「なにを怒っているんですか、孫姉さん?」
朱姫が笑みを浮かべながら孫空女が座っている卓にやってきて座った。
孫空女の前には、三人分の料理を載せた大皿がある。孫空女はそれをひとりで食べていたのだ。
「別に怒ってはいないよ。でも、なんとなく苛つくんだよ。よくわからないけどね。沙那は?」
「沙那姉さんももうすぐ降りてくると思います。でも、考えを整理したいとかぶつぶつ言っていましたから、少し遅くなるかもしれません。先に食べていて欲しいと言っていました」
「ふうん、まあ、もう先に食べてるけどね」
孫空女は肩を竦めた。
朱姫が孫空女の向かいの椅子に座り、皿から料理を取り分けて食べ始めた。
孫空女と朱姫と沙那が、この
女三人の気楽な旅だが苦労も多い。
昨夜も身体目当ての酔客に絡まれて、この場所で孫空女が数名の男を叩きのめしてやった。
この町で暴れたのは初めてだが、孫空女も沙那もそれなりの武辺の持ち主だし、朱姫は道術が遣える。
女三人でどこに行こうとも、相手に引けをとることはないのだが、特に身体の線が太いわけでもない女三人が並ぶと、そうは思わないらしい。
昨夜もお前たちを抱くには、いくら払えばいいのだと、五人ほどの旅の男に声をかけられて、思わずかっとなった孫空女が拳で全員をぶん殴ったのだ。
それで初めて、ここに数日滞在している孫空女たちが、武術家であることが知れ渡って、馬鹿にされたような態度をとられることもなくなった。
それまでは、はっきりと言わないまでも、店の者だってなんとなく軽んじるような態度を孫空女たちに向けていたのだ。
もっとも、いきなり喧嘩をやったことについては、後で沙那に叱られた。
目立つことをすべきではないというのだ。
三人は国都で
朱紫国の北辺であり、ほとんど軍の影響の及ばない場所とはいえ、近傍の城郭軍の管轄から完全に抜けたわけではない。
目立つことで、彼らの眼を引くことになるかもしれないとい言うのだ。
でも、そんなことは気にする必要はないと孫空女は思う。
この町から、さらに北に入れば、そこは完全な辺境地帯で、軍は絶対に追ってこない。
軍が孫空女たちを捕えにでもくれば、さっさとそこに逃げ込めばいいのだ。
第一、この町に巣食っている手配犯は孫空女たちだけではない。
ここは、朱紫国にいられなくなった手配犯が集まっているような場所であり、軍に追われるようなことをしでかしたのは、孫空女たちだけではないはずだ。
昨夜、叩きのめした男たちだって、もしかしたら、どこかで人でも殺して、それでこの町に逃げ込んできたのかもしれないのだ。
「それで、沙那はなにを考えているのさ、朱姫? まあ、考えるのはあいつの役割だけど、このところ、やけに考えごとをすることが多くないかい?」
孫空女はやって来そうにない沙那の分を先に大皿から取り分けた。
降りてこないようなら、これを持って部屋に戻ればいいだろう。
大皿に残った分から、空になった自分の小皿に少しだけ料理を足した。
「孫姉さんがやたらに苛々しているようにですね。おふたりとも、このところ変ですよ。沙那姉さんは考え事ばかりだし、孫姉さんはいつも不機嫌だし……」
朱姫は料理を口にしながら、孫空女に眼を向けることなく応じた。
「あ、あたしが不機嫌? そんなことはないさ」
「そんなことはあります。前はもっと、笑っていたことが多かった気がしますよ。この数日、笑ったことがありますか? 昨日だって、いきなり喧嘩を始めたりして……」
「あれは仕方ないだろう?」
「だけど、前はそんなことをしたことなかったじゃないですか。孫姉さんが強いのはわかっているんだから、酔っ払いが絡んできても、いつも鼻であしらうくらいで済ませていたのに」
朱姫が言った。今度はまっすぐに孫空女の顔を見た。
「そうかなあ……」
孫空女は首を傾げた。
だが、言われてみれば、自覚はある。
なんとなく落ちつかない。
そんな気持ちであることは事実だ。
別におかしなことはなにもないはずなのに、こんなことは本当ではない。
そんな感情に付きまとわれている。
それが孫空女を落ち着かない気持ちにさせる。
夕食の時間だが、まだ陽は落ちてはいない。
そのため、酒を飲みに来た客もそれほど多いとは言えない。
どちらかといえば、まだ閑散としている感じだ。
その店の中にふたり連れの女がやってきた。
なんとなく孫空女はそっちに視線を向けた。
ここは孫空女たちが宿泊を続けている宿屋の食堂だが、近傍の住民の集まる居酒屋でもある。
泊り客以外の客がやってくることは珍しいことではないが女連れは珍しい。
治安などほとんどないような町の居酒屋だ。
女であれば、その場で襲われても不思議ではないようなところだからだ。
孫空女も、この宿屋にやってきて以来、自分たち以外の女をここで見たのは初めてのような気がする。
「なんだ、あれ?」
思わず声をあげた。
ふたり連れの女のうち、ひとりは背が大きく肩幅も広くて、豊満でたくましい身体をしていた。
もうひとりは華奢な感じの黒髪の女で孫空女が遭ったこともないような美女だ。
だが、孫空女が声をあげたのは、ふたりの格好の奇妙さだ。
大女は黒髪の美女の首に首輪をつけて、そこに繋げた鎖を曳きながらやってきたのだ。
黒髪の女は身体にぴったりとした外套のようなものを身に着けていて、両手を背中に回したままだ。
もしかしたら、手を縛られているのかもしれない。
しかも、汗びっしょりで、歩くこともつらそうに膝が震えている。
「なにさ、あれ。調教でもしているのかな?」
孫空女は朱姫にささやいた。
だが、自分が口にした言葉に自分自身で驚いた。
いま、自分は“調教”という言葉を口にした。
調教……?
どうして、そんな言葉を使ったのだろう。
女が女を性的な嗜虐をする。それで言いなりにさせる──。
ふたりの姿から咄嗟に調教という言葉が浮かんだ。
しかし、孫空女の人生で、調教などということは縁遠いことであるはずだ。
だが、いま、自分はそれが別段、なんのおかしなことではないかのようにそれを口にした。
「んんんんん──」
突然、黒髪の女が唸り声のような声をあげて、こっちに眼を向けた。
必死の様子で駆け寄ってくるような気配を示したが、首輪の鎖を握っている大女が鎖で引き戻した。
そして、孫空女たちとはかなり離れた卓に強引に黒髪の女を座らせ、背をこちらに向けるようにした。
それでも黒髪の女は暴れるような雰囲気だったが、急に椅子の背もたれに密着して動かなくなった。
大女がなにかの道術を遣ったということがわかった。
孫空女自身は道術は遣えないが、なぜか道術が遣われるとそれを感じることができるのだ。
道術が遣われると周囲の霊気の波が変化する。
霊気なんていうものは、その辺り一帯に空気のように薄く立ちこめているものだが、道術遣いが道術を使うと、それが大きな波を起こしたように動く。
それを感じることができるのだ。
「ねえ、朱姫……」
「うん、道術です、孫姉さん。いま、あの大きな女の人が、首輪で引っ張ってきた女の人に対して道術を遣いました。微かですが、糸のようなものが出現して、綺麗な女の人の身体をぐるぐる巻きに椅子に縛りつけたのがあたしにはわかりました」
朱姫がささやき返した。
見た目が少女の朱姫だが、実は半妖で常人よりも敏感に道術を感じることができる。
大女が理不尽な手段で、あの美女を拘束して首輪に鎖をつけて歩き回らせている。
なんとなく、それがわかった。
びっくりするほど異常なことであるはずなのに、宿屋の者も含めて、店の中には、その光景に驚いた様子を見せる者はいない。
どうやら、あの大女はこの店ではかなり馴染みの客のようだ。
それは周りの人間の態度を見ればわかる。
そして、ああやって、あの大女が、女を拘束したまま連れ歩いたり、首輪をつけて曳きまわすというようなことをするのも珍しいことではないのだろう。
だから、騒ぎ立てないし、平然としているのだ。
それどころか、周囲の男たちは、あの大女を怖れているような気配さえある。
朱姫が言及した糸の道術──。
それを知っているのかもしれない。
「……ねえ、孫姉さん。あたし、なんとなく、あの綺麗な女の人に見覚えがあるような気がするんですけど」
朱姫が小さな声で言った。
それは孫空女も感じたことだ。
どこかであった気がする……。
いや、それどころか大変に懐かしい思いさえする。
しかし、どう考えても、孫空女の記憶にはない。
あんな綺麗な女の人だ。
これまでに出遭っていれば忘れるわけなどない。
初めて見る顔だ。
でも懐かしい……。
そして、なぜかもの凄く、不安な気持ちになる。
これはなんだろう……?
孫空女は自分の感情の理由がわからず戸惑っていた。
苛立ちが頂点に達する。
「そ、孫姉さん──なにするつもりですか……?」
朱姫が慌てたように言った。
それで、孫空女は自分がすっくと立ちあがって、あのふたり連れの女を睨みつけていたのがわかった。
「行ってくる──。あんなこと……。あんな首輪をつけて連れ歩くなんて可哀そうだよ」
可哀そうか……?
本当はそれが理由じゃない。
なぜ、さっきのふたり連れの姿に、自分がこれほどまでに苛立つのか……。
それを確かめたかっただけだ。
孫空女は朱姫の静止を振り切って、そのふたり連れの卓に向かった。
「なんだい、お前?」
大女が椅子に座ったまま、卓の前にやってきた孫空女を見た。
口に笑みを浮かべている。
卓には店の者が運んだ酒瓶と盃があり、大女はそれを飲んでいた。
椅子に拘束されている黒髪の女の前にはなにもない。
黒髪の女は、孫空女に懸命になにかを訴えようとしているようにも見える。
しかし、なぜか唇が密着したようになっていて、言葉が出せないでいるようだ。
それでも拘束された身体を懸命に揺らして、椅子をがたがたと鳴らして孫空女に必死の視線を送っている。
「こ、こんな風に女を扱うなんて気に入らないんだよ。なんだか嫌がっているみたいじゃないか」
孫空女は言った。
すると大女が白い歯を見せた。
「これはあたしの奴隷だよ。あたしの奴隷をどんな風に扱おうがあたしの自由だろう。あんたには関係がないじゃないか」
大女が言った。
「奴隷?」
「そうだよ──。お前、ちょっとおいで」
大女が、そばを通りかかった店の主人を呼んだ。
「は、はい……、
店の主人がやって来て、ちらりと大女と黒髪の女に視線を送る。
とても怯えているようにも見える。
この大女は七芽という名のようだ。
「この女はあたしの雌犬奴隷だ。そうだよね──」
七芽が言って、店の主人を睨みつけた。
「そ、そうです。奴隷です」
慌てたように店の主人は応じた。
黒髪の女はまだなにかを叫んでいる。
とても気になる。
「……行っていいよ」
七芽が言うと、店の主人は慌てるようにこの場を離れていった。
「わかったろう、あんた。この女はあたしの奴隷であり、あたしのものだ。あんたには関係のない女であり、この奴隷をあたしがどんな風に扱おうが、あんたの知ったことじゃない。そうだろう? たとえば、こんなことをしても……」
すると七芽が突然に黒髪の女の外套の下から手を伸ばして、黒髪の美女の股間をいじくりだしたのだ。
黒髪の女が激しく悶え始めて鼻息を荒くした。
外套の裾から潜り込ませた手でなにをしているのかは明らかだ。
孫空女は自分の身体がかっと熱くなるのがわかった。
「や、やめなよ、嫌がっているよ──」
孫空女は言った。
それにしても、なんでこんなに身体が熱くなるのだろう。
孫空女は自分の身体に起きていることに戸惑ってもいた。
この黒髪の女が性的にいたぶられるのに接したとき、孫空女の身体は異常な反応をした。
いまでもそうだ。
熱いのだ──。
自分の全身から汗が噴き出すのを感じる。
それだけじゃない。
なぜか股間が疼く……。
あの女の人が苦しそうに悶えている。
それを見ていると孫空女の女陰は、まるで自分の股間が触られているかのように欲情をしている。
落ち着かない……。
なんでこんな風に自分は欲情するのか……?
孫空女は理解できないでいた。
「嫌がっていようが、そうでなかろうが、お前には関係ないじゃないか。なんど言えば気が済むんだよ。もう、あっちに行きな──。こいつは、あたしの雌犬なんだよ。こうやって、外に連れ回して苛めると、こいつは欲情するのさ。嫌がっているようだけど、演技なんだよ。あたしらの遊びだ。嗜虐したり、被虐したりお互いにやり合うのさ」
七芽が苛ついたように手を振る。
嗜虐したり、被虐したりし合う──。
なんだか、その言葉が引っ掛かる。
「……ねえ、孫姉さん。どうしたんですか?」
腕が後ろに引っ張られた。
朱姫が孫空女を七芽たちから引き離そうとしている。
「面白くないね。もう、帰るよ、雌犬──」
七芽が立ちあがった。
「亭主──。払いはここに置くよ」
七芽が店の主人に叫んだ。
卓の上には、銀粒がひとつある。
すでに黒髪の女は七芽に首輪の鎖の根元を握られて立ちあがらせられている。
まだ、なにかを訴えるような呻きを孫空女と朱姫に送っている。
必死の形相だ。
しかし、まだなにかに苛まれているのか、全身を激しく震わせて欲情した仕草も見せている。
落ち着かないように悶える腰は、なにかの性的な悪戯を受け続けているかのようだ。
その黒髪の美女を七芽が外に強引に連れ出した。
孫空女は呆然と立ったまま、それを見ていた。
このまま行かせるべきじゃない──。
孫空女の心の中のなにかがそういう警告を告げている。
しかし、孫空女がさっきの女たちに関わる理由がなにひとつない。
それは事実だ。
「ねえ、朱姫──」
孫空女は朱姫に振り向いた。
「孫姉さんの言いたいことはわかります。あたしも、さっきの綺麗な女の人を見たときに、不思議な違和感がありました。とにかく、沙那姉さんに相談しませんか?」
朱姫が言った。
確かにそうだ。
考えなければならないことがあれば、それは沙那だ。
沙那はとても頭がいい。
あいつに考えさせれば、なにかがわかる。
いつもそうだった。
考えるのは沙那──。
そして行動する……。
単純な武術なら孫空女がいるし、道術なら朱姫がいる。
いつもこの三人でやってきた。大抵のことは乗り越えた。
でも、なにかが足りない……。
そんな不安な気持ちがあるのはなぜだろう。
足りない……。
それはたった今、七芽たちと出遭ってその気持ちは大きくなった。
この数日感じていた、苛立ちの原因もわかった。
なにかが足りない──。
その感情が孫空女を苛立たせているのに違いない。
でも、なにが足りないというのだろう……。
「沙那姉さんに食事を持っていきましょうよ、孫姉さん」
朱姫が言った。
店の主人に残りは部屋で食べると言い、食事の途中だった大皿と小皿と箸を持って上にあがった。
食事代も宿泊代も、前払いで済ませている。
特に問題はない。
朱姫とふたりで部屋に戻った。
部屋に戻ると沙那がいた。
そろそろ薄暗くなってきたというのに、灯りもつけずに寝台に腰掛けている。
眉間に指を置いている。
沙那が深い考えをするときの癖だ。
「沙那姉さん、食事を持ってきました」
部屋には四個の寝台が片方の壁に並んでいて、反対側の壁には小さな木の卓があり、そこには椅子が二脚だけある。
朱姫がその卓の上に、運んでいた料理と皿を置いた。
「ねえ、沙那、相談があるんだけど……」
孫空女は声をかけた。
「わたしもよ、孫女──。一生懸命に考えて、結論に達したわ。わたしは、わたしを信じられない。それが結論よ」
沙那が真剣な表情で孫空女と朱姫に視線を向けた。
「自分を信じられない……? なにを言っているのさ、沙那?」
孫空女は驚いた。
「……ねえ、沙那姉さん、食事は?」
朱姫もおずおずと言う。
「食事なんて後よ。いいから、そこに座って、朱姫──。孫女もよ」
沙那が言った。
孫空女は朱姫と並んで、沙那と向かい合うように寝台のひとつに腰掛けた。
「わたしを信じられない──。これが結論よ」
沙那は繰り返した。
その表情は真剣だ。
冗談を言っている様子はない。
もっとも、沙那は冗談をあまり言わない。
いつも冷静で真面目だ。
それが沙那だ。
「なにが信じられないのさ?」
孫空女は言った。
「すべてよ。考えれば、考える程、おかしなことだらけよ……。じゃあ訊ねるけど、わたしとあなたって、どうして、一緒に旅をしているの? わたしは、東方帝国の愛陽という城郭軍で千人隊長をしていたのよ。そんなわたしとあなたの接点はなに?」
「なにって……。沙那があたしが盗賊団の頭領をしていた五行山にやってきたんだろう? それで、あたしが返り討ちになって、一緒に旅をすることになった。そうじゃないか」
孫空女は言った。
なんで今更、そんなことを沙那は言うのだろうか……。
「じゃあ、訊くけど、わたしはどうやって、あんたを返り討ちにしたのよ? わたしも剣には自信はあるけど、あんたをやっつけるほどの腕はないわ。ましてや、あんたは、盗賊団の頭領で部下を連れていたんでしょう? わたしは、どうやって、あなたたちをやっつけて、それで、なぜ、あんたは、わたしと旅をすることしたのよ?」
「な、なんでって言われても……。昔のことだし……」
孫空女は戸惑った。
「昔って、たった三年半ほどのことじゃない。どうして、思い出せないのよ。不思議だと思わない、孫空?」
言われてみればそうだ。
こうやって、当たり前のように沙那と一緒にいるが、そもそも、沙那とはなぜ、旅をすることになったのだろう。
沙那に負けた……?
そんな気もするのだが、その記憶も曖昧でぼんやりとしている。
どうやって負けたのか覚えていないし、そもそも、沙那に負けたとしても、盗賊団の頭領だった自分が部下を捨てて、旅をした理由はなんだろう?
部下に輪姦された。
それは覚えている。
しかし、どうして、そんなことになったんだろう。
沙那がやった?
孫空女の部下をけしかけて、孫空女を襲わせた……?
いや、そんなことはないはずだ。
そんな記憶もないし、第一、沙那がそんなことをしそうにもない。
それに、部下が束になって襲っても、孫空女が打ちのめすことができたはずだ。
だから、若い女の孫空女が荒くれどもを従えて女頭領をしていたのだ。
「第一、わたしが旅をしていた理由はなに? わたしは、どうしても思い出せないのよ。わたしは、愛陽の城郭からほとんど出たことがなかったのよ。五行山なんて、愛陽軍の管轄の遥かに遠くよ」
「沙那が旅を始めた理由なんて知らないよ」
孫空女は言った。
「そうよね……。でも、わたしは、わたしが罪を犯して城郭を追放されたのを覚えているわ。しかも、それは無実の罪だった。嵌められたのよ。それなのに、わたしは、誰にどんな風に嵌められたのか覚えていないのよ」
沙那は言った。
「おふたりとも、記憶がおかしいのですか?」
朱姫だ。朱姫も沙那の喋っていることを理解してきたようだ。
最初の戸惑いの表情が真剣な心配の顔に変化している。
「あんたもよ、朱姫。お願いだから、説明してくれない──。わたしは、あんたとのこともまるで思い出せないわ。あんた、なんで、わたしたちと一緒にいるのよ?」
沙那が朱姫に視線を向けた。
「そ、そんな言い方、酷くないですか? まるで、あたしが一緒だとおかしいみたいに……」
朱姫が頬を膨らませた。
「つべこべ言ってんじゃないわよ、朱姫──。いいから、あんたの覚えていることを言って。なんで、あんたはあたしたちと一緒に旅をすることになったの?」
「なんでって……。あたしが東帝国の国境に近い
「それで?」
「それで、あたしがおふたりのどちらかを襲おうとして、逆に捕らえられて……」
「どちらかって、どっちよ?」
「それは……あれっ? どっちでしょう……。なんで、思い出せないのかなあ……。あたしは妖魔になりたくて、どちらかの肉を食べれば妖魔になるとか騙されて……」
「だから、どちらかって、どっちよ。第一、なんでわたしたちの肉を食べれば、妖魔になるのよ」
「そうですよねえ……。変ですね」
朱姫も首を傾げた。
「それだけじゃないわ。いまのわたしたちの関係もおかしいわよ──。あんたとわたし……」
沙那は孫空女に視線を向けた。
そして、朱姫に視線を移す。
「……それから、朱姫にわたし──。お互いに身体を許し合っているわよね」
沙那は言った。
いきなり情事の話をしたから戸惑ったが、沙那は軽口を言うつもりではないようだ。
沙那はどこまでも真剣だ。
「あたしが沙那姉さんと孫姉さんを嗜虐でいたぶっていることですか? おふたりは、朱姫の責めを受けると感じるんです。だからそうしているんですよ」
朱姫がくすくすと笑った。
三人の情事は普通ではない。
女同士で愛し合うというだけじゃなく、誰かが誰かを拘束したり、苛めたりして情事をするのだ。
嗜虐と被虐だ。
どちらかといえば、朱姫は嗜虐癖があり、孫空女と沙那は被虐側だ。
朱姫が孫空女や沙那を性的にいたぶることで情事をする。
平素は、朱姫はふたりの妹分のようなものだが、情事のときはその関係が逆転するのだ。
「それもしっくりこないのよねえ。わたしがあんたの嗜虐を受け入れているというのが……」
沙那が言った。
「そんなことを疑ったら駄目ですよ。じゃあ、さっそく始めましょうよ。どこがどうおかしいのか、試してみることにしましょうよ。おふたりとも、裸になって、手を後ろに回してください。今夜もたっぷりと苛めてさしあげます」
朱姫が笑った。
「冗談言っている場合じゃないのよ、朱姫──。
わたしは真剣な話をしているのよ」
「あたしだって、真剣ですよ。あたしの相手をするのが、もう、嫌になったんですか?」
「最初から嫌よ──。でも、なぜ、わたしがそれを受け入れているのか不思議なだけよ」
「それは朱姫の技が気持ちいいからでしょう? いつものように気持ちよくしてあげますから。さあ、服を脱いでください、沙那姉さん」
朱姫がいまにも沙那に抱きつくような仕草をした。
孫空女はそれを慌てて止めた。
「ま、待ちなよ、朱姫──。考えてみれば、なにかしっくりこないよ。なにかが欠けている。そんな気持ちさ。さっきも、そんな気分になったんだ。朱姫もそうだろう?」
孫空女は朱姫に言った。
そして、さっき一階で感じた不可思議な感覚について沙那に説明した。
奇妙なふたり連れの女の様子も話し、彼女たちに対して孫空女がどんな風に感じたかを言った。
うまく説明できたとは思わなかったが、それでも沙那は孫空女の感じた不安をわかってくれたようだ。
「……それで考えたわたしの結論はこうよ──。わたしたちは、記憶を操られている。少なくとも、三人に共通するなにかの記憶を消されているのよ」
孫空女の話が終わると、沙那はきっぱりと言った。
「記憶を消されているって、まさか……」
孫空女は笑った。
別に忘れていることなどない──。
いや、だけど……。
忘れていることなどないはずだが、沙那に訊ねられた沙那との出会い……。
朱姫との出会い……。
それを説明できる記憶が出てこない。
大昔の話じゃない──。
たった三年ほどのことだ。
たとえ、大昔の話だとしても、沙那の言うように、それを忘れ去るとは考えられない。
孫空女は笑うのをやめた。
沙那の言う通りだ。
記憶を消されているのかもしれない。
そうだとすれば……。
「……ねえ、朱姫、道術で記憶を消すということはできる?」
沙那が朱姫に訊ねた。
「『縛心術』のことですか? 簡単なことです。あたしにもできますよ、沙那姉さん」
朱姫は応じた。
「だったら、あんたの道術で、他の誰かが消したわたしたちの記憶を復活させることもできるかしら?」
「お互いの霊気の力によりますね。でも、『縛心術』にかけては、あたしの霊気は強いですから、そこらの道術遣いや妖魔にだって勝てますよ。ご主人様にだって……」
朱姫はそこまで言いかけて絶句した。
「朱姫、いま、なんて言った?」
沙那が朱姫に詰め寄った。
「あ、あたし、いま、ご主人様って言いましたよね……。ご主人様って誰のことでしょう……」
朱姫の顔には大きな戸惑いが浮かんでいる。
「ご主人様とは誰? 誰のことよ、朱姫?」
「わ、わかりません、沙那姉さん。でも、ふと口から出たんです……。ちょっと、待ってください。あたしの中の道術を探ります。もしも、あたしの記憶が誰かの道術で操作をされているなら、探ればわかるはずです」
朱姫はそう言って黙り込んだ。
しばらく、目をつぶって真剣な表情で押し黙った。
そうやって、朱姫が眼を開けるのを沙那とともにしばらく待った。
やがて、朱姫が大きく眼を見開いた。
「た、大変ですよ──、沙那姉さん、孫姉さん。ご主人様が──」
朱姫が叫んだ。
「いいから、わたしたちの記憶も戻して──」
沙那が声をあげた。
「……おふたりとも、あたしの眼を見てください」
朱姫が言った。
孫空女は朱姫の眼を覗きこんだ。
なにかが孫空女に入ってくる。
そして、不意にぼんやりとしていたものが明確になり、頭がすっきりとする。
「沙那──」
孫空女は立ちあがった。
「わかってるわ、孫女──。あんたがさっき会ったのはご主人様と七雌妖よ……」
沙那が静かに言った。
その冷静な口調で孫空女も少し落ち着きを取り戻すことができた。
宝玄仙を捕えた七雌妖が、孫空女たちの記憶を消して追い払った。
それを思い出すことができたのだ。
あの様子では、宝玄仙は七雌妖という妖魔に酷い目に遭わされ続けているようだ。
不思議なことだが、宝玄仙と七雌妖に関する記憶を消されたのに関わらず、頭の中で勝手に記憶の補正が行われて、記憶が消されたことに気がつかなかったようだ。
沙那に指摘されるまで、特におかしいと思うことなく、辻褄が逢うように記憶の再構築が行われていた。
それでも不自然な部分は、曖昧で忘却した記憶として頭が処理していたのだ。
そのために、眼の前に宝玄仙がいたのにそのまま帰してしまった。
深い後悔が孫空女を襲う。
「行くわよ──」
沙那が細剣のついた革帯と武器類を束ねる包みを掴んで立ちあがると、部屋の外に向かった。
孫空女と朱姫もその後ろから部屋を出る。
向かうのは、
そこに助けを待っている宝玄仙がいる。
孫空女は拳を握った。