宝玄仙はうつ伏せだった。
周りにはなにもなかった。
光があるようでなかった。
まったくの闇のようであり周囲は白い光に溢れていた。
宝玄仙は身体を起こした。
すると床だと感じていたものがなにもなくなった。
宙に浮いているようであり、そうではなかった。
ここにはなにもない。
自分自身の意識そのものがあるだけだ。
宝玄仙はここがどこだかわかっていた。
意識の世界──。
宝玄仙がそう呼んでいる場所だ。
宝玄仙の意識の中の世界であり、この場所でいつも宝玉と会っていた。
闘勝仙の奴隷のようにされていた二年間の期間のある日──。
突然、この場所が出現して、いまは宝玉と名乗っているもうひとつの人格と語り合うことができるようになったのだ。
そして、闘勝仙に対する宝玄仙たちのあの復讐が始まった……。
しかし、その宝玉は……。
「宝玄仙、久しぶりね──」
声がした。
視線を向けると、そこに宝玉がいた。
「お前かい……」
宝玉を見た。
相変わらずの優しげな笑みを浮かべている。
見たところおかしな雰囲気はない。
しかし、そんなはずはない。
この宝玉は朱紫国の帝都で宝玄仙が捕えられて拷問を受けたときに、心を毀されて意識の闇に消えてしまった。
そして、精神を病んで狂った状態になり、意図的に三人の供を害しようとしたこともある。
それで宝玄仙と朱姫が宝玉を封印した。
宝玄仙と朱姫で本当に宝玉を意識下に閉じ込めることができるとは思わなかったが、やはり、それはかなわなかったようだ。
だが、眼の前の宝玉はどこにもおかしな部分はないように思える。
「ずっと、過去の記憶を辿らされたのはお前の
そう思った。
ほかに考えようはない。
過去の記憶に触れてきたこの一連の体験は、宝玉がやったに違いないのだ。
「仕業?」
宝玉はきょとんとしている。
その表情に恍けているという感じはない。
宝玉は基本的に嘘がつけない。
闘勝仙が死んだいまでも、闘勝仙の呪縛は続いていて、闘勝仙と交わした『真言契約』のいくつかは、まだ有効なのだ。
嘘がつけないというのも、そういう呪縛のひとつだ。もともと、快感をどこに、どの程度覚えるのかということを大声で語らせるという余興のために、結ばされた真言の誓いなのだが、そんな呪術が、この共有している身体にはたくさん刻まれている。
そのことごとくを宝玉が背負っているのだ。
だから、宝玉が知らないと言えば、本当に知らないということだ。
そう考えたとき、今更ながらではあるが、ある矛盾に気がついた。
そう言えば、
狂っていたとはいえ、闘勝仙の呪縛をかけられていながら宝玉はどうやって、宝玄仙たちを騙すという行動とることができたのだろうか。
いずれにしても、記憶の旅が宝玉の仕業ではないとすればなんなのだろう……。
有来有去に壊されてしまい、『縛心術』による記憶操作と暗示で、沙那たちを狙おうとしたくらいだからおかしな企てを考えているとは考えられるが……。
「お前が、わたしや沙那たちに危害を加えようとするなにかの企ての一部かと訊いているんだよ、宝玉」
宝玄仙は言った。
「わ、わたしが、あなたや沙那たちを害するですって? なにを言っているの、宝玄仙」
宝玉が驚いている。
しかし、宝玄仙は宝玉が驚いているということに驚いた。
「お前、少し前に現れたかと思ったら、わたしら四人に集団縛心術とおかしな幻でお互いに敵対させようとしただろう?」
「一体なにを言っているのかわからないわ、宝玄仙? わたしがあなたたちに、なにかをしようとしたことがあったの?」
どうも話が通じない。
「覚えていないのかい、宝玉?」
「そうね……。そう言えば、覚えていないわ。まるで記憶が欠けているわね。わたしは、
宝玉は言った。
なにも覚えていないというのは真実のようだが、宝玉の言葉に思わず宝玄仙は苦笑していしまった。
「どういう状況もなにも、死にかけているよ。有来有去からは沙那たちが救いだしてくれて、いまは道術を取り戻すためにずっと北辺の辺境地帯に来ている。妖魔の里だ。でも、そこで、
宝玄仙は、簡単にこれまでの経緯を宝玉に説明した。
宝玉は、自分が芭蕉という幻で三人の供を危険な目に遭わせようとしたということに驚愕していた。
そして、春嬌という雌妖に捕らえられているということを説明したところで首を傾げた。
「あなたの説明が正しいとして、あなたの意識が春嬌という雌妖に受けた最初の拷問で途切れるなら、あなたの身体で拷問を受けたわたしたちは誰なの? そもそも、馬姦をされているというわたしたちの身体に入っているのは、どっちの意識なの?」
宝玉は言った。
それには宝玄仙にも答えられなかった。
宝玄仙は、てっきりあれは宝玉の意識だと思っていたのだ。
そうすると、馬に犯されている自分を俯瞰したというような記憶は幻なのだろうか……。
宝玄仙は、それから、いままで幼児期の自分から闘勝仙との確執までの幾つかの記憶を追体験させられた話もした。
それについては、宝玉は、まったく自分のあずかり知らぬことだと断言した。
宝玄仙は混乱した。
“……人格が整理されると、残った人格のそれぞれの記憶が再構成される。そのとき、しばしば、それぞれの人格に委ねている記憶が混乱することがあるわ。おそらく、宝玄仙の過去の記憶の追体験は、記憶の再構成による一時的な現象のものだと思う”
突然、別の声がした。
「誰だい?」
宝玄仙は叫んだ。
しかし、声がした方向を見てもなにもなかった。
「宝玄仙、あなた、間違っているわ。“声”はどこからもしていない。ただ、伝わっているだけよ。わたしたちに……」
宝玉が言った。
「伝わっている?」
「そうよ、宝玄仙。なにかがわたしたちに声を送っているのよ」
“そういうことだ、宝玄仙、そして、宝玉。わたしがあなたたちに直接に接するということはまずない。だけど、このしばらくで起きたことについて、記憶を共有することが必要だと思って、わたしは説明しにきた”
“声”が言った。
「お前は、誰だい?」
宝玄仙は言葉に出した。
“誰でもない。あなたたちと同じもの……。この宝玄仙という身体の一部……。いえ、心の一部というべきか…。わたしは、あなたたちのように人格を受け持たない。ただの“記憶”。思考する存在ともいうべきかしれない”
「記憶とはどういうこと?」
宝玉だ。
“どういうものでもない。それだけの意味。記憶は記憶。感情はない。わたしは、ただの思考する存在。役割は護ること。この身体を……。いえ、宝玄仙……宝玉……どちらの名が相応しいかわからないけど、この身体の本来の持ち主に代わり人格を制御するの……。それが役割”
「本来の持ち主?」
宝玄仙は思わず繰り返した。
“本来の人格に代わり、この身体に宿る人格たちを統制する。それがわたし”
“声”が同じことをもう一度言った。
「ちゃんとわかるように話しな。思わせぶりな言葉は苛々するんだよ。お前は、わたしたちのなにを知っているというんだい。それとお前は何者なんだい」
宝玄仙は怒鳴った。
“さすがは、闘勝仙に打つ勝つために作られた人格だけのことはある。気が強い……。しかし、同時に短い……。それに比べれば、護るための人格の宝玉は慎重……。不用意な発言は慎み、用心深く物事を見極めようとする。本当は、あなたたちのふたつの人格がひとつになればよかったのだろうけど、育ってしまった人格は、独立した人間と同じ……。もう、ひとつにはならない。これからもふたりでやってもらうしかない”
「あなたは、わたしや宝玄仙が、あなたに作られた人格だと言いたいの?」
宝玉が言った。
「わたしらがこいつに作られた? 冗談じゃないよ、宝玉」
宝玄仙は口を挟んだ。
宝玉が言ったことは、到底受け入れられることではなかった。
自分が誰かによって作られた存在などと……。
“宝玉はわたしを受け入れたようね。知的な宝玉……。あなたは思慮深い……。多くの現実の証拠からそうであることを受け入れた……。でも、宝玄仙……。あなたは自分が本来のこの身体の人格ではないということは受け入れられないようね”
「あ、当たり前だよ。わたしはわたしだよ」
宝玄仙は言った。
“いずれにしても、あなたたちのような人格を生んだのはわたしではない。わたしの役割は、生まれてしまった人格を統制すること……。わたしもまた、あなたたちと同じもの。役割が違うだけ……”
「さっぱりわからないし、納得もできないね」
“そうであっても構わない、宝玄仙。理解してもらうことが目的ではないし、それはわたしの役割ではない。わたしは、この最近の混乱が解決したことを伝えるために、あなたたちに接した。あなたたちが戸惑わないように……。そして、ふたりで協力して、この状況を打開してもらうために……”
「解決した混乱とはなにかしら?」
宝玉が言った。
“有来有去から受けた苦しみ……。それに宝玉は対応できなかった……。つまり、本来の人格が、対応できないという事態を認識してしまった。そのために困ったことが起きた。この身体は制御できない極限の緊張状態に陥ると新しい人格を産んでしまうとい性質がある。しかし、今回生まれた人格は、非常に危険なものだった。最初から自傷癖があり、破壊的で、人格として成長すれば問題が起きることは明白だった。だから、排除したの……”
「排除?」
宝玉だ
“さらに耐えられない状況に追い込んだ。そのために、道術さえも封印に協力さえした。春嬌という女が激しく、この身体と心を責めるのに任せた。いや、むしろ、それを心の中で苦悶を増幅した。その結果、新たに生みだされた危険な人格は存在を失った……。そして、記憶の再構成をした。その再構成の影響が、宝玄仙が体験した記憶の追体験という現象に繋がったのだと思う“”
「わかるように話しな。さっぱり、なにを喋っているのかわからないよ」
宝玄仙は言った。
“そう……。もはや、宝玄仙も宝玉もわたしたちとは離れた独立した人格……。言葉なしにわかりあえることは難しい。すべてを説明することが、理解に繋がるのであれば、そうする……”
“声”が言った。
そして、少し間があり、声が再び頭で響き始める。
“すべては、わたしたちが子供のときに始まった……。いまは、宝玄仙と名乗っているこの身体の本来の持ち主は生まれながらにして大きな霊気と道術力を秘めていた。しかし、それほど強い心は持たなかった。母親に調教され、その肉体的、精神的な苦痛に耐えられなかった……。それがあなたたち、つまり、わたしたちの原点……”
“声”が言った。
「わたしたちの原点? なんの話だい?」
宝玄仙は吐き捨てた。
「いまは、受け入れましょうよ、宝玄仙──。黙って、聞きましょう」
宝玉が言った。
宝玄仙はよくわからない苛立ちに舌打ちした。
しかし、それ以上のことをすることは自重した。
“仮に、本来の人格を“原宝玉”と呼ぶ……。その原宝玉は非常に弱い性格だった。自分が母親につらい仕打ちを受けるのは、自分が母親の望む存在ではないからだと考えた……。そして、強く望んだ。母親の求める別の人間になりたいと……。そして、そのために、母親が望むであろう別の人格を作りあげた……。無意識のうちに……”
「人格を作った?」
宝玉が呟いた。
“しかし、あなたたちの知っているように、わたしたちの母親は、ああいう性格だった。別に憎くてわたしたちを虐待しているわけじゃない……。むしろ、虐待しているという自覚さえなかった……。でも、結果的に、破綻してしまった原宝玉は、受け入れられない自分に代わり、新しい人格を作り、それが受け入れられないと、また新しい人格を作り……というように、多くの人格を次々に作っていった”
「人格を作る……?」
呟いたのは宝玉だ。
一方で、宝玄仙はまったく意味がわからなかった。
“ええ……。その結果、大変な混乱がこの意識下の中で起きた……。幼い道術遣いが無意識にやっていることでも、強い霊気を帯びたそれぞれの人格は、独立した人間として成立するほどに強い存在だった。それがそれぞれの記憶をばらばらに持ち、そして、自分こそが、この身体の本来の意識だと主張して争った……”
「争い?」
宝玉だ。
“それは大変な混乱だった……。その結果、原宝玉は、ほかの人格たちに押し潰されて存在を隠した……。わたしという新しい存在を残して……”
「姿を隠したということは、どこかにいるの? その……、もともとのわたしたちは……」
“いる……。感じようと思えば、あなたたちも感じることができる”
“声”が言ったとき、宝玄仙ははっとした。
それまで感じなかったものをはっきりと知覚したのだ。
真っ白いこの意識下の空間の離れた場所に、小さな幼女が現われた。
自分の膝を両手で抱いて座っていて、まったくの無表情だった。
ひと目見ただけで、あれは自分だと確信した。
理屈ではない。
わかったのだ……。
あれは幼い頃の自分だ……。
あれが宝玄仙の原点──。
“彼女はいまでも、なにかとの接触を閉ざしている。母親に拒絶されたと思い込み、多くの人格を作って、もう、一切の外界との関わりを放棄している。彼女の心がなにを抱えているのか、もはや、わたしにもわからない”
「わからないって、どういうことだい?」
宝玄仙は不可思議な怒りに襲われて叫んだ。
いずれにしても、宝玄仙の心をしめていたのは、あの小さな宝玄仙に対する憐憫……。
あんなに怖がっている……。
“わたしは人格として生みだされたものではなく、制御する者として生みだされたものだから、はっきりとはわからない……。ただ、わたしは、この身体の支配をほかの人格たちと争って主張することはないけど、他の人格たちは必ず、この身体の支配権を主張して激しく対立した……。一方で、彼女は、本来の人格でありながら、この身体の支配を望んでいない……。それどころか、いまでも外界と接触することはおろか、ほかの人格に接することさえ怖れている”
「怖れている?」
“おそらく、ああやって、死ぬまでじっとしていると思う。それが彼女の望みのようだ”
“声”が言った。
宝玄仙は無意識のうちに、その幼女に駆け寄って抱いてやろうとした。
彼女の苦悩、哀しみ、寂しさのようなものが突然、心に流れ込んできたのだ。
しかし、宝玄仙がなにかをしようとする前に、その幼女の姿は不意に消滅した。
“ああやって、姿を隠す。心の闇に隠れる……。誰も彼女には触れられない。わたしにも……”
“声”が言った。
感情はないと最初に言ったが、心なしか、“声”には哀しみのような響きがあった気がした。
「そのたくさんの人格はどうなったの? それらのどれかがわたしたちなの?」
宝玉が言った。
“その答えには“否”というしかない。とにかく、わたしは、与えられた役割に従って、たくさんの人格を整理しようとした。混乱を収束するのはそれしかなかった。生みだされた人格を統合していった”
「つまり、消していったわけだね」
宝玄仙は言った。
“一部は……。でも、大部分は、消すのではなく、統合した……。それぞれの人格が持っている記憶を同調させる。記憶が完全に一致すれば、人格の統合は容易に起きる。あとはそれぞれの人格が相手を受け入れて融合されるだけ。そうやって、共通項の多い人格をどんどん集約していき、最終的にはふたつになった”
「それがわたしたちかい?」
“いいえ、宝玄仙。あなたについては違う。でも、宝玉は確かにそうだ。集約された人格のひとつは、“母親を受け入れる宝玉”……。それがいまの宝玉……。でも、その人格は、主人格と副人格と区分するとすれば、副人格の方だった。表に出て外界と接触する役割を担っていたのは、もうひとつの人格……、つまり、“母親を受け入れない宝玉””
「統合された“母親を受け入れる宝玉”──。それがわたし……」
宝玉が驚いた表情をして呟いた。
「それでどうなったんだい? お前の話はこれで終わりじゃないんだろう?」
宝玄仙は言った。
“そうだ。終わりじゃない。新しい人格が生みだされるのも……。新たな人格の誕生は、それで終わりじゃなかった……。それからも、なにか耐えられない状況に遭遇すると、原宝玉は、また新しい人格を作った。生みだされた人格たちが対応できない状況に遭遇すると、それが原宝玉の心に伝わって、新しい人格ができる……。それをまたわたしは、融合させたり、人格として育ちきる前に消去する……。それがわたしの役割……。放っておけば、この身体には果てしなく人格が溢れてしまう。わたしはそれをひたすら防ぐ。そのために存在していると言っていい”
“声”が言った。
「じゃあ、母親を受け入れる宝玉がこの宝玉なら、もうひとりはどうなったんだい?」
宝玄仙は言った。
もうひとつの統合された人格は、宝玄仙ではないと“声”は言ったが、宝玄仙の原点があるとすれば、そっちがそれである気がした。
しかし、ぴんとはこなかった。
母親を受け入れないという気持ちは宝玄仙にはもうない。
ただ、受け入れる機会はない。そう思っているだけだ。それは宝玄仙自身が断ち切った。
“ふたつの人格の相違点は、ゆっくりとした時間の中で変化していった……。結局のところ、淫蕩な母親の血を受け継いでいるわたしたちは、成長するにつれて母親に似ていった。その結果、母親を理解できるようになった。宝玉の原点の人格はもちろん、母親を受け入れない人格が統合されたもうひとつの人格も母親を受け入れられるようになった。両者の相違点はなくなった”
「それで?」
“統合された……。やっと、この身体の人格の対立は消滅して、わたしの役割は終わった。従って、わたしもまた存在をやめた……。あなた方が三十歳くらいの頃……。この身体が一番安定していた時代……”
「そ、そんなの覚えていないわ」
宝玉が戸惑った声をあげた。
“声”の説明が正しければ、宝玉は何度も人格の分裂と融合を経験していることになる。
その記憶がないというのは納得いかないのだろう。
“それは珍しいことではない。融合された人格には、融合前の記憶がある場合と、最初からひとつの人格だったというように記憶が整理される場合がある。たまたま、宝玉の場合は後者の場合だっただけ。それから、人格の対立がなくなったことで、役割の終えたわたしも、一時期は宝玉と融合した。わたしとあなたは一緒だった、宝玉”
「まったく、覚えていない……。その知覚もない……」
宝玉が途方に暮れた感じで呟いた。
“でも、その後、再び、人格の分裂と再構成が起きた……”
“声”が言った。
「もしかして、闘勝仙のときのこと?」
宝玉が訊ねた。
“そう。闘勝仙に与えられた長い恥辱の日々……。それは安定しかけていたわたしたちをもう一度混乱させた。そう思うしかない……。おそらく、原宝玉が新しい人格を生んだのだと思う。その人格を核に、統合されていた宝玉から攻撃的な部分が分裂して、融合し、強い宝玄仙が生みだされた。そして、新たな人格に統合された部分の残りが宝玉だと推測している……。それからは、おそらくあなたたちの知っている通り……。宝玉と宝玄仙というふたつの人格に分かれ、ふたりが協力して闘勝仙に打ち勝った……。それが起こったのだと思う……”
“声”は言った。
「ちょっと待ちなよ、お前。どうして、そこだけ、“思う”なんだい? 覚えていないのかい?」
宝玄仙は言った。
“わたしは、当時、宝玉に融合されていた。いえ、ついこの間まで、融合されたままだった。その間に起きたことは、あなたたちの方が詳しい”
「じゃあ、お前は、ずっと宝玉に隠れていたということかい?」
“隠れていたというのは正確ではない。わたしたちは融合していたのだから……。忘れてもらっては困るけど、わたしたちは、もともとは同じ心から生まれたものなのだ。本来はひとつの人格で……”
「知ったことかい……。じゃあ、お前はいつ、現れたんだい?」
“最近だと思う。再び始まった混乱を収束させるために……。気がつくと、存在として復活していた……。失われていたわたしの自我も元に戻っていて、わたしはわたしの役割を思い出した”
「始まった混乱?」
宝玄仙は眉をひそめた。
“そのことなら説明できる。わたしはそのときに起きたことを認識して復活したから……。わたしに必要な記憶だったのでそうなったのだと思う……。つまりあの時、宝玉が有来有去に追い詰められた……。その結果、宝玉という人格とは別のものが出現してしまった」
「別のもの?」
「そう……。そして、それが本来の宝玉を意識下に眠らせてしましまった。おそらく、また、原宝玉の力によるものだと思う……。耐えられない精神的な圧力を感じると、どうしてもそうなるらしい。でも、その新たな別の宝玉は邪悪で危険な存在だった。非常に自虐的であり、自傷的だった。わたしたちを護っている沙那たちを排除し、最終的にはわたしたち自身も除去しようとした”
「……そ、そんなこと覚えていないわ」
宝玉が狼狽えた声をあげた。
“覚えているはず……。有来有去の責めで記憶があるのはどこまで? その記憶が途切れている部分の時間よりも先は、あなたは意識の下に追いやられて眠らされていた。そして、さっき意識を取り戻した。それは邪悪な宝玉が、わたしのやったことで存在と力を失ったので、そいつに眠らされていたあなたの記憶と存在が解放されたからだ”
「わ、わたしが覚えているのは……有来有去に眠らせえもらえない拷問を受けていたときで……」
“それ以降は、あなたに代わって邪悪な宝玉が支配していた。もちろん、宝玄仙がいたから、なかなか表には出られず、しかも、封印もしてくれたから大事には至らなかった……。いずれにしても、それは排除しなければならない人格だった。人格として完成する前に消滅させてしまうべきものだった……。だから、復活したわたしは、
「ちょ、ちょっと待ちな、お前──。つまり、芭蕉とか称して、わたしらにちょっかいを出してきたのが別の人格だということかい? しかも、馬に犯されていた狂女のわたしの姿が、そいつということかい?」
“そういうことだ、宝玄仙”
「そりゃあ、いいんだけど……。さっき、聞き捨てならないことを言わなかったかい? 道術封じを受け入れたとかなんとか……」
“そう言った。道術が遣える状態では、あの邪悪な宝玉を追い詰めることはできなかった。だから、わたしは受け入れた。わたしたちの道術封じには、一度目の賽太歳の道術を受けたことで、しっかりと抗体ができていたんだけど、わたしはそれを一時的に無効にして……”
「お、お前、なんてことをしてくれたんだい──」
宝玄仙は叫んだ。
それでおかしいと思っていた疑問は解決した。
宝玄仙の霊気には、もともと強い道術返しの能力があるのだ。他人の攻撃道術をなかなか受け入れないし、受け入れたとしても二度目には、他人の攻撃霊気に対する抗体が宝玄仙の霊気に備わって、さらに受け入れなくなるのだ。
それが易々と二度目の賽太歳の道術封じも受け入れてしまった。
余程、強力な霊気の持ち主に違いないと考えていたところだった……。
“これは仕方がないこと……。あなた方を護るために……”
「ふ、ふざけるんじゃないよ。だったら、春嬌からわたしらを救いな──。余分な人格の処理なんて、この状況が解決してからゆっくりでいいんだよ。お前が余計なことをした結果、道術が遣えないじゃないか。どうしてくれるんだい──」
宝玄仙は怒鳴りあげた。
“もう、封印はしていない……。道術封じを受け入れたために、あの時、再び道術は奪われたけど、それ以降に受けた他人の道術については、それを吸収して、わたしたちの霊気に刻むことができたはず……。だから、とりあえず、『治療術』だけは頻繁に受けているので、もう遣えるはずだ……”
道術は失われたままだが、相手に道術をかけられたりして、一度道術の波紋が身体を通過すれば、その術は遣える……?
春嬌の拷問の後、治療術だけは、何回も受けた。
つまり、治療術だけは遣えるということか……。
しかし……。
「『治療術』ひとつで、どうやって、あの春嬌に対抗するんだい。だったら、お前が拷問を受けな──」
宝玄仙はさらに“声”をあげた。
“わたしは人格ではない。表には出られない……”
「そんなことどうでもいいんだよ。これから、あの春嬌をどうするのか説明しな」
“それはわたしの役割ではない……”
能天気なその物言いに腹が立つ。
人格の分裂だか、統合だか知らないが、そんなことよりも、現実の状況だ。
馬に宝玄仙の身体を犯させている光景を見た。
これからもあの頭が半分狂ったような春嬌という雌妖は、嵩にかかって宝玄仙を責めたてるだろう。
それに耐えなければならないのだ。
「ねえ、あなたは、これからも存在を続けるの?」
宝玄仙の権幕を遮るように宝玉は言った。
“わたしの役割は終わった。わたしの役割は、分裂して不安定な人格の存在を融合するか、消滅させること……。あなたたちは完全に安定しているふたつの人格……。融合の必要はない……。いや、完全に安定してしまって、融合も不可能……”
「もういい。だったら、さっさと消えな──」
宝玄仙は叫んだ。
すると、すっとなにかの存在が消えた気配がした。
宝玉との間にしばらく沈黙が流れた。
「わたしが出るわ」
不意に宝玉が言った。
いまは宝玄仙の肉体は拷問を受けている。
それを宝玉は理解しているはずだ。
宝玄仙は嘆息した。
「いいよ……。わたしがいくさ」
「でも……」
「また、お前が分裂でもして、余計な面倒を増やされても困るんでね」
宝玄仙は笑った。
すると、宝玉が頬に笑みを浮かべたまま、苦虫を噛んだような表情になった。
*
意識が戻った。
なにかにうつ伏せにされて四肢を縛られていた。
肛門が破れている。
すぐにわかった。
自分の下半身が自分の糞便で汚れてもいる。
周囲のざわめきも聞こえてきた。
さっき俯瞰して見た宴の場所だ。
どうやら、馬で犯されていた自分の身体に意識が戻ったようだ。
もう、客は残っていない。
宴も終わっているようだ。
馬もいない。
馬で犯されている最中でなかったことだけはよかった。
宝玄仙は自分の身体の中の道術を探った。
意識下の中で、おかしな存在が言及したように『治療術』の残骸があった。
まずは、それを刻みなおした。
それは大した作業ではなかった。
すぐに終わった。
傷だらけの自分の身体に『治療術』を送り込む。自分の身体が温かいもので包まれたのがわかった。
そのとき、宝玄仙は、自分の舌が失われていることにも気がついた。
しかし、それも宝玄仙の『治療術』が復活したことで勝手に治療を始めている。
すぐに元通りになるだろう。
宝玄仙は背の丸い木馬のような四本の脚の付いた短い丸太に載せられて、四肢を四本の脚に縛られていたが、なんとか首を動かすことで周囲を観察することができた。
「朱姫、さっさとするのよ──。卓の料理と酒を奥に片付けたら、宝玄仙の始末よ……。いや、先に宝玄仙を始末してもらおうかしら。糞尿を撒き散らして臭いからね……。よし、じゃあ、まずは宝玄仙の身体の汚物を洗って、そしたら地下の檻に運びなさい。その後に会場の片付けよ」
朱姫を怒鳴っているのは、
そっくりの風貌なので、宝玄仙にはどっちがどっちだか区別がつかない。
「それと、わかっていると思うけど、お前にはかせた下着は、お前が勝手に脱ぎ捨てたんだよ。小便を漏らしてね。誰かに訊かれたらそう言うのよ。そうでない事実を喋ったら折檻だからね──。ほら、どうして、下着を脱いだか言ってみな、朱姫」
そんなことも言われていた。
「し、下着は、あたしが脱ぎ捨てました……」
「それでいい」
だんだんと朱姫と雌妖の声が近づいてくる。
春嬌ももういないようだ。
客とともにどこかに行ったのだろう。
朱姫がやってきたが、そのま奥に引っ込んだ。
宝玄仙を洗うための水がどうのこうのと雌妖と話していた。
朱姫が宝玄仙の身体を洗うために井戸水を使わせて欲しいと言い、雌妖はちょうど雨が降ってきたから、外で水溜まりから汲んでこいとか言っていた。
朱姫は下半身は素裸で上半身はきちんとした女給服を身に着けているという奇妙な恰好をさせられていた。
両足首には足枷があり、両手も腰に巻いた腰帯に繋いだ鎖で両方の手首を拘束されている。
また、首には太い首輪が嵌っている。
そして、宝玄仙は、自分にも同じような首輪が嵌められているということに気がついた。
宝玄仙はふと、意識の中の世界で空からこの会場を俯瞰したときに、沙那と孫空女が性行為をさせられていたのを思い出した。
宝玄仙は視線を動かしてそっちを見たが、ふたりはもういないようだった。
ただ、壁に数字が残っていた。
“二百五十”──。
壁にはそう表示されていた。
考えてみれば、あれは絶頂の回数だろうか。
まあ、それが絶頂の回数だとすれば、あのふたりだったらなんてことはない責めだろう。
ただ、絶頂するだけなら責めとしては緩い方だ。
朱姫のえげつない責めの方がつらいくらいに違いない。
その朱姫がやってきた。
「ご、ご主人様……、き、きれいにさせてもらいます……」
朱姫が戻ってきて、宝玄仙のそばに持っていた桶を置いた。
こいつは宝玄仙の意識がないものと決めてかかっているような口調だ。
宝玄仙に語りかけるというよりは、自分自身への呟きのようだった。
朱姫はすすり泣きをしていた。
身体が雨で少し濡れていた。
そして、脚に小便の痕がある。
なにが起きたかわからないが、尿を洩らしてそれを拭くことも許されずに働かされていたに違いない。
「頼むよ、朱姫」
宝玄仙は言った。
とにかく、下半身の汚れたままの糞尿が気持ち悪い。
それに猛烈な匂いを発する獣臭いなにかにまみれている気がする。
おそらく、それはあの馬の精液だろう。
なんとか身体の治療は終わったが、まだそれだけなのだ。
気持ちの悪さは残っている。
「ご主人様──?」
朱姫が目を丸くしている。
「ほ、宝玄仙……、な、なんで、声が──? そ、それに、傷の痕が……」
横の雌妖が叫んだ。そして、驚きのあまり、床に引っくり返って尻餅をついている。
「た、大変です──、春嬌様──。すぐに来てください、宝玄仙が……」
どうやら、道術で声をどこかに飛ばしているようだ。
我に返ったような雌妖の“声”が会場に響き渡った。
「とにかく、早く拭いておくれよ、朱姫」
宝玄仙は動転した様子のその雌妖を無視した。
「は、はい」
宝玄仙の声で、呆然としていた朱姫が弾かれたように嬉しそうな声をあげた。
(第54話『記憶巡りの旅』終わり、第55話『妖魔王の女囚たち』に続く)