別にどこかの国に属するという場所ではない。
あちこちから集まってきた無頼が、なんとなく集まって自治をするようになり町のようになった場所──。
それが小西天だ。
殺伐とした雰囲気だが、商家もあれば居酒屋もある。宿屋のような場所もある。
美麓は、髪を後ろで無造作に束ね、晒しで胸を隠し、服装を装って若い男を装ってこの町にやってきていた。
法の及ばない無法地帯なだけに、美しい女であることは余計な騒動を生むことになるからだ。
そして、この土地で半月……。
美麓が女であることに気がついた者はまだいない。
ここでなにもせず、ゆっくりとすごしていた。
宿屋に泊り、日中はぶらぶらとして、夜になれば居酒屋で酒を引っかける……。
そんな毎日だ。
美麓が装っているような風来坊はこの土地にはいくらでもいる。目立つ存在ではない。
この夜も美麓は、ただひとり、お気に入りの居酒屋で酒を飲んでいた。
店の主人は無口な性質のようだが、店は賑やかだった。
客は男たちばかりだが三十人はいる。
金を払って酒を飲むのはほとんどが男だ。
女もいるが彼女たちは客ではない。
この店の主人に場所代を支払って、客を探す娼婦なのだ。
二階には女と寝るための場所もあり、いまもかなりの人数の男が娼婦と二階にあがっていた。
美麓は、男を装っているので娼婦も言い寄って来るが、半月もすれば、美麓が娼婦を抱こうとしないのはわかったらしく、最近はもう近寄ってはこない。
満天星の暗殺の成功報酬を得て、美麓は女暗殺者としての人生を解消して旅に出ていた。
このまま西に向かい、大陸の果てにあるという西帝国でも向かおうか……。
そんなことを考えていた。
だが、途中で立ち寄ったこの小西天に、かなり長く滞在したままだった。
理由は別にない。
ただ、この町の雰囲気が美麓が好きだっただけだ。
生まれてすぐに暗殺者としての修業を積み、裏社会で生きていた美麓には、この裏社会そのもののようなこの町が故郷に戻ったような感じを与えてくれていた。
治安や法の行き届いた安全な城郭よりも、こんなにさびれていて、始終互いに人殺しをしているような場所が住みよいというのも、我ながら呆れるが、実際にそうなのだから仕方がない。
居心地がよくて、美麓のこの小西天の滞在も半月になっている。
別段、目的のある旅ではないのでそれはいいのだが、ひとつだけ、美麓を悩ましているものがあった。
火照った身体だ──。
前の仕事でやった半年の娼婦としての生活が、美麓の隠れていた淫乱を引き起こしたような気がする。
このところ美麓は、自分の火照る身体を持て余していた。
つまり、男を性交したいのだ。
その気になれば、美麓ほどの女だから性の相手はいくらでも見つけられる。
だが、この辺りの与太者と迂闊に関係すれば、なにか面倒なことになりそうな気もする。
それに、どう見ても性病のひとつやふたつ持っていそうな女を相手しているこの店の客の男と寝たくはない。
だから、清潔感があり、あとくされのない旅の男でもいないか……。
そんなことを考えて、毎夜のように酒を飲みながら、店にやってくる客に視線を向けていた。
その美麓の視線に、たったいま店に入ってきた若い旅の男が映った。
黒いマントに身を包み頭もフードを被っている。
フードから覗く顔はかなりの美形の若い男だ。
腰には剣を佩いている。その若者がかなりの遣い手であることは物腰ですぐにわかった。
一瞬で、相手の実力を読み切ること──。
それは暗殺者として長生きするために絶対に必要なことだ。
美麓は、やってきた旅人風の若い男が、暗殺者として生きていた自分を遥かに凌ぐ武芸者であることを悟った。
だが、いまの美麓は、別のこの男と斬り合いをしようというのではない。
ただ、ひと晩だけの行きずりの関係を持ちたいだけだ。
美麓は自分の相手として、この若い男がうってつけではないかと思った。
若い男は小さな卓を見つけて座った。
その若い男が座るとすぐに、美麓は、飲みかけの酒と肉の入った皿を持って席を立ち、その横の席を占領した。
若い男がフード越しに美麓に訝しげな視線を向けた。
「怪しい者じゃない。一杯、奢らせてくれないかい? 今夜は暇でね。ただ、話し相手を探していただけさ。俺も旅の男さ。あんたは、この町に初めて来たんだろう?」
美麓は男言葉を装って言った。
「さっき着いたばかりさ。でも、この店には酒を飲みに来たんじゃない。食事をしに来たんだ……」
「だったら、この肉を食べていいよ」
美麓は言った。
「ありがとう……。後でもらうよ」
若者はそう言うと、店の主人に食事と水を注文した。
わざと作って低く喋っているような声に感じた。
思ったよりも若いのかもしれない。
もしかしたら、少年というほどの年齢なのかも……。
だが、それでもいい。
性に不慣れな若い男であれば、美麓が主導でやればいい。
安全な男だとわかれば、手を縛ってもらって抱かれてもいいかもしれない。
縛って抱いてくれと言えば、この少年のような男は驚くだろうか……。
だが、ここに集まっている他の男とは一線を画す清潔な雰囲気が、この若い男にはある。
美麓は、今夜の相手をこの若者にしようと決めていた。
「本当に酒は飲まないの?」
美麓はささやくように言った。
もう、男言葉の雰囲気はやめている。
若い男が首を傾げるような仕草でこっちを見た。
フードの下に男の栗毛がちらりと覗いた。
「酒は飲まないよ。飲めなくてね……。どっちにしても、こんな物騒な場所で、酔うのは危ないからね」
若い男は言った。
いい感じだ。
酒をあまり口にしないのは荒れていない証拠だ。
用心深い男でもあるということは、性病を患っているかもしれない安い商売女にはあまり手を出さないということに違いない。
「じゃあ、女はどう?」
美麓は単刀直入に言った。
若者は驚いた視線を美麓に向けた。
「もしかして、あんた女か……」
男が呟いた。
「大きな声でばらさないでね。ここはなにかと物騒だから男の格好をしているのよ。おかしな騒動に巻き込まれたくなくてね」
「男のふりか……」
若者の口調には愉しむような響きがあった。
どうやら、これはいけそうだ……。
美麓は確信した。
「ここでは若くて美しい女でいることは大変なのよ」
「わかるよ」
若者はただそれだけを言った。
美麓は微笑を若者に向けた。
美麓は自分がそれなりの美形であることを知っている。わずか半年で高級娼婦として、大きな妓館で一番の娼婦にまでなったのだ。
そこで身につけた男に媚を売る仕草で、美麓は若者を誘うような表情を作ってみせた。
「あんたも娼婦?」
若者の視線の先には、向こうの賑やかな卓がある。
そっちでは酔いどれの男たちと娼婦たちが大きな声で卑猥な会話をしながら身体を触り合っていた。
「違うわ。もしも、あたしと寝てくれれば、あたしがお金をあげてもいい。実は金はしこたま持っているわ」
美麓はさらに近づいて若者の耳元でささやいた。
若者はしげしげと観察するような視線を美麓に向けた。
彼が美麓に強い興味を抱いたことは、その表情でわかった。
「ねえ、食事が運ばれたら、それを持って二階に行かない。あたしが運ぶわよ。食事代もあたしが払う……」
だが、若者は首を振った。
「済まないけど、ここで食べたいんだよ」
若者は言った。
美麓は失望した。
まさか、断られるとは思ってもいなかったのだ。
「なんで?」
半ば呆然として呟くように言った。
「ここで客たちの話に耳を傾けているのさ。実は、人を探していてね……」
若者は言った。
「人を?」
「うん──。もしかしたら、その人たちは、数日前にここにやって来たかもしれないんだ。そして、こういう酒を飲む場所には、いろいろな噂が集まるからね……。こうやって、ひとりで食事をしながらそういう噂話に耳を傾けていたら、なにかの手掛かりを見つけられるかもしれない。そう思っているんだ」
「どういう関係?」
「旅の仲間。でも、途中ではぐれちゃってね」
「ふうん……。その探し人はひとり?」
「ううん、三人連れ」
「その人たちは、この小西天にやって来たの?」
「通ったと思うんだよね。附国の城郭国家を出て、西帝国に向かっていたんだ。西に向かうには、ここはどうしても通る場所だから……」
若者は言った。
だが、この小西天は物騒な場所だ。
まともな旅人は避けて通ることが多い。
この若者の連れがどういう人間なのかはわからないが、普通の旅人ならここには立ち寄らずに通り過ぎる。
ただ通過しただけの旅人の情報をここで得るのは難しい。
「知らなかったら教えておくけど、ここはかなり物騒な場所よ。あんたの連れは、ここをあっという間に通過していったと思うわ」
「そうかもしれない。かなり、気まぐれな人たちだから……。だけど、俺は立ち寄った気がするんだよね。勘だけど……。その人たちは、まるで騒動を探して歩いているような人たちなんだ。こんなところにあの人たちがやってくれば、必ず騒動に巻き込まれる……。というよりも、騒動の方が、あの人たちを呼び寄せるんだよね。だから、こういう場所は、あの人たちだったらきっと立ち寄っていったと思うんだよね」
若者がくすくすと笑った。
その笑いには、その騒動を起こすという仲間に対する愛情が籠っているような気がした。
美麓には、この若者が本当に、その仲間に会いたいのだということがわかった。
「だっから、あたしでもわかるかも……。もしも、抱いてくれたら、知っていることは教えるし、あんたの人探しに協力してあげてもいいわ。ただし、条件は……、わかっているでしょう……。さあ、二階に行きましょう」
美麓はさらに媚びを込めて言った。
だが、若者は耐えられなくなったかのように笑い出した。
美麓は呆気にとられた。
同時にこれだけ美麓が誘っても、その気にならない若者に腹が立ってきた。
「あんたって、もしかして、相手が男じゃないと駄目?」
男を抱く趣味の男は珍しくない。
よく見ればかなりの美形だ。
顔立ちもまるで女のようだ。
こういうやさ男は、もしかしたら、女よりも男が好みなのかもしれないと思った。
それなら、もう、美麓の出る幕はない。
さっさと席を立ち、宿屋に戻って寝るだけだ。
「ご、ごめんなさい……。だけど、理由を知れば、あんたも笑うと思うよ」
若者は笑いながら言った、
しかし、声は小さいが、その口調はがらりと違っていた。
美麓の心に大きな疑念が生じた。
「わ、わたしも女よ……。あんたと同じで、面倒に巻き込まれたくなくてね……。わたしの名は沙那。探しているのは三人連れの女よ。宝玄仙という女主人と、その供の孫空女と朱姫──。なにか知らない?」
沙那は言った。
自分が誘おうとした男が、実は女だったことには呆れるとともに、美麓は驚いた。
だが、美麓が驚いたのは、若者が沙那が女であったという事実だけではない。
いま沙那が言及した探し人だという女三人に記憶があったのだ。
こんな場所に堂々と美女三人の旅人がやって来るのは珍しい。
その三人連れは、この小西天に来るなり、あっという間に有名な存在になった。
半月も滞在していた美麓もよく覚えている。
「……その三人なら知っているわ、沙那。ここからしばらく進んだ土地に
「それが?」
美麓の言葉に、沙那の口調が急に熱を帯びたものになった。
「おそらく、その三人は、その小雷音を棲み処とする
美麓は言った。
「本当に――?」
沙那が大きな声をあげた。
美麓は三日前にこの店に立ち寄ったあの女三人の特徴を言ってみた。
やはり、その三人は沙那が探したい連れの三人と同じのようだ。
美麓がその三人の外見を思い出すままに口にするにつれて、明らかに沙那は興奮した。
「もっと詳しく教えてよ──」
これまでの落ち着いた雰囲気が一変した沙那の興奮に美麓は驚いた。
「ちょ、ちょっと、落ち着きなよ、沙那……」
美麓は言った。
この店に入ってきた沙那は声色を変えて男のふりをしていたのだ。
しかし、いまの沙那は、それをすっかりと忘れたかのように女の声に戻っている。
頭に被っていたフードもとれて、紛れもない沙那の女の顔も露わになった。
美麓は慌てて手を伸ばして、沙那の頭にフードを被せ直した。
そして、周囲を見渡す。
幸いにもこっちに注意を留めた者はいないようだ。
しかし、もしも、ここにいるのが男ではなく、女ふたり──しかも、美女ふたりだとわかれば、必ずちょっかいを出そうとする男が現われる。
あのときもそうだった……。
「ご、ごめんなさい……。でも、お願いだから教えて。わたしはその人たちに会いたいのよ。その小雷音とかいう場所はどこ?」
「悪いけど、あたしも知らないのよ。あたしも旅人で、たまたま東からやってきて、この町が気に入って長逗留しているだけのことだからね。でも、この先の小雷音に棲む黄眉という妖魔は、この辺りじゃあ、かなり有名な存在で、しばらく逗留していれば、嫌でも耳にする名よ。あんたの探している三人組の女は、確かにこの町にやってきたわ。そして、ある男と一緒にその小西天に向かうと言って立ち去った。それが三日前のことよ」
美麓は言った。
「三日前……」
沙那は呟いた。
「あんたの探し人を連れていった男は、
「もしかして、そのまま連れていかれたということ?」
「先に謝っておくわね。他人というのは本当に頼りにならないものね。その場にあたしもいたわ。ただ、気にも留めてなかった……。ああ、馬鹿な女たちが、後天袋の嘘に騙されているなあと思っただけよ。ここじゃあ、面倒に巻き込まれないために、余計なことに首を突っ込まないというのが当然なの。あたしも知っていて知らない振りをしていた。後天袋は、この店を出て、そのまま、あんたの連れをどこかに連れていった。その小雷音に棲む黄眉という妖魔に引き渡したに違いないわ」
美麓は言った。
沙那はとても驚いている様子だった。
しかし、今度は取り乱したりするようなことはない。
美麓の言葉をしっかりと噛みしめてなにかを考えているようだ。
本来はかなり冷静な性質なのだろう。
その冷静な沙那が、あんなに興奮するくらいに、その女主人との再会に対して必死なのだと思った。
もっとも、美麓にはあの女主人のどこに、そんな魅力があるのか理解できないが……。
あの女主人は、かなり変わった性質だった。
沙那はあの女主人のことをご主人様とさっき呼んだから、女主人の連れだった孫空女や朱姫という女たちのように、あの女主人の供なのだろう。
本当にあんなのに、もう一度好んで関わりたいのだろうか?
美麓から見ても、あの女主人の供は、かなり理不尽な扱いを受けていたように思うが……。
「じゃあ、その後天袋を締めあげれば、ご主人様の行方はわかるわね──。ねえ、あなた、その男がどこにいるか教えてくれない?」
沙那は言った。
「わかったわ。まあ、あたしも、関わりを持ったからには、あんたの人探しに協力するわ。だけど、とにかく、それは明日の朝からにしましょう。その後天袋がどこで暮らしているのかは知らないけど、あたしが泊っている宿屋に、いつも必ず朝飯を食べに来るわ。それを捕まえるのが一番いいと思う……」
「あ、ありがとう」
沙那が頭を下げた。
そのとき、店の者が沙那の注文したものを運んできた。
美麓は店の者に声をかけて、二階を使うということを告げ、懐から銀粒を出して店の男に渡した。
店の者はちらりと沙那を見て頷くと、店の主人にところまでそれを持っていった。
しばらくすると、店の男が戻り、二階のひと部屋の鍵を美麓に渡した。
美麓が渡したのは、二階のひと部屋を朝まで使う分の料金だ。
これで明日の朝まで、二階を自由に使えるということだ。
「ここじゃあ、話もしにくいわ。二階を借りたから移動しましょう。あの夜に起きたことを話すわ」
美麓が言うと、今度は沙那は逆らわなかった。
飲み物の入った盃と瓶を持って沙那を促す。
沙那がまだ手を付けていない食事を持って立ちあがる。二階にあがっていく美麓に沙那がついてくる。
酔っ払いの何人かが、二階に向かう美麓と沙那に気がついた。
連中は、美麓がこの半月、一度も二階に行かなかったのを知っている。
二階は、この店の客が娼婦を買って抱く場所だ。
そこに男のふりをしている沙那を連れていくことで、男色だと冷やかしたのだ。
もちろん、放っておいた。
歩きながら美麓は、こっそりと沙那の頼んだ水の瓶に小さな丸薬を入れた。薬はあっという間に溶けて水に混じる。
無色無臭の即効性の薬剤だ。
「そう言えば、あんたの名を訊いていなかったわ」
鍵についている札に書かれた番号の部屋の前で沙那が言った。
「美麓よ──。さあ、入って……。とにかく、食事をしながら詳しく話すわ。彼女たちのことをね……」
美麓は言った。