「これは、立派な屋敷だね」
屋敷の前で、
四人で門楼の前に立ったのだが、その飾りも東西の花や動物の文様が施された立派なものだ。
門は開け放たれていて、中の様子は簡単に覗き見ることができる。
屋敷らしい建物は、ずっと遠くにあり、夕暮れの前庭に拡がる小塔や庵は、まるで絵に描かれたように美しい。
庭も大きく、建物も大きい。まるで城だ。
「なにか書いてあるよ、沙那。なんて書いてあるの?」
門柱のそばにいた
孫空女は文字が読めない。
沙那は門柱に近づいた。
“
時の四王となれどもこの地に閉ざされる
色の翼で虚空を貫き
色の馬で那辺を追いかけ
色の檻で朱獣を縛せん
そして、色の剣で刺して得るは美宝
いざ放たん。そして、この地から去らん”
そこにはそう書いてあった。
沙那は孫空女に説明した。
随分と古いものらしく、最初は赤文字だったようだが、いまほとんど色が剥げて、それぞれの行の最後くらいしか赤色は残っていない。
書かれてからどのくらい経っているのだろうか。
眼の前の庭が美しいだけに、この門柱の詩の板だけが、不似合いに古ぼけているのに違和感がある。
そのとき、急に宝玄仙が姿勢を崩した。
驚いた沙那は、宝玄仙に手を伸ばしてその身体を支えた。
「大丈夫ですか、ご主人様───?」
「大丈夫だよ。なんか急に何かが動いた気がしたんだ、なんだろうね?」
宝玄仙は自分に起こったことに首を傾げている。
「霊力のようなものを感じますか、ご主人様?」
「いや……」
宝玄仙は首を横に振った。
「それにしても、なんて書いてあるかはわかったけど、意味はわからないよ」
孫空女が言った。
それは、沙那も同様だ。
「面白いねえ───。それに、黎山王……南海王、文殊王に普賢王かい」
宝玄仙が呟いた。
「この詩に出てくる四人の王のことをご存じなのですか、ご主人様?」
「大昔のどこかの王様の名前だよ、沙那。それになぞらえているんだろうさ」
「どんな王だったのです」
「そうだね。そう言えば、この辺りの土地に所縁のある王家だったかねえ。黎山王は、偉大なる王で、有能な三人の息子を持った。それが、南海王、文殊王、普賢王さ。南海王は力で敵を征服すること、文殊王は人を支配すること、普賢王は冷徹な判断することに秀でていた。だが、ある時、父親の黎山王は、後継者を指名することなく失踪した。父王を探しに三人の息子の王たちも旅立った。そして、ついには、四人とも戻らなかった。偉大な王家は滅亡した……。まあ、そんな話だったねえ」
「お詳しいですね、ご主人様」
「もう生きていたからね」
「いつ頃の話なのですか?」
「三百年前だよ」
「幾らご主人様でもそんな昔に生きているわけがないじゃないですか───」
「冗談だよ、朱姫」
宝玄仙が笑った。
そして、朱姫の首に手を伸ばすと、何気ない仕草で朱姫の首にある霊具を取り去った。
「ご、ご主人様、魔具を外してくれたのですか───?」
朱姫は身体の快感を支配されていた霊具を突然に取り去られて、驚いている。
沙那も驚いた。
この意地悪な法師が「玩具」を支配している霊具を外してくれることなど大変なことなのだ。
長く『服従の首輪』で苦しめられていた沙那だったが、宝玄仙がそれを外してくれたのは、宝玄仙の供になり数箇月が経ってからだ。
「さて、なんでだろうね……。なんとなく、そういう気になったんだよねえ」
宝玄仙自身が自分のやったことに戸惑っているようだ。だが、やはり、朱姫に付け直すことなく、自分の服の下にその革紐の霊具を隠した。
「まあいい、行こうか」
「……でも案内も請わずに───」
沙那は躊躇った。
「だって、やたらに静かじゃないか。いつまで待っても人なんか出てきそうもないよ。もしかしたら無人かもしれない」
こんなに手入れがいきとどいた前庭のある屋敷が無人のわけがない。
「ねえ、ご主人様、これはあたしたちの名ではないですか?」
不意に朱姫が言った。
「なにを言っているんだい、朱姫?」
「だって、これ……」
朱姫が、さっきの門柱に彫ってある詩の文字を指差した。
「“色の翼で虚空を貫き、色の馬で那辺を駆け、色の檻で朱獣を縛せん、そして、色の剣で刺して得るは美宝”───。あたしたちの名が一文字ずつ入っていますよ」
「本当だ───」
沙那も気がついた。
“
“
“
“
すべて四人の名の一文字が入っている。
「ご主人様、気味が悪いですよ。やめましょうよ」
沙那は主張した。
「そんなことは一番最初に気がついたよ。だけど、また、野宿なんて冗談じゃない。それに、まるで、わたしたちを名指しで歓迎しているようじゃないか。これは宿を頼まない手はないよ、沙那」
「でも……」
躊躇したが、宝玄仙がずかずかと入っていくので、仕方なくついていく。
孫空女、そして、朱姫が続く。
前庭を通り抜け、ついに大きな屋敷の玄関に着いた。
「ご主人様───」
「わかっているよ、朱姫」
朱姫が指差したものに、宝玄仙が今度は真顔で頷く。
そこには、外門に彫ってあったのと同じ詩が、小さな板に彫られたものが飾られている。
「さっきから見ていると、もしかしたら、朱姫って文字が読めるの?」
「文字? 読めるに決まっています。孫姉さんは読めないのですか?」
朱姫にそう言い返された孫空女は嫌な顔をした。沙那はくすりと笑ってしまった。
「沙那、呼び紐を引きな」
入口の扉には、中の者に訪問者を知らせるための鈴を鳴らす紐がある。それを沙那が引こうと思ったとき、その扉がひとりでに開いた。
「どなた───? 男やもめの四人の家に……」
そこに背の高い美貌の若者が立っていた。
そして、四人に視線を向ける。
「は、はい。わたしたちは東方帝国領からやってまいりました者で、天教に仕える者として、西に向かう巡教の旅の途中です。一行四人、ご当地に差し掛かったところで陽が暮れましたので、一夜の宿をお借りいたしたく、この屋敷に参りました」
残り三人の前に立つようなかたちになっていた沙那はそう言った。
「当方は、男四人暮らしだが、それでよければどうぞ……」
美貌の若者は、沙那を飛ばして、宝玄仙に視線を向けて言った。
すぐに、宝玄仙が一行の主人であることがわかったのだろう。
そして、孫空女に顔を向ける。
「申し訳ないが、屋敷には家人がひとりもおらん。客人に手伝ってもらうのは申し訳ないが、ご家人のひとりには、裏から薪を運ぶのを手伝ってもらえまいか。すぐに私が向かう。裏で待っていて欲しい」
いきなり、仕事を手伝えというのは違和感もあったが、主人然としている宝玄仙に対して、沙那たち三人はすぐに、従者だと認識をしたのだろう。
名指しをされた孫空女も、気にする様子もない。
「お安いごようだね。裏に回ればいいのかい、お兄さん」
「私は、
黎家に普賢───。
やはり、あの詩に書かれていた四王のことをなぞらえているのだろう。
「じゃあね、普賢さん」
孫空女が裏に回っていく。
「荷はそこに───」
孫空女がいなくなると、普賢がそう言った。
「えっ?」
沙那は問い返した。
一行の荷は沙那と朱姫が背に担いでいる。
「その荷を入口の外に置いてもらいたい。あなたの剣もだ」
普賢は沙那の剣を指差した。
「だって、家人はいないのでしょう?」
沙那は訝しんだ。剣を外すのは当然として、荷を外に置いていくというのは……。
「心配ない。すぐに我々で運び入れる」
「でも……」
「そこに」
普賢の口調には有無を言わせぬものがある。
だが、ここに荷を置けというのも怪しいし、躊躇うものもある。そもそも、路銀も張っているのだ。
沙那は、迷ってしまった、宝玄仙に顔を向けた。
宝玄仙が小さく頷いた。
沙那は嘆息した。
「ここに置けばいいの?」
「そして、そこに───。屋敷内には人のみが……」
沙那は玄関の外に荷を置いた。朱姫もその横に荷を並べる。
すると、普賢がほっとした表情になり、身体を開いて、屋敷の奥に宝玄仙を促す。
沙那は宝玄仙と朱姫とともに、屋敷に入っていき、案内のまま廊下を進む。
そして、そのまま客間に招き入れられた。
客間は柔らかそうな長椅子を囲む卓がある。
部屋には誰もいなかった。
とりあえず、示された椅子に座る。
「改めて言う。よく当館を訪問してくれた。歓迎する。ここは黎家の館だ」
普賢が立ったまま言った。
「宝玄仙。旅の法師だ」
いつものような口調ではなく、身分の高い法師然とした喋り方だ。
「供の沙那です」
「朱姫です」
「では、私は、孫空女殿のところに……」
それぞれに挨拶をする。普賢は会釈をして部屋の外に出ていった。
沙那は、ふと違和感を覚えた。
なぜ、孫空女の名を?
誰か、名を呼んだだろうか?
その途端に、入れ替わるように、卓を挟んで宝玄仙の正面の席に人が現われた。
沙那はびっくりした。
どこから入ってきたのか、不意に椅子の上に出現したようにしか沙那には見えなかったのだ。
その男───この屋敷の亭主らしい老境にやや差し掛かった男が言った。
平服だが堂々とした体躯は平服でさえもなにかの衣装のように感じる。
「当家の亭主の
男はそう言った。どうやら、この一家は四王と同じ名を名乗っているらしい。
黎山と名乗った男は、宝玄仙の前の席についた。
「どうぞ」
その宝玄仙と黎山の前に、ふたりの若者が茶と菓子を置いた。
「えっ?」
「きゃっ」
沙那と朱姫は思わず悲鳴をあげてしまった。
さっきいきなり出現した黎山もそうだが、茶を配る若者たちも突然に横に出現したのだ。
彼らも一見して亭主の黎山の息子というのがわかる。顔立ちがよく黎山と似ている。
次いで、沙那と朱姫の前にも香りのよい茶と菓子が並べられた。
とにかく、明らかに怪しい。
沙那は緊張したが、宝玄仙は優雅な仕草で菓子を口にして、茶をすすっている。
とりあえず、沙那はそれにならった。朱姫もちょっと怯えた様子で、茶に口をつけた。
「この二人は、夕餉の支度をさせるために退がらせる」
黎山が言った。息子らしき若者たちも頭を下げる。
ふたりは、それぞれに沙那と朱姫に向かい頭を下げた。
慌てて沙那もお辞儀をする。
ところが、頭をあげたときには、彼らはもう部屋にはいなかった。
部屋から出ていった様子はなかった。部屋から消滅したようにしか見えなかったのだ。
「ところで、お主ら……、なに者だ?」
宝玄仙もこの屋敷の怪しさに警戒する口調で言った。
「この土地の主だ」
「この土地とは?」
「
「こ、婚姻───?」
沙那は声をあげてしまった。
「ここには水田があり、畠もあり、裏山には果樹園もある。裏には、馬に牛に羊に豚に鳥の家畜がおり、屋敷の中にも十年かかっても食べきれない穀物があり、一生かかっても着尽くせない衣服があり、使いきれない金銀もある。得体の知れない妖魔の棲み処にいくような旅よりも、余程、ましだと思うが? 結婚を承諾して貰えれば、それを世話する家人も集めよう」
「……なぜ、わしらが西に行くと? ……ああ、息子の普賢殿に訊いたのか? いや、違うな。沙那は、西に向かうとしか言わなかった。妖域とは言わなかったが……」
「訊かずともお前たちのことはわかる。天教教団の最高神官の八仙の宝玄仙。そして、元は愛陽の千人隊長で宝玄仙の最初の供の沙那。そっちは、三番目の供で朱姫───。元は羅姫という名の半妖。真名は猪八戒……」
沙那は立ちあがった。眼の前の男に警戒の姿勢をとった。
その沙那の眼の前に真っ白い壁が現れた。
沙那は、自分が入口もない出口もない壁だけの部屋の中にいることに気がついた。
小さな行燈の光が、その壁だけの部屋を照らしている。
さっきまでの場所じゃない。
一瞬にして、どこかに転送された?
しかも、部屋の中には誰もいない。
それよりも、ここには出入り口そのものがない。
どこだ、ここ?
「落ち着けよ、沙那」
沙那は文字通り飛びあがった。後ろに人がいたのだ。
武芸者として気を操れる沙那は、これまでの人生で、人がそばにいたのに気がつかなかったという経験がないのだ。
「誰よ?」
「
そこにさっき茶を運んできた若者のひとりがいた。
「ここはどこ?」
「どこでもない。ここは、お前がさっきまでいた場所だ」
「嘘よ。わたしは、客間でご主人様と朱姫とお茶と菓子を貰っていたわ。二人はどこ?」
「だから、その場所だ。ここはさっきまでお前がいた場所で、お前はずっと同じところにいた。ただ壁がそこにあっただけだ」
「訳のわからないことを言わないでよ。ここはどこ? あんたらは何者? 妖魔? 目的はなに?」
「最初の質問と最後の質問にだけ答えよう───。ここは時の館。俺の目的は、お前を犯すことだ」
文殊は眉ひとつ動かさない無表情で言った。
沙那は注意深く構えたままだ。
武器はないが、この男なら素手でも勝てる。
「時の館とはなに?」
「土地に縛られ、過去と未来───それを永遠に行き来する館だ。私たちが、お前たちを犯し、屈服させて嫁にすることができれば、それも終わる」
文殊が消えた。沙那は誰もいない密室にひとり残された。
次の瞬間、沙那は自分が、さっきの密室とは違う周囲を透明の壁に囲まれた小さな部屋の中に入っていることに気がついた。
それとともに、猛烈な熱気が周囲から伝わってきた。
*
薪は運びやすいように束ねられており、孫空女はとりあえず、ひと抱えの薪を抱いて、勝手口らしい場所から館に入った。
そこに待っていたかのように普賢が現れた。
「おう、相変わらずの力持ちだな……。案内しよう、孫空女。薪はそこでいい」
なぜ、名を知っているのかと思ったが、おそらく宝玄仙らが教えたものだと思った。
とりあえず、薪を入ってすぐの場所に置く。
そのまま、普賢の案内で屋敷の奥に進んでいく。広い屋敷だが、ひっそりとして人の気配を感じない。
だが、そのとき、ふと気がついた。
さっき、この普賢は、「相変わらず」と孫空女のことを称した。
初対面にしていは、不思議な物言いだ。
まあいいか……。
「こんなに広い屋敷なのに家人もいないのか?」
ところで、表でこの普賢がそう言っていたことを思い出して言った。
「いまはな、孫空女───。孫女と呼んでよいか?」
「駄目だよ」
そんなに親しげに名を呼ばれる理由はない。その呼び方は沙那にしか許していない。
「相変わらずだな───」
「相変わらず?」
また言った。
孫空女は眉をひそめた。
「気にするな───。家人はいまは必要ない。というよりも、ここで暮らせる家人などおらんのだ。しかし、もうすぐ必要になると思う。裏には水田もありし、畠もある。牧も管理する者が必要だ。呪縛が解かれれば、管理する者がいなければならない……」
普賢がなにを言っているのか、さっぱりわからない。
ただ、屋敷の裏には、普賢の言うとおり裏山まで拡がる水田や畠や牧があった。
人も雇わずに、あれだけの土地をどうやって管理しているのだろう。
「でも、馬を納屋をちらりと見たときに、結構たくさんの馬がいたみたいだね。馬草もきちんとしていたし、馬たちも手入れがされていた。外には畠や牧も見えたし、あれはいったい誰が世話をしているの?」
「“
「時?」
「そう“時”。屋敷の裏は、裏山まで屋敷の一部だ。時に支配される。時から放たれれば、そうもいかないから人を雇うことになるだろう。それだけの財はある」
「さっきからなにを言っているんだ? 誰も管理しないのなら、どうしてあんなにきちんとしているんだよ?」
「後で教えよう。ここには、時間だけは無限にある───。ところで、この部屋だ」
普賢は客間らしい部屋に案内した。
しかし、そこには誰もいない。
「ご主人様は? それに、沙那や朱姫は?」
孫空女は、部屋の前で立ちどまった。
「入らんのか?」
「三人はどこ?」
「もうすぐこの部屋に来る」
普賢は言った。普賢は、その客間に先に入り、孫空女を手招きする。
なにか、とてつもなく嫌な予感がする。
「もうすぐ来る? じゃあ、いまはどこ?」
「まだやって来ていないのだから、そんなことはわからない」
「はあ? 言葉遊びは好きじゃないんだ。三人はどこだよ?」
孫空女は怒鳴りあげた。
「……すぐに癇癪を起す。また、『如意棒』を振り回すか?」
「なぜ、『如意棒』のことを───?」
『如意棒』は、孫空女の得物だが、普段は耳の中に隠しているので、他人には孫空女が武器を持っていることはわからないはずだ。
そして、この普賢は、“また”と言った。どこかで会ったことがあるのだろうか。
「私はお前のことを知っているぞ、孫女」
孫空女の心を見透かしたのか、普賢が言った。
「……そんな風に呼ぶなとあたしは、さっき言ったよ」
孫空女は耳の中にあった『如意棒』を右手の拳の中に移した。
「だが、そう呼び馴れているのでな」
「あんたに会ったことなどないはずだけど?」
随分と親しげな口ぶりだが、孫空女は、眼の前の美男子に見覚えがない。ひと目で忘れようのない美貌だ。
そして、孫空女はこれまでに“孫女”と呼ばれたことはない。
「確かに、“今”は会ったことはない。だが、私はお前のことをよく知っている。お前のその服の下の身体も。どこをどうすれば感じ、どうすれば淫情に溺れるのかも知っている。陰部の形やほくろの場所さえも全部知っていると思う」
「ふざけるな───。お前なんか知らないよ───」
「知らないだろうな。だが、私は知っているぞ。じゃあ、言ってやろう。お前の下の毛は宝玄仙に剃られてなにも生えていない。あの女の悪だくみで、天教の教団の若い僧に剃られたのだろう?」
かっと頭に血がのぼるのがわかった。
しかし、なぜ、そんなことがわかるのか───?
「もっと、言おうか。お前はその強気の性格とは裏腹に、苛められるのが好きだ。受けた仕打ちが恥辱的であればあるほど、お前の淫部は濡れていく……」
「伸びろ───」
『如意棒』が手の中で大きくなった。
普賢に向かい飛びかかる───。
その普賢の姿が不意に横になった。
『如意棒』はころころと眼の前に転がっている。
孫空女は床の上に倒れていた。なにが起こったのかまったくわからない。
「ふう……。なかなかに加減が難しいな。今度はうまくいった」
普賢が大きく息を吐いた。
今度は───?
どういう意味だろう───?
そして、孫空女は自分の手足がなくなっていることに気がついた。脚はつけ根から先が、手は肘から下が消滅していた。
同じようなことをお蘭の里でされた。あのときは、その後首に鎖をつけられて、酷い目に遭ったっけ……。
「お前……道術使いか……?」
孫空女は床に腹這いになったまま言った。
こんなことができるのは、道術遣いに間違いない。
しかし、ここには、道術の源の霊気のようなものは感じていない。
お蘭の里に入った時には、あの里全体が大きな結界の中で、すべてのものから霊力が満ち溢れていた……。
「道術など仕えん。使えたら便利だとは思うがな。そうすれば、お前を拘束するのに、こんな面倒なことなどいらん。これは後で返してやる。以前に、手足を切断してしまえば、さすがに大人しくなるだろうと試したことがあったのだ。そのときに戻しただけだ。もっとも、このくらいでお前が屈服しないのはわかっている。」
やっぱり、なにを言っているのかわからない。
ただ、こんな胴体と顔だけの姿では、抵抗のしようもない。
普賢は孫空女からはずれた霊具を拾うと、小さな刃物を取り出した。
そして、孫空女の背中側から孫空女の着ているものを上から下まで切り裂きはじめた。
口惜しいが抵抗する方法がない。背中側にひんやりとした外気を感じた。
「や、やめろよ───」
「お前の股間から雌の匂いがしてきたぞ、孫女」
「……こ、殺すぞ、お前───」
「どうやって、殺すのだ。文字通り、そんな手も足もない状態で」
普賢は足を孫空女の身体の下に差し込んで、仰向けにひっくり返した。孫空女は、肘のない腕を普賢に向かって振り回した。
「おっと危ない───。前のときには、これで脛の骨を折られたのだったな。それで、その後、付け根まで切断したんだった……。ちょっと、“時”の修正が必要か……」
普賢の脚はさっと避けられた。
前の時とは、どういう意味だ───?
孫空女は、懸命に考えるのだが、どうしても普賢のことを思い出せない。
注意深く近づく普賢が孫空女の口の中に、液体の入った瓶を押し込んだ。
二の腕をばたつかせてそれを避けようとするが、うまくいかない。その液体は少しずつ体内に入っていく。
やっと口から瓶が外され、孫空女は咳込んだ。胃の中に熱いものが沸き起こる。
そして、気持ちが悪い。
なにを飲まされたのか───?
「媚薬や弛緩剤のたぐいではない……。そんな便利なものがあればいいのだがな。残念ながらこの館にはない。いまのは、ただの酒に混ぜた眠り薬だ」
「眠り薬?」
「お前というじゃじゃ馬は、少し弱らせないと、危なくて拘束もできん」
「ふ、ふざけるな───」
「薬が効いてくるまでに、もう少しあるか……」
普賢は、孫空女から少し離れた場所に椅子を持ってきて座った。
「お前は何者だ? どこであたしと会った?」
「いや、さっき初めて会ったはずだ。お前もそう思ったろう、孫女?」
「そう呼ぶなと言ってんだろうっ───」
「しかし、お前がそう呼んでくれと言ったのだぞ」
「お、お前、さっきから馬鹿にしているだろう?」
初めて会ったということを認めておきながら、孫空女と何度も会ったようなことを言う。
「馬鹿になどせん。お前は、私の妻だからな」
「妻?」
「そうだ。お前は、私の妻になる」
「冗談を言ってんじゃないよ───」
この男は頭がおかしいに違いない。
「しかし、そうなる。時間はかかるが、結局、お前は俺に屈服する。“孫女”と呼んで欲しいと最初に言ったのはお前だ」
「お前、馬鹿だろう?」
「私がお前の夫だということを信じないのか?」
「信じるもなにも、結婚なんかしたことはない」
「わかっている。だが、これからするのだ」
「しないね」
「する───。お前は、私に屈服する」
「するわけないだろう。この馬鹿───。いい加減に手と足を戻せよ。いったい、なにをやったんだよ」
「時を戻した……。かつて、過去に戻して、手足を切断したことがある。その時間に戻した。この事件は特別なのだ。特別な措置をして、そのときの状態がお前に反映されるようにしている。だが、時を移動すれば、元に戻る……」
「時を戻る? 進める?」
わけがわからない。
「ここは“時の館”だ。自由自在に時を移動する館……。だが、呪われた館……。私たち、四人は、もう無限の時間をここですごしている。死ぬこともなしに……」
普賢が言った。だんだん、身体から力が抜けていく気がする。眠り薬が効き出したのだろうか。
「“時の館”? なんだい、それは?」
「いつもそうだな。同じことを何度も説明させる。だから、ここは、時間を自由に行き来する館ということだ……。そういうことだ……。そして、私たち四人の父子は、時を自由にする代償として、この館に縛られている」
「はあ?」
時間を自由に行き来する?
やっぱりわからない。
「孫女、お前は、最初にこの館を訪れた時と、いまここにいる時とどのくらい、時間が離れていると思っているのだ?」
「時間が離れている? ご主人様たちと一緒に、この館の入口までやってきて、それで、お前に言われて馬を置いて戻ってきた。それだけだ。半刻(約三十分)もかかっていないよ」
「違う。お前は、さっき、勝手口からこの館に入った時に、時間をさかのぼって、百年前の時間に戻った。客間に誰もいなかったのはそのためだ。宝玄仙たちが、この客間にやってくるのは、百年後だからな。前に百年前に連れて行ったとき、この時間の中では、お前は俺に手足を失わせる施術をさせた。お前の屈服の役には立たなかったが、自由を奪うには最適だ。それ以来、便利に利用させてもらっている」
「百年前?」
孫空女は怒鳴った。
だが、その声は自分でも驚くほどに力がなかった。
眠り薬が効いてきたのだと思った。
そして、急に身体中がだるくなった。
しかし、眠ってしまえば、どうなるか想像はつく。
眠るわけにはいかない。
「早く眠れ───。寝たら元の時間に戻してやる。もちろん、頑丈な鎖で拘束しておく。お前は、本当に乱暴で叶わん。最初のときには、油断したために『如意棒』とやらで、屋敷中を壊されたからな」
「さっきから、“最初のとき”とか“また”とか……。あたしは、以前もお前と会っているのか?」
「会っている。何度もな。残念ながら、その都度、お前たちは逃げ出してしまった。しかし、逃亡をしても、うまい具合に時間が遡って、次にもお前たちを捉える機会を得ることができている。だから、だんだんとこちらもどうすればいいかがわかってきた。なぜ、お前たちが逃げてしまうのかも」
「時間を遡るとか───何度も繰り返すとか、どういうことだよ?」
「信じられないのか、孫女? 無理はないがな。だが、何度も繰り返している時間の繰り返しの中で、前回、やっとお前は私と結婚した。ただ、お前たちは、時間を遡って逃げたので、記憶が消えているだけだ。いや、記憶が消えているというのは正確ではないな。経験したのだが、時間を遡ったために、経験していないことになったのだ。だが、私は、前回のお前との結婚生活のことをよく覚えている。強い心と厚い情───そして、淫靡さ。妻としても女としても、最高だと思うぞ」
「お、おぞましいこと……を言うな……」
睡魔が襲ってくる。
もう限界だ……。
孫空女は懸命に意識を保とうした。
「わかっている……。前回もそうだった。お前を屈服させるには時間がかかる。屈服したと思っても、実は心は折れていない。お前の心を折るには時間がかかる」
「し、死ね───」
そろそろ限界だ。意識が遠くなる。
「だが、時間だけはある。それだけは無限にな。だが、俺も時間はかけたくはない。面倒くさいからな。今回は、別の方法を準備している」
「……やっぱり、お前は道術遣いなのか……? そ、それとも……よ、妖魔か……?」
「どちらでもない。我らは囚われた人間だ。時間を支配し、永遠の生を得た代償として、この館に縛られた───」
「地に……縛られた……?」
「……私たちが、この呪縛から逃れるためには……」
もう、なにも聞こえない。
孫空女は、襲い掛かる睡魔に抵抗する力を失った。