来客を知ったのは、宝玄仙の調教がひと段落ついたときだった。
二日間の調教としては、十分すぎるほどの成果だった。
くすぐり責めと快楽寸止め責めの繰り返しで気絶することもできないでいたが、ついに意識を手放した。
これ以上の調教を続けるのは無理だというのはわかっている。
名残惜しいが、今日の調教はこれで終わりにすべきだ。
急いてはなんにもならない。
折角手に入れた最高の素材なのだ。
おそらく、これ以上の奴隷が手に入る見込みは金輪際ないに違いない。
あと数日もあれば、宝玄仙はくすぐりでなければ絶頂できない身体に変わるだろう。
そうなれば、もう宝玄仙は多目怪から離れることができなくなる。
夢に見たくすぐり奴隷の誕生である。
多目怪はほくそ笑んだ。
道術を遣って拘束椅子の表面から触手を発生させて、宝玄仙の身体を洗浄させる。
全身を舐められる感触を加えられた宝玄仙が椅子の上で身悶え始めた。
「ひうっ……な、なに……あ、ああっ……も、もう、か、勘忍して……あっ、ああ……」
半分意識を取り戻した宝玄仙がたちまちに身体を上気して身体を左右に動かし始める。
か細い声で哀願を始めた口調には、もう、気の強さのようなものは垣間見られない。
繰り返される責めに打ちのめされて、すすり泣く哀れな女奴隷の姿があるだけだ。
もともと、気は弱いのかもしれない。
気丈な振舞いや気の強そうな言葉遣いは、外面にまとった衣であり、それが取り払われたというところであろうか。
「……少し用があり離れる。触手から栄養と水分を補給しておくのじゃ。素直にすごしていれば、今日は休ませてやる。なにもせずにそのまま眠らせてやろう。しかし、また拒否するようであれば、くすぐり責めを再開する」
多目怪が告げると、宝玄仙がびくりと身体を反応させた。
身体を拭いている触手とは別の太い触手が、宝玄仙の口元に伸びる。
その中から身体を回復させるための栄養と水分が半固形物として抽出されるのだ。
もちろん、触手の先から出る半固形物には、くすぐりを快感と誤認させるように身体を作りかえる媚薬が大量に混ざっている。
最初のときにそれを知った宝玄仙が口からそれを入れるのを拒否しようとして、てこずらせた。
だが、もう宝玄仙には反抗の意思はないようだ。
素直に口を開いた。
触手が宝玄仙の口に入り込み、必要なものを口の中に注ぎ始める。
宝玄仙はそれを咀嚼して身体に入れている。
多目怪は、調教部屋を出て廊下に出た。
かなり入り組んでいる迷路のような廊下を進んで、屋敷の入口に近い客間に向かった。
そこに来客を待たせている。
取次ぐ者はいないが、多目怪の道術によって、屋敷の門から客を光の点滅でこの客間まで誘導した。
すでに、そこで来客は待っているはずだ。
もっとも、客が誰であるかはわかっていた。
多目怪の屋敷の門は閉じられていて、定められた言葉を告げないと反応しないように『道術錠』で封鎖している。
その『道術錠』が解除された。
すなわち、屋敷にやってきた者が合言葉となる解錠の言葉を口にしたのだ。
合言葉を知っているのは、多目怪のほかには、あの
あの場所から歩いてこちらに向かって二日程度だ。
その二日が過ぎている。
宝玄仙は七雌妖の大事な雌犬奴隷だと称していた。取り戻しにきたに違いない。
もちろん、返すつもりはない。
交渉の必要があるだろう。
客間に入った。
部屋の真ん中に大きな卓があり、下座にやはり七雌妖が座っていた。
ほんのりと顔が上気している。
股間からは激しく欲情した雌の匂いもしていた。
いったいどうしたのであろうか。
多目怪は訝しんだ。
そして、さらに意外なことは、七雌妖が連れと一緒だったことだ。
腰に剣を佩いた栗毛の女で人間の女だ。
美貌である。
多目怪がくすぐり奴隷として手を出したくなるような気の強さも顔に浮かんでいる。
「よく来たな、七雌妖──。そっちは?」
多目怪は上座に座りながら言った。
八本の腕のうち六本は身体の中にしまっている。
多目怪は、いまは人間の男と同じように二本腕であり、合わせ布の上衣を羽織っていた。
「わたしは沙那という者です、多目怪殿」
人間の女が言った。
「それで、用件はなんじゃ、七雌妖? この沙那をわしにくれるということか?」
多目怪は笑った。
宝玄仙を返す条件として、別の奴隷を連れて来たのだろうと思ったのだ。
七雌妖は、宝玄仙のことをかなり気に入っていたようだったし、多目怪が宝玄仙を連れ帰り、二日間連絡をしなかったことから、多目怪が宝玄仙を返すつもりがないことは薄々感づいているだろう。
それで交換用の人間の女を連れて来たと思った。
もっとも、多目怪は宝玄仙を返すつもりはない。
どんな条件を告げられてもだ。
あれは多目怪が引き取る。
くすぐり奴隷としての資質をあれほどに備えた人間の女はいない。
「冗談を喋るんじゃないわよ。わたしは、ご主人様を取り戻しに来たのよ、多目怪──。早く、ご主人様を渡しなさい」
人間の女の口調が一変した。
際しい顔で多目怪を睨みつけている。
「ご主人様?」
多目怪は眉間に皺を寄せる仕草をした。
「宝玄仙のことよ、おじき。この沙那は宝玄仙の供なの……。ついでに、あたしはこの沙那に捕らえられている人質ということよ。おじきが宝玄仙を素直に渡してくれなければ、少しばかり、面倒な状況なのよね」
七雌妖が言った。
多目怪は驚いた。
「お前が人質だと?」
「そういうことよ、おじき──。だから、宝玄仙を引き渡してやってよ。いずれにしても、宝玄仙はあたしのものだったんだから、おじきが連れていっていいものじゃなかったのよ」
「それはわかっているが、あのとき、棒を持った赤毛の女に襲われたので、つい『移動術』で一緒に連れてきてしまったのじゃ……。だが、あれから二日間、調教をしてみた。それでわかったのだが、宝玄仙はわしが長年探し求めてきた最高の逸材に間違いない。七雌妖、あれをこのまま、わしに譲れ、頼む──」
多目怪は頭を下げた。
そのとき、大きな音が卓からした。
顔をあげると、卓に人間の女の拳が載っている。
おそらく、拳で卓を叩いたのだ。
憤怒の感情を顔に浮かべている。
いまにも飛びかかってくるような気配だ。
「お前と話をしているのはわたしよ──。七雌妖じゃないわ。七雌妖自身が言ったように、七雌妖はわたしの人質よ。大人しくご主人様……つまり、宝玄仙を解放しなければ、七雌妖が都合の悪いことになるわよ」
「都合の悪いこと……? 本当にお前はこの沙那に捕らえられておるのか?」
多目怪は七雌妖に視線を向けた。
「そう言ったわ」
「そうか……」
そう言われれば、七雌妖の様子が不自然だ。
やけに動きがしおらしいし、激しい淫液の香りをぷんぷんさせている。
なにかの淫靡な仕掛けを身体にされているに違いない。
表情と口調は平然としているが、さかんに身体をもじつかせて落ち着かないようでもある。
「……では、お前がわしの交渉の相手ということじゃな……。沙那だったな?」
多目怪は言った。
「そうよ」
沙那が言った。
「……ならば、沙那──。条件を言え。わしは、あの宝玄仙を気にいったのじゃ。宝玄仙をわしに譲り渡すのに、なにを提供すればよいのじゃ? 金板でどうだ? この
多目怪は沙那に言った。
沙那が怒鳴り声でもあげるような動作をしたが、すぐに気を鎮めるような仕草に変化した。沙那は大きく深呼吸をするように息をしてから口を再び開いた。
「じゃあ、わたしから条件を言うわ。ただちに、ご主人様をここに連れてきなさい」
沙那はそれだけを言った。
「それで、条件は?」
「条件?」
「わしに宝玄仙を引き渡すための条件じゃ。それを言っていないぞ」
なにがあっても宝玄仙は渡さない。
それだけが多目怪の要求のつもりだ。
「さもなくば……。それを訊きたいということ?」
「そうじゃ。さもなくばじゃ。宝玄仙を返せ──さもなくば……。それからの続きの言葉はなんじゃ、沙那?」
さもなくば、他の物を寄越せ。
そういうことになるはずだ。
金板ならば、おそらく、沙那の言い値で支払えるだけのものがある。
他の条件かもしれないが、多目怪に可能なことであれば、応じるつもりだ。
それくらい、いまの多目怪にとって、宝玄仙の価値は大きい。
「さもなくば、お前を殺すわ、多目怪──。ついでに、七雌妖もね。命が惜しければ、ご主人様を連れてくるのよ。これで話は終わりよ」
沙那が言った。
次の瞬間、沙那が跳躍した。
気がつくと、卓の上に沙那が剣を抜いて立っており、その剣先は多目怪の喉に突きつけられている。
驚くべき速さだ。
人間の女にこれほどの動きができるということに感心した。
「さもなくばか……」
多目怪は呟いた。
「さあ、どうするの? ご主人様を渡すわね?」
沙那が声をあげた。
「わしの話を聞いてくれぬか?」
「話?」
「そうじゃ。長い話ではない……」
多目怪は喉に剣を突きつけられたまま語りだした。
これほどの動きをしみてせた沙那のことだ。
この眼の前の剣先を多目怪の喉に突き刺すのに、半瞬も要しないだろう。
それはわかる。
「わしの唯一の性癖はくすぐりでな……」
多目怪は自分がいかにくすぐりが好きであるかということ。
なぜ、くすぐりで悶え苦しむ女に欲情するかということ。
だが、それを受け入れてくれるだけの存在に巡り合えなかったということ。
そして、宝玄仙こそ、最高の逸材だということを説明した。
しかし、途中から沙那の顔には、激しい怒りと苛つきがはっきりと浮かんでいた。
「だ、ま、れ」
やがて沙那が言った。
「交渉には応じられんということか、沙那?」
多目怪は言った。
「当たり前よ、早く……」
なにかを喋ろうとして、卓の上の沙那が絶句した。
その剣がだらりと下にさがる。
そして、剣を手放し、がくりと両膝を卓の上につけた。
「あっ……、なっ……?」
顔が蒼い。
手を離した剣を拾おうとした。
しかし、剣は沙那の指に当たっただけで、そのまま、からりと床に落ちた。
沙那もまた、上半身を床に倒した。
「……ならば、別の“さもなくば”の話をしようか──。宝玄仙のことは諦めよ。さもなくば、苦しんで死ぬことになる。宝玄仙を諦めるというならできるだけ楽に殺してやる」
「う……あ、ああ……な、なにが……?」
沙那は卓の上で踞ったまま、呻き声をあげている。
なにが起きたのか理解してないようだ。
多目怪はほくそ笑んだ。
「それとも、全身をくすぐられて、一日かけてゆっくりと笑い死にたいか、沙那? 笑い死には苦しいぞ。わしが簡単には死なさんからな。たっぷりと時間をかけて死んでいくことになる」
多目怪は卓の上に倒れている沙那を仰向けにひっくり返した。
「ど、毒ね……?」
全身の筋肉が弛緩している沙那が、苦しそうに訊ねた。
「わしと七雌妖の道術には、妖魔には効かぬが、人間には全身が痺れて動けなくなる気毒を撒き散らすというものもある。無色無臭だから、なかなか気がつかぬがな。わしがこの部屋に入ったときから、気毒を流し続けていたところじゃ。やっと、効果が表れたというところか」
多目怪は上半身の着物を脱いだ。
収めていた六本の腕を出す。
そして、道術で沙那が載っている卓から十数本の触手を出現させた。
沙那の顔が恐怖に染まる。
触手は沙那の服の上を這い回りながら、ゆっくりと衣類を剥がしていく。
沙那は阻止しようとしているが、すでに気毒の痺れが全身に回って抵抗できないでいるようだ。
「心配せんでも、身体が動かないだけで、他に害はない。意識はむしろ普段よりもはっきりしているはずだ。肌の感度もな……」
多目怪は、沙那を包む触手に服越しに全身を擦るように這い回らせさせた。
「ひうううっ」
沙那が痺れた全身を仰け反らせて大きく震えた。
多目怪が予想もしないような激しい欲情だ。
ほんの少し、全身を服越しに擦っただけだ。
それでいて、これだけの反応だ。これが全身を剝き出しにして、本格的にくすぐったらどれくらいの反応をするのだろう。
多目怪は、宝玄仙とは別の意味で、この沙那に興味が湧いた。
「七雌妖、この沙那もわしが貰い請けるぞ。不服はあるまい。ところで、お前は、この沙那の人質だったと言っておったな」
多目怪は七雌妖に視線を向けた。
「その代わり、宝玄仙にあたしにつけられている淫具を外すように命令させてもらえない、おじき。こいつら、あたしの股間に淫具を取り付けて、『道術錠』の道術で外せないようにしたのよ。外すには宝玄仙の命令が必要らしいわ」
七雌妖がまだ椅子に座ったまま言った。
「……な、七雌妖……裏切った……のね……」
沙那が歯噛みしている。
「裏切り? 馬鹿じゃないの、沙那? よくもそんなことが言えるわねえ。あんたらに服従して、宝玄仙を多目怪から奪い返すことに協力するなんていうあたしの言葉を本当に真に受けたの? 反省した演技をしていただけよ」
七雌妖が呆れたというような声で言った。
沙那が悔しそうな表情になった。
いま、沙那の身体を這い回る触手は、再び沙那の身につけているものを脱がすために動いている。
すでに下袴は抜き取られている。
先程のように触手でくすぐっているわけではないが、服を脱がされるときに触手が肌を撫ぜる感触で感じてしまうのか、触手が当たるたびに沙那は顔を赤くして身体を悶えさせている。
「それはいいが、お前、いま、“あんたら”と言ったか、七雌妖? もしかしたら、この沙那のほかにも宝玄仙の供はいるのか?」
多目怪は沙那の服を触手に剥かせながら言った。
沙那はもう下着だけの姿だ。胸当てが触手によって破り取られる。
なかなかの綺麗な肌だ。
みずみずしく艶のある肌で、くすぐり甲斐のある素晴らしい身体に思える。
「ええ、この沙那のほかに、ふたりの女がいるわ。名は孫空女と朱姫。沙那に負けず劣らず、素敵な身体と顔をしているわよ。ここで、おじきが沙那と交渉している間に、宝玄仙を救出するために屋敷に忍び込んだわ。すでに、侵入している……」
「なにっ──」
多目怪は叫んだ。
「な、七雌妖……あ、あんた……」
全身に汗をかいて赤く染めている沙那が触手に身体を這い回らせながら、七雌妖を睨んだ。
「沙那の役割は、ここでおじきを引きとめておくことだったのよ。沙那は、最初から交渉がうまくいくとは思っていなかったようね。あたしが、おじきのくすぐり奴隷に対する執着心は大変なものだと教えちゃったからね。なにしろ、あたしは、嘘が言えないようにされているのよ」
七雌妖は沙那を無視して、多目怪に視線を向けた。
嘘は言わなったが、積極的に真実も喋らなかったということだろう。
それでなんとか、すっかりと従順になった演技をして安心させたに違いない。
七雌妖のしたたかさを知り抜いている多目怪は思った。
沙那は歯を食いしばっている。
七雌妖にしてやられたかたちになったのが悔しいのだろうが、どうやら、それだけではなく、なんでもない触手の動きに身体が反応してしまって、気を抜くと、淫情に声をあげてしまいそうなようだ。
それを耐えているらしい。
その沙那は、まだ、腰の下着がそのままだったがほかは完全な裸身だ。
多目怪は触手に沙那の肌を本格的に刺激させた。
「あふううっ──あはあっ──ひくうっ──」
沙那の身体が跳びはねた。
全身が痺れているとは思えない激しい反応だ。
それだけ、沙那の受けている刺激が大きいということだろう。
これまでに数多くの人間の女を責めてきたが、ここまで感度が高い女は初めてだ。
あっという間に沙那は欲情した表情になり、淫情に身体を大きく悶えさせ始めた。
「ごめんなさい、おじき……。あたしは『縛心術』で本当のことだけを言うように道術をかけられたの。この屋敷に侵入するのが容易でないことはわかっているけど、あたしの知る限りのことを口にさせられたわ。宝玄仙がいるのはおそらく、あの調教部屋だろうから、そこまでの侵入方法を孫空女と朱姫に教えたわ」
「そ、それは」
多目怪は沙那を責めていた触手を一斉に引きあげた。
沙那が脱力してぐったりとなる。
しかし、それに構ってはいられない。
多目怪が行き倒れになっていた幼い七雌妖を拾って以来、七雌妖は随分と長い間、この屋敷で暮らしていた。
この屋敷のことは知り尽くしている。
普通であれば、この屋敷に侵入するのも、宝玄仙がいる調教部屋に辿りつくのも不可能だろうが、七雌妖がもたらした情報があれば話は変わる。
孫空女と朱姫という残りふたりの供は、宝玄仙を監禁している場所まで、それほど時間をかけずに辿りつくに違いない。
多目怪は慌てて、宝玄仙のいる場所に戻ろうとした。
「心配ないわよ、おじき──」
七雌妖がそれを留めた。
「し、しかし、お前は、あの調教部屋までの進み方を教えたのであろう? 『縛心術』で本当のことを口にさせられたと言ったが?」
大抵の『縛心術』を解くことは多目怪にもできる。
だが、七雌妖程度の能力では、もしかしたらできないだろう。
『縛心術』を掛けられて、偽りを言うなと命令されれば、偽の情報は告げられないはずだ。
「あたしは、命令されて、調教部屋までに入り込み方を教えた。それは、『縛心術』で操られていたからよ……。でも、調教部屋から外に出る方法は教えなかった。訊ねられなかったからね」
七雌妖は哄笑した。
「なるほど……」
多目怪は微笑んだ。
ならば、宝玄仙のいる場所まで辿りついた孫空女と朱姫は、そこで捕らわれてしまうに違いない。
多目怪は、卓の上で悔しそうな表情をしている沙那に向き合うと、再び触手でその身体を責めたてる態勢に戻った。
*
同じような景色の廊下が入り組んで迷路のようになっているだけではなく、隠し扉があったり、あるいは、侵入者除けの罠が取り付けてあったりした。
そのひとつひとつを孫空女は、朱姫とともに突破していく。
七雌妖から聞き出した情報は正確だった。
「七雌妖さんによれば、この回廊の先の壁に隠し扉があるはずです、孫姉さん」
朱姫が言った。
「うん、この突き当りの壁の奥から人の気配を感じるよ」
孫空女は回廊を進みながら言った。
行き止まりの壁の前に立ち、『如意棒』を抜く。
気を込める。
突き出した──。
壁が崩れた。
暗闇が出現した。
しかし、壊れた壁から差すわずかな光で孫空女には十分だった。
朱姫も夜目が利く。
そのまま、闇の通路を進んでいく。
その闇の廊下も迷路のようになっていた。
右、左、真っ直ぐ、右……。
孫空女は、事前に教えられていた情報に基づき、その闇の迷路を歩く。やがて、突き当たった。
「『道術錠』ですね」
背後の朱姫が言った。
場所を入れ替わる。
朱姫が七雌妖から教えられていた合言葉を壁にささやいた。
なにかが外れる音がして、壁に隙間ができて光が向こう側から差した。
壁を押し開くと、広い部屋になっていた真ん中に宝玄仙がいた。
寝椅子のようなものに腰掛けさせられている。
両腕は頭方向に伸ばし、膝を曲げて開脚した態勢だ。
太い触手のようなものが宝玄仙の口に入っている。
「ご主人様――」
孫空女は飛び込んだ。
『如意棒』で宝玄仙が拘束されている椅子を破壊する。
拘束が解けて、床に落ちた宝玄仙を朱姫が抱え起こした。
「ご主人様、大丈夫ですか?」
朱姫が宝玄仙の裸身を抱きながら言った。
「……お、お前、朱姫かい……?」
宝玄仙は半分意識がないようだった。
それでも、だんだんと状況を理解しはじめたのか、顔つきがまともに戻ってくる。
「あたしもいるよ。とにかく、多目怪が戻って来る前に逃げなくっちゃ──。背負うよ」
孫空女は宝玄仙に背を向けた。
「いえ、孫姉さん、ご主人様はあたしが背負います。孫姉さんは、また、前を歩いてください」
朱姫が言った。
「そうだね……。じゃあ、頼むよ」
孫空女は頷いた。
いま、こうしている間にも、多目怪が気がついて戻ってくるかもしれない。
戦いということになれば、孫空女は身軽な状態でいた方がいい。
七雌妖の話によれば、多目怪は気に入った人間の女をくすぐり奴隷として調教したいという強い願望があり、宝玄仙のことをおそらく、多目怪は気に入ることに間違いがなく、素直に身柄を渡すことはないだろうということだった。
それを聞いた沙那が、自分が囮となり、多目怪と交渉する振りをして、多目怪を引きつけ、その間に、孫空女と朱姫が宝玄仙を救出するために侵入するという策を立てた。
多目怪の屋敷である黄花観は、複雑な構造と様々な罠もあることがわかっていたが、その道順と罠の解除の方法も七雌妖から情報を得た。
「お、お前たち、来てくれたんだね……」
宝玄仙の眼が見開いた。
その表情が戸惑いから驚愕に、そして、歓喜に変化する。
宝玄仙が眼の前の朱姫を力いっぱい抱きしめた。
「ありがとう、ありがとう、ありがとう──ありがとう……」
宝玄仙は朱姫を抱いたまま何度も呟いた。宝玄仙が震えている。
もしかしたら、宝玄仙は泣いているのではないだろうか。孫空女は驚きとともに、その姿を眺めた。
「ご、ご主人様、時間がないから……」
やがて、孫空女は宝玄仙を促した。
この屋敷内で『移動術』が遣えないことはわかっている。
多目怪が、そういう仕掛けをこの黄花観に施しているのだ。
外に出るためには、やってきた道を逆に辿って戻るしかない。
「待ってください、孫姉さん──。試しておきたいことが……」
朱姫が言い、宝玄仙を向い合せに見つめ合う態勢になった。
「な、なんだよ、朱姫──。すぐに出た方が……」
孫空女はなにかを始めたがっている朱姫に、嗜めの言葉を言おうとした。
「で、でも、すぐに終わりますから……。この後、どうなるかわからないし。それに、沙那姉さんに、これを最優先でやるように言われたんです」
「沙那に? なにするんだよ、朱姫?」
「ご主人様に『縛心術』をかけるんです」
朱姫が言った。
「『縛心術』……? なんで……。い、いや、もういいよ。とにかく、じゃあ、早くしな、朱姫」
沙那がそうしろと朱姫に指示したのであれば、意味があることなのだろう。
いちいち、理由を孫空女が知っても面倒なだけで時間がもったいない。
孫空女は周囲の気配を探るために気を研ぎ澄ませるとともに身構えた。
この屋敷では多目怪自身であっても『移動術』は遣えないはずだ。
しかし、まだ、いろいろと仕掛けがあるかもしれない。
「……ご主人様、あたしの眼を見てください。もしかしたら、ご主人様の道術が戻るかもしれません。これからやることは、沙那姉さんかの思い付きであり、本当に効果があるのかわかりません。でも、あたしはやってみる価値はあると思いました」
「道術が戻る──?」
大きな声は孫空女自身の声だ。
宝玄仙は眉をひそめて訝しむ表情をしている。
それが戻る……?
「あくまでも、もしかしたらです……。可能性の話です。ご主人様のこれまで遣われてきたあらゆる道術は賽太歳によって閉じられています。あたしでは、それを取り戻す方法はわかりませんし、方法がわかったとしても、ご主人様の道術を封印してしまう程の強い道術にあたしが対抗できるわけがありません……。」
「だったら……」
でも、霊気はあるんですよね……。ご主人様は霊気はあるけど、道術力が封印されている。そういう状況です。ですから、新しく覚えてしまえばどうでしょうか?」
「新しく?」
宝玄仙が首を微かに傾げた。
「そうです。これまでの道術は封印されていても、新しく覚えればいいんです。あたしがご主人様に教えられて、次々に遣える道術を増やしているように、封印されている道術力の外に、新しい道術として、ご主人様に入り込んだ道術をご主人様の霊気と結び付けてしまうんです」
「結び付ける?」
「はい。そうすれば、ご主人様は、限られたものになるとは思いますが、いくらかの道術を遣える状態に戻るはずです。そうやって、少しずつ増やしていけば……」
「やっておくれ、朱姫」
宝玄仙は最後まで言わせなかった。
朱姫と宝玄仙が視線を交わし合う。
孫空女には、朱姫の身体の中の霊気が、宝玄仙側に流れ込むのを感じることができた。
「次に、あたしの道術で霊気と関わりのないものを流し込みます」
「そうだね」
宝玄仙が頷く。
再び霊気が動く。
やがて、朱姫が脱力した。
かなり消耗したように見える。
「……どうですか、ご主人様」
朱姫が訊ねた。
「わ、わからないね……。なにかが変わった気がするけど、それが定着するまでに少し時間がかかりそうさ」
宝玄仙が応じた。
「と、とにかく、行こうよ」
孫空女は言った。
今度は朱姫も宝玄仙も拒否しなかった。
宝玄仙の身体が朱姫に背負われる。
「ふっ」
思わず孫空女は噴き出してしまった。
「……前にも見たけど、その尻尾はなに、ご主人様?」
宝玄仙のお尻には、白い毛の房毛がついている。
「う、うるさいよ。いまは説明したくないね、孫空女」
朱姫に背負われている宝玄仙が顔を赤らめた。
それがなにかおかしかった。
「なかなか、可愛いよ、ご主人様」
「う、うるさいって、言っているだろう──」
宝玄仙が声をあげた。
その尾が軽く左右に動きはじめた。
孫空女が先頭になり、開け放たれていた壁から闇の通路に入り込んだ。
宝玄仙を背負った朱姫が続く。
そこに踏み込んだ瞬間、なにかの違和感があった。
思わず孫空女は立ちどまった。
なにかがおかしい……。
「どうしたんですか、孫姉さん?」
背後の朱姫が声をかけてきた。
次の瞬間、不意に闇が崩れて四方から金色の光が貫いた。
悲鳴をあげる余裕もなかった……。
その黄金の光を浴びた途端、全身が弛緩し、そして、意識がなくなった。