「よう、お愉しみだったかい、
一階に降りると、居酒屋の亭主が声をかけてきた。
ちょうど朝飯を食べていたところのようだ。
残っている客は少なく、ほとんどの卓は空いている。
その中の卓のひとつで亭主は簡単な料理と麦餅を口にしていた。
亭主の物言いに皮肉な口調はない。
この店にはいろいろな性癖の人間がやって来る。
別段、男同士で愛し合おうとこの亭主はなんの感慨も持たなさそうだ。
美麓も男姿だし、沙那も男の格好をしていた。
ふたりで二階の部屋を借りて、ひと晩中降りてこなかったことで、美麓と沙那は男同士で性愛をしたと思われただろう。
もっとも、実際には女と女なので、真実も誤解も大して変わりはしないが……。
一階の居酒屋は、もう客もまばらだった。
数名残っている客も完全に眠りこけている。
起きているのは眼の前の店の亭主ひとりだ。
すでに早朝であり、ほとんどの酔客はそれぞれの家に戻ったか、あるいは、美麓たちのように二階の貸部屋で情事を愉しんで、まだ寝ているかだろう。
昨夜にはたくさんいた娼婦の姿もいまはない。
美麓は、このままねぐらにしている宿屋に戻るつもりだった。
だが、ふと、思い直して手にしていた小袋から銀貨を一枚だけ取り出して、店の亭主の前に置いた。
銀貨の刻印は削り取られていてない。
この周辺の外縁地域で通用しているもので、もともとはどこかの国の正式の銀貨だったのだろう。
この辺りでは、こういうものの額面を潰して銀が含まれている金属としての価値で取り引きに使われている。
「これは?」
亭主が美麓を見た。
「昨夜、使っていた部屋を夕方までそのままにしてくれないかい。昨夜は張りきっちゃたんで、もうひとりはすぐには起きてこないと思うんだ。とにかく、中の人間が出てくるまで放っておいてくれよ」
美麓は男言葉で言った。
沙那のあの様子では、縄抜けに本当に時間がかかるかもしれない。
手首と足首を拘束している結び目は、どんなに頑張っても絶対に縄抜けは不可能だ。
そういう風に結んである。
しかし、逆に寝台側の結び目のひとつだけは意図的に緩くしてある。
沙那が冷静になれば、それはわかるはずだ。
もっとも、あの感じでは、冷静になるのは難しそうだったから、万が一のため、夕方までの時間を確保してやることにした。
どうせ、亭主に渡したのは手にしている小袋に入っていたものであり、この小袋はもともと沙那の持っていた路銀だ。
「夕方まで?」
亭主の眼が鋭くなった。
「一日の貸し切りの値段としては十分だろう? それに連れが出ていけば、それで終わりなんだ。損のない話のはずだ……。それと、あいつをゆっくり寝かせておいて欲しいから様子は見に行かなくていい」
まあ、このぐらいはしておいてやろうと思った。
よく考えれば、恨みがあるのは、宝玄仙というあの女主人であって沙那ではないのだ。
あの女主人の供であるというのは、なかなかに大変そうな感じもする。
「夕方まで構うなというなら、そうしてやってもいい……。こっちとしても代金をもらえば文句もないしな。だが、本当にそいつは、夕方までに起きてくるのか?」
亭主は意味ありげに微笑んだ。
「どういう意味だい?」
「そのままの意味だ、美麓……。以前にも……というよりは、しょっちゅうなんだが、中の人間が起きてくるまで部屋を開けるなと言い残していく客は結構いるのさ。だけど、そういうときには十のうち五か六くらいまでは、中の人間が自分で外に出てくることはねえ。屍体になっているのさ……。別に貸した部屋で淫行に耽ろうが、人を殺そうが構わないんだが、屍体を置いていかれるのは困るんだよ。ここは屍体棄て場じゃないんだ」
亭主は言った。
どうやら美麓の物言いで、沙那がすでに死んでいると誤解をしているようだ。
美麓はさらに銀貨を五枚置いた。
「……これだけ払う。だから、夕方まで部屋を覗かないでくれ。中の人間が屍体になっていようとだ」
亭主は卓に拡げられた銀貨を集めるとふところにしまった。
「請け負うよ、美麓……。夕方までは部屋は開けない。万が一、部屋の中に屍体があったら適当に処分させてもらうぜ。心配するな……。また、夕方には飲みにきな。後のことは任せておけ」
亭主は顔色も変えずに言い、再び食事をする態勢に戻った。
すっかりと誤解した気配もあるが、まあ、問題はないだろう。
旅人が襲われて殺されることなど珍しくない町だ。
本当に屍体があっても気にしないだろう。
人足を雇って、町の郊外に埋めさせて終わりだ。
それだけのことなのだ。
とにかく、これで夕方までの時間は確保してやった。
それだけの時間があれば、いくらなんでも沙那も脱出方法に気がつくだろう。
あのままいき狂いすぎて縄抜けできなくても、それは知ったことじゃない。
美麓は居酒屋を後にした。
町の大通りを歩いて、美麓が寝泊りをしている宿屋に向かう。
外に出ると、もう完全に陽が昇って、朝の時間を迎えていた。
もっとも、まともに日中働いているような人間の方が少ないような町だ。
行き交う人間は多くはない。
途中、朝食を購う客を目当てにした屋台があったので、更かし肉と幾つかの果実を求めた。
それを袋に包んでもらって宿屋に戻る。
美麓が泊っている宿屋は、この荒れた町でもいくらか治安のましな高級街の地域にある。
宿泊料もそれなりにするのだが、寝心地はそれだけいい。
宿屋に戻った。
すでに半月も泊っているので、宿屋の亭主も美麓の顔は知っている。
朝帰りは初めてだったが気にする様子もない。
「よう、美麓、お早う──」
「ああ、今日は朝食はいらないよ。帰り道で買ったからね。これを部屋で食べてから、ひと眠りするよ……。昨夜はこれと徹夜だったんだ」
美麓は“女と寝た”という意味になるように指で示した。
亭主が笑った。
宿泊代はまだ数日先まで前払いしている。
部屋の鍵も美麓がまだ持ったままだ。
美麓は挨拶だけをして二階に昇る階段に向かった。
ふと見ると、いつものように、
外見は、ただの人のよさそうな小太りの男であり、にこやかな顔つきからはとてもじゃないが、女を浚っては殺人鬼の亜人に高い代金と引き換えに浚った女を引き渡している極悪人には見えない。
その後天袋が深刻そうになにかを取り巻きと相談しているから、美麓は何気なく耳をそばだてた。
彼らが話しているのは、今日は、
黄眉は夜行性だから、夜に着くように出発しなければならない……。
そんなことも話している。
朝っぱら物騒な話だと思いながら美麓は、その横を通りすぎた。
もちろん、彼らが美麓に気を留める様子はない。
階段をあがって最奥にある美麓の借りている部屋に入った。
内側から二重に鍵を締める。
寝台の横にある小さな丸卓にさっき買った朝食と沙那から奪ってきた烏金草の束、そして、路銀の入った袋を置いた。
そのまま寝台にうつ伏せになる。
沙那はもう縄抜けをしただろうか……。
それともいまだに四肢を拡げたまま、あの霊具によがり続けているのだろうか……。
そんなことを考えながら美麓は、深い眠りに陥っていった……。
眼が覚めた──。
かなり深く眠っていたようだ。
しかも、外出着のまま、本格的に寝てしまったらしい。
寝台を降りて、窓から外を見た。
もう、陽が中天よりも西に傾いている。
どうやら、もう午過ぎのようだ。
ちょっとだけまどろむつもりで、随分と長く寝た。
それだけ夕べの沙那との淫行は激しかったということだろう。
あの沙那も取り澄ました顔をして、感じ方が半端じゃなかった。
それに釣られるように美麓も女同士の淫行に耽ったが、あんなに気持ちよく性欲を発散できたのは久しぶりだ。
そう言えば、沙那は無事に縄抜けできただろうか……?
その時、美麓はかなりの空腹を感じた。
考えてみれば、今日はまだなにも食べてない。
結局、朝帰りの途中に屋台で買った食べ物は、そのままの状態で寝台の横の卓にある。
美麓は卓に手を伸ばした。
だが、ふと思い直して、食べ物を取ろうと思った手をとめた。
それよりも身体を洗いたい。
昨夜は、沙那と汗びっしょりになって愛し合った。
この宿屋に戻ってから、すぐに身体を洗うつもりだったが、そのまま寝てしまった。
美麓は着ている物を次々に脱いで、寝台の上に放り投げる。
胸を締め付けていた晒しを解くと圧迫された胸が開放されたようで気持ちよかった。
結わえていた髪を解いてから腰の下着も脱ぐ。
そして、生まれたままの格好で部屋の隅の洗い場に行く。
この宿屋が気に入っている最大の理由は、部屋の中に身体を洗える場所があることだ。
取っ手を捻ると天井から温かいお湯が注がれるようになっており、床に落ちた湯は床にある小さな排水口から流れ出てもいく。
どういう仕掛けになっているのかさっぱりわからないが、どうやら道術の刻まれた霊具のようだ。
とにかく、これはありがたかった。美麓は男のふりをしているが、実際は女なので外で身体を洗えない。
必要の都度、宿から水か湯を買わなければならないが、この辺りの人間のほとんどは、外で身体を洗うのが習慣なので、洗い湯をいちいち運ばせるのが度重なると不自然になる。
しかし、これのお陰で宿の亭主を煩わせることなく、取っ手を捻れば大量の湯が出てくる。
そんな部屋があるのは、この宿屋でもこの部屋を含めて二室しかない。
当然、料金も破格なのだが、この快感はなにものにも代えがたい。
その破格の料金を支払っても満足できる快適さがここにある。
美麓は洗い場に入って戸を閉め、中にある取っ手を捻った。
温かいお湯が天井から雨のように落ちてくる。
美麓は頭から注がれる温かいお湯を浴びながら、束の間の心からの至福の時間をすごした。
しかし、ふと、美麓はなにかの気配を感じた。
慌てて湯を出す霊具の取っ手を戻し、身体を拭くために置いていた布をとると、洗い場の戸を開けて部屋を見た。
「あっ」
思わず美麓は叫んだ。
寝台の上にあの後天袋が胡坐をかいて座っていたのだ。
その胡坐の下には美麓がさっき脱ぎ捨てた衣類が散乱している。
後天袋は、美麓の服の上に座って、さらに、美麓が朝帰りの帰路で購った食べ物をむしゃむしゃと口にしていた。
後天袋だけじゃない。
部屋の中には屈強そうな後天袋の手下が五人ばかり立っていた。
「ほう、情報は本当だったようだな……。毎朝、会っていて気にもしていなかったが、大した別嬪じゃねえか。俺も迂闊だったぜ」
後天袋が美麓の裸身に眼をやりながらにやにやして言った。
美麓ははっとして、持っていた布で身体の前を隠した。
しかし、布は小さなもので精一杯拡げても、美麓のふたつの乳首と股間の繊毛をかろうじて隠すほどしかない。
さすがの美麓も気が動転するとともに、自分の顔が蒼くなるのを感じた。
頭から湯を浴びていたので、これだけの人数が部屋に入って来ても気がつかなかったのだ。
ふと、部屋の扉を見た。
二重の鍵はいずれも開いている。壊された気配はないので、外から合鍵で開けたに違いない。
いずれにしても、なんでこんなことになっているのだろう?
美麓は混乱した。
「な、なんだい、お前たちは──?」
美麓は思わず、身体を隠している布を持つ手に力を入れて後ずさる。
「もちろん、商売の品物を仕入れにきたのさ、美麓……。実は、今から女を納めた先日の代金を受け取りに、手下を連れて
「ふ、ふざけんな──。
「まあいいじゃねえか。それにしても、本当に女じゃねえかい。いやいや……、こんなに近くに美女が隠れていたとはな……。お前なら金五枚……。いや、もしかしたら十枚の値をつけてくれるかもしれねえ……。まあ、そういうわけだ。わかったら、俺に捕まりな」
後天袋が笑った。
「ふ、ふざけるなよ、あんた。あ、あたしに手を出すと承知しないよ」
「文句はいくらでも聞いてやるぜ、美麓……。まあ、聞くだけだがな。とにかく、大人しく縛られな」
どさりと縄束が床に放り投げられた。
それを合図にするかのように、部屋にいた五人の手下たちが美麓ににじり寄ってきた。
美麓は、慌てて洗い場の戸を締めて、内側からかんぬきをした。
その戸が向こう側から激しく叩かれる。
「こらっ──。もはや、悪あがきは無駄だ。お前が女だということはもうわかった。観念して出て来い」
「もう一度、その柔らかそうな肌を見せろよ、美麓」
「どうせ、素っ裸じゃあ暴れられないだろう。もう、諦めろよ」
罵声のような大声が戸を叩く音とともにかけられる。後天袋の手下たちの声だ。
なんでこんなことになってしまったのだ……。
美麓は狼狽えた。
今朝、この宿屋の一階ですれ違った時にも、後天袋は美麓のことなど気にも留めていない様子だった。
それが、わずか数刻でこんなことになるとは……。
とにかく、どうやって逃げるかだ……。
しかし、よりにもよって、身体を洗っている最中に襲われるとは……。
「ひ、卑怯者──」
美麓は戸を押さえながら叫んだ。
どうしていいかわからない。
いま、ここにはなんの武器もなく、布が一枚あるだけの素っ裸だ。
洗い場には逃げ場はない。戸が破られて入って来られては、この狭い場所ではあっという間に取り押さえられてしまうだろう。
そうかといって、洗い場の外には美麓を捕えようと躍起になっている屈強な後天袋の手下が五人──。
どうすればいいのか……。
「ねえ、兄貴……。こりゃあ、蹴破るしかないですぜ」
手下のひとりが後天袋にそう言っている声が聞こえた。
「仕様がねえなあ……。なるべく、壊すなということで、この宿屋の亭主に合鍵をもらったんだがな……。まあいいや。毀してしまえ。弁償すればいいことだ。さっきの身体だったら、かなりの値で黄眉殿も引き取りそうだしな」
後天袋の声だ。
「よし──。蹴破ると決まった。お前ら行くぞ──」
戸の外で叫び声がする。
仕方がない……。
こうなれば、死にもの狂いに暴れて男たちを振りきって逃げるしかない。
美麓は手に持っていた布で腰の周りを覆って横で結びあわせた。
しかし、外にいるのはならず者とはいえ、すっかりと支度を整えた男が五人──。
それに比べれば、美麓は衣類の一枚もない素っ裸という惨めな姿──。
勝ち目が多いとは思えなかったが、逃げなければ黄眉とかいうおかしな亜人のところに連れていかれて殺されてしまうだけだ。
「蹴り破って連れ出せ──。武器も持ってねえ、素っ裸の女だ。かかれ──」
戸の向こうで後天袋の声がした。