400 娼婦志願の生娘
ところどころに煙があった。
死んだ兵らしき者の死骸もあちこちに転がっている。
だが、不思議なことに武具や具足の類いはない。
それどころか下着姿の者も少なくない。
宝玄仙は歩きながら、その無残な光景を眺めていた。
「どうやら、戦が終わったばかりの跡のようだね。どことどこの戦いなんだろうね?」
宝玄仙は言った。
「わかりません。この辺りは“
沙那が応じる。
朱紫国を離れて以来、山を越え、川をわたり、荒れ地を踏破しながら、国境も城郭もない地域をひたすらに西に向かう日々が続いていた。
それでわかったのは、地図になんの記載もない空白地帯でも、人はどこにでも群れていて、それぞれの場所で逞しく村や町を作って生きているのだという単純な事実だ。
ある場所では自衛をし、また、ある場所ではもっと大きな勢力に飲み込まれるなどをして町や村の安全を保つ努力をし、彼らは家族や部落を守っている。
そして、人の集まりができればやはり戦いも起きるものらしい。
このところ戦の跡に接することも珍しくない。
ここに拡がっていたる戦の跡は、どこかの豪族同士の小競り合いという感じだ。
川向うにすぐの場所に町があるが、ここから見る限り、戦がそこまで拡がったという気配はない。
あるいは、お互いに戦はしても町を襲わないというような取り決めがあるのかもしれない。
見たところ自衛の様子もないし、人も普通に暮らしているようだ。
こんなにも戦場に近かったのに、それでも変化のない暮らしの営みというのは不思議な感じがする。
「そんなに大きな戦いというほどでもないようですね。死骸は三十くらいですから……。でも、どうして誰も彼も具足がないんだろう。武器も持っていないようだし……。周囲の状況から考えて、ここで小さな戦いがあり、彼らはそれで死んだ兵のようなのに、どうして具足も武器も持っていないのかなあ……? 彼らはなにも持たずに戦ったのかしら……」
沙那が不可解そうに首を傾げた。
すると孫空女が爆笑した。
「沙那、あんた、頭がいいのか、悪いのかわかんなねえ──。川の向こうに町があるのがわかんないのかい?」
「町がどうしたのよ、孫女?」
沙那が笑われたのが不快そうに、赤い顔をして孫空女に応じた。
「戦が終わったばかりの戦場は、貧乏人にとっては金目のものを拾う漁場のようなものさ。戦場稼ぎって言葉知らないのかい? あたしもなんどかやったことあるよ。武具や武器はあの川向うの連中が持っていったに違いないよ。金目のものはなんだって奪っていくさ。川向うの町に行ってごらん。死んだ兵から奪った物がさっそく、辻で売られているよ」
孫空女が馬鹿にしたような口調で言ったので、沙那は頬を膨らませている。
もっとも、宝玄仙も“戦場稼ぎ”という商売があるというのは知らなかった。
宝玄仙もそうだが、沙那もまた、この旅が始まる前までは、書物で得た知識しかない世間知らずだ。
それに比べれば、孫空女などは文字も読めないような無学だが、世間の広さでは宝玄仙も沙那もかなわないだろう。
川はそれほど広いものではなかった。
町は少し混乱が残っているようだったが、やはり人が普通に暮らしていた。
宝玄仙たちが東の入り口から入ると、しばらく民家の集まりが続いた。
少し行ったところで宝玄仙は、一軒で家の前で主人らしき男となにかの交渉をしている旅の少年と出くわした。
「お願いします。怪しいものではありません。病気の祖父を東にある
その家は特に大きいというほどではなく、普通の民家だ。
その普通の一軒の民家に少年は宿を求めているようだ。
宝玄仙はなんとなくその少年に眼を留めた。
頭に覆いを被り、粗末な外套で身体を包んでいるので年齢はよくわからないが声は若いと思った。
背は朱姫と変わらないくらいだ。
また、少年にしては身体が丸くて線が細い気がする。
身にまとっていた布は恐ろしく粗末なものだった。
しかし、宝玄仙にはすぐに、その少年のように見える若者が本当は少女であることに気がついた。
そう言えば、少し前に
おそらく、女が旅をするというのは物騒な土地柄なのだろう。
だが、連れているという祖父はどこなのだろうと思った。
見たところ、そばに祖父だという人間はいない。
「宿なら町の真ん中に宿屋がある。そこに行きな」
対応している主人らしき男が言った。
「でも、宿賃がないんです……。どうかお願いします。祖父は病気で屋根のある場所で休ませてあげたいのです。納屋のような場所でも構いません。軒先でも……。どうか、お願いできないでしょうか……?」
「悪いけどほかを当たってくれよ。この辺りは物騒でね……。この間も、親切心で旅人を泊めた老夫婦がいたんだが、その旅の男に寝首を掻かれて家の物を奪われるという事件があったばかりだ。宿屋に行って頼みな──。普通の家じゃあ、絶対に泊めたりはしないから」
するとその若者は見る限り意気消沈したようになった。
「……で、でも、宿賃がないんです……」
「あっ、そう……。気の毒だが……」
家の男は戸を閉じようとした。
だが、若者はそれを慌てて阻んだ。
「な、なら……、あ、あたしを買ってください──。一夜の宿代として抱いてもらって構いません。ですから……」
「あんたを?」
男はびっくりしている。
少し離れた場所でその様子をなんとなく見守っていた宝玄仙もいきなり、身体を買ってくれというその娘に驚いた。
「あたしは女です。歳は十五です。生娘です──。あたしと祖父を家に泊めて、それから食事をください。それだけでいいです。お願いします」
少女はそう言うと、さっと外套を脱いで身体の脇に抱えた。
身に着けているのは継ぎだらけのぼろぼろの少年の服だった。
覆いを外した娘の髪も肌も随分と汚れていて、とてもじゃないが綺麗とは言えない。
なによりも、遠目からでもわかる娘の顔半分に大きな茶色い痣があるのがわかった。
いずれにしても、娘は生娘だと言ったが、ひと晩の宿の代わりにその身体を買ってくれという申し出に宝玄仙は驚いてしまった。
男がどうするのだろうと思ったが、男は娘を一瞥して鼻を鳴らすと、ふと悪戯を思いついたような顔になった。
「ほう、その顔で身体を買ってくれときたか。なら、本気かどうか見てやるからその場で自慰をしてみな」
「えっ? こ、ここでですか?」
娘の顔が真っ赤になった。
「おう、ここでだ。この真っ昼間にこの場で自慰をしてみろ。本当にやったら、考えてやるよ」
娘が気が動転したようにもじついている。
「できねえなら、どこかに行きな。暇じゃねえんだ」
男が不快そうに戸を閉じようとした。
「ま、待ってください──。やります。やりますから……。だ、だから、祖父だけでも泊めてください」
娘は男のはく下袴だったが慌てたように、下袴の腰紐を緩めていきなり、股間に手を突っ込んだ。
男が眼を見開いたが、すぐに爆笑した。
ここからでは後ろ姿でよく見えないが、娘は下袴に入れた手を動かし始めているようだ。
本当に自慰をしだしたのだ。
男は笑いが止まらないというように笑い続ける。
娘は顔を俯かせて泣きそうな顔で懸命に自慰をする。
だが、馴れてないのか、なかなか、感じるというようにはならないようだ。
「もういい。それよりも、今度は豚の物真似をしな。股間をいじくりながらな」
やがて飽きたのか、男が笑いながらまた、そう言った。
「ぶ、ぶう、ぶう……うっ、ぶ、ぶう……あ、ああっ……ぶう、ぶう……」
すると小娘はその通り、股間をいじくりながらな豚の鳴き真似を始めた。
これには、宝玄仙も驚いた。
「あいつ、ふざけやがって……」
孫空女が不快そうに歯ぎしりした。
ここから見ていると男がただ娘をからかっているだけなのは明らかだ。
それでも、娘はそんなにしてまで宿を得たいのか、一生懸命の仕草だ。
孫空女は、そのまま飛び出しそうな感じだったが、さっと沙那が孫空女を阻むように横に動いた。
それで孫空女が少し落ち着いたような表情になった。
「もういい、やめな──。やっぱり、醜女の自慰はつまらんな。ほかをあたれ」
男が犬をあしらうように手で追い払い、戸をぴしゃりと閉じた。
「そ、そんな……。ま、待ってください。言われた通りにやったのに──」
眼の前で閉められた戸に娘がうろたえた声をあげた。
しかし、もう戸の向こうからの反応はない。
娘はがっかりした様子で肩を落としている。
「待ちな、お前」
また、次の家にでも行こうとしている娘に宝玄仙は声をかけた。
「はい?」
娘が振り返った。
「ご主人様……?」
沙那がなにかを言おうとしたが、それを宝玄仙は手で制した。
「面白い娘だね。ちょっとおいで……」
娘はやってきた。
宝玄仙は上から下まで見聞するように娘を見た。
肩までの髪は黒いのか白いのかわからないくらいに汚れている。
普段から栄養のあるものを食べていないのか全体的に痩せていて胸も申し訳程度に膨らんでいるだけだ。
顔は顔半分を覆う痣が覆っている。
眼は小さく、鼻は低くて丸い。
お世辞にも彼女を美しいという者はいないだろう。
だが、本当に生娘というのであれば、いくら醜女だといっても身体を売るのは大変な決意だろう。
それをたったひと晩の宿の代わりに差し出すのだという。
宝玄仙はそれに興味が湧いた。
「お前、名はなんというんだい?」
「こ、
香蛾は訝しげな表情を向けた。
「宿と食事のために身体を売るというのは本気のことだったのかい?」
「そ、それは……、もちろん、もしも、買ってくれるなら……。あたしには、それくらいしか売れるものがないし……。で、でも、あたしはこんな顔だから、商品にはならなくて……」
「顔がどうしたんだい……? だいたい、物売りの行商人じゃあるまいし、家を訪ね歩いて身体を買ってくれもないものだよ。だいたい、まだ陽が明るいじゃないかい。それじゃあ、売れるものも売れやしないさ」
「そ、そうですよね……。あたし、顔がこんなんだし……。やっぱり、明るい場所じゃあ、買ってはくれないですよね……」
香蛾はうな垂れた。
「顔の話じゃないさ──。そうじゃなくて、売り方の話だと言ってるのさ。だいたい、娼婦をするんなら、こんな民家の前じゃなくて、もう少し先に宿屋や酒場もあるんだろう? そういうところに行ったらどうなんだい? ああいう場所は酒も売るから女を買いたがる男もいるよ……。だけど、いずれにしても女がたったひとりで身体を売るなんざ無謀だね。身体を奪われた挙句に金がもらえないなんていうのはいい方で、殺されるかもしれないよ」
宝玄仙は言った。
「実はもう頼んだんです。最初は宿賃の代わりにならないかと思って宿屋に行ったんです。でも、断られたんです。あたしみたいなのは娼婦にもなれないと言われて……」
香蛾は悲しそうな表情で言った。
「ねえ、あんた、どうして娼婦にこだわるの? 本当にたったひと晩の宿と交換に身体を売ってもいいの?」
沙那が口を挟んだ。
「でも、それくらいしかあたしには、もう売るものがなくて……。あたしが持っていた蓄えもすっかりと尽きてしまったし……」
「旅の途中なの?」
「はい」
「さっき、病気のお祖父さんが一緒だと言いませんでした?」
朱姫だ。
「具合が悪いので町の西の入口に寝かしています。あたしひとりじゃあ運べなくて……」
「おや、病気の連れがいるというのは本当のことだったのかい?」
宝玄仙は言った。
「はい、ここに来るまでは、なんとか支えていれば歩けたのですが、町の入り口で歩けなくなってしまって……。路銀がないので野宿ばかりしてきたのですが、今夜は屋根のあるところで寝かせてあげたいのです」
香蛾が言った。
「病かい……。それはいけないねえ……。まあ、とにかく行ってみるさ……。それと、お前の身体を買う相手を探してやるよ。そいつに抱かれな。本当に身も知らない男に抱かれたなら、宿代と食事代はわたしがを出してやるさ。だから、今夜はわたしらと一緒においで」
「ほ、本当ですか?」
宝玄仙の言葉に香蛾が破顔した。
香蛾の顔に曇りや迷いはない。
どうやら、身体を売ってもいいというのは嘘ではないようだ。
とりあえず、香蛾が祖父を置いてきたという場所に皆で行くことにした。
「ねえ、ご主人様、本当にあの娘を誰かに抱かせるつもりですか?」
歩き始めるとすぐに沙那がささやいた。
「いや、こいつの覚悟を知りたかっただけさ。そんな面倒で得にもならないことはしないよ」
「へえ、ご主人様も優しいところがあるじゃないかい」
今度は孫空女が言った。
「なにが優しいんだい、孫空女?」
「だって、病気のお祖父さんを連れて困っているこの娘さんを助けてやるつもりなんだろう?」
「なに言ってるんだい、孫空女……。わたしは、純粋にこいつに興味があるのさ。生娘だというしね。お前たちのように擦れた女じゃなくて、久しぶりに純情無垢な娘を調教してみたいものさ」
宝玄仙はうそぶいた。
「わたしは宝玄仙という旅の女さ。こいつらは、それぞれ、沙那、孫空女、朱姫……。わたしの供さ」
歩きながらこちらも簡単に挨拶を交わした。
「ところで、香蛾、お前たち二人の宿代と食事代を出せば、お前の身体は使い放題──。それでいいんだね?」
「は、はい、もちろんです」
「だったら、ほかの誰かじゃない。わたしに抱かれな。この宝玄仙がお前を調教してやろう。その代わり、たったひと晩じゃあ終わらないよ。最低三日は続くからね。その間の宿代と食事代の面倒は看てやる。急ぐ旅なのかどうかは知らないけど、年寄りの旅の病は侮っちゃ駄目だ。丁度いいから、年寄りは休ませておきな。その間、お前はわたしの調教を受けるんだ。いいね?」
「そ、それはむしろ、ありがたいお話ですが……。で、でも、あなた方は女の方なんじゃあ……?」
香蛾は当惑した口調で言った。
「わたしたちも女よ……。でも、ご主人様の性の調教を受けているわ。いいのね、香蛾? ご主人様の調教はつらいわよ」
沙那は静かに言った。香蛾が眼を丸くした。
香蛾と出遭ったのは町の東側の一画だが、香蛾が連れの老人を置いてきたのは西側の入口のようだ。
中央付近には一軒の宿屋と数軒の商家が集まっている地域もあり、ここが町の中心部だろう。
それを通り過ぎて、西の入口の辻に着いた。
そこに老人が樹に背もたれて座っていた。
確かに随分と弱っているように思えた。
しかし、病というよりは生命力そのものが尽きようとしているかのような感じだ。
老人は香蛾を認めるときつい視線を向けた。
「ど、どこに行っておった、香蛾──? まさか、逃げようと思ったのではあるまいなあ」
「逃げたりはしません……。お話したように、もう、あたしの手持ちのお金はなくなったんです。だから……」
しかし、老人が香蛾の言葉を遮った。
「ふん、そんなのは知らん。死にたくなけば、わしを朱紫国まで連れて行くのだ。わしを見捨てたりすれば、わしはお前を殺すからな。わしが念じればその首輪の霊具がお前を殺すのだ。それを忘れるな。路銀はお前がなんとかしてこい……。とにかく、わしが持っている財は必要なものなのじゃ。びた銭一枚使わせんぞ。路銀の手配はお前の役割じゃ」
「わかってます。だから、宿と食事の面倒を看てくれる方を探していたのです」
香蛾が老人に言った。
「わしを捨てて言ったのではないのだな、香蛾? 捨てていけば、お前は死ぬことになる。いいな?」
老人が弱々しい声で言った。
「あたしは逃げません。逃げてもどこにも行くところはありませんから……」
香蛾がそう言ったとき、宝玄仙は初めて香蛾の首に白い首輪があることに気がついた。
なにかの飾りだと思って気にも留めていなかったが……。
そう言えば、故郷の東帝国では首に霊具の首輪を装着させるというのは奴隷の証だった。
奴隷の象徴としての装飾具であるが、それに奴隷の逃亡防止の道術をこめた首輪もある。
「宿代はない。わしは財は持っているが、これは朱紫国の愛人のところに到着してから、商売の元手に必要な物なのだ。びた銭一枚もわけるわけにはいかん。旅の宿賃と食事代を作るのはお前の役目だ、香蛾。死にたくなければわしの世話をしろ。わしが死ねば、お前も死ぬことになっておるのだ。それを忘れるな」
老人はまた同じことを言った。
「わかっています。ですから、今夜はこの方々のお世話になることになりました」
「この方々?」
老人はやっと宝玄仙たち四人の存在に気がついたような視線を向けた。
「誰じゃ、こいつらは?」
「宝玄仙という旅の女の方です。こちらは、そのお供の方々の沙那さん、孫空女さん、朱姫さんです」
「……見も知らぬ人間の世話になるなど……。わしの財を狙う盗賊だったらどうするのじゃ」
老人は険しい表情をした。
「なあ、爺さん、話を聞いてたら、あんたそこに金を持ってるのかい? だったら宿代くらい払いなよ。こいつは、あんたの宿代のために身体を売ると言ってるんだよ」
孫空女が怒鳴った。
「な、なんでこいつがわしの財のことを知っとる? さ、さては、香蛾、お前が喋ったのだな?」
老人が喚いた。
もっとも、口調は荒いが老人の口調には覇気がなく弱々しい。
「爺さん、頭は大丈夫かい? あんたが、自分で喋ったんだよ」
孫空女が困惑した様子で言った。
しかし、老人は孫空女を無視している。
香蛾に殴りかかろうとしたが断念し、その代わりに香蛾に唾を吐きかけた。
香蛾は項垂れたままでいる。
「あ、あんた──」
孫空女がさらになにか言おうとするのを香蛾が顔を向けて止めた。
「放っておいてください。しばらくすればなにもかも忘れてしまいますから……。これはいつものことなんです」
香蛾が低い声で言った。
「な、なにをこそこそと話しておるのだ、香蛾──。さては、本気でわしの財を奪う気じゃな? そんなことをすれば、お前を首輪で殺すぞ──。殺すからな──」
老人が興奮で顔を真っ赤にした。
宝玄仙は嘆息した。
「別に怪しい者じゃないよ、お祖父さん……。わたしは、この娘の健気さに興味を抱いて宿代を肩代わりする気になっただけさ……。あんたの財は大事にとっておきな……。さて、孫空女、この爺さんを背負いな」
宝玄仙は孫空女に命じた。
香蛾を手伝って供たちが老人の身体を孫空女の背中に載せる。
そのままさっき通り過ぎた宿まで戻る。
「おお、お前はさっきの醜女か……。お前のような女を相手にする者はいねえと言ったろう。恵んでやる残飯もねえ……。さっさと散りな」
亭主が香蛾を認めていきなり怒鳴った。
そう言えば、香蛾はすでにこの宿に自分の身体と引き換えに宿を貸してくれと交渉したようなことを言っていた気がする。
そのときはいまのように、けんもほろろに追い払われたのだろう。
「こいつも客だよ。宿代はわたしが払う。文句はないだろう?」
宝玄仙は声をあげた。
宿の亭主は宝玄仙の美貌と気位、そして、宝玄仙の口調の厳しさに当惑した表情になった。
すぐに、朱姫と沙那が宿の主人の前に進み出て部屋の交渉を始める。
「香蛾とそのお祖父さんの部屋でひとつ……。わたしたちは四人部屋をとりました。湯代、薪代、油代もすでに支払っています……。夕食と朝食は宿代に込みよ。ここが食堂で、ここに来ればいつでも食事は準備してくれるそうよ」
交渉と銀のやり取りが終わり、戻ってきた沙那が言った。
最後の言葉は香蛾に対する言葉だ。
「ねえ、香蛾、この爺さん、ちょっと具合が変だよ」
老人を背負っている孫空女は言った。
宝玄仙も孫空女の背中の老人を見た。
確かにおかしい……。
ついさっき町の入口の辻で香蛾と喋っていたが、いまはもうぐったりとして意識がないようだ。
かなり衰弱が激しく見える。
宝玄仙は、『治療術』で病を癒すことを一瞬考えたが、この老人には霊気が備わっていない。
つまり、道術を及ぼすには、この老人の身体に魔法陣を刻まなければならない。
いまのこの状態では、この老人が道術紋を刻むことに耐えられないのは明らかだ。
「沙那、この年寄りに薬を分けてやりな……。亭主、柔らかい食べ物か滋養のつく汁を作ってくれないかい」
すでに宿代を受け取っている宿の亭主は、さっきの尊大な態度とはがらりと変わって、心配そうな表情で厨房に向かった。
「孫空女、とりあえず、そいつを寝台に横にさせてきな……」
宝玄仙がそう言うと、孫空女は沙那とともに借りた部屋に向かった。
部屋はこの食堂を兼ねた入口の奥にあり、長く続いた廊下の両側にそれぞれの部屋に入る扉がある。
部屋が並ぶ廊下に進んでいった孫空女たちを見ていると、どうやら宝玄仙たちの部屋は突き当りの最奥であり、香蛾と老人のために借りた部屋はその手前のようだ。
「亭主、わたしとこいつの部屋は、結界を刻むからね。承知しておいておくれ」
宝玄仙は厨房に立って背を向けている亭主に怒鳴った。
亭主の了解したという声が戻ってきた。
「あ、あなた様は道術遣いだったのですか?」
香蛾が眼を見開いている。道術遣いというのは一般では珍しい存在だ。
たまたま声をかけられたのが道術遣いだとは思わなかったのだろう。
「そういうことだね……。お前も行きな、香蛾。とりあえず、あの年寄りの面倒を看なければならないだろう? お前の夕食は部屋に運ばせるように言っておくよ」
あの老人は明日まで持つことはないのではないか……。
なんとなく宝玄仙はそう思った。
病というよりは、あの老人の生命力が尽きようとしているのだ。
それは道術ではどうしようもないことだった。
「で、でも、それでは宿代の代わりが……」
香蛾が身体をもじつかせた。
「もう、いいよ……。あの爺の具合がよくなるまでね。ひと晩と言わずに、二晩でも、三晩でも宿代は出してやるよ。どうせ、わたしらも急ぎの旅でないんでね」
宝玄仙は言った。
だが、もって数日だろう。
宝玄仙はひそかに思った。
もっとも、数日生き延びて、身体が少し回復すれば道術でやりようもあるかもしれない。
いずれにしても、この数日があの老人の山場だ。
香蛾は何度もお礼とお辞儀をしてから、老人を追って部屋に向かった。
「いいところありますね、ご主人様。結局、あの香蛾の世話をするつもりになったんですね」
残っていた朱姫が声をかけた。
「仕方ないさ……。ああいう純情そうな娘で遊ぶのも愉しいと思ったけどねえ……。気の毒だけど、あの老人は長くないね。だから、あの老人を放っておかせるわけにもいかないさ」
宝玄仙は肩をすくめた。
「ところで、ご主人様、あの香蛾の首輪ですけど……」
「わかってるよ、朱姫……。でも、放っておきな。あの香蛾は達観しているよ。あの年寄りの死期が近いのも感じているのさ。だから、あんなにしてまで年寄りを屋根のある場所で寝かせたかったのさ」
宝玄仙は言った。