妖力?
湯浴みを終えて客間に戻る途中で、
二階に微かな妖力の流れを感じたのだ。つまり、妖魔の遣う魔力だ。
妖力を感じた方向に向かい、二階に駆けあがる。
「
妖力の変化を感じた二階の廊下に能生がいた。
「あっ、法師様」
「なぜ、ここにいるんだい?」
宝玄仙はもう一度言った。
能生はぎょっとした顔をしている。
「そ、そのう……、この壁でなにか音がしたような気がしたんで……」
「壁に?」
宝玄仙はその廊下の壁に視線を向けた。
はっとした。
壁に結界が刻まれて道術がかかっている。
『施錠術』だ。
基礎術だが、扉などに道術の施錠をかける術だ。
さっき感じた妖力はそれだったのだ。
「どきな、能生──」
宝玄仙はその壁に霊力をぶつけた。
宝玄仙の道術で壁にかかっていた施術が破壊されるのがわかった。だが、なにも変化がない。相変わらずのただの壁だ。
扉ではない──。
「これはどうやって開くんだい、能生?」
『施錠術』はただの壁にはかけられない。『施錠術』がかかっていたということはここが扉かなにかがあるということなのだが……。
「あっ、それ、僕わかるよ」
能生が壁の下側の一画を押した。
すると、そこに内部に操作部位がある空間が出現する。
能生がそれを操作すると、壁に人がひとり入れるくらいの隙間が出現した。
隠し部屋だ――。
部屋の中は真っ暗だ。
しかし、こっちから差し込んだ光で中が少し見えた。
誰かが倒れているようだ……。
そのとき、やっと宝玄仙は違和感に気がついた。
「これは? 能生、息を止めな──。煙を吸うんじゃない──」
宝玄仙は慌てて鼻と口を押さえる。
毒煙だ──。
しかも、致死性のある『毒草』だ。それが内部に充満していて、その毒煙が廊下に溢れ始めている。
「誰かいるよ──」
鼻と口を押さえている能生が叫んだ。
能生が中に飛び込む。
宝玄仙も息を止めたまま入る。
倒れているのは、
すでに息をしていないようだ。
宝玄仙は恐怖に包まれた。
煙の元を見つけた。
ふたつの『仙薬草』の球体だ。
それが燃焼して煙が出続けている。そこに発生している妖力を逆流させる。
すぐに煙の発生が止まって、今度は室内に充満している毒煙が『仙薬草』に吸収されはじめる。
一方で、能生は息を止めたまま、懸命に孫空女の身体を引き摺っている。
宝玄仙も手伝って廊下に出した。
能生が窓を開ける。
外の空気が室内の空気に混ざった。
「ぷはあっ」
もう廊下にも部屋の中にも毒気がほとんどなくなっている。
宝玄仙は動顛する気持ちを懸命に落ち着けながら孫空女の身体に屈みこんだ。
孫空女に最大限の霊力を送り込む。
間に合うか──?
孫空女の胸が微かに上下を始める。
ほっとして全身の力が抜けた。
よかった……。
死んではいない……。
全身の毛穴から一斉に汗が流れた。
本当によかった……。
いまだに宝玄仙の霊力は孫空女に注ぎ込み続けている。だんだんと赤みの差してきた孫空女を見て、あの数瞬遅ければ、もしかしたら間に合わなかったかもしれないと思ってぞっとした。
「もう、大丈夫だよ、能生。ありがとう……」
宝玄仙は横で心配そうな視線を向けている能生に微笑を向けた。
「い、いえ……。で、でもこれはどいうことですか……?」
「孫空女は罠に嵌って殺されかけた……。そういうことだろうね……。ところでここはどういう部屋だい?」
「こ、ここは、あいつが……、
能生が吐き捨てるように言った。
「性癖?」
「部屋の中には下の湯殿を覗ける部屋がある。そこで覗くんだ。それに性の相手を連れ込むための寝台もね。ここに監禁もできるように、そとから鍵もかけられるんだ」
「ちっ」
宝玄仙は舌打ちをした。
あの狒狒爺め──。
「とにかく、悪いけど何人か呼んできておくれ。孫空女の身体を客室に運ばせたいんだ……。霊力を使って回復させたけど死にかけたんだ。数日は起きあがれないだろうからね」
「わかったよ」
能生が駆け出した。
*
高太公が蒼い顔をしている。
ついでに、初日に沙那が入浴したときに、そこで沙那の湯浴みを覗いていたことも白状した。
沙那は呆れかえった。
ここは屋敷にある一階の一室だ。これまで使っていた二階の客間には、孫空女を休ませているから、別の部屋を使わせてもらっているのだ。
宝玄仙から事情を確認した沙那は、すぐに高太公をここに呼び出して詰問した。
高太公は、あの覗き部屋のことをあっさりと告白した。
「つまりは、あの部屋はお前が淫靡な行為をするための部屋ということだな、高太公」
宝玄仙も呆れた様子で言った。
「い、いまは、使っておりません……。妻が死んでからは……」
「使っておったろう───。その沙那の裸を見たのであろう?」
「それは……、そうですが……」
高太公は顔中にびっしょりと汗をかいている。
「それでどうであった、沙那の身体は? この聡明そうに見える美女の内側の淫靡な肉体を覗き見した結果は──?」
「ご主人様──」
話があらぬ方向に行くようで沙那はたしなめた。隅に座っている能生は、なぜか腹をたてている様子で高太公を睨んでいる。
沙那の言葉に、宝玄仙が肩をすくめた。
「と、とにかく、高太公殿──。もう隠していることがあっては困ります。わたしたちはこの屋敷のどこかに、妖魔の出入口になる結界が刻んであると思っています。しかし、いまのところ、それは見つかりません」
「その妖魔の出入口とは……?」
高太公がおずおずと訊ねた。
「『移動術』という術があります。あらかじめ刻んだ結界から結界に道術で移動するのです。つまり、この屋敷のどこかに、その妖魔が刻んだ結界の紋様があれば、そこに妖魔が出現することが可能になるのです」
「それが、あの部屋に?」
「残念ながら、あそこにはそういう結界の出入口はありませんでした……。でも、孫空女はあの部屋に出現した
沙那は言った。
「確かにあの隠し部屋には『移動術』の結界紋はなかったな。あったのは簡単な『施錠術』の施術痕だけだった。それはわたしが確認した……。しかし、その代わりに浴室が覗ける透明の床の部屋はあったがな……。驚いたぞ、高太公」
宝玄仙が腕組みをしながら高太公を睨んだ。
高太公はますますうな垂れた。
だが、宝玄仙は怒っているというよりは、事態を愉しんでいる気配すらある。
孫空女が死にかけていたときの宝玄仙は、すっかりと動揺していたようだが、もう大丈夫と悟った途端、いつもの調子に戻った。
沙那と一緒に隠し部屋に戻って、浴槽を天井から覗ける仕掛けを見つけたときには、怒るのかと思えば大笑いしていた。
沙那は呆気にとられて、それを横で見ていた。
「それで、わたしの身体も見たか、高太公?」
宝玄仙が高太公をからかうように言った。
「とんでもありません、宝玄仙殿──」
高太公がびっくりしたように首を振る。
「なぜだ。興味がないか? この沙那に勝るとも劣らぬ身体だと自負しておるのだがな……」
「いや……、き、機会がなくて……、たまたま……」
「では、機会があれば覗いたのだな?」
宝玄仙がさらに言った。狼狽える高太公の顔の汗が酷いものになった。
「覗きのことは、もういいじゃないですか、ご主人様」
沙那は言った。
宝玄仙が高太公の覗き趣味をからかって遊んでいることはわかっている。
裸身を見られていたことには腹は立つが、どうやら覗きのことと妖魔とのかかわりは薄いようだ。
「それで、高太公殿、ほかに隠していることはありませんか? ほかにも隠し部屋があるとか……?」
「そ、それはありません、沙那殿」
高太公が言った。
「本当ですね?」
「誓って」
高太公が嘘を言っている様子はない。
すると、やはり妖魔の出入口となる結界は屋敷にはないのだ。
沙那も調べてみたが二階の隠し部屋を含めれば、一階の広さと二階の広さは一致する。地下室でもあれば別だがほかに部屋はないはずだ。
宝玄仙もあの隠し部屋には、『移動術』の術痕はないと断言したし、あの隠し部屋以外の屋敷のあらゆる場所については、孫空女が調べ尽くしている。
つまり、この屋敷には『移動術』の形跡はない。
しかし、孫空女は、あの隠し部屋で不意に出現した妖魔と遭遇している。なんらかの手段で妖魔は、この屋敷にやってきているのだ。
「ところで、この屋敷に出入りする女には、誰と誰がおるのだ?」
宝玄仙が訊ねた。
「女ですか……? いまは娘の
高太公が言った。
「朱だけ? 店で働いている女は?」
「屋敷側には来ません」
「朱を世話するような女中は?」
「あれは自分のことは自分でやります。以前は女中も雇っておりましたが、妻に先立たれて、上の娘三人が片付くと、屋敷のことについては手間がかからぬようになり使わなくなりました。まあ、食事の支度などをする者が交替で来ることはありますが、常時、おるのは、わしと朱、そして、その能生くらいでしょう」
「じゃあ、ここ数日の間に、お前は娼婦でも屋敷に連れ込んだか?」
「まさか――。宝玄仙殿らがおられるのに……。しかも、この妖魔騒動のさなかにそんなことを──」
「誓って本当だな、高太公?」
「誓ってです。もう、隠し事も偽りもありません」
「すると、朱ということになるな……」
宝玄仙が呟いた。
「なにがですか、宝玄仙殿?」
高太公が宝玄仙の呟きに反応した。
「父親のお前には、まだ言えんな。確証があれば教えてやる」
「はあ……」
高太公が不審な表情をした。
「行ってよいぞ、高太公」
宝玄仙がそう言うと、高太公は部屋を出ていった。
「屋敷にいる女の存在がなんだというのです、ご主人様?」
沙那は扉が閉まって高太公がいなくなると、沙那は宝玄仙に訊ねた。
「あの隠し部屋だよ、沙那」
「あそこがどうかしましたか、ご主人様?」
「お前は気がつかなかったかい? あの部屋に寝台があったろう、沙那」
「もちろん、寝台には気がつきましたが……」
寝台がなんだというのだろうか……。
「あの寝台から蜜の香りがしたよ。女が情交のときに発するあの独特の淫靡な香りがね……。あの部屋で性をむさぼった女がいるよ、沙那……。しかも、ここ数日のうちにね……」
「えっ?」
沙那は思わず声をあげた。
「少なくとも、あの隠し部屋の存在を知っていたのは高太公だけじゃないということさ。この屋敷で働いている淫乱な女中が、仕事の最中に隠れて情事するために使っていたということも考えられるけど、普段は女は朱しかいないのであれば、あの部屋を使ったのは朱の可能性が高いさ」
宝玄仙が言った。そして、能生に視線を向けた。
「能生、朱をここに呼んできな」
「お嬢さんを? なぜです?」
能生がびっくりしたような声をあげた。
「高太公がこの数日の間に屋敷にいた女は娘の朱くらいだと言っている。ならばあの隠し部屋で性を貪ったのは、朱しかありえないからだよ──。妖魔に関係があるかどうかわからないが、誰と性を貪ったか白状させてやるよ」
「ちょ、ちょっと待ってください。まさか、お嬢様に限って──」
能生が首を横に振った。
「お前の意見なんて聞いちゃいないよ、能生──。朱を詰問すればわかることだ。それよりも、早く行くんだ、能生」
宝玄仙が能生を促すように片手を振った。
「あ、あいつが隠している可能性もあるでしょう。高太公が──」
能生が叫ぶように言った。
「それはないな、能生……。高太公からすれば、女を連れ込んだことを隠してどうなる? あれが娼婦を隠し部屋に連れ込もうと、いまさら咎める者はおらん。わたしらも、それを聞いて、とやかく思ったりはせん」
「相手は娼婦じゃなく、ここで、働いている者かもしれないよ。もしかしたら、お客様の場合だって……」
「働いている者や客だって……?」
宝玄仙が眉をひそめた。
「だ、だから、隠しているのかもしえないよ……。客に手を出すなんて評判に関わるからね──」
「なぜ、そう思うんだ、能生?」
宝玄仙がじっと能生に視線を向ける。
「だって……」
「だってなんだい、能生?」
「わ、わかったよ。言うよ……。あいつは僕が屋敷に行き倒れかえていたのを助けてくれた後……」
能生が顔を赤くして俯きながら言った。なんだか言い難そうだ。
「どうしたのだい?」
「この屋敷で僕を犯そうとしたんだ──」
「お前をかい?」
宝玄仙が目を丸くしている。
「僕は抵抗して逃げたから助かったけど、ほかにも手を出している可能性もあるよ──。だからあの隠し部屋を使ったのは、やっぱりあいつなんだよ……」
能生が主人である高太公を“あいつ”呼ばわりするのは、そういうことだったのだと沙那は思った。
「だけど、あの蜜の匂いは女の匂いだよ。男と男が情事をしたときの匂いじゃないね」
宝玄仙が能生を見る。
「だ、だから僕だけじゃなくて、ほかにも店の者や客を連れこんでいるんだよ」
能生は声をあげた。
「ならば、もう一度、高太公を詰問するか、沙那?」
「無駄でしょう……。娼婦を連れ込んだことは隠す必要はありませんが、働き手や客に手を出すとなれば別です──。商売をしている高太公殿からすれば隠しておきたい秘密です。妖魔と関わりがあるという証拠でもあれば別ですが、そうでなければ知らぬ存ぜぬで押し切るでしょう」
「まあいい……。いずれにしても、妖魔がどこから出現しているかだねえ……」
宝玄仙が息を吐いた。
「とにかくご主人様も気をつけてくださいね。孫空女でさえ、死にそうになったのですから……。高太公殿にお願いしてこの屋敷をご主人様の結界で包ませてもらってはいかがですか?」
「そうだねえ……。でも、わたしの結界で包んでしまえば、逆に屋敷には妖魔も出てこれなくなるね。妖魔がこなくなるのはいいのだろうけど、それじゃあ、手掛かりもなくなってしまう。わたしらが旅を再開すれば、結界の力もなくなり、また出てくる。そうすると、なんにもならない……」
「そうですねえ……」
沙那も頷くかなかった。
宝玄仙の言うとおりであり、防護結界としては宝玄仙の『結界術』は強力すぎるのだ。宝玄仙の結界で屋敷を包んでしまえば、妖魔の出入りは不可能になり、手掛かりを掴む可能性がほとんどなくなってしまう。
「まあ、“あれ”さえ、手放さなけりゃあ、妖魔が、このわたしを狙っても大丈夫だろうけどね……」
宝玄仙が不意に言った。
「“あれ”……ですか?」
沙那は宝玄仙に視線を向けた。
「このわたしを護っている“あれ”だよ。流石に“あれ”がなくなれば、このわたしも妖魔の妖力に抵抗できなくななるかもしれないけど、肌身離さずもっているから問題はないよ、沙那」
宝玄仙は胸を軽く叩いて笑った。
*
「
部屋の外から言った。
「どうぞ───」
沙那の声がする。
部屋に入ると沙那がひとりでいた。宝玄仙はいないようだ。
「食事は二階のこちらの部屋でなさるとお伺いをしましたので……」
小さな車輪の付いた運搬台に乗せて運んできた食事を室内に運び入れる。
これまでの宝玄仙たち三人の食事は、店側の厨房で支度したものを店の者が運び入れて屋敷の一階に準備していた。
しかし、今日からは二階で食べたいというので朱が運んできたのだ。
高太公は一階はともかく、二階部分に店の者が出入りすることを嫌う。それで朱が運んできたのだ。
「そこに置いてください、朱さん……。それにしても、あなたがわざわざ?」
「はい」
沙那が立ちあがり食事を載せた膳を部屋の卓に並べだす。朱も一緒に配膳をする。
「ところで、少しお話しない、朱さん」
料理の配膳が終わると沙那が言った。
朱は自分の振動が激しく鼓動をはじめるのがわかった。隠し部屋の騒動のことは朱も当然知っている。だから、なんらかの探りを入れてくる可能性があると覚悟はしていた。
しかし、なんとしても白を切り通さなければならない。
あの人のためにも……。
仕方なく沙那と向かい合う長椅子に腰掛ける。
「あのう……。神官様と孫空女殿は?」
とりあえず、朱は言った。毒気にやられて起きあがれない孫空女はともなく、あの宝玄仙がなにかに気がついて動いているということであれば、その情報を得て、あの人に警告をしなければならない。
「ご主人様は二階で孫女を診ているわ……。なにしろ、毒煙を吸って死にかけたから、まだまだしばらくは、定期的に霊力を送り続けなければならないんだって……」
ほっとした。ならば宝玄仙もまた自由には動けないのだ。
「だったらおふたりの食事は、そちらに持っていった方がよかったでしょうか……。いずれにしても、孫空女殿には病人食がよろしいでしょうから、別に流動食を準備しているのですが……」
ここに持ち込んだ食事は、沙那と宝玄仙の分だけだ。孫空女の分は指示を受けてから運ぶつもりだったのだ。
「いいのよ……。ご主人様は終わればすぐにここに来るわ。孫女は多分、まだ食事はできないと思うの───」
「そうですか」
朱は頷いた。
「ところで、朱さん。孫女……、いえ、孫空女が災難に遭ったことを聞いたわね」
沙那がじっと朱を見た。
やはり、探りを入れてきたのだと思た。
沙那は口元に微笑みを湛えているが視線は鋭い。朱からなにかを引き出そうとしているということは間違いないだろう。
「はい……。隠し部屋ですね」
すると沙那の視線が朱に突き刺さってくる。思わず視線を避ける。
「あの場所の目的を知っていた?」
「も、目的って……」
「隠し部屋の目的よ。あの部屋には寝台があるのよ……。男女が情事をするね……。もちろん、男女だけとは限らないだろうけどね……。それに浴室を上から覗ける仕掛けもあるの……。わたしも覗かれていたらしいわ。あなたのお父さんに……」
「そ、それは──」
朱はなんと応じていいかわからずに口ごもった。
「あなたも、知っていたわね──。あの隠し部屋が存在していて、わたしたちが湯殿を使えば、そこから覗き見される可能性があることを……」
沙那がじっと朱の顔を見てくる。
「そ、そんなことは知りませんでした──」
朱は声を荒げた。
しかし、本当は知っていた。それに使っていた……。
あの部屋───。
あの寝台を───。
朱はあそこで性欲の塊りのような身体にされたのだ。寝台に縛りつけられ、全身を手や舌や魔具で愛撫されて、狂ったような淫情に耽る色情狂のような肉体に調教されたのだ。
いまでも股間が疼いている。行き場のない快楽への渇望が朱の身体を沸騰させている。
自分の手ではもう満足できない。あいつでなければなぜか満足にいけないのだ。だからいくら自慰をしても快楽を止められたような欲求不満しか感じない。
この性の乾きを癒すには、あの部屋に行き、あいつに抱かれるしかないのだ。
あの途方もない愉悦が欲しい……。
それなのに、あの騒動のお陰でしばらくはもう使えなくなった。少なくともこの巫女たちが屋敷を出ていくまでは……。
だからこの乾きは癒えない。
こいつらがいなくならなければ……。
「あなた自身が使ったことはある?」
「あ、ありませんよ──」
慌てて言った。
「でも、高太公殿は使っていたそうよ。しかも、わたしの裸身を覗いていたこを白状したわ……」
「ち、父がですか?」
朱は驚いた表情をわざとを示したが、実はずっと前から、父の高太公の覗き趣味のことは気がついていた。
宿町一の分限者というだけあり、時折、客は来る。
そして、若い女の客が来れば自慢の浴室で湯を使わせ、それを覗くのだ。
もっと若い頃には、あの部屋に女を連れ込んだこともあったらしいが、いまでは覗き見だけで満足してしまうようだ。
それを知ったときは、生まれて初めて父親を軽蔑した。
汚いものだと思った。
いまはそう思わない。
父親にも性欲がある。
朱にもあるように──。
誰でもそういう部分がある。
男でも……。
女でも……。
堪えきれない淫らな欲望は存在する……。
「わたしや孫空女はねえ……。ご主人様の身体を自分たちの身体で洗うのよ。それは知っていた……?」
沙那が妖しい視線を向けながらそんなことを言った。
朱は驚いたが、もっとびっくりしたのは、沙那が立ちあがって、朱の腰掛ける長椅子にやってきたことだ。
沙那は朱のすぐ隣に身体を密着させるように腰掛けてきた。
居心地が悪くなり朱は身体をずらそうとしたが、沙那の手が朱の腕を軽く掴んで朱が離れることを妨げた。
「ねえ、知っていた?」
沙那の顔が朱の顔に密着するように寄ってきた。
「し、知りません」
朱は、慌てて首を横に振る。
だけど、実は、それも朱は知っていたのだ。
この沙那が宝玄仙の身体を洗う様子をあの部屋から見ていたのだ。
この強そうな供の女剣士が奴隷のような振舞いで宝玄仙を奉仕していた。
それを見て、息の止まるような興奮を覚えた。
この沙那のような女にもあんな面があるのだと思った。
貞節な外見の宝玄仙という教団の女法師にも、朱と同じような淫らな部分がある……。
それを見ながら、あの隠し部屋で朱は自慰をした。だが絶頂には達しなかった。
いや、達するのだが、朱が求めていた頂点ではない。
朱を愛撫するのが、あいつの指でないからだ。
一度達してからも、朱は狂ったように朱は自慰を続けた。
宝玄仙たちが湯殿で淫らに戯れるのを見ながら自慰を……。
決して絶頂に達することのない自慰──。
それは狂おしく精神を蝕む。
あいつに抱かれていると思いながら、股間をまさぐった。縛られた身体を触られて、いやらしい言葉を耳元でささやかれながら、あいつに抱かれているのだと想像した。
そこに孫空女がやってきた。
咄嗟に隠れたが、猪公が出現しなければ、すぐに見つかっただろう。
だが、猪公が出現した後のことを朱は知らない。猪公に孫空女の注意が集まった隙に隠し部屋を脱出したからだ。
その直後、孫空女が殺されかけるとは、もちろん知る由もない。
「あの奉仕は大変なのよ……。なにせ自慰をしながらご主人様の身体を洗うようなものだから……」
なぜ、この女はわざわざこんなことを言うのだろう……。
朱とあいつの関係について、どこまで気がついているのだろうか……。
緊張で背に冷たい汗がどっと流れるのを感じた。
あまりもの緊張に耐えきれなくなり、朱はもう逃げようと思った。しかし、立ちあがろうとした朱の腿をぐいと沙那の手が押さえた。
「ちょ、ちょっと沙那さん──」
朱はびっくりして声をあげた。いまや、沙那は完全に朱に半身を預けるような感じで身体を朱に摺り寄せてくる。
「淫らな匂いがするわ……」
沙那がぽつりと言った。
「えっ?」
不意に身体が揺れた。
なにが起きたのかわからなかった。
視界に天井が映った。
沙那が朱の身体を長椅子倒したのだとわかったのは、沙那の手が朱の下袍の下から入ってくるのを感じてからだ。
「ちょ、ちょっと、いやよ──」
朱はもがいた。
しかし、沙那の身体は完全に朱の上になっている。しかも、沙那の指は、すでに無遠慮に朱の股間をまさぐっていた。
股布の中に沙那の指が侵入した。
朱の股間の亀裂から陰核の添って、すっと沙那の指が動いた。
しかも、二度、三度……。
「や、やめてくださいっ」
朱は絶叫して、そのまま身体を長椅子から床に転げさせた。そして、床を這って沙那の腕から逃げた。
しかし、沙那はすぐに椅子に座り直して、なにもなかったかのように最初に座っていた長椅子の向かいの椅子に座り直した。
朱に向かって指を見せた。
その指の先にどろりとしたものがついている。
たったいま朱の股間をまさぐっていた指だ。
その指先に粘性の汁がべっとりとついている。
「こんなに濡れている……。淫らね……。あなたもわたしと同じ……」
沙那が淫靡に笑った。朱は自分の背筋が舐められているような錯覚に陥った。
「も、もう、行きます──。沙那さんがこんなことをするとは思いませんでした──」
朱は叫んだ。
そして、部屋を飛び出した。
「ご、ご、ご主人様──」
朱が部屋を出ていくと、隠れていた沙那が飛び出してきた。
「そんなに興奮するもんじゃないよ、沙那……」
宝玄仙は笑った。
「じょ、冗談じゃありません──。わたしの姿であんなことしないでください──」
沙那が真っ赤な顔をして叫んだ。
宝玄仙は『
「なんでだい? 別にいいだろう?」
「よくありませんよ。朱さんに変態だと思われたじゃないですか──」
「変態だろう、沙那は……」
宝玄仙は声をあげて笑った。
「ご主人様ほどじゃありありませんよ──。だ、だいたい、わたしの姿になる必要が本当にあったんですか……?」
「あったよ。宝玄仙という貞節な教団の法師が実は変態だと思われたら困るしね……」
「わ、わたしならいいんですか──。それに、いまさら……」
「いまさら、なんだい……? それに、さっきから耳元で怒鳴るんじゃないよ──。お前に実害はないだろう。それよりも、これ……」
宝玄仙は朱の淫液のついた指を示した。
「そ、それがどうかしたんですか?」
沙那が顔を赤らめた。
「あの隠し部屋に残っていた匂いと同じ匂いだよ……。やっぱりあの部屋を使っていたのは朱だね」
宝玄仙は指についたものを口に含んだ。
「それと、微かだけど、この愛汁には、ほんの微かだけど妖魔の妖力を感じるよ、沙那」
「妖魔?」
沙那が真面目な表情になった。
「朱は妖魔に憑りつかれているよ。すでにね……」
宝玄仙は言った。
「しゅ、朱さんをもう一度、問い詰めます」
沙那が部屋の外に出ようとした。
その時、部屋の外から、けたたましい朱の悲鳴が聞こえた。