沙那たちが三日の契約で借りている空き家は、この農村の北の端にある。
だが、最も近い人家でも小川を挟んだ十間(約百メートル)程向こうにあり、当然、周りにはほとんど人はいない。
そういう意味では、集落と離れている一軒家というところだ。
だが、用足しはそこでするように言われている共同の厠は、その十間(約百メートル)離れた人家の前にあるのだ。
人糞というものは、こういう農村では肥料として貴重な財産であり、勝手にあちこちですることは歓迎されない。
沙那は、そういえばずっと昔に暮らしていた故郷の愛陽の城郭でも、よく長屋のような共同宿舎がある場所では大家が収入の一部として厠の糞尿を売っていたのを思い出した。
沙那の経営していた町道場では量が少なかったので代金は貰っていなかったが、溜まった糞尿は業者が悦んで無料で回収していってくれていたのを思い出したりした。
沙那は、厠の前まで歩いていき、たまたまそこにいた三名ほどの農婦たちに声をかけることにした。
さすがにこれから変態趣味の調教の一環として、ふたりの女が排便をしに来るから、しばらくそばに寄らないでくれとは言えるわけがない。
しかし、とりあえず、伝えることを伝えないと、あの宝玄仙はすぐに機嫌を損ねるに違いない。
「すみません。厠をお借りします」
沙那は農婦に声をかけた。
すると、三人の農婦が顔をあげる。
「もちろんさ。わざわざ、断ることもないし。存分に使っておくれ」
「いえ……、そ、そのう、少し後で集団で来ると思いますが……、ちょっと騒がしいかもしれなくて……」
なんと説明すべきなのだろう。
沙那は自分でも意味不明だろうだとは思った。
騒がしく用を足すと……。
「変化ことを言うねえ。もしかして、離れていた方がいいかい? いいところの人たちみたいだから、あたしらがいたら、恥ずかしいのかい?」
「そ、そんなことは……」
沙那は否定したが、ありがたいと思った。
まさか、浣腸責めの仕上げとして、戸を開けて排便姿を晒させるのだとは説明できないから、そういうことにすればいいかと思った。
そういえば、長庚はいい身なりをしていたし、宝玄仙に至っては、まさに旅の女貴族そのものだ。
「だったら、お貴族様が来られたら、ちょっと離れていようかね」
三人の農婦は、いずれも四十過ぎの陽気そうな女だったが、沙那に向かって笑顔を向けて頷いてくれた。
雰囲気からすれば、三人はそのまま畠仕事を続けるが、宝玄仙たちが現われたら立ち去ってくれそうな感じだ
沙那としてはこれで十分だ。
あとは隔離して使いたければ、宝玄仙が結界でも張ればいいだろう。
「ありがとうございます……。ちょっとご主人様が恥ずかしがり屋で……。わたしは自由に使わせてもらいます。どうぞ、そのままで……」
「心配しなくても覗きはしないよ」
農婦たちが笑い、そのまま作業に復帰した。
沙那はとりあえず三個ほど並んだ厠のひとつに入る。
宝玄仙から受けた指示はともかく、とりあえず小用をしたかったのだ。
厠の中は三方と天井を完全に板で覆われ、入口の部分には人間の背丈の半分ほどの扉がある。
中には便器というよりは深い穴が掘ってあり、そこに足置きとなる二枚の板が置いてある。
その板に脚を置き、扉に向かうようにしゃがんで用を足すのだ。
すると扉からはちょうど顔だけを出したような感じになる。
近くまで来れば覗き込めるが、人が入っているときはそっちを見ないようにするのが礼儀だ。
沙那は剣を佩いた革帯を厠の床に立てかけて、下袴と下着を膝まで降ろした。
膀胱に尿が溜まりすぎると、尿で膀胱や尿道が揺れて、まるで淫具で苛まれているような心地なる。
少し前に頭のおかしな兄妹に捕らえられて尿道調教をされて以来の沙那の悩みがそれだ。
宝玄仙に『治療術』でおかしな身体を治してくれと頼むのだが、尿をするたびに沙那がよがるのが愉しいと一向に治してくれない。
沙那は準備してあった布を口に咥えた。
これがないとついついよがり声をあげてしまうのだ。
尿が股間から流れ出す。
「んんっ……」
沙那はたちまちに湧き起こった愉悦に懸命に歯を食いしばった。
こうやって尿を足すたびに気持ちがよくなる自分の身体に情けなくなる。
そのとき、突然、真っ白い光が身体を覆った。
なんの光なのかわからない。
とにかく、沙那は慌てて厠に立てかけていた剣を右手で握った。
「人間の女……。立つんじゃないよ。そのままでいな。下袴も下着もいいというまであげるんじゃない」
「んんっ──」
びっくりした──。
いつの間にか半分ほどの高さしかない厠の扉からさっきの三人の農婦が沙那を覗き込んでいたのだ。
たったいままで、気さくな会話をした三人が突然どうしたのだ?
沙那は混乱した。
尿はもう終わりかけているが、排尿姿を眼の前で覗き込まれるという行為に激しい羞恥が生まれるとともに、かっと怒りも湧いた。
しゃがんだまま剣を抜こうとしたが、それよりも三人の農婦が剣を沙那に向ける方が早かった。
扉には鍵などない。
向こう側から扉が開かれて、三人の農婦が厠から見える外の風景を隠すように立った。
「な、なに、あんたら──?」
やっと排尿が終わった。
しかし、両側の農婦の二本の剣が沙那に向かっている。
沙那は立ちあがることはおろか、膝までおろしたままの下着と下袴をあげることもできない。
とりあえず、膝を懸命に閉じて股間を隠す。
それにしても、沙那としたことが、厠の前に立たれるまで、三人の接近に気がつかないとは迂闊だった。
それとも、気配を殺すことのできる特殊な能力のようなものが三人にあるのだろうか……?
そうでなければ、大抵の気配を感じることができる沙那がここまで出し抜かれるというようなことはないのだが……。
しかし、ただの農婦が?
「な、なんのまねよ?」
沙那はまた言った。
すると、三人の農婦が胸に手をやって胸に張っていた札のようなものを外した。
三人の農婦が三人の亜人の女の姿になる。三人とも額に小さな角がある。
そして、真ん中の亜人の女が背中から水晶の飾りのついた杖を出した。
三人の亜人の女はいずれも美女だが、この真ん中の女は群を抜いて美しい。
「その剣をこっちに渡しな、沙那──」
その真ん中の女が言った。
二本の剣がこっちに突きつけられている。
そのふたりに隙はない。
だが、沙那には、それよりも、水晶のついた杖に得体の知れない恐怖を感じていた。
それにしても──。
沙那はこの三人の亜人が、自分の名を知っていたということに動揺した。
この女たちが沙那の名を知っていたということは、つまり、彼女たちが偶然にこの農村に現れたのではなく、なんらかの意図を持って沙那たちに近づいてきたということになる。
おそらく、この亜人たちがもともとの農婦と入れ替わっていたのは間違いないだろうが、少なくとも偶然ではないということだ。
一体全体、その目的はなんだろう……?
とにかく、沙那は剣を鞘の付いたまま出した。
それを受け取った亜人の女の首に小さく畳まれた羽毛の塊りが見えた。
はっとした。
鳥人族だ。
沙那は、妖魔、つまり、亜人、ましてや、鳥人族にはほとんど遭ったことはないが、書物で得た知識だけはある。
鳥人族の翼は鳥のように背で畳むこともできるし、眼の前の亜人のようにさらに霊気で小さくして首の背のたてがみほどにも小さくすることができる。いまの三人の鳥人族の女はいずれもそうしているようだ。
「次は下袴と下着だよ──。しゃがんだままゆっくりと脱ぎな。下袴と腰布をここに捨てていけば、お前の女主人の宝玄仙に、お前が誘拐されたということがわかるだろうさ」
真ん中の女が笑った。
「ご、ご主人様をどうするつもりよ──?」
沙那は叫んだ。
「とりあえず、下を脱ぎな。まさか下半身がすっぽんぽんじゃあ、簡単には逃げられないだろうから、お前への拘束のようなものさ。ほらほら、脱げ」
亜人が言った。
沙那は歯噛みした。
ここはとりあえず時間をかけることだ。
もうすぐ、宝玄仙があの借家を出てこの厠にやってくる。
そうすれば、ここの異変はすぐに悟るはずだ。
宝玄仙の道術ならこれだけの距離があっても、三人を無力化するのに一瞬しかかからないはずだ。
沙那は用心深く、下袴と下着を片足ずつ脚から抜いた。
差し出すとそれをひったくるように奪われた。
「じゃあ、出てきてもらおうか、沙那……。ゆっくりと立つんだよ」
杖を持った亜人の女がくすくすと笑う。
沙那は言われるまま立ちあがった。
下半身にはなにも履いていない。
沙那は精一杯、上の服の裾を伸ばして股間を隠すようにする。
それで辛うじて股間は隠せるが、お尻は完全に剝き出しだ。
「も、目的を言いなさいよ──。目的を──。わたしをさらってどうするつもりよ」
沙那は叫んだ。
「お前が知る必要はないさ。お前なんか、宝玄仙を誘き出すための餌だからね──」
「餌? あ、あんたの名は?」
沙那は真ん中の女に訊ねた。
この女が三人の中の長であることは雰囲気から明らかだ。
「
真ん中の女が笑った。
沙那はその言葉であることを思い出した。
昨日、長庚が言及したことだ。長庚は獅駝の城郭には何かの異変が起きているに違いないと言っていた。
長庚は商人特有の勘から、物流の流れの不自然さでそれを感じて、城郭には近づくべきではないと警告を発していたと思う。
それは正しかったのだ。
おそらく、城郭には彼女たちのような亜人が入っているのだ。
もしかしたら、城郭全体が亜人たちに占領されているのかもしれない。
そして、なんらかの方法で罠を仕掛けている……。
つまり、その罠で宝玄仙を捕らえようとしているのかもしれない。
絶対に宝玄仙を獅駝の城郭に近づけてはならない──。
沙那は思った。
三人の亜人の目的が宝玄仙にあることは確かだ。
そうであれば、多少危険でも三人から逃げなければ……。
そのとき、わずかに三人の亜人が同時に沙那から眼を離したのがわかった。
一瞬だけだが、それで沙那には十分だった。
三人を突き飛ばして三人の反対側に飛び出した。
「ご主人様あああ──、助けてくださいいいい──」
腹の底から絶叫した。
そのとき、後ろからもう一度白い光が当たった気がした。
「きゃああああ──」
次の瞬間、沙那は驚愕して、悲鳴をあげてその場に座り込んだ。
「えっ?」
沙那は思わず声をあげた。
気がつくと、どこだかわからない見知らぬ城郭の喧騒の中にいたのだ。
下半身になにも履いていない沙那に大勢の城郭の住民が注目している。
「ひっ」
沙那はびっくりしてその場にしゃがみ込んだ。
一体全体なにが起きたのかわからない。
とにかく、沙那はいつの間にか農村から離れた遠い城郭に跳ばされていたのだ。
とにかく逃げなければ……。
かろうじて冷静になった沙那の頭の一部がそのことを思い起こしたときには、うずくまる沙那の周りにはすでに大勢の人間が集まっていた。
沙那は必死で下半身を隠しながら、これが夢でもなんでもなく、紛れもない現実であることをしっかりと認識していた。
(第70話『情けは人の為ならず』終わり、第71話に続く)