272 【前日談】さらわれた王姫
国都から
海岸沿いに東に向か八里(約八キロ)進み、
十騎程の供回り従えた車輪の付いた輿車が木々のうら枯れた山あいの道を海溜に向かい進んでいた。
国軍の女人隊に将校として所属して最初の任務になる。
輿車に乗る
逗留は半月ほどになるはずだ。
もっとも、それは、金聖姫の容態よっては変化する可能性はある。
今回の旅行は、このところ体調のすぐれない金聖姫の湯治が目的なのだ。
だから、湯治の具合によっては伸びることもある。
「長女金」
輿車の中から金聖姫が声をかけてきた。
「なんでしょうか、姫様?」
長女金は輿車に馬を寄せる。
「人通りを感じなくなりましたね?」
「この先で里人に遭うこともないと思います。道は海溜で行き止まりですから」
長女金は馬上のまま応じた。
「あとどのくらいでしょうか?」
「もうすぐです。二里(約二キロ)というところですよ」
「そうですか──。でも、揺れに疲れました。休憩しましょう」
「えっ、し、しかし……」
長女金は困った。
国都から出発して、この山あい道以外は平坦で、道のりはわずか十数里だった。
通常の行程であれば、本来は半日もかからない距離だ。
しかし、今日の輿車のこの姫は、なにかと休憩を取りたがり、朝に出発したこの行軍も、もう陽が傾こうとしているのに、まだ数里を残している。
このまま進んでも四半刻(約十五分)もかからないが、休憩ということになれば到着までに陽が暮れるかもしれない。
「疲れたのです。止まりなさい、長女金──」
輿車から強い口調が返ってきた。
長女金は嘆息した。
「……では、
長女金は、最前列を進む春嬌と話すために、馬を輿車から離れて前に進める。
「春嬌様──」
先頭を進む春嬌に追いついた長女金は、春嬌に馬を並べた。
馬上のまま頭を向けた春嬌に、長女金は事情を説明した。
春嬌は、国王の嫡女である金聖姫に直接仕える近習であり、平素から金聖姫の近辺を警護する役割を持つ女性戦士だ。
湯治場に向かうということで、長女金以下の十数騎の護衛がついたが、常ならば護衛には、この春嬌ひとりが就く。
春嬌の武辺は、長女金どころか、ここにいる十数騎が束になってもかなわない実力があるのだ。
また、宮廷魔導師のひとりでもあり、道術も遣うことができる。
海溜における護衛隊の指揮官は長女金だが、全体の指揮権は春嬌が持っている。
この一隊の行動については、長女金ではなく、春嬌が決定し、その全体責任も、春嬌にある。
長女金の任務は、護衛隊を指揮して、春嬌に従うこととなっていた。
「仕方ないわね。じゃあ、休憩にしましょう」
春嬌は言った。
意外な言葉に長女金は驚いた。
残りわずか二里(約二キロ)である。
湯治場にある王族の宿舎までもう少しだ。
しかし、ここで休息を取れば、間違いなく陽は落ちてしまうだろう。
そして、右手には山脚の急な斜面が迫り、街道の左手は切り通しの高い崖になっている。
周囲を樹木が生い茂り視界が悪いのも気になった。
休息をとるにしては不向きな場所だ。
長女金は、その辺りの事情を含めて、金聖姫に親しい春嬌が、金聖姫を諌めてくれるものと思っていたのだ。
「しかし、春嬌殿──」
長女金は、このように視界を樹木で隠された山の隘路で行軍を止めるのは危険ではないかと主張した。
「仕方ないわ。金聖姫様の健康が最優先だから」
それを言われてはどうしようもない。
仕方なく長女金は、隊に停止を命じた。
騎馬の女兵たちに命令して警護のための展開をさせるとともに、自分は春嬌とともに輿車に向かった。
輿車には、絶対に輿車を離れない四騎の騎兵に周囲を護らせている。
四騎は騎乗のままだが、長女金と春嬌は馬から降りた。
輿車の戸が横に開く。
「降ります」
国都でも名高い美貌をもつ金聖姫が輿車から降りようとする。
矢避け、道術除けの施された輿車から出るのは危険だと思ったが、春嬌がさっと梯子を取りつけて金聖姫の手を取った。
金聖姫は輿車から降りて地面に立った。
「ここからは歩きたい。輿車の揺れは堪りませぬ」
金聖姫は言った。
「そ、それは──」
長女金は慌てて阻止しようとした。
輿車の中にいる限り多少の無頼の襲撃にも対処できる。
そのための対処もしている。
しかし、警護対象の金聖姫に、その輿車から出て歩かれては、警護が複雑になる。
賊徒の類いであれば、相手が百を超えようとも、男の兵に勝るとも劣らぬ国軍女人隊の精鋭を揃えており心配はしていない。
だが、このところ、国都周辺でも妖魔が出現するという噂が多くあり危険だ。
妖魔は道術を遣うからだ。
湯治場に着けば湯治場全体に、移動中であれば輿車そのものに、妖魔除けの道術が刻んであるが、金聖姫が外に出ては、その妖魔除けの護りがなにもないことになる。
「歩いた方が楽なのですか、姫様?」
春嬌が言った。
「そうです。楽なのです」
「仕方ありませんね」
「お、お待ちください」
金聖姫の我が儘を許してしまいそうな春嬌を長女金は慌てて諌めた
。
「なんなの、長女金?」
金聖姫は不満を表情にはっきりと表して長女金に視線を向けた。
「け、警護責任者として承服できません。そのようなことをして万が一なにかがあれば……」
「万が一があれば、それを防ぐのがあなたの役目でしょう?」
金聖姫が長女金の言葉を遮ってそう言った。
「もちろんそれを果たします。しかし、妖魔の襲撃や、道術遣いを含める賊徒の襲撃という可能性もあります。相手が道術を遣って姫様を襲った場合を想定して警護要領を定めておりますが、姫様が外を歩かれる場合はそれが成り立ちません。もうすぐ海溜に到着します。もう少しですから、耐えていただけませんか?」
長女金ははっきりと言った。
誰がなんと言おうと、これについては妥協するつもりはない。
「しかし、長女金──。ここは姫様の容態が最優先であり……」
春嬌が困惑した顔をした。
だが、長女金もまた当惑していた。
春嬌は魔導師にして、国都一の女傑としての武辺を持つだけでなく、美しい美貌に備わった高い知性によって、国王にも信頼の厚い有能な国軍の高級将校だ。
その春嬌が、今日に限っては、金聖姫の安全を考慮しない行動ばかりを指示している気がする。
一体全体どうしたというのだろう?
「とにかく、承服できません。姫様は、輿車にお乗りください。それと、すぐに出立します」
長女金は大声をあげた。
後で処分されてもいいと思った。
こんな場所で陽が暮れるのを待ってから進むなど、国族の嫡女の警護を預かる者として、どうしても承服できない。
なぜか金聖姫と春嬌が顔を見合わせて困った表情をした。
そのとき、なにかの殺気を感じた。
「密集隊形──」
長女金は叫んでいた。
すでに剣を抜いている。
咄嗟に金聖姫の前に馬を引っ張って壁を作ろうとした。
しかし、すでに遅かった。
手綱を掴んでいる馬が棹立ちになっている。
胴体に数本の短い矢が突き刺さった。
長金女は手綱を離した。
態勢を崩した馬がいななきながら崖下に落ちていく。
「毒矢だ──。気をつけよ」
長女金は剣を抜いて、輿車の前で呆然としている様子の金聖姫の前に春嬌とともに立った。
春嬌もすでに剣を抜いている。
「妖魔の気……」
春嬌が呟いた。長金女は緊張した。
そして、周囲を見回して状況を確認した。
輿車の直接警護の四騎は、さっきの襲撃で一斉に馬を毒矢で射られたらしく、すべての馬が横倒しになっていた。
だが、女兵そのものは無事なようだ。
その四人が輿車に背を向けて剣を抜く。
中心に輿車と長女金、金聖姫、春嬌の三人だ。
警戒のために一度展開させつつあったほかの騎馬は、長女金のさっきの命令により、こっちに集まってくる。
「持ち場を離れるな。展開せよ──」
春嬌が大声で叫んだ。
集まりかけていた騎馬が戸惑ったように馬をとめた。
あらかじめの打ち合わせと異なる春嬌の号令に困惑しているのだ。
長女金もまたびっくりした。
全体の指揮権は、確かに春嬌だが、護衛隊に対する直接指揮権は長女金にあるのだ。
春嬌は、長女金を通して指示をすべきであり、長女金の部下に直接に指示をするのは権限外のはずだ。
それに、この場合は……。
そのとき、集まりかけた騎兵と輿車の間に、すっとなにかが出現した。
それが輿車を囲む十匹ほどの妖魔だとわかったのは、次の瞬間に急に身体に衝撃を感じて、地面に触れ伏させられてからだ。
強烈な空気の圧力が加わり、長女金は地面に押し潰されたのだ。
「しまった、結界を張られたわ」
長女金と同じように地面に押しつけられている春嬌が呻くように言った。
長金女は懸命に周囲を確認した。
金聖姫とともに、ほかの四人の女兵も地面に倒れている。
輿車を囲んでいるのは、正確には八匹だと悟った。
そのうちの四匹がこちら向きに道術をかけるような態勢で手を前にかざしている。
額に角のある巨漢の妖魔だ。
その四匹の道術が集まって、この結界を張っているのだろう。
そして、こっちを向いている四匹と背中合わせに、さらに四匹が外向きに立っている。
その四匹もまた結界を作っているのようだ。
さらに外側の味方の護衛が、剣を向けたまま途方に暮れたような様子で立っているのが見えた。
その四匹は、外側の護衛が近づけないように、逆に結界の道術で見えない壁のようなものを作っているのに違いない。
賊徒を警戒して、隊を拡げていた隙を突かれて、中間に妖魔の出現を許してしまった。
長女金は舌打ちした。
不意に眼の前になにかが出現した。
新しい妖魔だ──。
「姫様、輿車の中に──」
長女金は地面に押しつけられたまま叫んだ。
しかし、その金聖姫も春嬌も地面に倒れているのだ。
どうしようもない……。
「お前たちは誰だ? どうやら、人間の中の高貴な身分の者を連れ歩いている途中のようだが?」
少しだけ身体を押し潰していた力が緩んだ。
長女金は身体を起こしてしゃがんだ態勢になった。
しかし、それ以上は身体を起こせない。
金聖姫と春嬌もまた、上半身を起こしている。
眼の前にいるのは、一匹の青年妖魔だ。
異常なほどに肌が白いのと、額に小さな角がある以外は、人間の若者と同じように見える。
茶色い着物に黒い帯を巻いていて、腰の横に大きな三個の鈴をぶら下げていた。
武器らしい武器は持っていないようだ。
この道術と、そして、連れてきた八匹の妖魔がその妖魔の武器なのだろう。
「俺は、
その若い妖魔が言った。
「ほう、お前がこの中で一番偉い身分の人間の女のようだな。若くて綺麗だ。なかなかいいな……。ちょっと、立ってみろ」
賽太歳が微笑んだ。
すると金聖姫に加わっていた不思議な圧力はなくなったのか、金聖姫の身体がすっと立ちあがった。
「わたしは金聖姫です。この国の王の娘です──。あなたは?」
金聖姫が毅然として言った。
妖魔とその道術を前にして、その堂々とした物言いに長女金は感嘆した。
「この国に巣食う妖魔の王だ……。ほう、人間の王の娘か。ちょうどいい、俺の城には妃がいない。お前を連れていって妃にしてやろう」
「な、なんですって──。そんなことはさせないわ」
長女金は叫んだ。
すると賽太歳が笑った。
「そんなことをさせなければ、どうするというのだ、人間の女? 逆らえばお前が死に、ほかの者も死ぬ。そして、この金聖姫という王の娘は連れていかれる。逆らわなければ、お前とお前の部下は助かり、そして、やっぱり、金聖姫は連れていかれるのだ。無駄な足掻きはやめよ。もっとも、その足掻きさえできんとは思うが」
賽太歳は言った。
長女金は歯噛みした。
「……金聖姫、こっちに来い。俺と一緒に来て、妖魔王の妃になるのだ。お前が逆らえば、ここにいる女たちをひとりずつ殺すぞ」
「逆らいません。あなたと一緒に行きます」
金聖姫は怯えた表情ひとつすることなく言った。
長女金は驚いた。
「い、いけません、姫様──」
長女金は叫んだ。
そして、持っている剣で眼の前の妖魔に斬りかかろうとした。
しかし、まるで透明の巨人に身体を押さえつけられているかのようになにもできない。
そうしている間にも、金聖姫が賽太歳の横に立った。
賽太歳は、手を拡げて金聖姫の身体を抱いた。
金聖姫は、顔を伏せて大人しくしている。
「お、お待ちください、妖魔王」
これまで黙っていた春嬌が叫んだ。
「なんだ、お前は?」
賽太歳が春嬌に視線を向けた。
「わたしは春嬌という者で、金聖姫様に仕える侍女です。一緒にお連れください。姫様ひとりに行かせるわけには参りません。身の回りを手伝う者が必要です。わたしを一緒に連れて行ってください」
「いいだろう。ただし、武器は置いていけ」
賽太歳が言った。
春嬌も立ちあがる。
すぐに武器を身体から外して地面に捨てた。
「待って、わたしも……。わたしも侍女です。一緒に行きます」
春嬌を含む妖魔と金聖姫が立ち去ろうとする気配に、長女金も慌てて叫んだ。
春嬌は、金聖姫の護衛であり、侍女のような立場であることは確かだ。
しかし、春嬌が咄嗟にそれを言ったのは、妖魔の巣に連れて行かれようとしている金聖姫になんとしても同行するためだろう。
長女金もまた、侍女だといえば、金聖姫と一緒に妖魔に同行できると思った。
「長女金、今回の不始末は、一から十までわたしの失敗よ。それは、お前の部下も証言してくれるわ。だから、このことを国王陛下に──」
春嬌は言った。
「人間の王に伝えておけ。この金聖姫は俺の妃にする。しかし、兵を向けて取り戻そうなどとはせんことだ。人間の軍では、俺の妖魔軍には太刀打ちできんだろうし、もしも、兵を向けたりすれば、この金聖姫を殺して屍体にして返してやるとな。娘が可愛ければ、討伐の軍など向けたりせんことよ」
賽太歳が声をあげて笑った。
「長女金、陛下に伝えてください。これまでお世話になりましたと……。そして、この金聖姫は死んだものとお諦めくださいとも」
金聖姫が長女金に視線を向けた。その眼には涙が浮かんでいた。
「陛下に、くれぐれも早まることのないようにと……。時間がかかっても、必ず、わたしがなんとかするとも……」
春嬌が屈みこんで、長女金の身体を軽く抱くような仕草をしながら、長女金の耳元でそう言った。
春慶が賽太歳と金聖姫の横に立つ。
次の瞬間、長女金は驚くべきものを見た。
賽太歳の横に立った金聖姫がすっと賽太歳の手を握ったのだ。
いとおし気な表情で……。
そして、三人の姿が不意に消えた。
周りにいた八匹の妖魔も消滅する。
身体の重さがなくなった長女金は、金聖姫と春嬌のいなくなった山あいで、しばらく痴呆になったかのように呆然としていた。