沙那は檻の中で身体を丸めて横になっていた。
いつもは檻から出すために誰かがやってくるまで死んだように眠っている。
しかし、今日の沙那は、もう二刻(約二時間)も前から眼を覚ましていた。
今日……。
決めていた。
すでに十日はすぎている。おそらく、いまは朝だ──。
もっとも、本当に十日以上がすぎているのかどうかは、沙那にはわからないし、朝かどうかなどわかりようもない。
この檻から連れ出されるときを朝とし、雌犬調教を受けてからこの檻に戻されるのを夜とする。
眠るのを許された時間がすぎたら、また迎えにくるので、それが朝──。
そうやって、それが一日だと数えていただけだ。
両手は前手縛りにされて鉄格子にしっかりと結ばれている。
足首にも縄掛けがあるが、足首と足首の間は、肩幅ほどの長さの縄で結ばれているだけなので、歩く程度であれば、それほど行動に支障はない。
最初の頃と比べれば、随分と拘束が緩くなっていた。
この数日、沙那は当初の日々とは人が変わったように従順な態度を続けている。
それで、調教が進んでいると判断した連中が、だんだんと強い拘束の必要性を感じなくなっているようだ。
やっと、
長かった……。
誰かがやってくる気配がした。
沙那は薄目を開けた。
腰に剣を佩いている。
沙那は自分の心臓が早鐘のように鳴るのを感じた。
連中が剣を手元に置くようになったのは、昨日からだ。
それまでは、必要もなかったので、この洞窟のどこかに隠していたようだったが、この数日、大きな地鳴りのような振動が何度かあった。
それで、張須陀に命じられた
なにが起こったかわからないが、取引きのために使っている山小屋が木端微塵になっていたらしい。
沙那は、項延が興奮した様子で張須陀に報告するのを雌犬としての調教をこなしながら耳にしていた。
山小屋を木端微塵にするほどの爆破──。
もしかしたら、道術だろうか……。
そうであれば、宝玄仙かもしれない。
宝玄仙……。
いまでは懐かしさも感じる……。
「起きろ、雌犬──。調教の時間だぜ」
鉄格子が蹴られた。
沙那は上半身を起こした。
「わんっ」
犬の鳴き声以外は禁止されている。
だから、すべての挨拶も犬の言葉で行う……。
それが連中に躾けられた決まり事だ。
「へへっ、すっかりと犬の姿が様になってきたな、沙那。……哀れなもんだぜ。まあ、俺たちにかかれば、どんなに気の強い女もそうだったからな……。さて、兄貴たちのところに行く前に今日も奉仕してくれよ。いつものようにな」
李保が言った。
そして、下袴をさげて股間の一物を剝き出しにすると、鉄格子越しに男根を沙那に向けた。
沙那はすっと顔を鉄格子に近づいて、こっちに入っている李保の一物に口を含む。
この李保は、最初に沙那が口で奉仕をして以来、すっかりと沙那のその奉仕が気に入ってしまい、毎朝、沙那を張須陀の前に連れていく前に、こうやって沙那に自分の一物をしゃぶることを強要してくる。
沙那も求められるまま、抵抗することなく口で奉仕をした。
そうやって、沙那が李保の精を絞り出してやるのだ。
それが終わって初めて李保は、鉄格子の鍵を開けて、沙那の首輪に鎖を繋げて、張須陀の前に連れていく。
それもこの数日ずっと繰り返していることだ。
沙那は一心不乱に奉仕しているふりをしながら、李保が下袴をさげるときに床に置いた剣に注意を注いでいた。
これをひたすら待っていたのだ。
連中が不用意に剣を沙那に近づける瞬間を……。
十日以上も耐えに耐えて来たのはこれだ──。
剣──。
それがすぐ眼の前にある。
李保はすっかりと油断しているし、都合のいいことに張須陀も項延も離れている。
「ああ、相変わらず、お前の口は凄えぜ……。だ、出すぞ。一滴残らず吸うんだ」
李保が顔をしかめた。
唾液で膜を作って李保の怒張の先端を包み込むように刺激していた沙那の口に李保の精が迸った。
沙那はそれを喉に送りながら、ちゅうちゅうと音を立てるようにして、李保の残っている精を吸い取る。
「ああ、気持ちよかったぜ、沙那さんよ。後始末も頼むぜ」
李保が満足そうに言った。
沙那は垢ごと舐め尽くすように李保の睾丸から男根の先端まで舌で掃除する。
奉仕の後で沙那が舌で行うこの掃除が李保のお気に入りだ。
これをやっている間は、李保は精を出す瞬間よりも恍惚とした顔になる。
舌を使った掃除が終わると、李保は満足したように下袴を履き直した。
地面に置かれていた剣も腰に付け直される。
「さて、じゃあ、張須陀の兄貴のところにいくぜ。さっきからお待ちかねだ。今日からは調教を一段階あげると言っていたぞ。愉しみにしてな」
李保がそう言って、沙那の前手縛りの縄尻を鉄格子から解いてから鉄格子を開いた。
沙那は四つん這いの姿勢で首を前に出して、沙那の首輪に繋げるために李保が近づける鎖を待つ態勢になる。
ここまでは、この数日ずっと続いていた同じ行動だ。
李保の顔が眼の前にやってくる。
沙那はいきなり飛びかかった。
前手縛りのまま、首の経絡を突く。
「ぐっ」
李保の眼が大きく開かれるとともに、その口が悲鳴を迸る仕草をする。
しかし、沙那が経絡の気功を突いたことで呼吸とともに声が止められている。
なにかを掴むかのように手をもがかせる李保の首にもう一度指の打撃を経絡に打ちこんだ。
経絡とは、身体のあちこちにある気功に強い気を打ちこむことで相手の気を支配する技であり、これを使ってあっという間に相手の気を失わせることができる。
李保は、沙那から経絡の気功を突かれて、その場にずるずると倒れ込んだ。
沙那は気絶した李保の腰からさっと剣を抜いた。
剣の刃で前手縛りの縄を切断し、足首の縄も切る。
すぐに股間に張りつけてある『仕置き膜』に手を伸ばす。
これのお陰でさんざんにいたぶられた。
この調教霊具から逃れるために、血の気もなくなるような恥辱も甘んじて受けた。
恥も外聞もなく、雌犬になれと言われれば、雌犬のように犬の声で吠え、這えと言われれば這い、尻を出せと命令されれば、尻を向けて犯されるに任せた。
すべて、あの恐ろしい霊具の罰を受けないためにだ。
この忌々しい霊具がやっと取れる……。
沙那は股間に手をやった。
だが取れない。
やはり、簡単には霊具は外れないようだ。
まあいい……。
どうせ、張須陀を殺すか、それとも張須陀から離れるかすれば外れる。
沙那は『仕置き膜』を外すことを断念した。
立ちあがった。
気配を殺して、いつもの調教場所に向かう。
そこに張須陀と項延がいるはずだ。
着いた──。
張須陀と項延は、地面に直接あぐらをかき、眼の前に食べ物を置いて食事をしていた。
酒も飲んでいるようだ。
その手前には、二本の縄が天井から垂れ下がっていて、先に張形がついている棒が地面から突き出ている。
あれがなんなのかさっぱりとわからないが、それを使って沙那をいたぶるつもりだったに違いない。
沙那は剣を構えたまま飛び込んだ──。
「あっ、沙那──」
叫び声は項延だ。
張須陀もびっくりした表情をしている。
項延が剣を抜く。
無視する。
沙那はもう張須陀しか見ていない。
その張須陀の手が指を鳴らすような動きになる。
沙那の股間には、まだ『仕置き膜』が張りつけてある。
それで沙那の動きを封じるつもりだ。
指を鳴らされれば終わりだ。
沙那は激痛にのたうって転げ回ることになり、たちまちに押さえつけられる。
逃亡の機会は二度とないだろう。
「沙那──」
張須陀が憤怒の表情で叫んだ。
しかし、次の瞬間、その声が絶叫に変わった。
沙那の剣で張須陀の左右の手首が吹っ飛んだのだ。
手首から先を失った張須陀の手から血が噴出した。
『仕置き膜』を作動させるのは、張須陀の指の音だ。手がなければ音は鳴らない。
「ひえええっ──」
項延が剣を抜いたまま腰を抜かして尻を地面に突いた。
その喉に剣を突きつける。
「た、助けて……」
項延の顔が恐怖に染まっている。
沙那は剣先で軽く項延の喉の皮膚を裂いた。
項延の喉に血がすっと浮かびあがる。
「きゃああっ」
女のような悲鳴をあげて項延が地面に倒れた。
沙那は項延の手から離れた剣を拾いあげて、張須陀の手首を斬って血で汚れている剣を放り投げた。
そして、項延の剣の鞘も拾う。
「立つのよ──。出口に向かいなさい」
沙那は項延にその剣を突きつけて言った。
張須陀は両手首を失って、血を噴き出しながらその場にのたうち回っている。
沙那は悲鳴をあげ続ける張須陀を無視して、項延だけを洞窟の出入り口に向かわせた。
背中に剣を突きつけられた項延は、おかしな息をしながら出口に向かって歩く。
やがて、出口に通じる洞窟の部屋に到着した。
「外に向かう穴を開けなさい」
沙那は項延に言った。
項延が出口を塞いでいる石を動かすのを確認しながら、沙那は、眼の前に垂れ下がっている『霊気遮断の布』を適当な長さに切り取った。
全身を覆う布のような大きさにして、裸身に巻きつける。
穴が開いた。
「出るのよ。おかしな動きをすれば殺すわ」
項延は完全に沙那の気迫に呑まれている。
散々に沙那をいたぶって調教した卑劣漢の面影はない。
怯えた様子で項延が穴の外に出ていく。
続いて、沙那も腰を屈めて穴を通り抜けた。
外だ──。
何日ぶりになるのだろうか……?
外は明るかった。
陽の高さから、沙那はいまが朝の時間帯だろうと判断した。
肌に当たる風の動きが、自由を得たという沙那の感激を確かなものにする。。
「服を脱ぎなさい、お前」
まだ怯えてしゃがみ込んでいる項延に、沙那は剣を突きつけた。
「ふ、服……?」
項延が一瞬、顔を曇らせた。
沙那は剣を一閃した。
項延の髪の毛が塊りになって切断される。
「ひいいっ」
項延が悲鳴をあげた。
本当は耳でも削いでやろうかと思ったのだ。
だが、服が血だらけになるからやめた。
しかし、それだけで十分に効果があったようだ。
項延は悲鳴をあげて立ちあがると服を脱ぎ始めた。
「下着はいいわ。さすがに着ないから」
沙那は言った。
項延が上着を脱ぎ、中衣を取り、下袴も脱ぐ。靴も脱がせた。
そのすべてを沙那はその場で身に付け直した。
多少、身体の一部が窮屈だが着られないことはない。
項延の服を着た沙那は、下着一枚になった項延に洞窟の入口に向かわせた。
「わたしがどれくらい腹をたてているかわかる、項延?」
沙那は項延の背に剣を向けたまま言った。
「わ、悪かったよ……。ゆ、許してくれ──。た、頼む」
項延が怯えた声を出す。
「助けてもいいわ……。殺さないであげてもいいわよ。その代わり、この洞窟を塞ぎなさい。二度と出入りできないように、ここを塞ぐのよ。どうせ、ちょっとした仕掛けで穴を塞ぐことができるようになっているんでしょう」
沙那の見たところ、どこか一箇所の石を取り除けば、上から岩が雪崩落ちて、完全に洞窟が封鎖されてしまう仕掛けになっているように見える。
おそらく、ここが見つかりそうになったときに、完全に隠してしまうためにそうしたのだろう。
「そ、そんな……。洞窟を塞げば中に残っている連中が……」
「わかったわ──。だったら、仲間と一緒に死になさい」
沙那は剣を構えた。
本当に殺そうと思った……。
別に項延が沙那の言葉に従おうと、それとも、逆らって殺すことになろうと、どっちでもいいのだ。
「わ、わかった。ふ、塞ぐ──。塞ぐよ」
沙那の殺気を感じたのか、項延が慌てたように洞窟の入口に飛びついた。
その項延が小さな石を外した。
さっと項延が後ろに跳び去る。
しばらくして、岩が崩れ出した。
完全に出入り口が塞がった洞窟を眼の前にして項延が茫然としている。
沙那は、その項延を置き去りにして歩き出した。
どこに向かうべきなのか……。
その答えは思いつかなかった。
とりあえず、山を下る方向に歩く。
とにかく、空腹だった。
なにかを口にしなければ……。
そのとき、ふと、項延から奪った服の内隠しになにかが入っていることがわかった。
探ってみると、小さな袋に入ったひと固まりの銀粒だ。
かなりの量がある。
これだけあれば、当面の路銀になる。
ひとりならば、しばらくはこれで大丈夫だ。
これからのことなんて、なにも考えていなかった沙那は、項延が運よく銀粒を持っていたことにほっとした。
そのとき、沙那ははっと気がついた。
いま、この路銀があれば、ひとりならしばらく大丈夫と考えたか……?
ひとり……?
宝玄仙……。
孫空女……。
朱姫……。
急に三人の顔が頭に浮かぶ──。
しかし、なぜかその三人の顔は非常にぼんやりとしていて、どんな顔をしていたのか判然としない。
とにかく、疲れていた……。
しばらく歩いていて、にわかに今回の騒動の理由を思い出した。
宝玄仙……。
あの我が儘主人……。
今回の騒動は、すべて宝玄仙が原因だ。
それを思い出したのだ。
あんなに、張須陀に関わるのは嫌だと言ったのに……。
あんなに、あの男が卑劣漢だと訴えようとしたのに……。
考えるとたんだん腹がたってきた。
だいたい、なんで自分はあの女主人に仕えているのだろう。
なぜ、理不尽な命令に耐え続けているのか……。
あの女主人に、沙那が尽くさなければならないなにがあると言うのだろうか?
一生懸命に尽くしても見返りはなにもない。
むしろ、人格を無視するような理不尽な扱いが返って来るだけ……。
性格最悪。
我が儘。
変態。
短絡的。
意固地……。
感謝の言葉ひとつ戻ってくるわけじゃない。
もう、疲れてきた。
これ以上考えられない……。
疲れすぎていて、頭が回らない。
思考がおかしい。
とにかく、体力を戻す──。
山を下れば、どこかに食事ができる場所もあるだろう。
沙那はふらふらと脚がよろめくのを感じながら、無言で山道を下る方向に歩いていった。
*
泣きながら洞窟の前の岩を除けようとしている下着一枚の男を見つけたのは午の時間だった。
それが、張須陀の子分のひとりの項延だとわかったのはすぐだ。
孫空女は、すぐに取り押さえて、同行していた朱姫に宝玄仙を報せに行かせた。
宝玄仙は、近傍の林に作った三人の野宿場所で待っていてもらっていたのだ。
宝玄仙がやって来るまでに、孫空女は項延に沙那がどうなったのかを詰問した。
項延は別に隠す様子もなく、孫空女が訊ねたことをなんでも答えたので、宝玄仙と朱姫が戻る頃までには、あらましを項延から聞き取っていた。
どうやら沙那は自力で脱出できたようだ。
「沙那が見つかったのかい?」
やってきた宝玄仙は喜色満面で言った。
「見つかったというわけじゃないけどね。沙那はここにずっと閉じ込められていたけど、今朝頃、こいつらをやっつけて、自力で脱出したようだよ」
孫空女は宝玄仙に説明した。
宝玄仙は本当に嬉しそうに何度も頷いた。
「じゃあ、沙那姉さんは、ひとりで城郭に戻ったんですね」
朱姫が言った。
「多分……。こいつによれば、沙那はそっちに向かって歩いて行ったという話だからね」
孫空女は山を下る方向を指さした。
この山道をそのまま進めば、最初に張須陀たちと出遭った附国の城郭に繋がる。
沙那はそこに向かったのだろう。
おそらく、みんなで泊っていた宿屋に向かったと思う。沙那が向かうとすればそこしかないはずだ。
「そうとわかれば、ここには用がないさ。行くよ──」
宝玄仙が言った。
「ま、待ってくれ。た、頼む。兄貴を……。兄貴と李保を助けてくれ。この中にいるんだ」
出発しようとすると、項延が宝玄仙や孫空女の前にひれ伏した。
「なんで、あたしらがお前らを助けなきゃならないんだよ。ふざけるんじゃないよ」
孫空女が言った。
「だ、だけど、李保とは小さな頃から一緒で死なすわけには行かないんだ──。助けてくれればなんでもする。なんでもするから」
「お前らに売り飛ばされた女たちも、そうやって助けてくれと泣き喚かなかったかい? ふざけるなよ、お前」
「わ、わかっている。わかっているけど……」
項延は泣き出してしまった。
「まあいいよ。助けてやりな、孫空女」
宝玄仙が溜息をつきながら言った。
「な、なんでだよ、ご主人様──。沙那を浚って十日以上も凌辱していた連中だよ。この穴の中でじっくりと後悔しながら死ねばいいんだよ」
「だって、目覚めが悪いじゃないか……。まあ、仮にも身体を合わせた仲だしね……」
「ご、ご主人様がそんなことを言っているから、沙那があんな目に遭う羽目になるんじゃないか」
孫空女は喚いた。
「いいからやるんだよ。わたしの言うことを聞けないのかい。ただ、穴を開けるだけはやってやれと言っているだけじゃないか」
宝玄仙が顔を赤くして怒鳴った。
孫空女は歯噛みしたが、一度言い出したら、宝玄仙は引くことはない。
仕方なく、一度嘆息してから、孫空女は耳から『如意棒』を取り出す。
項延を蹴り飛ばして避けさせると、岩で塞がっている場所に向かって『如意棒』を構えた。
「そりゃあっ──」
『如意棒』を打ちこんだ。
固まっていた岩が吹き飛び、埋まっていた場所に小さな穴が開いた。
内側から雄叫びがした。
しばらくすると、泥だらけの男が出てきた。
確か、李保という男だったはずだ。
誰かを引き摺っているようだ。
項延が飛びついて、李保と協力してその男を引き摺りだした。
出て来たのは張須陀だ。
ほとんど意識がないようだが生きてはいる。
全身に汗をかき、唸り声のようなものをあげていた。
両方の手首に晒しを巻いている。どうやら、手首から先がないようだ。
項延に訊ねると、沙那が逃げるときに沙那の剣で切断されたらしい。
沙那もやるものだと思った。
十日以上も監禁されて、凌辱され続けても、やっぱり沙那は沙那だった。
どんな恥辱的な仕打ちを受け続けたのか、想像して余りある。
だか、それでも、沙那は決して望みを捨てず、逃亡の機会を逃さず自力で抜け出した。
やはり、沙那は凄い。孫空女が一目も二目も置いている女傑だけのことはある。
そんな沙那を、この三人はいい気になって十数日もいたぶったのだ。
こうやって、三人がまだ命があるだけでもましというものだ。
「やれやれ、酷い姿になったじゃないか、張須陀」
宝玄仙が張須陀に近寄った。
なにをするのかと思ったら『治療術』だった。
張須陀は死にかけていたが、宝玄仙は衰弱しかけている張須陀を道術で回復をさせているようだ。
張須陀の顔に生気が戻っていく。
こんな男に情けをかける必要はないと思ったが、まあ、好きなようにさせた。
それ以上はここに用事もなく、三人で山を下りた。
宿屋に戻った時には、すっかりと夜になっていた。
宿屋の亭主は宝玄仙たちのことをよく覚えていた。
沙那について訊ねたが、宿屋には来なかったようだ。
どこかで入れ違いになったのだろうと判断して、部屋を取り直して待つことにした。
「ねえ、ご主人様、沙那が戻って来たら、ちゃんと謝るんだよ」
しばらくして落ち着いたところで孫空女は言った。
三人がいたのは宿屋の一階の食堂だ。
沙那が戻れば、ここですぐ会えると思い、待っているのだ。
「……わかっているよ。謝るよ」
宝玄仙はむっとした表情で言った。
「ちゃんとだよ。丁寧にだよ」
「わかっているよ、孫空女。今回のことはみんなわたしが悪いんだよ。自覚しているよ。沙那には謝る。ちゃんとね」
「約束だよ、ご主人様……」
孫空女はなおも言った。
「でも、よかったですね…… 。沙那姉さんが無事で……。ねえ、ご主人様、謝罪はちゃんと態度で示さないといけませんよ。態度で」
朱姫がにこにこしながら言った。
「なんだよ、態度っていうのは、朱姫?」
「ご主人様が沙那姉さんに責められるんです。いいですね、ご主人様」
朱姫が言った。
「ああ、もうわかっているよ。なんでもやるよ。あいつの気がそれで収まるならね。沙那の気が晴れるまで、沙那には抵抗しない。ちゃんと沙那の嗜虐を受けるよ」
「うわあ……。愉しみです。ご主人様を責めるのは久しぶりですね」
「な、なんで、お前が嬉しそうなんだい。わたしは、沙那の責めを受けてもいいと言ったんだよ。お前には関係ないだろう、朱姫」
「まあまあ、ご主人様……。でも、沙那姉さんがあたしを助手に選んだら、しょうがないじゃないですか」
「まったく、もう、勝手におし」
宝玄仙は不機嫌そうな口調で言ったが、その表情は明るかった。宝玄仙もほっとしているのだろう。
だが、結局、その夜、沙那が戻ってくることはなかった……。
かなり遅い時間になるまで一階で待っていたが、深夜に近い時間になり、一度部屋で休むことにした。
*
そして、丸一日が経った。
翌日の夕方になっても沙那は現れなかった。
沙那になにかが遭ったのだろうか……。
もう一度、山に向かおうかと相談しかけていると、ひとりの少女が宿屋に現れた。
たまたま、また三人で一階の食堂で夕食を取っているところであったが、その娘はきょろきょろと食堂を見回し、すぐにこっちに近づいてきた。
「あ、あのう……。宝玄仙というお方は、こちらでしょうか?」
十二、三歳というところだろう。この城郭で暮らす市井の女の子らしいその娘は、確かに宝玄仙だと告げると、ひとつの紙包みを差し出した。
宝玄仙に向かって差し出すのを孫空女が横から受け取った。
こんな少女が危険なものを持ってくるとは思えないが、念のためだ。
「これは、なんだい?」
宝玄仙が少女に訊ねた。
「ここに宝玄仙というお方がいるので、これを渡してくれと頼まれたんです」
「頼まれた? 開けてみな、孫空女」
宝玄仙に促されて、紙包みを開く。
「あっ」
「これは──」
「なんで?」
三人が同時に声をあげた。
中に包まれていたのは、沙那が宝玄仙に装着されていた操り首輪だ。
ただ、金具かなにかで強引に切断した痕がある。
「どういうことですか、これ?」
朱姫がびっくりしている。
確かにそうだ。これはどういうことだろう?
この霊具は、もうひとつの霊具と組み合わせて、装着した人間の手足を操る霊具であり、沙那はこれを宝玄仙に装着されて、張須陀に引き渡されたのだ。
そのために、沙那は張須陀になすすべなく連れていかれた。
いまは、霊気切れになっているので、金具で強引に外すことも可能だったのだろうが、なぜ、それをこの少女が持ってきたのだろう。
「これを誰に頼まれたんだい、お前?」
宝玄仙が言った。
「沙那という女の方です」
「沙那?」
孫空女は声をあげた。
宝玄仙も朱姫も驚いた表情になった。
「沙那が自分でこれをお前に渡して、ここに、宝玄仙という女がいるだろうから渡せと言ったのかい?」
宝玄仙がびっくりした声をあげた。
娘に沙那と名乗ったその女の特徴を訊ねた。
沙那だと名乗った女は、確かに沙那のようだ。
容貌や背格好、そして、髪の色。すべてが沙那に一致した。
態度や言葉使いも訊いたが、やっぱり沙那に間違いない。
沙那はひとりだったようだ。そして、金具職人である彼女の父親に頼んで首輪を外してもらい、小銭を置いて、これを宿屋にいるはずの宝玄仙に渡すように、この首輪を彼女に託したようだ。
どういう理由でそうしたのかはわからない。
「とにかく、行きましょうよ。沙那姉さんはそこにいるんでしょう?」
朱姫が立ちあがった。
「い、いませんよ」
娘が言った。
「いない?」
宝玄仙だ。
「いま、いないと言ったかい、あんた?」
孫空女は訊ねた。
「だ、だって、これを頼まれたのは、今朝のことですから……。すぐに城郭を出ていくと言っていました」
「なんだって──」
宝玄仙がいきなり立ちあがって怒鳴った。
その権幕に娘が真っ蒼になった。
「お、落ち着きなよ、ご主人様……」
孫空女はいまにも娘に掴みかかろうとする勢いの宝玄仙の前に立った。
「だ、だけど──」
「ちょっと、待ってよ。あたしが訊くから」
孫空女が宥めて、娘にどういう成り行きだったのかを訊ねた。
つまりは、沙那は今日の朝早く、この娘の家を訪ねた。
そして、首輪の金具を毀して外すことを頼み、立ち去った。
理由も行く先もつけずに、そのまま城郭をひとりで出て行ったようだ。
首輪をすぐには持っていかずに、夕方以降に持っていって欲しいと頼んだのは、沙那自身らしい。
それで、頼まれた刻限になったので、この娘が沙那が託した物をここに運んできたということのようだ。
「どういうことだい?」
宝玄仙が当惑した声で言った。
「つ、つまり、沙那は行っちゃったということかな……」
状況から判断してそういうことになる。
「な、なんで、沙那姉さんが行っちゃうんですか──?」
朱姫が絶叫した。
「なんでって……」
孫空女は言い淀んだ。
沙那が、嫌気が差して宝玄仙のもとから立ち去ることを決めた理由はいくらでも思いつく。
孫空女や朱姫とは違い、沙那は霊気や道術で宝玄仙に縛られていない。
だから、その気になればいつでも立ち去ることができた。
もともと沙那は卑怯な手段で宝玄仙の供にされたのだ。
逃げる機会があれば逃げるのが当然で、むしろ、沙那ぼどの女傑が宝玄仙に尽くして供である理由がなにもないのだ。
それは、わかっている。
しかし、ついに沙那がその決断をしたということが孫空女には信じられなかった。
別れも告げずに……。
そのとき、ふと、孫空女は首輪を包んでいた紙になにか記号のようなものがあることに気がついた。
もしかしたら、これは文字だろうか。
「ご主人様、これ……」
孫空女はその文字らしきものを指さした。
宝玄仙と朱姫が覗きこむ。
孫空女は文字が読めないので、なんと書いてあるのかはわからない。
だが、ふたりとも途端に暗い顔になった。
朱姫など、その場で涙をぼろぼろと流し出す。
「ね、ねえ、なにが書いているのさ?」
孫空女は言った。
「思うところがあって、ひとりで旅がしたい……。そういうことが書いてあるね。わたしたちには、そのまま旅を続けて欲しいそうだよ……」
宝玄仙が静かに言った。
孫空女は驚愕した。
別れの言葉だったのだ。
愕然とした。
突然に別れがやってきた。
それが信じられない。
朱姫の泣き声が大きくなった。
娘が途方に暮れたように立ち尽くしていた。
*
五日経った──。
結局、沙那は戻ってこなかった。
沙那はいなくなった。
それを選んだのだ。
そう思うしかなかった。
五日間、朱姫は泣きじゃくっていた。
宝玄仙はひとりで部屋に閉じこもってじっとしていた。
部屋から出てくるのは、食事のときだけだった。
食事のときもほとんど口は利かずに、終われば部屋に閉じこもった。
そうやって五日がすぎた。
*
そして、六日目の朝──。
「出立するよ、お前たち……」
宝玄仙がそれだけを言った。
すでに準備はできている。
孫空女がすべてを整えたのだ。
いまだに朱姫は沙那が立ち去ったことを信じていない。
「で、でも、ここを立ち去ったら、沙那姉さんが戻っても、あたしらがどこに向かったかわからないじゃないですか」
朱姫が言った。
「沙那は戻ってこないよ、朱姫……」
孫空女もそう言うしかなかった。
朱姫がまた泣いた。
結局、朱姫を説得するのに時間がかかり、出立は昼近くになった……。
城門を通り過ぎるまで誰も口を開かなかった。
三人は無言のまま、城門を後にした。
長かった附国の城郭の滞在が終わった。
(第58話『ぶち切れた堪忍袋』終わり)