「行くわよ、あんた……。あの婆さんは、昼間のうちに鼻殿のところの夫婦が大屋の家に連れていったわよ……。それにしても、あんたが余計なことをするから、大変じゃないのよ」
まだ、夜中といっていい時間だ。
ここは花凛の家であり、そこに王奇という若い男と一緒にいる。
同じ長屋の棟の隣の家で暮らす洛葉という老婦の家に忍び込むためだ。
この十日ばかり、幽霊のふりをして洛葉を家から追い出そうとしたのだが、やっとのこと出て行ってくれた。
ひとり暮らしの老婦の留守中の家に忍び込むことくらい、簡単な仕事と思っていたのだが、これ程に面倒なことになるとは思わなかった。
なにしろ、あの
生活に必要な物は長屋のお節介な連中が、どんどん運んでくるし、仕事だって家でやる仕事だ。
基本的に一日中、家にいても困ることがないようだ。
事実、花凛が十日間見張っていた限りにおいては、洛葉は一度も外に出ていない。
「結果的にうまくいったじゃねえかよ、花凛。お前の策じゃあ、一箇月あったってあの婆さんは家からどきそうになかったじゃねえか」
「冗談じゃないわよ。あんたが鼻殿を短剣で脅かしたりするから、いま、長屋中大変な騒ぎなのよ。あたいだって、本当にお節介な長屋の連中が、ひっきりなしにやって来ては、物騒な男がうろうろしているようだから、あの婆さんと一緒にとりあえず大家のところで寝泊まりした方がいいとか言われて大変だったんだから……」
「大変って……」
「とにかく、あたいが、どうしても仕事があって、夜中に家に戻るから駄目だと説明したら、女がひとりで夜道を歩くのは物騒だから、交替で送り迎えをするとかいう話にまでなりかけたのよ──。本当にこの長屋のお節介な連中には呆れるわよね。いまさら娘の夜道のひとり歩きは危ないとか言われても、こっちはもう数年も同じことをしているっていうのよ」
花凛は吐き捨てた。
すると王奇が声をあげて笑った。
「お前が暴漢に襲われるようなたまかよ……。ところで、それであの婆さんは、どこに行ったんだい、花凛?」
「だから、大家のところよ……。あんた、鼻殿を脅して、隣の婆さんには近づくなって、言ったんでしょう? 逆効果よ。あの鼻夫婦は、怖がるどころか本格的に婆さんに関わってきているわ。あの婆さんの命が狙われていると思い込んでいるのよ。それに長屋の連中も加わって、みんなで交替であの婆さんの護衛をしたりしてるんだから」
「まあ、いいじゃねえか。結果的には目的を果たしたんだ。俺たちの目的は、あの婆さんを隣の家から追い出すことだった。お前が幽霊の真似をしても、動く気配はなかったが、俺がちょいと刃物で脅したら、出て行ったじゃねえかよ──。こうなるとわかっていたら、さっさとこうすればよかったぜ。お前が、自分が幽霊の真似をして脅かせば、すぐに出て行くと言ったから任せていたんだが、埒が明かなかったじゃねえか」
「う、うるさいわねえ──。もう少しだったのよ。それに、あんた鼻殿に可哀そうなことしたんでしょう? あの鼻殿は、あれで結構いい人なのよ。あの婆さんに頼んでいる内職仕事だって、別にあの鼻殿の商売からすれば必要のないものなのよ。それを婆さんのためにわざわざ仕事を回しているんだから……。ほかにも、長屋で困っている者にはこっそりと手を回して助けたりしているわ。いい人なのよ」
花凛は言った。
「へっ──。俺という男がありながら、あの醜男に惚れたのか、花凛? だけどやめておけよ。あの鼻は女房のべた惚れだぜ。それは見てればわかったがな」
「な、なにが、あんたがあたいの男なのよ。ちょっとばかり、身体を許したからって、あんたをあたいの男と認めたわけじゃないわ。あんたとは、この仕事きりの仲よ──。これが終われば、見つけた財を分けてそれで終わり……。いまだから言うけど、あんたの性技は大したことはなかったよ」
「へっ、ぬかしやがったな、淫乱女が──。まあいいや。俺としてもつきまとわれても迷惑だ。お前がちゃんとわきまえているならそれでいい……。俺たちはこの仕事きりの仲だ。そういうことでいいんだな」
「そういうことよ──。あんたは隠し財についての情報を提供する。あたいは、たまたま、その隠し場所の隣に住んでいた自分の家を提供する。それでいいんでしょう?」
「まあな……。さて、そろそろ忍び込もうぜ。お宝をさっそく拝むとしようか。俺の情報が正しければ、隣の家の床下にたんまりの金板が隠されているはずなんだ」
王奇は立ちあがった。
花凛は隣の洛葉の家と自分の家を隔てている木の板壁に張りついた。
そして、下側につけてある細い木の棒を横に外す。
これで木の板壁の二枚が外れるのだ。この仕掛けは、王奇から今回の話を持ちかけられてから作った。
それで怪しまれずに隣の家に忍び込めるということだ。
王奇と出遭ったのは一箇月ほど前だ。
花凛が働いている居酒屋にやってきた客のひとりで、最初の一日目ですぐに花凛を口説いてきた。
最初は相手にするつもりはなかったが、儲け話になる情報があると言われて、ついその気になったのだ。
王奇が持ってきた話は、その日の仕事開けに、この家でやった性交の後の寝物語として聞いた。
それはびっくりするような話だった。
いまから五年前──。
この城郭である盗賊の一味が派手に活動したことがあったらしい。
結局、彼らはすべて捕らえられたのだが、彼らが一網打尽にされる直前に、行政府の倉庫から盗んだ金板をどうしても持って逃げることができず、たまたま、この長屋の付近を逃げていて、当時、空き家だった隣の家の床下にこっそりとその金板の束を埋めたというのだ。
そして、それからすぐにその盗賊団はすべて捕えられてしまい、財を回収しようとする者はいなくなった。
さらに、盗賊団は全員が処刑されてしまったので、その財はいまでもそのまま、隣の家の床下にあるはずだというのだ。
王奇は小さな罪で城郭の兵牢に入れられたとき、その秘密をまだ生きているうちの盗賊団のひとりに聞いたという男と出遭って、その話を知ったようだ。
王奇の罪は軽かったので、すぐに釈放されたが、王奇にそれを教えた男は遠くに流刑となったらしい。
それで王奇は、その男が流刑で戻らないうちに、その財を横取りしてしまおうと考えたのだ。
王奇はその場所がこの長屋であるというのはすぐにつきとめたようだ。しかし、問題があった。
それは、その盗賊団が財を隠した家がもう空き家でなく、洛葉という老母が住んでいるということだ。
王奇としては、できればこっそりと財を奪いたいのだ。
騒ぎを起こして、王奇が財を奪ったことが、流刑中の男やその仲間に知られれば王奇の命が危ない。
それで、どうしたものかと悩んでいるうちに、洛葉の家の隣に花凛が暮らしているということをつきとめ、財の取り分を渡すという約束と引き換えに、花凛と接触したというわけだ。
花凛としては、寝耳に水のおいしい話だが断る理由はない。
また、王奇としても、洛葉の家に無理矢理に押し入って財を奪っては、この話を知っている流刑になった男やその仲間が、王奇が財を横取りしたことを知ってしまうであろうから、それを防ぐために花凛の家からこっそりと忍び込んで財を回収したいということだ。
ふたりは協力し合うことを約束した。
ただ、困ったのは、いくら待っても、あのひとり暮らしの洛葉が、少しも家を出て行かないことだ。
それで花凛が、居酒屋の仕事が開けた夜明け前に、幽霊のふりをして洛葉を脅し、この家を出て行かせようとしていたのだ。
とにかく、やっとあの洛葉を外に出すことができた。
花凛は馴れた手つきで壁の板を外した。
こうやって毎夜忍び込んでは、幽霊のふりをして洛葉を脅していたのだ。
そして、あっという間に準備が整う。
これで人が通れるくらいの隙間ができた。そこからすっと入った。後ろから王奇が続く。
洛葉のいない家の中は真っ暗だ。
しかし、花凛と王奇が入り込むと、たったいま入ってきた板壁の隙間から花凛側の家の燭台の光が差し込む。家の中に薄っすらとした光が拡がる。
「財がある場所はどこよ、あんた?」
花凛は床を這って、床板を調べながらささやいた。
「入口に近い場所のはずだ。そこに釘の頭が微かに赤く塗ってある板があるはずだ。それがそうだ。その床板を外せば、その下の地面に財が埋められているらしい」
王奇もまた、花凛と同じように床を這いながら言った。
「へえ……。本当に現れたわね」
その時、突然、家の奥から声がした。
花凛はぎょっとして顔をあげた。
誰もいないと思っていたこの家に誰かが隠れていたのだ。
「だ、誰だ──?」
王奇もびっくりして身体を起こした。
その手には、腰から抜いた短剣が握られている。
「よくも、
女の声がした。
どうやら家の隅にある家具の後ろに隠れていたようだ。
「あっ、あんた、鼻殿のところの──」
薄っすらと灯りが照らすその女の顔を見て、思わず花凛は声をあげた。
紛れもない陳達のところの新妻の
なんでこんなところにいるのだろう……?
花凛は唖然とした。
「幽霊騒動と昨日の暴漢は関係があるという陳達様の考えは正しかったようね……。あの暴漢の狙いは、洛葉さんそのものではなく、この場所そのものじゃないかと陳達様は読んだんだけど、本当にそうだったのね──。確かに、陳達様の言う通り、洛葉さんに危害を加えるつもりなら、幽霊で脅して家を出て行かせようとする必要はないものね……。とにかく、ここで会った限り、わたしは許さないわよ……。覚悟しなさい」
陳女が言った。
どうやらたったひとりのようだ。
よくわからないが、ここで待っていれば、昨夜、陳達を襲った男が現われると思って待ち受けていたようだ。
「許さなければ、どうだというんだい、美人の嫁さん? もしかしたら、昨日の夜明け前に、この家の外で俺があんたの亭主をなぶってやったのを怒っているのか?」
王奇がせせら笑いながら立ちあがり、陳女に短剣の刃を向けた。
「ま、待ってよ、あんた──。そんなものをこの人に向けないでよ──。危ないじゃないのよ。あんたもなんでこんなことしているのよ。逃げなさい──」
花凛はびっくりして声をあげた。
「冗談を言うんじゃねえよ。こうなったら、こいつには死んでもらうしかねえ。俺がここに忍び込んだのを見られたからな」
王奇は花凛の声に耳を貸さず、しっかりと陳女を見つめたまま言った。
その王奇からははっきりと殺意を感じる。
花凛は狼狽えた。
「に、逃げなさい、陳女さん──。危ないわよ。この人は本当に見境がないかもしれないわ──」
花凛は声をあげた。
「お前は黙ってろ、花凛──。とにかく、こっちに来い、女──。これが見えねえのか? この刃物でお前の身体をずたずたにするぞ。それが嫌なら大人しくこっちに来い」
「刃物? それが……?」
陳女が薄闇の中で笑った気がした。
「そんな小さいもの……。これが刃物よ──」
陳女が家具の背後からすっとなにかを出した。
するとしっかりとした本物の剣が陳女の手にあった。
「な、なんだ──?」
「いくわよ」
剣を持った陳女がすっと動いた。
あっという間に王奇との間合いが詰まった。
その動きは滑らかで、明らかに陳女が武器を遣い馴れているのは確かだ。花凛はびっくりした。
王奇から余裕のようなものがなくなったのがわかった。
一度だけ、王奇の短剣と陳女の剣がぶつかる音がした。
しかし、次の瞬間、王奇は態勢を崩して床に転がっていた。
「それなりに遣えるというのは認めるわ、あなた……。でも、わたしの敵じゃない。大人しくしなさい──」
陳女がすっと床にしゃがみ込んでいる王奇に剣先を向けた。
なんでこんなにこの女は強いのだろう……?
花凛は自分の眼が信じられなかった。
「く、くそっ──」
倒れていた王奇が不意に花凛に飛びかかってきた。
あっという間だった。
王奇が花凛の背後から花凛の身体に腕を回して、その喉に短剣の先を突きつけた。
「ひっ、ひいっ──。な、なによ──?」
びっくりして花凛は悲鳴をあげた。
「く、来るんじゃねえ、女。この女を殺すぞ──」
王奇は破れかぶれのような口調で叫んだ。
「な、なにするのよ、あんた──? あ、あたいを殺す気なの──?」
花凛は声をあげた。
「うるせえ──。どうせ全部終われば、お前はどこかで死んでもらうつもりだったんだ。兵牢で遭った男に、万が一にも、俺が財を横取りしたと知られるわけにはいかねえからな……。あいつも、いつか流刑地から戻ってくるかもしれねえ。そのときに、命を狙われたりしたら困るんだ」
「あ、あんた、最初からそのつもりで……。分け前をくれるっていうのは、嘘だったのね──」
花凛は喉に刃物を当てられたまま言った。
自分の顔から血の気が引くのがわかった。
「当たり前だ──。なんで、家を提供したくらいで、財をやらなきゃならないんだ。お前は最初から殺すつもりだったよ。まあ、おいしい身体だったから、とりあえず全部終わるまで、生かしてはおいてやろうとはしたがな」
王奇が笑った。
「待って、落ち着きなさい、あなた……。仲間を殺すつもり──?」
陳女が剣を向けたまま言った。
彼女の顔にははっきりと動揺が見える。
「いまの話を聞いていただろう、女……。武器を捨てろ。こっちに放るんだ。この女を殺すぜ」
王奇が言った。
その王奇の腕ははっきりと震えている。
王奇は恐怖している。
そう思った。
しかし、それだけに危険だ。やけくそになって本当に花凛を殺すかもしれない。
一方で、陳女には王奇の脅しに屈服するなんの理由もない。
そのことすら、冷静さを失っている王奇には頭には浮かばないようだ。
これは、どうあっても殺される……。
花凛は恐怖で全身からすっと血の気が引いた。
「わ、わかったわ……。落ち着きなさい……。逃がしてあげるわ。その代わりに花凛さんを放すのよ」
陳女が言った。
花凛は驚いたが、陳女の言葉が嘘でない証拠に、陳女は持っていた剣をぽんと王奇に向かって投げた。
王奇が花凛に短剣を向けたまま、手を伸ばして、その剣を自分の横に手繰り寄せた。
「へっ、なかなか、聞き分けがいいじゃねえか……。だったら、ちょっとばかり、愉しませてもらおうかな……。へへっ、実は俺は昨夜、あんたとあんたの亭主が外でいちゃいちゃしているのをこっそりと眺めていて、むらむらしてたんだ。なあ少しばかり、あんたの裸を見せてくれよ」
突然、王奇が言った。
「な、なに言ってんのよ、あんた。馬鹿じゃないの──」
花凛は叫んだ。
「黙れ、俺は、あの女に言ってんだよ──」
王奇が激昂したように叫んだ。
そして、いきなり、短剣で花凛の首をすっと横に撫でた。
「ひいいいっ──、痛いいいっ──」
花凛は絶叫した。
自分の喉が裂かれて血が流れるのがわかった。
「騒ぐんじゃねえよ、花凛──。皮一枚のことじゃねえか。それ以上、ひと言でも呻いてみろ。今度は本当に引き裂くぞ──」
王奇がそう言って、暴れようとした花凛の身体をぐいと締めた。
花凛の身体は恐怖で硬直した。
「や、やめて──。言うこときくわ。花凛さんに乱暴しないで──」
陳女が心からの怖さがこもったような声で言った。
仲間だと思っていた王奇が自分に剣を向け、まったく関係のない陳女が自分を守ろうと必死になってくれている。
花凛はその状況に当惑するとともに狼狽していた。
「よし、じゃあ、まずはその場で下袍を捲れ。口答えするな。なにか喋れば、この花凛を殺す」
「えっ?」
陳女の顔が薄闇の中でわかるくらいに真っ赤になった。
「あ、あんた、なにを……」
花凛は王奇をたしなめようとした。
しかし、ちくりとした痛みを首に感じて、慌てて口をつぐんだ。
この王奇が逆上して冷静を欠いているのは明らかだ。
本当になにするかわからない。
「ほらっ、早く下袍を捲りあげろ。なんにも言うな。あげるんだよ──。ここで裸になってもらうぜ。そうすれば隙を見て逃げることもねえだろうし、叫んで助けも呼ばないだろうしな」
王奇がすごんだ。
陳女は明らかに動揺している。
「で、でも、下袍は……」
陳女が泣きそうな顔で言った。
すると王奇の持つ短剣がまたぐっと花凛の首に軽く刺さった。
また新しい傷ができたのがわかった。
花凛は小さな悲鳴をあげた。
陳女が真っ蒼になって首を横に振った。
そして、両手で膝までの下袍の裾を持ち、すっと上にたくしあげた。
陳女の下袍は太腿の付け根までたくしあげられた。
「なにやってんだよ。もっとあげるんだよ。しっかりとな……。この長屋でも有名な美人妻さんがどんな下着を身に着けているのか知りたいんだ──。早く、あげろ──」
王奇が声をあげる。
「で、でも下着は……」
自ら下袍を太腿まで捲り上あげている陳女の顔は本当に泣きそうになっていた。
陳女が王奇に哀願の表情を向ける。
王奇は返事の代わりに、さらに短剣の刃を花凛の首に喰い込ませた。
「ひぎいいっ──」
花凛は悲鳴をあげた。
痛みと恐怖で、花凛は自分の眼からぼろぼろと涙が出るのがわかった。
それを見た陳女がさらに顔色を変えて、さっと下袍を臍まで捲りあげた。
そして、羞恥に染まった顔をさっと横に向けた。
「あれっ?」
王奇が驚いたような声をあげた。
そして、げらげらと笑いだした。
花凛も少し驚いた……。
陳女は下着をつけていなかった……。
捲りあげた下袍の下から現れた陳女の股間には、しっかりと陰毛の繁みが覗いている。
「こりゃあ、驚いたぜ……。あんた、いつも下着をつけていないのかよ──。口を開いていい。答えるんだ──」
王奇が笑いながら言った。
「……そ、それは……。い、いつでも、あの人とできるように……下着は着ないようにと……」
陳女が下着を履いていない股間を曝け出しながら小さな声で言った。
「あの鼻でか亭主に調教されているというわけだ……。こりゃあ、傑作だ──」
王奇は花凛に短剣を向けたまま大きな声で笑った。
そのとき、花凛は背後にある玄関でなにかの影が動いたのを感じた。
かすかに首を動かして後ろに視線をぎりぎり向ける。
しっかりと閉じていたと思った玄関の戸がかすかに開いている気がした。
「あ、あなた──」
陳女が驚愕したような悲鳴をあげるのと、誰かが後ろから飛びかかってくるのが同時だった。
「ぐわっ──」
呻き声は王奇のものだ。
その王奇と飛びかかった男が揉み合って床に転がった。
花凛は投げ出されて前に倒れる。
王奇に飛びかかったのは陳達だった。
いつの間にか陳達が玄関の扉をこっそりと開いて、王奇に飛びかかったのだ。
「この野郎──」
陳達にのしかかられていた王奇の短剣が横に動いた。
「ぐっ」
陳達はさっと身体を避けたが、かすかに短剣の先が陳達の二の腕に掠った。
服が裂け、そこから血しぶきが飛ぶ。
王奇が陳達の身体の下から脱出する。
「か、花凛──。なにも喋るんじゃねえぞ──。もしも、ひと言でもこいつらに白状すれば、命をもらいに来るからな」
王奇はそう叫ぶと、陳達を突き飛ばして扉から外に飛び出した。
「あ、あなた、大丈夫ですか──」
陳女が真っ蒼な顔で陳達に飛んできた。
この家には、洛葉の内職のための縫物の服が固めて隅に置いてあったが、陳女はそれを取ると、歯で一枚を裂いて細長い布切れにすると、陳達の傷をさっと縛った。
「だ、大丈夫だ……。かすり傷だ。それよりも、お前は無事か、陳女……? 助けに入るのが遅れてすまない……」
陳女に腕の治療を受けている陳達が顔をしかめながら言った。
「わ、わたしこそ申し訳ありません。わたしがいながら、あなたに傷を負わせてしまって……」
陳女はべそをかいたようなそうな顔だ。
「かすり傷だと言ったろう」
陳達が陳女の頭を撫ぜた。
陳女がほっとした表情になる。
次に陳女が陳達の腕に巻いた服の切れ端を持って、花凛に近づいた。
再び布を裂いて、花凛の首から血を拭き花凛の首に巻いた。
「あ、ありがとう……」
治療の間、三人の誰も口を開かなかった。とりあえずの応急処置が終わったとき、花凛はやっとそう言った。
「さて、じゃあ、これがどういうことか教えてくれるとありがたいな、花凛」
「そうですね……。あれはいったいどういうことなのです、花凛さん」
陳達と陳女が花凛をじっと見て言った。
「そ、それは……。で、でも、いまの王奇の捨て台詞を聞いていたでしょう。あたいがなにかを喋れば殺されるのよ……。か、勘忍して──」
花凛は言った。
あの男は執拗だ。
喋ったら殺すという言葉に嘘はないと思う。
花凛は激しく首を振った。
すると陳達は困った顔になった。
「しかし、あんな目に遭わされたんだろう。首だって傷ついている。あんなことをした男を庇うのか?」
「あなた、とりあえず、わたしたちの家に花凛さんを連れていきましょう。家には、宝玄仙さんたちが置いていった薬剤もあります。それを塗れば、すぐに傷は塞がるはずですし……」
陳女が言った。
「そうだな。話はそれからでもできる」
陳達も頷く。
しかし、次の瞬間、陳女の手がさっと動いて、花凛の両手首を花凛の背中に回した。
あっという間に両手首にさっきの布の余りが巻きついて結わえられる。
「な、なにするのよ、陳女──?」
花凛は狼狽えて声をあげた。
しかし、陳女は花凛を無視して陳達に顔を向ける。
「それから、あなた、訊問については、身体に訊ねるという方法もありますわ……。わたしは宝玄仙さんたちが、それをするのを少しだけ見ていましたが、それはかなり有効な訊問手段のように思います。それに、考え方によれば、ちっとも残酷じゃあありませんし……」
「か、身体に訊ねる?」
花凛はその物騒な言葉に声をあげた。
危険なものを感じて逃げようとしたが、大して力を入れているとも思えないのに、陳女に片手で押さえられている花凛の身体は陳女の腕の下から逃げ出せない。
「しかし、どうするんだ──? 俺はそんなことやったことはないぞ」
陳達が当惑した顔になった。
「あなたがわたしにやっているようなことをおやりになればいいんです……。わたしも手伝いますから……」
陳女の顔が赤く染まった。
なんだかふたりの間に妖しい雰囲気がある。
花凛は嫌な予感がした。
「いいのか?」
すると陳達が苦笑したような表情になった。
「構いません……。それに、あなたもこういうこと、本心ではお嫌いではないですよね……? わたしに気を使って頂く必要はないのですよ。それにわたしたちは、所詮は異常な夫婦じゃないですか。こういうものも必要です」
「そうか……?」
陳達がふと花凛に視線を向けた。
その表情になんだか得体の知れないものを感じて花凛は、自分の身体に怖気が走るのをはっきりと感じた。
「なら、行きましょうか、花凛……。とりあえず、わたしたちの家で治療をします。それからは、本格的に訊問をさせてもらいます。一体全体、洛葉さんになにをしようとしたのか、洗いざらい喋ってもらいますね──。わたしは容赦しませんよ」
陳女がそう言って、強引に花凛の身体を立ちあがらせた。
「ちょっと、嫌よ──」
このふたりはなんだかおかしい──。
このままではなにをされるかわからない……。
しかし、花凛が抵抗しようとした瞬間、転がっていた剣を拾っていた陳女が剣でさっと花凛の下袍の腰の部分を切断した。
花凛の下袍が足元に落ちて下半身の下着が露わになる。
「きゃあああ──」
花凛は慌ててその場にしゃがみこもうとしたが、陳女がそれを妨げて、花凛が露になった脚を隠すのを許さない。
「さっき、あの男は面白いことを言いましたわ。女を裸にすれば、逃亡や助けを呼ぶのを防げるのだそうです。確かにそれは有効な方法かもしれません──。さあ、大騒ぎしない方がいいですよ、花凛さん……。そんな姿をほかの人に見られたくなければね……。まだ、夜中ですから、大人しく歩けば、誰にも見られずに、家まで辿りつけると思います。でも、言うことを聞かないようなら……」
すっと陳女の剣が下着の横側に入ってきた。
「う、うわっ──。な、なにすんのさ──」
花凛は声をあげた。
「騒ぐと、外でこの下着を切断しますよ。それが嫌なら大人しくついて来なさい、花凛さん」
そして、花凛は強引に家の外に連れ出された。
下袍を履いていない下半身に夜の風が撫ぜる。花凛は竦みあがった。
「ほらほら、歩きなさい、花凛……。下着を切るわよ……」
「そ、そんな……。ちょ、ちょっと、本気……? お、押さないでよ、陳女──」
花凛は声をあげた。
「お前にもそういうところがあるのだな……?」
後ろからついてくる陳達が呆れたような声をあげたのが聞こえた。
「そんなこと言わないでください、あなた……。でも、わたしも色々なことがあったから、だんだんとこういう世界に染まってきたのかもしれません」
陳女がはにかんだように笑った。