223 馬曳き女奴隷
「冗談じゃないよ、まったく──。わたしは、宝玄仙だよ。八仙だよ。貴族だよ。皇帝とだって、一緒に食膳をともにするほどの身分なんだ」
孫空女は、黙ったまま苦笑した。
すると、沙那が口を開く。
「八仙っていったって、この国では通用しませんよ、ご主人様。天教の神殿なんて、ひとつもないような土地じゃないですか。それに、ご主人様は八仙の身分を返上なさったんですよね。そうすれば、ただの人ですよ」
沙那の口調には、なんとなく宝玄仙の憤りを愉しんでいる雰囲気もある。
「そうだよ、ご主人様。それに、今更東方帝国の貴族といっても、爵位は剥奪されているに違いないって、前に言ってなかったかい?」
孫空女も続けた。
「それでも、それなりの敬意をもって扱われるべき人間だと言ってるんだよ。わたしたちが女だから、なんだって言うんだよ。わたしは、こんなに馬鹿にされた思いになったのは初めてだよ」
「まあまあ、ご主人様。仕方がないよ。この国じゃあ、女であることは、一人前じゃないということらしいからさあ」
「なに悟ったことを言ってんだよ、孫空女。お前らしくもない。女だから泊められないって断られたときに、なんで暴れないんだい。怒って暴れ出せば、いくらでもけしかけてやったのに──」
「暴れるってなんだよ、ご主人様」
孫空女は困惑して、歩きながら振り返った。
宝玄仙はまだ感情が昂っているのか、不機嫌そうに顔を真っ赤にしている。
「沙那の影響かなんか知らないけど、いつの間にか、分別ついた大人のふりしやがって、元五行山の盗賊団の女頭領が呆れるよ。馬鹿にされたときには、渡してある
「む、無茶言わないでよ、ご主人様。こんな城郭の中心街で暴れたりしたら、あっという間に軍がやってきて、四人揃って捕縛されちゃうじゃないか」
孫空女は言った。
「それこそ、沙那の受け売りじゃないか。馬鹿のお前がそんな後先考えて行動してどうするんだよ──。いや、……ははあ、さては普通の宿を断られて、木賃宿に入れば、相部屋が普通だから、夜の奉仕がないと思っているね?」
宝玄仙が喚き散らす。
通りゆく城郭の人々が何事だろうとこっちを見るが、宝玄仙は素知らぬ顔だ。
孫空女も閉口した。
もっとも、宝玄仙が怒るのも無理はない。
この祭賽国の帝都に近い城郭である
この城郭で、祭賽国を横断するための手形の手続きをする必要があり、それについてはなんとか終わったのだが、今夜の宿を求めていくつか回ったところ、すべて満室だということで断られたのだ。
最初は、言葉通りの意味だろうと思っていたのだが、三軒目の宿で宿泊を断わられた直後、一行の眼の前で別の男客を受け入れるということがあった。
それで不平を言うと、宿の者は明らかに侮蔑の表情で、女連れのみの客は、宿の品位が落ちるから受け入れられないのだと言い直されたのだ。
この城郭内では、女だけの客を泊める宿はないだろうから、城郭の外に並んでいる木賃宿に行けとも言われた。
女だということだけで馬鹿にされたことで、宝玄仙は怒り心頭ということなのだ。
この祭賽帝国は女の地位が低い。
それについては、孫空女もこの国に入って以来少しずつ気がついていたが、国都の近くになるにつれて、それは顕著になった。
金があっても、男が商う店では物を売ってくれないし、席について食事をすることも断られる食堂も多い。
挙句の果ては、宿屋街の一斉宿泊拒否だ。
それで宝玄仙は不機嫌になった。
孫空女としては、いい迷惑だ。
宝玄仙の機嫌が悪くなれば、その腹いせは供である孫空女たちが負う。
もっとも、木賃宿なら、宝玄仙の言うとおりに、相部屋が当たり前だ。
寝台のあるような寝室で寝ることはなく、大きな部屋で床の上に寝具を直接敷いて寝ることになる。
四人だけになれないから、宝玄仙はいつもの性奉仕を孫空女たちにさせることができない。
確かに、久しぶりに平和な夜をすごすことができるだろう。
さっきから沙那は上機嫌だが、沙那もそう思っているに違いない。
「大丈夫ですよ、ご主人様」
すると、不意に朱姫が口を開いた。
孫空女はなんとなく、後ろを振り向く。
すると、宝玄仙の横を歩いている朱姫が、悪だくみを思いついたような表情で宝玄仙を見ていた。
孫空女は嫌な予感がした。
「なにが、大丈夫なんだい、朱姫?」
宝玄仙が応じた。
「相部屋は相部屋で愉しみ方もあるということです。沙那姉さんや孫姉さんの声が出せないようにしてから、ご主人様の道術で金縛りにして、遊べばいいんですよ。周りが他所の人でいっぱいの場所みたいなところで何回もこっそりといかされたりしたら、恥ずかしがり屋の沙那姉さんなんて、きっと泣いてしまいますよ」
「しゅ、朱姫──」
声をあげたのは一番後ろを歩いていた沙那だ。
孫空女もこの小娘はなんてことを言い出すのかと思った。
しかし、もう遅い。
振り返ると、宝玄仙の眼が輝いていた。さっきまでの不機嫌が吹き飛んで、すっかりと上機嫌の表情になっている。
「お前、最高だよ、朱姫」
宝玄仙がにんまりとした。
「ねっ、だから、ご主人様、あたしも今夜は責め側にしてくださいね。お願いですよ」
「当たり前だよ、朱姫。お互いに、何回相手をこっそりといかせられるか競争しようじゃないか。そうだねえ、相部屋だから、また、ほかの客と並んで、寝具だけをくっつけて寝るんだよね。じゃあ、沙那と孫空女を動けなくして、声も出せないようにするよ 」
「だったら、それから先は、お互いに道術はなしにしませんか。純粋に手管だけで責めることにするんです」
「いいねえ。ただし、おかしなことをやっていることを他の客にばれれば負け。ばれないように制限時間内に、たくさん相手をいかせた方が勝ちということにしよう。お前はどっちにする。沙那かい? それとも、孫空女にするかい?」
「そうですねえ……」
朱姫が考える表情になる。
「な、なに勝手なことを言っているんだい、朱姫──。それにご主人様。そ、そんなことやらないからね」
孫空女は声をあげた。
「そ、そうですよ。それにその話には、わたしたちの意見はないんですか?」
沙那だ。
「そんなものを聞く必要はないね。この国には、奴隷女に人権なんかないらしいしね」
宝玄仙がうそぶく。
「い、嫌です。そんな余所の人のいる場所で辱められるなんて」
沙那は真っ赤な顔になっている。
「精一杯嫌がってな、沙那。その方が愉しいからね。どうせ、拒否できないんだ。できるだけ、嫌がっておくれ──。じゃあ、朱姫、わたしは沙那にするよ」
「じゃあ、あたしは、孫姉さんですね。わかりました」
朱姫がにこにこして言う。
「か、勝手に決めんじゃないよ、朱姫──」
孫空女は朱姫を怒鳴りあげた。
しかし、そのとき、ふと眼の前に唖然とするような光景がやってきて、そちらに意識がとられた。
そして、“それ”が、だんだんとこっちに近づくにつれ、孫空女は目を疑った。
一方で、周囲の通行人が左右に散っていく。
その動きに合わせて、孫空女たち四人も大通りの脇に身体を寄せた。
人分けされた通りを向こうから一台の乗り物がやってきた。
「な、なんですか、あれ?」
朱姫が小さな声をあげた。
孫空女もまだ驚いていた。
やってきたのは屋根のない軽馬車だ。
ただ、尋常でないのは、その軽馬車を曳いている存在だ。
軽馬車を曳いているのは、身体の大きい三人の半裸の女だったのだ。
前に出ている真ん中の女と少し後方の残りの女の三人の女が、細い鎖で軽馬車に繋げられて、若い男を載せた軽馬車を引っ張っている。
上半身は裸で身体を隠しているのは股間を覆う革の半下袴と編上げの長靴だけだ。
その半下袴には腰の部分に留め具がついており、そこから曳き鎖が両側から伸びて軽馬車に繋がっている。
そうやって三人の女が汗だくになって、男を載せた軽馬車を曳いているのだ。
三人の両腕は背中側に束ねられていて革の袋のようなものに包まれている。
また、女たちの口にはあぶみが噛まされていて、それも馬車に乗っている男の手元に伸びていた。
「……馬鹿二郎殿だよ」
誰かがこっそりと悪態をつく声が孫空女の耳に入った。
龍家の二番目──。
龍二郎──。
そんな言葉も聞こえる。龍二郎は本当の名で、馬鹿二郎というのが綽名らしい。
「どこかの貴族のお坊ちゃんのようだね……」
道端に避けた人込みの中で、宝玄仙が舌打ちしながら呟いた。
「あれが奴隷の印でしょうか……?」
沙那が蒼白な顔で呟いた。沙那の顔が白いのは、あまりの怒りのために、顔の血が引いているのだ。長い付き合いになった孫空女にはそれがわかった。
「そのようだね」
宝玄仙が言った。
沙那と宝玄仙が言及したのは、軽馬車を曳く馬代わりにされている三人の女の腹にある紋章のことだ。
あの印はこの国の奴隷制度上の正式奴隷であることの紋章であり、すべての奴隷はそれを常に晒して生きなければならないと耳にしたことがある。
この祭賽国に入ってしばらく経つが、正式の奴隷に接するのはこれが初めてだった。
多くの奴隷は、屋敷内に閉じ込められていてさまざまな労働をさせられていることが多いらしく、表に出てくることは少ないのだ。
「まあ、他人のことをどうこう言えるわたしじゃないけど、あまりにもこれ見よがしに嗜虐をされると気分が悪くなるね」
宝玄仙が言った。
「あれは、嗜虐じゃありませんよ、ご主人様。ただの悪趣味です」
沙那だ。
孫空女には、嗜虐と悪趣味の違いは判らなかったが、沙那にとっては別のものなのだろう。
「それっ、時間がない、急げ──」
見物人の存在に気をよくしているのか、龍二郎が長い鞭を操って、三人の女の背中に振るった。
「んぐっ──」
「あぐっ──」
「んん──」
三人がそれぞれに悲鳴をあげるとともに、軽馬車の速度があがった。
よく見れば、三人の背中は古い傷も新しい傷も多く、みみず腫れでいっぱいだ。
また、傷は背中だけではなく、脚や肩にもある。
太腿にあるのは火傷の痕のようであり、これは比較的新しいのではないだろうか。
人間の女に曳かれた軽馬車が城門の方角に通り過ぎていくと、両側に散っていた人々も大通りに戻り、再び元の喧騒を取り戻す。
「あれが本物の奴隷……」
沙那が険しい表情で呟いた。
そして、女奴隷に曳かされる馬車は見えなくなった。
しばらく歩く。
すると、城門が見えてきた。
孫空女たちが向かおうとしている木賃宿が集まっている場所は城門の外にある。
この城郭の街並みは城門で終わるわけではなく、城門の外にも拡がっている。
貧民層の住居地区は、むしろ城門の外、いわゆる城外にあるので、貧しい旅人の宿泊する木賃宿もその地区に多くある。
「ご主人様、あれ──」
しかし、城門をまさに出ようとしたときに、朱姫がなにかを見て、立ちどまった。
孫空女もほかの仲間とともに、朱姫の示した方向に視線をやった。
「おや?」
かなり遠くだが、さっきの軽馬車が見える。
あの三人の汗だくだった女は、くつわに繋がった革紐を一本の立木に結ばれて、地面にしゃがみ込んで休んでいるようだ。
三人の女の繋がれた場所の向こうには、小さな牧のようなものがあり、そこには人だかりがしている。さらにその向こうには、大きな建物がある。
「あれは奴隷商館のようだね」
宝玄仙が言った。
「奴隷商館って?」
孫空女は訊ねた。
「奴隷を買ったり、売ったりする場所さ」
「こ、こんな街中で人間を売り買いするのかい、ご主人様?」
孫空女は驚いて言った。
「なにを驚いているんだい、孫空女。当たり前だろう。女奴隷はこの国の認めている正式の商品なんだ。街中で売り買いしなきゃどこで商売するんだよ。奴隷を買うような男は金持ちに決まっている。だから、ここのような大きな城郭の中には、大抵はあるさ」
宝玄仙が言った。
「そうか……。なんとなく、奴隷って、こっそりと売られているものだと思ったからね。こんなに公に売られているなんておかしく思ったのさ、ご主人様。言われてみれば当たり前か」
「まあ、東方帝国にも奴隷という存在はいるけど、売買の対象ではないからね。奴隷は手続きをして、正式奴隷にするけど、一度誰かの奴隷になれば、ほかの者の奴隷になることはない。一生、同じ人間の奴隷だ」
そう言えば、宝玄仙はまだ東方帝国の帝都にいるときに、一度だけ正式の奴隷を持ったことがあるということを孫空女は思い出した。
この前、御影に捕らえられて酷い目に遭った後で、宝玄仙が孫空女たちに詳しく教えてくれたのだ。
宝玄仙が奴隷手続きをしたのは
後にも先にも宝玄仙が正式に奴隷を持ったのはそれきりであり、ほかにはないそうだ。
孫空女や沙那や朱姫を奴隷だというが、実は奴隷の手続きはしていないし、本来の立場は女主人と旅の供というものだ。
「それにしても、あの人だかりはなんでしょう?」
沙那が言った。
人だかりは牧のような場所にできている。
こっちから見えるのは三十人くらいだろうか。
全員が男で女はいない。
ただ、服装はまちまちで、みんな通りすがりという感じだ。
牧のようになった場所の中を見ているようだ。
「競り……という感じでもないねえ」
宝玄仙が首を傾げた。
四人で人だかりの方向に向かった。
そして、集団の後方に加わり、人の頭と頭の間越しに、その向こうに視線をやった。
「あっ」
孫空女は声をあげてしまった。
女四人の存在に周りの男が不審の眼を向ける。
しかし、そんな周りの視線も気にならなかった。
低い垣根に囲まれた牧の中には、縄で拘束された五人ほどの女が、木杭に縛られて服を剥かれていた。
女たちはいずれも可愛い顔立ちをしていて、そして、泣き叫んでいる。
そばには、家畜に使うのと同じ焼きごてが準備がされていた。篝火の炎の中に焼印を押すための焼きごてが差されていて、それを奴隷商人の部下らしき男が二人ほどで扱っているのだ。
そばには椅子があり、さっきの龍二郎が座っていて、その横では奴隷商人の主人らしい男が恵比寿顔でその龍二郎のご機嫌をとるような態度をとっている。
なんとここで、女奴隷に焼印をつける作業が行われているのだ。
「腹だ──。龍家の奴隷は、腹に印章と決まっている」
龍二郎が笑って言った。
泣き叫ぶ女のひとりの腹に、篝火から取り出された焼きごてが取りだされる。
真っ赤になった焼印が両手両足を二本の木杭に縛られて拡げられている女の裸身に近づく。
「ひぎゃあああぁぁぁぁ──」
女の絶叫がして、肉が焼ける嫌な匂いがここまで漂ってきた。
そして、女は小便を垂れ流してその場で気絶をした。女の腹には、さっき軽馬車を引っ張っていた女たちの付けられていたのと同じ紋章が刻まれた。
「な、なんてことを……」
孫空女は惨たらしいその光景に歯噛みした。
国によって認められた行為とはいえ、罪のない女の身体に傷をつけて、奴隷にする……。
そんなことが許されていいのか。
しかし、その孫空女の耳に、また周囲の男たちのひそひそ話が聞こえてくる。
さすがは女人国の女奴隷……。
上級の性奴隷……。
性技も容姿も抜群……。
五人も一度に購えるのは龍家だからこそ……。
そんな会話をしている。
女人国の女──?
あそこにいるのは、女人国から浚われてきた女なのか──?
気がつくと孫空女は、見物の男たちを押し分けて人だかりの先頭に立っていた。
「待て──。そこにいるのは、女人国から連れてきた女なのかよ──」
孫空女は叫んだ。
「なんだ、お前は?」
龍二郎の横の奴隷商人が眉間に皺を寄せて言った。
「質問に答えるんだよ、お前。その女たちは、女人国の女なのかと訊いたんだ」
女人国の南域で発生した奴隷狩り団──。
南域の小さな町や村を襲撃しては、この祭賽帝国に売り飛ばせそうな若い女を浚い、密かに売っていた。
その活動の裏には、孫空女も捕えられたあの御影が暗躍していた気配があるが、とにかく、その楊鬼女という女頭領が率いる黒賊という奴隷狩り団は、女人国の軍により討伐されて、それに関わった者はことごとく処刑された。
しかし、襲撃のときに救出した三人の被害者以外は、すべて、売り飛ばされた後であり、浚われたままになっている。
その浚われたままの女の一部がこの目の前の五人なのではないだろうか。
「お前には関係ない、女」
奴隷商人が不機嫌な顔で応じた。
「待て、王英」
龍二郎がその奴隷商人を制した。
王英というのは奴隷商人の名前だろうか。
「お前は誰だ?」
龍二郎が椅子に座ったまま孫空女を見た。
「孫空女だよ」
孫空女は龍二郎を睨んだ。
「そうか、ならば答えよう、孫空女。この女奴隷は、この龍二郎が購入したものだ。この奴隷は“初女奴隷”でな。初女奴隷というのは、これまで誰の奴隷でもなかった女が、初めて奴隷になるというものだが、その初女奴隷には、最初に主人になった者が奴隷の紋章をつけなければならないことになっている。それがどうかしたのか?」
龍二郎が言った。
「そんなことを訊いているんじゃないよ。女人国の女かと訊いたんだ」
「あ、あたしたちは、女人国の者です。お願いです。助けてください──」
拘束されている女のひとりがそう叫んだ。
やっぱりそうだったのだ。孫空女の頭にかっと血がのぼった。
「……この女たちの出身がどこなのかということは知らんな。俺が知っているのは、この女たちが奴隷という商品であり、俺が買ったという事実だけだ」
龍二郎だ。
「女人国の女を誘拐して奴隷にするというのは、さすがの祭賽国の法でもご法度じゃないのかい?」
喋ったのはいつの間にか孫空女の横にいた宝玄仙だ。
気がつくと左右に荷を担いだままの沙那と朱姫もいる。
「知らんと言っているだろう──。もういい。美しい顔立ちをしている女だから相手をしてやったが、お前のような身分の者に、この俺が直接口をきくいわれはないのだ。もういいぞ、王英、続けよ」
「はっ、龍二郎様」
王英が合図をした。
再び篝火から取り出された焼きごてが次の女に向けられた。その女の泣き叫ぶ声が周囲に響く。
冷静だったのはそこまでだ。
短い時間で頭に蘇ったのは、あの奴隷狩り団の討伐のときに、御影に捕らえられて拷問を受け続けたときの記憶だ。
教えられはしたもののそんなことはいまのいままで、思い出さなかった。
宝玄仙が『治療術』で拷問を受けた孫空女を回復させたときに、壊された頭の線を繋ぎなおすために、その記憶を消してしまったからだ。
しかし、いまこの瞬間、それが一瞬だけ頭に入ってきた。
手足を寸刻みで刻まれ、『魔針』という魔具で拷問され、そして、窒息責め……。
挙句の果ては、白痴の妖魔との果てしない交合──。
その白痴の妖魔との性交で与えられる官能を歓びむさぼる自分……。
激情に襲われ、頭が真っ白になる……。
「もう、やめなさい、孫女──。死んでしまうわ」
突き飛ばすように沙那の身体が前に立ちはだかった。
はっとした。
なにが起こったのかわからない。
沙那が阻止している孫空女の眼の前には、鼻を潰されて、顔面を血だらけにしている龍二郎がいる。
その横には、やはり頭から血を流している王英もいた。
驚いて孫空女は周りを見回した。
大勢の男たちが倒れている。
孫空女の周りで見物をしていた男たちだ。みんな身体のあちこちを押さえて呻いていた。
その中には、王英の部下で女人国の女たちに焼印をしていたふたりの男もいる。
また、手足がおかしな方向に曲がっている。
倒れている男たちのほかには、周囲に人影はなくなっている。全員逃げ散ったのだろうか──?
「な、なにこれ……。あたし、どうしたのさ?」
孫空女は呆然として言った。
ふと両手を見る。両方の拳が血だらけだ。この状況を孫空女が作ったのは明らかだ。
「覚えてないの、孫女? あんた突然暴れ出したのよ」
孫空女を押さえていた沙那が、孫空女から手を離して言った。
沙那はまだ荷を担いだままだ。
おそらく、あっという間の出来事だったのだろう。
「ぐずぐずするんじゃないよ、お前たち。こうなったら、逃げるしかないよ。城門は目と鼻の先だ。逃げた見物人の連中が、すぐに兵を連れて来るに違いないよ」
宝玄仙だ。宝玄仙は、呆然としている女人国の女たちの拘束を次々に解きながら叫んだ。
「孫女、早く──」
沙那が孫空女を促した。
「う、うん……」
孫空女は、五人の女のうち、最初に焼印をされて気を失っている女を背負った。
「ついでに、これ、貰っていきます」
朱姫だ。朱姫は龍二郎の懐を探っていたが、貨幣らしきものを包んだ袋を見つけたようだ。それを自分が背負っている葛籠に放り込んだ。朱姫は、一行の路銀を管理しているのだ。
「いいのかい、そんなことして?」
孫空女は、まだ意識のない女を背負いながら朱姫に言った。
「いいも悪いも、これ以上、悪いことなんてないですよ、孫姉さん。孫姉さんは、なんの罪のない奴隷商人とその客の貴族、そして、見物人に突然襲いかかって大怪我をさせたんですから」
朱姫が言った。
「なんの罪もない──?」
またかっとなった。罪のないなんてことがあるものか。こいつらは、それこそ罪のない女人国の女を浚って奴隷にして焼印をつけようとしていたのだ。
「怖い顔をしないでください、孫姉さん。あたしは、この国の法の話をしたんですから……。でも、ありがとうございます。孫姉さんのお陰であたしも気分がすかっとしました」
朱姫が微笑んだ。
「逃げるわよ──」
沙那が叫んだ。
ほかの四人の女を連れて垣根の外に出る。
奴隷にされていた女たちは、引きはがされた衣類をそれぞれに身に着けている。
「待ちな──。こいつらも連れていくよ」
宝玄仙が叫んだ。宝玄仙が言ったのは、龍二郎に馬にされて連れられてきた三人の大女だ。突然の暴動に怯えた様子でこっちを見ている。
沙那が剣を抜く。
三人のいる場所に飛び込んだ。
女たちを拘束していた鎖や革紐などをことごとく切断していく。口に嵌められているくつわも取り払った。
四肢の自由になった三人がどうしていいかわからず立ち尽くしている。
「逃げるからついておいで、お前たち──。一生、あの貴族の坊やの奴隷でいたきゃ、そのままでいいけど。一緒に来れば助けてやるよ」
宝玄仙が言った。
しかし、三人は顔を見交わせている。
「ちっ──。もう、時間がない。行くよ」
宝玄仙が言った。
孫空女は駆け出そうと思った。しかし、どっちに逃げたらいいのだろう。このまま城門を通り抜けられると思えない。
「あたしは、行くよ──」
馬にされていた女のひとりが叫んだ。
「あたしも──」
「あたしも一緒に」
三人が口々に言ってこっちに駆けてきた。
「沙那──」
宝玄仙が沙那を見た。
どこに逃げればいいか考えろと言うことだろう。
しかし、沙那も当惑している。
あらかじめ準備していれば、宝玄仙の『移動術』で逃亡するという手もあったが、『移動術』を遣うには、『移動術』の出口をあらかじめ刻んでおく必要がある。
そんなものはもちろん存在しない。
「あんたらは、この城郭は長いんでしょう? 城郭内のどこかに貧民街のような場所はないの? 犯罪者が逃げ込むような狭くて物騒な場所よ──。簡単には軍も追ってこれないような」
沙那が三人の大女に言った。
「こっちに──」
三人のうちのひとりが走り出した。
みんながそれを追う。
そのとき、城門側から気配があった。
ふと見ると、兵の一団がこっちにやってくる。
「沙那、あたしが後ろにつく。ご主人様たちを頼むよ」
孫空女は叫んだ。背中に担いでいた女を三人の大女のひとりに託す。
ひとりが気絶した女を背負う三人の女、宝玄仙、荷を背負った沙那、そして、女人国の女たち、さらに朱姫と続く。
孫空女は最後尾を少し距離をおいて駆けながら、次第に速度を落とし、前の集団から距離を取った。
全員が路地のような場所に駆け込んだ。
孫空女は、その路地の入口で止まった。
孫空女に向かって兵が殺到した。
「『伸びろ』──」
孫空女は『如意棒』を伸ばして構えた。
兵は棒のようなものを持っている。剣を構える者もいる。
飛び込む──。
『如意棒』をふた振りしただけで、五、六人が倒れる。
残りが一斉に襲ってくる。
退がった。
また、『如意棒』を振る。
少し前に出てきた集団が倒れる。
先頭の集団に躊躇が見える。
孫空女は後方に駆けた。
路地の中に兵が駆け込んでくる。
孫空女は、とまっては倒し、そして、倒しては退がった。
しかし、きりがない。兵はどんどん増えてくる。
「ちっ」
いつの間にか、孫空女が後退しようとしている前も先回りされて囲まれていた。
気がつくと、孫空女は逃げ場をなくしていた。
しかし、沙那たちはどこかに逃げられたようだ。
孫空女の見たところ、城門から追ってきた兵は、すべて孫空女に引きつけることに成功したように思う。
だが、こうなってしまえば、さすがの孫空女もつらい。
孫空女が逃げ場を失くしたことがわかると、隊長らしき者が指図をして、路地を塞いで遠巻きに孫空女を包囲させた。ずっと後ろでは、はしごや網のようなものが準備されている気配もする。
孫空女は舌打ちした。
その時、ふと気がつくと、霧のようなものが立ち込み始めた。
だんだんとその霧が深くなり、周囲の視界を失くす。
いや、霧じゃない──。煙だ──。孫空女にはわかった。
「その煙を吸うんじゃない。屈みなさい──孫空女」
どこからか女の声がした。
聞いたことのない声だ。
とにかく、孫空女は地べたに這うようにしゃがんだ。
すでに煙はかなり濃くなっている。煙の充満している腰から上の部分は真っ白い煙により、完全に視界がなくなっている。
「こっちよ」
煙の下からか手が伸びた。
その手は見知らぬ女だ。大変な美女だが、知らない顔だ。
とにかく孫空女はその手を握った。
「行くわよ、孫空女」
その女が言った。女の顔がはっきりと見えた。
微笑んでいる。
手が引っ張られる。引かれるまま孫空女は、腰を屈めたまま駆けた。
「なんで、あたしの名を知っているのさ?」
孫空女は叫んだ。
「話は後よ――。みんな待っているわ」
女は孫空女を連れて、路地を駆け回る。いつの間にか、追っ手を振り切っていた。
だが、この女は何者なのか?
罠であるのか、救いであるのか判断できなかった。
「わたしの名は
駆けながら、その女がそう言うのが聞こえた。
そして、ただの壁のような場所に突然に開いた裏木戸のようなところに、孫空女を引っ張り込んだ。