帝都に近い大都市である北安の夜は長い。
一晩中開けている居酒屋も多い。
実は、奔破児の息のかかった者が経営している店であり、居酒屋の主人も奔破児の部下だ。
裏口から外に出る。
中では入れ替わるように、奔破児と同じ服装をした男がやってきて、奔破児の座っていた席で酒を飲んでいるはずだ。
ここからは演習場の脇を通過して、奔破児が管理している小さな家に向かうのだが、そこまでは建物はなにもない。
閲兵式などをするための城郭の中にある小さな演習場で、内部に民間人が入ることは禁止されている。
だから、奔破児以外に歩く者はいない。
もうすぐ、朝になるはずだが、まったくの闇だ。
夜目の利く奔破児は、その夜道を、急ぎその家に向かっていた。
家といっても、部屋がふたつ並んでいるだけの小さな庵だ。
周囲は庭になっていて、その周りは演習場の一部だ。
そこに宝玄仙を監禁して、千代婆に調教をさせている。
まだ五日目だが、さすがの千代婆だ。
宝玄仙の調教が進んでいるのははっきりとわかる。
四回目の朝だった昨日など、あの宝玄仙がお願いだから女陰を犯してくれと奔破児に狂ったようにねだったのだ。
そして、今朝には、さらに趣向を凝らしておくから愉しみにして欲しいという言葉もあった。
奔破児は逸る気持ちを抑えきれずに、自然と早足になる。
女にうつつをぬかすことなどあるとは思わなかった。
しかし、いまは、離れていても、はっきりとあの顔が頭に浮かんでくる。
宝玄仙──。
閻魔女騒動を調べる過程で、怪しいと睨んでいた幾つかの妓楼に潜入したときに出遭った女だ。
なかなか破天荒な女で、遊女ではなかったが、遊女のふりをしていて、奔破児に迫ってきた。
奔破児は、妓楼など初めての演技をしながら彼女を抱いた。
そして、なぜか、彼女にひと目で惹かれた。
彼女の身体を見て震えた。
本当に、初めて女を抱く少年のように、彼女の美しさに震えたのだ。
だから、あのときの動揺は演技ではなかった。
すべてがたおやかだった。
なぜか下腹部の恥毛はなかったが、それは非常に官能的だった。
肌は眩しいほど白く、舐めらかだった。
抱いてみると、さらに奔破児は驚いた。
奔破児を受け入れて包み込んで包み絞る女陰……。
奔破児の与える愛撫で奏でる淫情のこもった嬌声……。
そして、絶頂して達するときの美しい官能の表情……。
すべてが素晴らしかった。
だが、本来はそれで終わりのはずだった。
所詮、行きずりの女だ。
ましてや、奴隷主人たちに対する連続襲撃事件である閻魔女事件に関わる女だ。
それに、閻魔女事件には、道術遣いが絡んでいる。
その女が道術遣いであるのはすぐわかったし、その女が首謀者である可能性も高かった。
いずれにしても、金光院は、黒だと奔破児は判断した。
なにかがおかしかった。
ただの妓楼にしては、店の者がかもし出す強い気のようなものを多く感じた。
ほとんど賭けのようなものだったが、軍を入れて関係者を捕縛させた。
じっくりと調べてからというやり方は、奔破児のやり方ではなかった。
それに、この閻魔女事件は、もっと大きなものが背景にある気がする。
この国に対する叛乱だ。
そして、軍を指揮して、金光院を制圧した。
金光院を占拠して、内部を調査し、やはり、ここがなんらかの犯罪組織であることはわかった。
そして、ここには、ほかにもふたりの道術遣いがいた。
なによりも、女主人の九頭女──。
畿内随一の美妓と評判の女であり、ただの軍人にすぎない奔破児を相手にするような女ではない。
会うのは初めてだった。
だが、ひと目でこの女も道術遣いであり、この女こそ首謀者であることを確信した。
九頭女は大人しそうな女だったが、得体の知れないなにかを持っていた。
まったくの勘だったが、この手のことで奔破児は、勘を誤ったことがない。
そして、この女を絞りあげれば、必ず、この国を騒がしている大きな叛乱がわかる。
奔破児は、ここ数年、ずっと祭賽国で発生している各地の叛乱について調べていた。特に追っているのは梁山泊の叛乱だ。
あの叛乱は、表に見えるものだけじゃない。
見えないかたちで暗躍する裏組織こそ、連中の最大の武器なのだ。
その糸口をやっと掴んだのではないかと思った。
それと同時に、あの玉鈴という遊妓……それは、店で遊ぶための偽名であり、本当の名は宝玄仙だった……は、閻魔女騒動にはほとんど関与していないということも悟った。
奔破児が金光院が怪しいと睨んだきっかけとなった女だったが、九頭女を見つけたときにこの女が黒だと思ったのと逆に、奔破児が惹かれた遊妓については、こと閻魔女騒動については、この女を調べても無駄だと、奔破児の中のなにかが告げた。
九頭女に比べれば、まったく得体の知れないものはなにもない。
そのとき、奔破児の中のなにかが壊れた。
なにがなんでも彼女を自分のものにしたいと思ってしまった。
しかも、そのとき、その遊妓は、金光院で捕えた一味のひとりとして、奔破児が身柄を確保していた。
奔破児は決心した。
この女を自分のものにすることを──。
金光院から主立つ女のをすべてを軍営に地下牢に連れていかせるとともに、玉鈴、つまり、宝玄仙については、奔破児が個人的に保有している家のひとつに運ばせた。
だが、この女を奔破児のものにするということになると、問題がひとつあった。それは、どう考えても、この宝玄仙が奔破児に靡くとは思えなかった。
それは一度抱いただけでわかった。
この女は人の妻や妾になるような女ではない──。
だから、千代婆に託すことにした。
千代婆は、幼い頃からよく知っている老女で、幼い頃からの奔破児の唯一の理解者だ。
実家の屋敷で子守り女中をやっていて、ほかの者は嫌っていたが、奔破児は両親以上の親しみを持って彼女と接していた。
だが、自称していた没落貴族の女という素性が嘘で、実は、奴隷女の産んだ娘だということがばれて屋敷を追い出されていた。
奔破児は、自分が軍人となると、彼女を探し出してその身柄を引き取ったのだ。
彼女は、遊妓となるような女を調教するというようなことを生業にしていて、宝玄仙を調教して奔破児のものにするのであれば、彼女以外に奔破児には人材はいない。
軍の演習場を通る闇にぼんやりと灯りが浮かんだ。
奔破児が向かっている小さな庵だ。
そこで宝玄仙を監禁させて、千代婆に調教させている。
奔破児の心は自然と弾む。
宝玄仙を抱くことができるのだ。
一日に一度か、二度──。
九頭女たちを拷問して、沈み込むような気分に浸らなければならない奔破児の心の捌け口だ。
拷問というものはするのも、されるのもお互いの心を擦り減らす。
その擦り減らした心を宝玄仙に触れることで、取り戻すことができる。
この一日も忙しい一日だった。
九頭女たち金光院が閻魔女に関与していたことを明白にするために、一連の犯罪の事実を自白させようと思っていた朱姫とかいう道術遣いの娘が拷問死した。
それで、すでに衰弱している九頭女への拷問を一日伸ばし、治療と身体の回復をさせることにした。
だから、この日は奔破児も宝玄仙のいる家に長くいられるかと思ったが、夕方から夜にかけて、城郭内で小さな騒動が連発した。
ひとつひとつは他愛のない事件だったが、放火と思われるぼや騒ぎが三件、大きな喧嘩騒ぎが二件、そして、貴族の襲撃未遂事件が一件だ。
特に、その貴族の襲撃について、奔破児はかなりの労力を捉われてしまった。
その貴族というのは、馬鹿二郎という綽名の国都でも有名な奴隷扱いの酷い貴族だ。
このところの一連の閻婆者騒動で、国都の外に逃げていたのだが、閻魔女が捕えられたということで戻ってきたのだ。
その矢先に何者かの一団に襲撃された。
幸いにも本人に負傷などはなかったが、閻魔女事件を担任している奔破児は、その馬鹿二郎に呼び出されて説明を求められた。
祭賽国でも五指に入る名門の家柄である大貴族からの呼び出しを無下にもできずに、それにひと晩を費やせられた。
だが、どんなに忙しくても、この夜明けから早朝にかけてのいずれかの時期に、奔破児は宝玄仙に会いに行かなければならない。
この時間に宝玄仙の身体に奔破児の精を入れなければ、奔破児の精に含まれている魔力封じの効果がなくなってしまうのだ。
「千代婆──」
家の前に到着して、いつものと違う雰囲気に奔破児は首を傾げた。
これまで、奔破児がこの家にやってくると、千代婆は必ず、部屋の前で待ち受けて、宝玄仙をどのように扱えばいいかを言った。
奔破児がここですごすときの行為も宝玄仙への調教の一環であり、奔破児も千代婆を信頼して、すべてを千代婆に従っていた。
確かに、千代婆のいう通りにしていると、日に日に、宝玄仙は 追い詰められた痴態を奔破児に示すようになっていた。
千代婆の百戦錬磨の手管に、あの宝玄仙も追い詰められているのだ。
その千代婆が縁側に出てこない。
いつも、奔破児は、この縁側から上がってくるので、千代婆は、ここで奔破児に宝玄仙にどのような調教を進めているかを説明していたのだ。
奔破児は、縁側に一枚の紙が貼っていることに気がついた。
取り上げて読むと、部屋の中に宝玄仙をひとりだけにしてあるので、そのまま、なにも言わずにいきなり、宝玄仙を犯せと書いてあった。
なにかの趣向なのだろう。
千代婆は、隣室の小さな部屋に隠れているのだろうか──。
奔破児は、縁側から入る横戸を開けて中に入った。
果たして、宝玄仙がいた。
口に猿ぐつわをしている。
手錠付きの首輪で両腕を頭の後ろで拘束されていて、その首輪は、いつものように天井から繋がっている。
両脚は胡坐に組んで足首を縄で縛り、それを腰の紅い紐に密着して結びつけられている。
だから、両腿を腹部につけて、股間を曝け出している状態だ。
「いい格好だな、宝玄仙──。いつもながら、お前の苦しむ姿はそそるぞ」
奔破児は服をその場に脱いで全裸になった。
宝玄仙の身体には、おびただしい汗が浮かんでいて、その身体は小刻みに震えている。
おそらく、千代婆の淫油だろう。
千代婆は、女体の調教にさまざまな媚薬を使う。千代婆の得意の責めだ。
宝玄仙の股間は、真っ赤に熟れていた。
淫油か、宝玄仙自身の愛液だかわからないものでびっしょりと熟れている。
前戯など必要ない。
奔破児は 千代婆からの手紙による指示のとおりに、宝玄仙の女陰にいきなり自分の肉棒を突き挿す。
猿ぐつわを嵌められた宝玄仙の口から吠えるような言葉が発する。
しかし、布に遮られている宝玄仙がなにを喋っているかわからない。
肉棒で宝玄仙の女陰の内襞を激しく削る。
宝玄仙の表情が悲痛なものになる。
なにかを耐えるようだ。
構わず乱暴に宝玄仙を責めたてる。
やがて、宝玄仙は支えてきた堰が崩壊するように、泣き声とともに呻きのような嬌声を猿ぐつわの下であげた。
奔破児はそれに合わせて、込みあがった淫情の塊りを宝玄仙の女陰に注いだ。
「んんんぐぐぐっ──」
宝玄仙の顔が不意に歪んだ。
「うわあっ」
奔破児はびっくりした。
次の瞬間、宝玄仙の肛門から大量の糞便が噴き出して、奔破児の身体を汚物で汚したのだ。
「ち、千代婆、来てくれ──」
奔破児は大声で、千代婆を呼んだ。
そして、とりあえず、汚物まみれの宝玄仙から身体をどけようと思って驚愕した。
抜けない──。
汚物まみれの宝玄仙の股間から、どうしても奔破児の一物が抜けていかないのだ。
「千代婆──」
もう一度叫ぶ。
やはり、千代婆は出てこない。
そして、身体の下の宝玄仙が涙を流しながら懸命になにかを叫んでいる。
奔破児は、なにか嫌な予感がした。
これは、なにかの道術ではないか──?
急いで、宝玄仙の脚を縛っている縄を解く。
とにかく、一物を抜かなければと焦った。
特に締めつけられているということはない。
すでに、精を発した奔破児の肉棒はかなり萎えている。
しかし、まるで密着したように抜けないのだ。
いずれにしても、いくら宝玄仙といっても汚物は汚物だ。
臭気もたまらない。
その宝玄仙の糞便で、奔破児の下半身は酷い状況だ。
縄を解いている間に、宝玄仙の指に嵌まっていた指輪が突然に砕けて外れた。
びっくりしたが、おそらく、なんらかの道術の仕掛けだと悟った。
その途端、身体の下の宝玄仙の姿が、千代婆の年老いた身体に変身した。
「うわああああああああ──」
奔破児は絶叫した。
暴れたが、奔破児の股間が千代婆から離れない。
すっかりと萎えた一物がまだ、千代婆の女陰に張りついている。
思い出して、奔破児は千代婆の口を塞いでいる猿ぐつわを外した。
「お、お坊ちゃま──、申し訳ございません。宝玄仙に逃げられました。これは連中の仕掛けた『道術錠』の仕業です」
千代婆が泣きながら言った。
「ま、『道術錠』──?」
奔破児は叫んだ。
『道術錠』というのは、道術遣いの遣う特殊な錠前で、解錠や施錠に特殊な条件付けを行う。
鍵ではなく、なにかの行動などを鍵の代わりにするのだ。
かなりの高位術だ。
「……あいつらに、さっきの指輪の霊具で、宝玄仙に変身させられて、それで浣腸をされたのです。申し訳ありません。お坊ちゃまが精を放ったときに、あたしの肛門が開くようにされておりました──」
千代婆は悲痛な表情をしている。
あいつらとはなんだ──?
つまりは、宝玄仙が逃亡?
だが、そんなことはいい。
それよりも、千代婆から離れられないこの状況をなんとかしなければ──。
「千代婆、これも『道術錠』だな? とりあえず、俺の性器を抜くために、宝玄仙はどんな解錠の条件を付けていったのだ──?」
「お坊ちゃまが、あたしの中にもう一度、精をすることです──」
千代婆は、汚物にまみれた姿でまた、泣き喚く。
「精を放つ──?」
その言葉を聞いて奔破児は途方に暮れた。
すでに一度放っている。
そして、奔破児の一物は完全に千代婆の女陰の中で完全に萎えている。
身体の下には、汚物まみれの老女の裸体だ。
その中に精を放つということなどできるのだろうか……。
鼻が曲がるような臭気を感じながら、奔破児は置かれた状況を理解しはじめて、眼の前が暗くなるような気持ちになった。
*
地下牢に下る階段を下りきると、鉄格子があり、番兵がふたり鉄格子の扉の向こうに立っていた。
その奥には、燭台の灯りでその奥の牢番兵の詰所が浮かんだ。
「おっ、新入りか?」
ふたりの城郭軍の兵で挟んでいるひとりの女囚らしき女を見て番兵が破顔して言った。
「明るくなるまで、空いている牢に入れておいてくれ。どうやら、馬鹿二郎の襲撃に関係している女らしい。上で訊問をしていたんだが、とりあえず続きは明るくなってからということになった」
そう言いながら、書類を鉄格子越しにかざす。
番兵は、書類については一瞥だけし、ぐったりと身体を両側の兵に預けている女囚の顔を覗き込んでいる。
「別嬪だな」
番兵のひとりが言った。
「いいから、開けろよ」
そう言うと、もうひとりが腰から鍵束を出して、内側から鉄格子の扉を開いた。
ここは内側から開く門だが、もう少し上の軍の詰所から下に階段に降りる部分では、逆に向こうからでなければ開かない仕掛けになっていた。
女囚が万が一にも牢番を倒して、外に出ようと思っても、上に昇る階段の先で阻まれる。
それは、逆も同じだ。
外から侵入しようと思って、営舎側から下っても、ここは内側から鍵がかかっているので、ここで阻まれる。
もっとも、ここは軍営のど真ん中であり、脱走も潜入もほとんど困難だ。ここのほかに出入の経路はない。
鉄格子が音を立てて開く。
「ここから先は、俺たちの管轄だ。こいつは預かるぜ」
牢番が女囚を受け取った。
「いまから、その女を犯すのかい?」
一緒に女囚を抱えてきた兵が言った、
「女囚を犯すのは禁止されていないからな。羨ましければ、お前たちも女囚牢の番兵になるんだな」
番兵が鉄格子の扉を閉めて、ふたりを阻もうとする。
そこにさっと脚を差し込んで防ぐ。
「なにすんだよ? お前たちもやりたいのかい……」
牢番兵のにやけ顔がこっちを見る。
城郭軍の兵に変化をしていた孫空女の拳がそいつの腹に喰い込んだ。
「うぐっ」
眼の前の番兵がその場に崩れ落ちる。
もうひとりも、兵の姿に変身していた
朱姫は支えを失って床に倒れている。
孫空女は、自分の姿を国軍の兵士にしていた『変化の指輪』を解いた。
闘うときには、自分の身体がやはり動きやすい。
連行される女囚に変化をしていた朱姫と、孫空女とともに女囚を運んできた兵に変身をしていた蔡美が、それぞれに変身を解いた。
「伸びろ──」
孫空女は『如意棒』を耳から出して構えた。
そのまま、倒れた番兵を飛び越えて、番兵の詰所に飛び込む。
後方では、蔡美が内側から地下牢への門の鍵をかけ直している。
詰所にいたのは五人ほどだった。
三人はまだ居眠りをしていて、異変に気がついていなかった。
残りのふたりは、大声を上げて剣を構えたが、孫空女の相手ではなく呆気なく倒れる。
その騒動で起きた三人も、『如意棒』で壁に叩きつける。
これで、地下牢の占拠が完成した。
「蔡美──」
孫空女は、何度も牢番に化けて潜入しているので、各牢の鍵の場所は知っている。
孫空女は、各部屋の格子を開く鍵束を蔡美に渡した。
「結界を結び終わりました」
床に座っている朱姫が顔をあげた。
道術陣の出入り口の結界を刻み終わったのだ。
あらかじめ準備がされていた拠点に刻んでいた道術陣とその魔法陣が結ばれ、そこから待機していた蔡美の手の者たちが十人ほど続けて、わらわらと出現してきた。
「蔡美、急くだろうけど、九頭女は最後に救出してよ。九頭女の部屋だけは上からの監視穴があるんだ。九頭女に異変があれば、上の兵がこっちに雪崩れ込んでくるから」
孫空女は叫んだ。
「わかっている──。じゃあ、朱姫、お願い」
「はい」
朱姫が蔡美に背負われる。
「じゃあ、孫姉さん、気をつけて」
朱姫も言った。
蔡美と朱姫、そして、手の者たちが奥の部屋に駆けていく。
彼女たちは手筈通り、まずは、ここに収容されている九頭女の店の者たちを解放して、向こうで、改めて朱姫が刻んだ『移動術』の結界で、また、別の場所に跳躍する。
九頭女の救出は最後だ。
今朝の状況では、二十人ほどいる九頭女の手の者たちは、弱っているが衰弱しているというほどではない。
だが、拷問を受け続けている九頭女はひとりでは歩くどころか、動くこともできないかもしれない。
とにかく、そのあいだ、孫空女はここで、上から兵がやってくるのを足止めする。
地下牢への出入り口はここだけだ。
ここを押さえれば、城郭の軍が何万人いようとも、こっちにはやってこれない。
固い警戒が、道術を前にしては、逆に仇となるということだ。
しばらくすると、地下牢の奥から喧騒が聞こえ始めた。
脱走劇が始まったのだ。
やがて、次第に静かになり、不意に孫空女の前が騒がしくなった。上から城郭軍の兵たちがわらわらと降りて来たのだ。
「来たね……」
孫空女は呟くと、『如意棒』を構える。
しかし、兵たちと孫空女の間には、閉じられている鉄格子がある。
兵たちは罵りながら、格子を叩いたり、孫空女に鉄格子越しに剣や小槍を投げたりする。
孫空女は、それをなんなく払い避ける。
「孫空女、九頭女姉さんは救出した。ほかの者もよ。もういいわ」
奥から蔡美が駆けてきた。
「朱姫は?」
孫空女は振り返らずに言った。
眼の前の鉄格子の前には、すでに何十人もの兵がいる。
大騒ぎで、金切道具で鉄格子を切ろうとしている。
もうすぐ、こっちにやって来るだろう。
「朱姫は、すでに九頭女姉さんや、ほかの者と一緒に、金光院に戻ったわ。向こうの『移動術』の結界はすでに閉じられた」
蔡美はささやいた。
「わかった」
孫空女は、朱姫が最初に刻んだ方の道術陣に向かって、蔡美と一緒に駆けた。
こっちは、朱姫がいなくても孫空女たちが跳躍できるように、朱姫が道術を残してくれている。
こうなっていれば、霊具を使うのと同じだ。
孫空女の体内の霊力で、十分に扱うことができる。
地下牢に入る鉄格子がやっと開いた。
兵隊が一斉に雪崩れ込む──。
そのときには、孫空女は、蔡美と一緒に結界に飛び込んでいた。
周囲の喧騒が一瞬で消滅する──。
気がつくと、蔡美の船宿だ。
もちろん、部屋には誰もいない。
蔡美の船宿は、金光院と並ぶ、梁山泊と連中が呼んでいる叛乱の裏の活動拠点だった。
九頭女が捕えられて以来、ここが九頭女たちを脱走させるための工作の拠点となっていたが、それも今日で終わりだ。
いまは、手の者の全員が九頭女たちを国都から脱走させるための工作に関わっており、それが成功すれば、ここはそのまま捨て置かれるらしい。
とにかく、北安に作っていた梁山泊の拠点は、一度、すべて撤収する──。
それが、彼女たちの結論らしい。
そのことについて、孫空女は関与もしていないし、興味もない。
ただ、孫空女にとって重要なのは、九頭女たち叛乱組織の要員も、宝玄仙や沙那や朱姫や孫空女も、まだ北安の城郭内にいるという事実だ。
とりあえず監禁からは脱出できたとはいえ、城郭を出ることができないとなんにもならないのだ。
いずれにしても、脱走のための拠点は、すでに金光院に移っている。
夜のうちに、金光院に地下から入る経路から、孫空女や蔡美の手の者が入り込み、内部にいて金光院を占拠していた国軍の隊を一網打尽にしていた。
それは鮮やかに行われたので、まだ、国軍は金光院が叛乱組織に奪い返されたことに気がついていないようだ。
金光院の外で見張りに立っている兵についても、朱姫の『縛心術』が効いていて、まったく外部からは、その異変がわからないはずだ。
金光院の再奪回を行うのと並行し、その動きを攪乱するために、城郭内でぼや騒ぎや喧嘩騒ぎ、ついでにあの馬鹿二郎の襲撃の真似事までやった。
それも沙那の計画で行った蔡美たちの仕事だ。
「すべては、沙那の描いた手筈通りに動いているわ。改めて、凄い人だね。あの人──。もちろん、あんたもだけど」
蔡美が言った。
「あたしは、言われたとおりに暴れているだけさ、蔡美」
孫空女は言った。
船宿を出る。
まだ夜明け前。十分に暗い。
城壁に向かって駆ける。案内は蔡美だ。
「ねえ、あんたたち、本当にあたしらの戦いに加わってくれないの?」
蔡美が駆けながら言った。
「さあね。ご主人様次第だけど、でも、うちのご主人様はそういうことに興味ないんじゃないかなあ」
宝玄仙が、祭賽国の奴隷制度や役人の腐敗への叛乱などに加わるとは思えない。
この国の女奴隷の境遇に同情はしても、国のあるべき姿とか、腐った国の制度の不正を糺すとか、そういうようなことに宝玄仙が参加するというのは考えられないのだ。
そういうしがらみの嫌いな女だ。
「残念だよ。まあ、諦めないけどね。あたしの手の者も沙那にあれこれと言ったけど、彼女たちもこれだけ、沙那の読み通りに物事が進むと、沙那についての評価を改めざるを得ないだろうし」
「まだだよ、蔡美。まだ、なにも成し遂げていないんだ。全員で国都を脱して、それで初めて作戦は成功だよ」
「確かにね」
しばらく駆けて、蔡美たちがずっと以前から眼をつけていた城壁の場所に辿り着いた。
「ここかい?」
孫空女は、『如意棒』を出して、構えながら言った。
「ああそうだよ。ここは前から眼をつけていた場所のひとつさ。国都の堅固な城壁だけど、物理的に弱い場所はいくつかある。そういう場所を数年かけて見つけ、あるいは、作っておいたんだ。それに、ここは、巡回や見張りの兵の死角になる場所さ」
「ねえ、蔡美、金光院に関わる女や囚人が一斉に脱走したことがわかったら、軍はどれくらいで追ってくると思う?」
孫空女はなんとなく訊ねた。
「すぐだよ。金光院に対する軍の襲撃もそうだった。ここの軍は、なんだかんだと言っても素早い。ここの城郭軍は精強だよ。それに、ここに近い帝都に駐留している軍は数万だ。それも考慮すれば、一万くらいはすぐに動く」
「ふうん」
それも沙那の読みの通りだと孫空女は思った。
沙那も城壁を脱走したという痕跡があれば、少なくとも一万の軍が素早く追ってくると言っていた。
この国で数年間、工作を続けている蔡美の読みと、半月ほどしかすごしていない沙那の読みが合致するというのは凄いことなのだろう。
蔡美などは、沙那に何度も碧波潭の幹部として参加して欲しいと、沙那自身に詰め寄っていて、沙那を閉口させているようだ。蔡美は、沙那が、宝玄仙というひとりの女に仕えるだけの立場であることに憤りさえ感じているようで、沙那のような人材は、人の上に立ち、なんらかのことを成し遂げるべき人材だと仕切りに口説いている。
「いくよ」
孫空女は城壁に向かって構えた。
そして、『如意棒』の先を渾身の力で城壁に打ち込んだ。
地響きがして、眼の前の城壁の石が吹き飛ぶ。人がひとり通れるくらいの大きさで穴が開いた。もっとも、まだ城壁の向こう側に突き抜けてはいない。
「兵が来るよ」
蔡美が言った。
「わかっている──。伸びろ──」
孫空女は、さらに『如意棒』を伸ばす。
「うりゃああっ──」
掛け声とともに、崩れた穴の中心に『如意棒』の先を叩きつける。
「届いた──」
蔡美が歓声をあげた。
眼の前の城壁に、人ひとりが通り抜けられるくらいの穴が開いている。
激しい物音に気がついた城壁の衛兵たちがやってくるのが見えた。
孫空女は蔡美とともに、再び夜明け前の国都の城郭に、その身を埋もれさせた。