟はできている。確かに、俺はあんたを襲おうとした悪党だ。存分に殺してくれ」
盧成は言った。
自分は死にたくて、この黒い髪の女を襲おうとしたということも思い出したのだ。
「わたしは宝玄仙という女だ。なにを考えているかわからないけど、別に殺しはしないさ。だけど、朱姫がお前が死にたがっていると言っていたんで、穏やかでないと思ってね。退屈しのぎに話を聞いてやるから、なぜ死にたいと思っているのか、話してみな」
宝玄仙と名乗った女が言った。
「朱姫?」
盧成は宝玄仙の右横に座っている少女に視線をやった。
十六、七くらいの美少女だ。
彼女が朱姫らしい。
「わかりました……。話をします。俺がこんなに惨めな境遇になったのは、あなたと同じ髪をした女のせいなのです。それでつい、その恨みをあなたで晴らしたいと、つい、八つ当たりをしてしまったのです」
盧成は自分の不幸な半生を語り始めた。
*
「……これで終わりです……。そして、俺は死ぬために、あなたを襲おうとして、あなた方に捕まってしまいました」
盧成は語り終えた。
目の前の四人の女は、盧成が話し終えても、しばらくは不機嫌そうに押し黙ったままだった。
話をしているうちに四人の女の名は覚えた。
黒髪の女が女主人で宝玄仙、栗毛で剣をさげている女が沙那、赤毛の長身が孫空女、そして、小柄な少女が朱姫だ。
いずれも、十人の男がいれば十人とも振り返るような美女と美少女だ。
「さて、どうするかねえ……。この阿呆は……」
宝玄仙が嘆息した。
「放っておけばいいんじゃないですか。わたしたちが関わりになる理由はなさそうですよ」
沙那が呆れた顔で言った。
「でも、放っておけば野垂れ死ぬことは間違いないよ。なんだか、生きる意思を失っているような感じだしさあ」
孫空女はいささか同情的な表情を盧成に向けてくれている。しかし、沙那は冷たい目だ。
「自業自得じゃないのよ……。親の遺してくれた遺産を馬鹿みたいに使って、それで、明らかに欲得にかられたとしか思えないような女に引っ掛かって、騙された挙句に人殺しをするなんて……。別に殺されたふたりに同情するだけじゃないけど、せっかく命をかけるのなら、もっとましなことができたんじゃないのかしら──。死ぬ気で働けば、きっとなんでも成し遂げられることができたわよ。その浮気女を見返せるくらいのことはできたと思うわ」
「まあ、そういうけど、沙那みたいに、なんでも理性で解決できるわけじゃないし、優秀でもないのさ……。人というのは感情的なものなんだよ。そして、弱いのさ。あたしは、これでも盗賊団の頭領だったからね。そういう弱い男というのをたくさん見たよ──。ねえ、あんた、これからどうするんだい? 辻強盗にでもなるのかい? このままじゃあ、それくらいしか生きていける道はないんじゃないかい?」
孫空女が盧成を見た。
「まあ、もともと、わたしと一発やりたいという話だったろう? だったら、別にやったっていいんだよ。それでこの世に未練がなくなるというのなら、冥途への土産だ。たっぷりと奉仕してやるよ」
宝玄仙が哄笑した。
盧成はびっくりした。
「……とりあえず、雑炊が冷えちゃいましたね。温め直してもらいます」
朱姫という娘が、店の老婆を呼んだ。
そして、鍋のものを温め直すように頼み、老婆は雑炊を入れた鍋を持って厨房に引きあげた。
「とにかく、朱姫、こいつの心の黒い部分を取り除いてやりな。お前の『縛心術』でね」
宝玄仙が朱姫に声をかけた。
「そうですねえ……。でも、この人の心の闇は相当に根深そうですよ、ご主人様……。そう簡単にはいきませんよ。この人が人生に絶望しているというのは本当だと思います……。多分、この人は、とても真面目なんだと思います。だから、人生を真面目に思いつめてしまうんですね……」
「なにが、真面目だい。真面目な男が強姦をしようとなんてするかい──」
宝玄仙が吐き捨てるように言った。
「ねえ、盧成さん……。この杯に水が入ってますよね……。これをじっと見つめてください。なにも考えずに……」
盧成は朱姫に言われたとおりに、杯の中の水をじっと見つめた。
朱姫が杯の淵をこつんと叩いた。
すると、杯の中の水にたくさんの波紋が浮きあがった。
盧成はその波紋をじっと見つめた……。
*
「はい──」
朱姫の声がして、ぱちんと手を叩かれた。
盧成ははっとした。
一瞬だけだと思うが、盧成は眠っていたのだろうか……。
そんな気分だ。
いずれにしても、すごく晴れ晴れとした気持ちになった。
「おっ、顔色がよくなったじゃないかい──」
宝玄仙が笑った。
「なにをして頂いたのかわかりませんが、すごく気分が落ち着きました。ありがとうございます」
盧成は頭をさげた。
「だったら、今度はわたしと一緒に二階に行こうじゃないか──。お前が微睡んでいるうちに、この店の亭主には話がついているよ。二刻(約二時間)ほどなら、二階を貸してくれるってよ」
宝玄仙が立ちあがって、盧成の手を取った。
「へっ? 二階に行って、なにをするんです?」
盧成は言った。
「なにを言っているんだい──。それが目的でこの店に飛び込んできたんだろう?」
宝玄仙が白い歯を見せた。
*
「いくっ、いくっ、いくよ──」
「俺もいく──。いきます──」
盧成は悲鳴のような声をあげた。
そして、宝玄仙の女陰の中に再び精を放った。
それとともに、宝玄仙の真っ赤に充血した身体ががくがくと揺れた。
汗に濡れた宝玄仙の顔が天井に向かって吠えた。
宝玄仙の膣は独立した生き物であるかのように収縮して、盧成の怒張を締め付け、まるで精を一滴残らず搾り取るかのように動く。
精魂尽きた盧成は、宝玄仙の裸身にぐったりと身体を預けて覆いかぶさった。
昼間から始まった宝玄仙との性交は二刻(約二時間)どころか、半日経っても終わらなかった。
沙那とかいう宝玄仙の供が二度、三度と声をかけにきたが、その都度、宝玄仙が追い払った。
盧成としても、こんな素晴らしい身体を簡単に味わい終わらなかった。
抱いても、抱いても、まだ、抱き足りない。
そんな感じだった。
盧成と宝玄仙は、まるで二匹の性獣にでもなったかのように、お互いの身体をむさぼりあった。
「ふう……」
盧成の身体の下の宝玄仙が大きく息を吐いた。
「……なかなかの一物だったよ……。わたしをこんなに夢中にさせた男は、そうはいなかったよ」
素っ裸で汗まみれの宝玄仙が優しげな笑みを盧成に向けた。
そのとき、盧成の意は決した。
こんな女はふたりといない。
これっきりでお別れなどありえない──。
「宝玄仙さん、お願いです──。俺の嫁になってください。どんなことをしても幸せにしてみせます──。石に噛り付いてでも、働いてあなたを養いますから、俺と結婚してください」
盧成は言った。
「……養ってくれる必要ないさ。必要な分は自分で稼げるけからね……。だけど、わたしの幸せは、性的な満足を与えてくれることだよ。わたしの夫になるなら、わたしを毎日抱けるかい? それなら、嫁になってやってもいいよ」
宝玄仙が笑った。
この身体なら毎日抱ける──。
いや、それどころか、毎日抱かなければ耐えられないだろう……。
「もちろん、毎日、あなたを抱いてみせます」
盧成は力強く言った。
「じゃあ、嫁になってやるよ」
宝玄仙が言った。
*
家に戻ると、家出をすると書かれている手紙が卓の上に残されていた。
嫁の宝玄仙は出て行った後だった。
残念という気持ちはなかった。
盧成はむしろほっとしていた。
ただ、宝玄仙との夫婦生活にあたり、なにかと世話をしてくれたあの三人には、宝玄仙が家を出て行ったことを告げなければならないだろうと思った。
宝玄仙が盧成との婚姻に承知をしてくれたあと、盧成は四人の女とともに、手配書の関係のない城郭に行き、宝玄仙とふたりで暮らすためのこじんまりとした家を借りた。
しかし、宝玄仙との結婚生活は一年もたなかった。
宝玄仙との結婚の条件は、毎日性の相手をすることという一点だったが、それは決して、比喩的表現ではなかった。
宝玄仙は本当に毎晩必ず盧成に求め、休日ともなれば、一日中ふたりで抱き合いたがった。
宝玄仙という女は、安住の地を求めて三人の美女の供を連れて旅をしていたらしい。
しかし、その宝玄仙が盧成との結婚を承諾して旅を終えたため、三人の供の旅も終わったようだ。
三人は盧成と宝玄仙が暮らす家の近くに共同で暮らす家を見つけて住むことになった。
また、ふたりの生活をなにかと面倒を看たのもこの三人だ。
最初のうち、生活力のない盧成のために、生活費や食べ物などを交代で差し入れたのはこの三人だったし、盧成のために城郭の商家の仕事を見つけてきてくれたのは沙那だ。
孫空女と朱姫も、家の家事についてはなにもしない宝玄仙の代わりに、女中のように家の仕事をしてくれたりした。
宝玄仙との生活は充実していた。
なによりも、こんな絶世の美女を毎日、毎晩抱けるのだ。
宝玄仙は閨房術についてはすべてに熟達していたし、盧成は性の快楽という快楽を極めつくした。
しかし、充実していたのは最初の三箇月だけだ。
どんな美食でも、毎日食べ続ければ、いつか飽きてしまう。
宝玄仙というのはそういう女だった。
三箇月がすぎると、盧成はだんだんと、宝玄仙との営みが苦痛になっていった。
それでも、多淫の宝玄仙のために、盧成は毎日彼女を抱き続けた。
だが、次第に宝玄仙との営みは義務のようになっていった。
あんなに恋焦がれた宝玄仙なのに、盧成は宝玄仙を抱くことが嫌になっていったのだ。
一度始まれば、宝玄仙との行為は際限がない。
盧成はやがて、宝玄仙との行為を何かと理由を作って逃げ回るようになっていった。
宝玄仙は約束と違うといって盧成をなじったが、盧成は仕事にかまけて、あまり家には帰らなくなった。
すると、宝玄仙は堂々と浮気をするようになった。
盧成が抱かない日々が続くと家に男を連れ込むのだ。
盧成はそれを糾弾するよりもほっとした。
宝玄仙がほかの男にかまけてくれれば、盧成はその分、宝玄仙との行為を免れるからだ。
宝玄仙が盧成以外の男と寝るのはもう当たり前になった。
最後の二箇月は、盧成は一度も宝玄仙を抱かなかった。
そして、今日、仕事から家に戻ると宝玄仙はいなくなっていた。
盧成はほっとした。
*
「行っちゃったか……。結婚に向くようなご主人様じゃないからね……。まあ、気が向けば戻ってくると思うけど、あんた、どうするの? だけど、離縁状というわけじゃないんだね」
沙那、孫空女、朱姫が暮らしている家に、宝玄仙が失踪したことを報せたところ、最初にやってきたのは孫空女だった。
ほかのふたりはまだ来ないので、盧成は、家の中で孫空女とふたりきりになっていた。
盧成はこれまでに経緯を説明した。孫空女たち三人には、かなり赤裸々な性の悩みの相談もしていたから、おおよそのことを察していたと思うが、とにかく、宝玄仙が家出をしてどこかに行ってしまったということを話した。
しかしながら、宝玄仙が残していったのは、あくまでも家出をするという内容であり、離縁状ではなかった。
手紙の文面で判断する限り、宝玄仙には離縁をする意思はなさそうだ。
そういう宝玄仙の結婚観というのはよくわからない。
「あんな狂ったような性生活は俺には無理だ。宝玄仙が戻ってくる場所にはいたくない。ここから出ていくことにする」
盧成は言った。
「別に出ていくことないんじゃないのかなあ……。あのご主人様のことだから、あんたがもう一緒に暮らしたくないというんなら、無理に同居はしないと思うよ。どうせ、ご主人様は、ご主人様の性の相手を毎日できないと一緒にいても仕方ないと思うだろうしね……。だから、せっかく仕事も見つけて、暮らしていけるだけの人生を見つけたんだから、それを満喫すれば?」
「優しいのだな、孫空女……。どうせなら、もっと考えてから妻を選べばよかった。お前のような心根のいい女を嫁にするんだったよ……」
盧成は自嘲気味に笑った。
「あたしかい? 別にいいけど……」
孫空女がそう言ったので驚いた。
「いいのか──?」
「だって、ご主人様があんたと結婚したときに、三人で話し合っていたのさ。ご主人様があんたを伴侶に選んだんなら、あたしらも伴侶になるつもりさ。あんたがどう思うかにかかわらずにね──。あたしたちはずっとその気だったよ。だから、あたしに限らず、好きな女を抱きなよ」
孫空女が破顔した。
「だったら、そうさせてもらうよ」
盧成の新しい生活が始まった。
*
孫空女、沙那、朱姫の三人が盧成の前に並んでいる。
三人は怒っているというよりは、とても残念そうな顔をしていた。
盧成には正直にいえば、彼女たちがどうして腹をたてたのか全くわからなかった。
孫空女を表向きの妻ということにしながら、事実上は、沙那、朱姫を含めた三人の女を妻にするという生活は十年続いた。
三人の女を交代で抱くというのは悪くなかった。
それも絶世の美女たちだ。
なんでも受け入れてくれる優しい孫空女──。
生真面目な性質に潜む淫らな身体という意外性の沙那──。
性の技の豊富な朱姫──。
三人は三人の味があり、盧成はその三人妻との生活を愉しんだ。
仕事もやめた。
生活に必要なものは三人が持ってくるので、盧成は生活のために働く必要がないのだ。
ただ自堕落に家にいて、好きなときに好きな女を抱く……。
それだけの生活をしていた。
そして、十年が流れた。
盧成は歳月にふさわしく外見が変化したが、三人の女の外見はまったく変わらなかった。
それどころか、年月とともに、ますます若くなるような気もする。
だが、盧成には魔が差したのだ。
この十年、盧成が相手をしたのはこの三人の女だけだった。
それに不満があったわけではなかったのだが、偶然に知り合った若い町娘をどうしても抱きたくなってしまったのだ。
三人には悪いが、孫空女たちを抱くようになって初めて、ほかの女を抱いた。
そして、それはすぐにばれた。
だが、それがこんなにも、彼女たちを傷つけることだとは思いもしなかったのだ。
この三人を抱くのはよかったのだが、さらにほかの女を抱くというのは、三人にとっては、とてつもない裏切り行為だったらしい。
「どうしても、許すことができないのです……。あなたとわたしたちの夫婦生活は、これで終わりにさせてください」
沙那が出て行った。
「残念だよ、あんた……。最初の頃のように、あたしたちだけを見ててくれたら、四人でずっと仲良く暮らせたのにね……」
孫空女も出ていった。
「これは、この十年であたしたちが貯めたもののすべてです。すべて差しあげます。さようなら」
最後に朱姫が出て行った。
残ったのは山のような黄金だけだった。
盧成は、自分が悪いのだからなにも言えずに、ひたすら慟哭を続けるばかりだった。
*
三人の嫁は失ったが、莫大な財は残った。
盧成は、寂しさを紛らわすように、その財を使って、贅沢放題を始めた。
財産があれば、多くの友人もできたし、縁者もできる。
女だっていくらでも手に入る。
盧成は、宝玄仙のことも、三人の嫁のこともだんだんと思い出さなくなった。
しかし、あれだけたくさんあった黄金も、三年も経つうちに、すっかりとなくなってしまった。
財がなくなれば、周りの人間も離れていく。
盧成は、いつの間にかすべてのものを失ってしまっていた。
*
「久しぶりね……」
橋の下で佇んでいた盧成は顔をあげた。
そこにいたのは、沙那だった。
「ああ、沙那か……」
一度は妻だった女だ。
しかし、この三年間、一度も会わなかったし、会いたいという気持ちも湧かなかった。
だが、こうやってなにもかも失ってしまうと、彼女たちがどんなに素晴らしい女性たちだったかというのがわかる。
失ってしまったものの大きさが身に染みて理解できた。
なによりも、こうやって、沙那は盧成に声をかけてくれた。
財があるときに周りにいた人間は、もう盧成には声ひとつかけようとしてくれないのにだ……。
「噂では聞いていたわ。あんたって、どうしようもない人ね」
沙那の言葉は辛辣だったが、その口調には愛情のようなものが籠っている気がした。
彼女の口元は笑っていた。
「お腹が空いていそうね……。その辺の料理屋で話でもしましょうよ……」
沙那が微笑みながら言った。
「そんな金はないんだ。俺はこのまま野垂れ死ぬことにするよ、沙那」
盧成は言った。
「馬鹿ねえ……。驕るわよ。いらっしゃい」
沙那は強引に盧成を橋の下から近くの料理屋に連れて行った。
料理屋に来ると、沙那は勝手に店の主人に料理を注文した。
沙那はちゃんと、盧成の好物を覚えていて、それが卓の前に並べられていく。
三日ぶりの食事に、盧成はむさぼるようにそれを食らった。
やがて、腹が落ち着いてきた頃を見計らったように、沙那がおもむろに口を開いた。
「もう、夫婦にはなれないけど、その気があれば、あなたの面倒を看てあげてもいいわよ。ただし、真面目に生活する気があればの話よ……。人生をやり直すつもりはある、盧成さん?」
「もしも、機会があれば、人生をやり直すよ、沙那──。いろいろな経験をしてわかったけど、俺の不幸は、すべて俺が呼び込んだものだったよ……。考えてみれば、俺は決してやくざな人間ではなかったんだ。親父が生きていたころには、質素に暮らしていたし、馬車馬のように働いたりしたが、その時代が一番充実していたな──」
「なによ、まるで人生が終わったみたいに」
沙那が笑った。
「いや、終わりだよ……。親父が死んで、分不相応な財を手に入れてしまった。それが俺の人生をおかしくしたのだと思う。あのとき、俺は財を使うことじゃなくて、ちゃんとした生活をすることを選ぶべきだったのだ……。だが、いまからではもう遅いな……。俺ももう四十もすぎて、五十に近い……。人生をやり直す機会は終わった」
「人生に遅いも、早いもないわ……。あなたがそう言ってくれるなら、わたしの伝手で、勘定方の役人の仕事を紹介をしてあげられると思うわ。少し離れた城郭なんだけど、行く気ある?」
沙那が言った。
*
順風満帆だった──。
盧成はこれまでの人生の失敗を取り戻すように、真面目な生活をしたし、仕事にも全力を尽くした。
勘定方というのは、役所の財政管理をする部署であり、ずっとむかし、金貸しだった父親に徹底的に鍛えられていたのが役にたった。
財務に明るい者というのは、かなり重宝された。
堅実な成果をあげて、盧成は仕事のうえでの信頼も得るようになった。
小役人の給与は高いといえなかったが、暮らしていくには十分なものだった。
五十のとき、盧成は紹介で結婚した。
盧成の年齢の半分しかない二十五の女だ。
真面目な盧成の仕事ぶりに、伴侶を紹介してくれる人がいたのだ。
これまでの結婚の失敗のこともあり、盧成はあまり乗り気ではなかったが、半ば強引に会わせられると、盧成は相手の女性が気に入ってしまった。
決して美人ではないが、笑っている顔がとても温かいのだ。
迷った末に盧成は結婚した。
婚姻の宴は、お互いの友人を呼んで催したが、あの四人の女も来てくれた。
四人とも、元夫の盧成の婚姻を心から祝福してくれた。
不思議なのは、あの四人の外見が少しも最初に会ったときと変わっていないことだ。
妻が四人は誰だと質問をしてきた。
盧成はどう答えようかと迷ったが、すかさず、沙那が昔からの友人だと言った。
みんなが祝ってくれた。
いい婚姻の宴だった──。
盧成はいまでも、そのときのことを思い出す。
*
あの婚姻の宴から、三十数年がすぎた。
昔は急ぎ足で歩いた道も、いまではゆっくりとしか進めなくなっていた。
二人目の息子の就職も決まり、家を出て行った。
この日は、たまたま一人目の息子夫婦が一歳になる孫を連れて遊びに来ており、盧成は孫を抱いて日向ぼっこをしていた。
「孫かい、爺さん?」
声をかけられた。
盧成は顔をあげた。
そこにいたのは、宝玄仙だった。
孫空女、沙那、朱姫の三人もいる。
相変わらず、昔のとおり、若くて美しいままだ。
もう、盧成はそれを不思議とは思わなくなっていた。
彼女たちは、そういう存在なのだ。
「ああ、孫じゃ……。久しぶりじゃな、宝玄仙……」
盧成は言った。
「かわいい子だね……。お前に似ているよ」
宝玄仙が盧成に抱かれている子供を覗き込みながら言った。
「わしに似たら大変じゃ……。長男は真面目だからな。長男の血をしっかりと引いて欲しいよ……。わしになんかに似ず、人間らしい正直な暮らしをして欲しいものじゃ」
盧成は言った。
「お前も随分と人間らしい生活をしていると思うけどね、盧成……。昔とは大違いさ」
宝玄仙が笑った。
「まあ、それが一番大切なことなんじゃがな……。わしは気がつくまでに、かなり時間がかかったがのう……」
「時間がかかろうが、それに気がつけば結構じゃないかい」
「まあな……。あんたらのおかげだと思う……。それにしても、宝玄仙、相変わらず、多淫な人生を送っているようじゃのう」
盧成は笑った。
離れている城郭のことなのだが、宝玄仙の噂も時折は耳にする。
まだまだ、大勢の男や女を相手に豊かな性生活を送っているようだ。
城郭でも有名な魔女だが、この女と一年近く夫婦生活をしたことがあるというのが、盧成のひそかな自慢だ。
それどころか、宝玄仙が従者のように使っている美女三人もまた、盧生の妻だったことがあるのだ。
「それが、わたしらしい人生というものさ」
宝玄仙が破顔した。
「そうじゃな……。それぞれに、相応しい人生というものがある。その分限を守るのがよい人生なのじゃろうな」
盧成は言った。
「ねえ、盧成さん……。足の下を見てもらえませんか?」
不意に朱姫が声をかけてきた。
盧成が言われたとおりにすると、足元に波紋のようなものが広がっていた……。
*
「さあ、雑炊を温め直したよ……」
老婆の声がした。
はっとした。
盧成は突然に見知らぬ場所にいた。
いや、見知らぬ場所ではない。
記憶が急激に蘇った。
ここは宝玄仙を襲おうとしたあの宿町の料理屋だ。
なにもかも、あのときのままだ……。
いや、そうではない……。
いまがそうなのだ。
盧成は束の間眠っていたのかもしれない。
そして、夢を見たようだ。
その夢の中で、盧成は宝玄仙の夫となり、次いで、孫空女、沙那、朱姫、三人の夫になり、たくさんの財を使い果たし、やがて、小役人になって遅まきながらも普通の伴侶を得て、ふたりの子供と孫に恵まれた。
その夢の中で盧成は五十年の人生をすごした。
「どうしたんだい、お前? なにか憑かれたような顔をしているねえ。朱姫の『縛心術』で心が楽になるかと思いきや、なんだか沈んだ感じになった気がするよ……。朱姫、お前の術は効果がなかったんじゃないのかい?」
宝玄仙だ。
孫空女、沙那、朱姫もいる。
「まあ、所詮、人はそれぞれですからね」
朱姫は肩をすくめた。
そして、水の入った杯をすっと手元に引っ込めた。
それにしても、盧成は当惑していた。
夢の中の五十年……。
目の前にたったいま老婆が置いていった雑炊があるが、微睡む前に朱姫が冷めた雑炊を温め直して欲しいと、店の老婆に頼んでいたのを覚えている。
つまり、あの五十年の人生は、眼の前に置かれた雑炊を温め直すあいだだけの時間でしかなかったのか……。
盧成は愕然としていた。
しかし、あの歳月はしっかりと盧成の心に刻まれている。
ふたりの子を産んでくれた最後の妻の顔もしっかりと覚えているし、さっきまで抱いていた孫の感触だって手に残っている。
「だったら、今度はわたしと一緒に二階に行くかい? この店の亭主に頼んで二階を借りて、わたしを抱いてもいいよ。殺されるのを覚悟で飛び込んだんだ。それに免じて、情けないお前の性の相手をしてやろうか?」
宝玄仙が笑った。
盧成は一瞬当惑したが、すぐに首を横に振った。
「いいえ……。よくわかりませんが、なにか憑き物が落ちた気分です。皆様にご迷惑をおかけして済みませんでした……。俺はこれから、なんとか人生を取り戻す努力をします。そして、今度こそ、人間らしい正直な暮らしをします」
盧成はきっぱりと言って、頭をその場でさげた。
宝玄仙が肩透かしを食って、当惑したような顔になった。
「……ふうん、まあいいよ……。じゃあ、そうしな……。確かに、それがいいさ。じゃあ、少しだけど金をやるよ。物は言うべし、金はやるべしだ──。自殺する気がなくなったのは結構だが、当座の金は必要だろうしね──。朱姫、いくらか路銀をわけてあげな」
「はい」
宝玄仙の命令に朱姫が元気に頷き、盧成の前にかなりの路銀を置いた。
「浅ましいが頂きます──。この恩は忘れません」
盧成はもう一度頭をさげた。
「なにを言っているんですか、盧成さん……。長い付き合いだったじゃないですか。五十年も付き合ったんだし……。でも、どんな人生だったんですか?」
朱姫が悪戯っぽくけらけらと笑った。
盧成はびっくりして朱姫の顔を見た。
ほかの三人の女が、不思議そうな顔で朱姫と盧成の顔を眺めた。
(第34話『一炊の人生』終わり)
*
本作品は、『邯鄲の夢』という中国の故事及び芥川龍之介『杜子春』をモチーフにしています。