背中の玉斧がだんだんと弱っていくのを孫空女はしっかりと感じ続けていた。
「あんたが、魔王軍の将校だったなんてね……。驚きだよ……」
孫空女は山を踏破しながら玉斧に声をかける。
かなり険しい山岳道を使って
この一帯は南北に、
そこに向かっているのだ。
玉斧の言葉によれば、もうすぐその道を宝玄仙を移送する一隊が通過するらしい。
その指揮をするのは
それを襲って宝玄仙を救出する。
そのために、孫空女は山を登り、また下り、ひたすらに東に向かっている。
宝玄仙を助け出すことができれば、瀕死に陥っている玉斧も、あっという間に宝玄仙の『治療術』で癒せるだろう。
だが、それが叶わなければ、玉斧は死ぬ。
それは孫空女の予感が告げている。
孫空女を救うために負った傷で玉斧が死ぬ……。
それは、耐えられない苦痛を孫空女にもたらしている。
玉斧はおそらく死にかけている。
それは間違いない……。
そして、この傷は、孫空女を救うために負ったものだ。
なんとか助けたい。
だから、孫空女は懸命に玉斧に語り続けた。
話をし続けることで、玉斧の意識をしっかりと保たせようとしていた。
玉斧は返事をするときもあれば、しないときもある。
どちらでもいいのだ。
懸命に孫空女は、玉斧に語り続けた。
返事が戻って来なくても、戻ってきてもいい。
ただ、ひたすらに語りかけた。
いまは玉斧の気力だけが頼りなのだ。
孫空女が背中の玉斧に話しかけるのは、玉斧の気持ちを保たせるためだけの行為だ。
しかし、その会話の中で、孫空女が知ったのは、玉斧が実は青獅子軍に属するれっきとした将校だということだ。
玉斧の道術のひとつは、人間に姿をやつすことができることであり、その能力を生かしたのが、諜報や特殊工作を担う将校という役割だったそうだ。
それで、六道という亜人盗賊の部下として紛れ込み、宝玄仙が獅駝の城郭に近づくのを待っていたらしいのだ。
玉斧の任務は、青獅子軍が捕えようとしていた宝玄仙の身柄を確認することと、あわよくば、宝玄仙を
だが、このお調子者の玉斧は、なぜか物好きにも孫空女にひと目惚れしたらしく、自分の任務を一切捨て、その場で出奔して孫空女をなんとか助け出そうと、ひそかに動いてくれていたらしい。
孫空女の得物の『如意棒』を青獅子軍の軍営に忍び込んで盗んだのもその一環だし、玄魔軍がどうやって孫空女や宝玄仙を金凰宮に移送しようとしているかという情報もよく握っていた。
もともと、そういう諜報を扱うのが玉斧の専門なのだ。
孫空女が金凰宮に移送される時期や経路、その護送隊の編成などの情報を得るのは、大して難しいことではなかったようだ。
「……なあ、やっぱり、どこかの亜人族の村かどこかで、傷を診てもらった方がいいんじゃないかい、玉斧? このまま放っておけば危ないということはわかっているんだろう? あたしじゃあ、駄目だけど、『治療術』の道術を扱える者がいれば、傷を癒しながら矢を抜くことができると思うんだよねえ……。ねえ、亜人族の村に向かおうよ」
孫空女は険しい山道を進みながら言った。
夜闇がだんだんと明けようとしていた。夜目の利く孫空女にとっては、闇の中で山を進むのは不可能事ではなかったが、やはり、明るくなれば、それだけ楽になる。
瀕死の玉斧を背負って、なるべくその身体を揺らさないように歩くとなれば、やってくる陽の光が有難い。
「……だ、駄目だ……。討ちもらした護送隊の連中が……お前も……俺についても……すでに近隣の村々に手配書を回しているはずだ……。そういうことは、玄魔隊はしっかりとしている……。亜人族の村は避けろ……。絶対に、俺たちの面は割れている……」
玉斧が応じた。
ずっと話しかけているのだが、玉斧の返事があったのは久しぶりだ。
少しは気力が戻ってきたのだろう。
だが、孫空女はそれがだんだんと命が衰弱していく過程だということも知っている。
このままなにもしなければ、玉斧の意識は、強くなったり、弱くなったりを繰り返しながら、全体としては、衰弱する方向に進んでいくことになるに違いない。
そうやって最終的に意識を保つことができなくなったとき、玉斧は眠りから覚めることができなくなるだろう。
「わかったよ……。だったら、あたしのご主人様を救い出すまで、頑張って生き続けると思い続けな──。あたしのご主人様の道術は凄いんだよ。本当に凄いんだ。瀕死の怪我なんか、あっという間に治してしまうに決まっている。いつだったか、あたしが敵に捕らえられて拷問されて、完全に発狂してしまったときだって、頭の線を繋ぎ治してくれて救ってくれたんだよ……。だから、そんな矢傷なんて、ご主人様からすれば、負傷のうちには入らないさ……」
「わ、わかった、わかった……。ご主人様はすごいんだろう。もう何回目だよ……」
背中の玉斧が笑った気がした。
泣きそうになってしまうくらいに弱々しい笑いだ。
弱っている……。
孫空女にはそれが気になる。
「そ、そうだよ。すごいんだ──。それよりも、あんたの知っていることは全部教えてよね。ご主人様を助けることが、あんたが生き延びられることに繋がるんだ。それまでしっかりと気を保つんだよ」
「……お、教えてるよ、孫空女……。か、必ず、玄魔将軍は……獅駝の山岳の一番東側の山岳道を数日後に通る……。その情報を得たんだ……」
「ね、ねえ……つらければ、あたしの話を聞くだけでもいいんだよ、玉斧……。だけど、あたしの話す言葉は聞いてよね。生きると思い続けるんだよ」
「き、聞いているさ……。お、俺は、お前にこうやって触れたくて……、お前と語り合いたくて……青獅子軍を抜けて……お前を助けることにしたんだ……。まあ、大して未練のある軍人生活じゃなかったしな……」
玉斧は自嘲気味に笑った。
そして、再び静かになった。
「ねえ、玉斧?」
玉斧からの返事はない。
眠ったのだろう。
孫空女は玉斧の弱い寝息を聞きながら、それでも時折、玉斧に語りかけるという行為を続けた。
とにかく、意識をしっかりと保たせることしかいまはできることはない。
なんとか宝玄仙を救出するまで、玉斧をもたせるのだ──。
孫空女は玉斧の大きな身体を背負って、ひたすらに山道を進み続けた。
街道を歩く旅ではない。
ほとんどが間道で、ときにはけもの道のような経路を片手で『如意棒』で払いながら進んだりもした。
山越えもひと晩でふたつした。
あと二日も歩けば、目的の街道に辿りつくだろうか。
それまで玉斧はもつか……?
死なせたくはない。
あんな風に孫空女を命懸けで救ってくれた玉斧の姿を思い出すと、なぜか心に切ないような気分が湧き起こる。
玉斧を背負っての山歩きは苦しいが、玉斧はもっと苦しいだろう。
あの恩を返せないうちに、死なれては堪らない……。
そう思う──。
孫空女は陽が昇ってからも歩き続けた。
水は死んだ護送兵から奪った水筒を持っている。
食べ物もある。
いまは孫空女は、自分の身体に縄で玉斧を縛りつけていた。
だから、少しの時間であれば、片手を空けることもできる。
孫空女は、片手で水筒の水や食べ物を口にして進み続けた。
「……み、水を……」
玉斧がそう言ったのは、陽が昇ってかなりの時間が経ってからだ。
「あ、ああ──水かい……。ちょ、ちょっと待って……」
孫空女は歩みを止めて、玉斧の身体をその場に横たえた。
傷を見る。
出血は薬草のお陰でほとんど止まっている。
いまは、はらわたを抉っている横腹の矢だけが問題だ。
はらわたを抉られてしまうと、もう傷薬などでは治らない。
孫空女はそれを知っている。
しかし、道術があれば別だ。
あの死者さえも蘇らせるのかと思うような宝玄仙の道術……。
あれがあれば……。
「腹の傷に水は禁物だ。あんたも、将校のひとりだったのなら、それくらい知ってるだろう、玉斧? 悪いけど、水は口を湿らせるだけだよ。腹の傷が癒えたら、腹が膨れるまで飲めばいいよ」
孫空女は布に水筒の水を湿らせて口に含ませようとした。
「……く、口移しで頼むぜ……。助けてやった恩だ……」
すると玉斧がにやりと口元を綻ばせた。
「あ、甘えるんじゃないよ──。お前──」
孫空女は怒鳴った。なぜか自分の顔が火照るのがわかった。
それを真正面に顔を向けている玉斧に見られたかと思うと、いたたまれない気持ちになる。
だが、不思議にも腹立たしい気持ちにはならない。
それよりも当惑した。
玉斧の物言いに当惑したのではない。
なぜか激しく動揺している自分の気持ちに当惑したのだ。
「い、いいじゃねえか……孫空女……。へへ……」
玉斧が笑った。
死に瀕している玉斧のその屈託のない表情に、孫空女はなぜかたじろぎのようなものを感じていた。
孫空女は大きく息を吐いた。
「なあ、あんた……。あんたの気持ちは、それはそれで嬉しいけど、あたしは、あんたの女房なんかにはなれないよ……。あたしはあんたの思っているような女じゃない。他人の女房になるような女じゃないんだよ──。正直に言えば、綺麗な身体じゃあないし……、
「そ、それがどうした……。俺だって、人殺しはたくさんだ……。人間相手も……亜人相手もな……」
「そ、それに、助けられる前まで、玄魔たちの部下たちに、裸で試合をさせられていたんだぞ。手足の力を失わせられて、負けたら犯されるんだ。そして、たくさん犯された──。しかも、そんなことなんて、ちっとも気にならないくらいに、これまでにも同じような目に遭ってきた……。ねえ、がっかりさせて悪いけどね……。あたしは、そういう汚れた女なんだ……。なあ、あんたの思うような女じゃないよ、あたしは──」
孫空女は一気にまくしたてた。
「お、俺が亜人だから女房にはなれねえとは言わないんだな……。汚れた女だなんて、そんなわけねえじゃねえか……。女がどうやったら、汚れるのか教えて欲しいものだぜ……。それよりも、ますます、気に入ったぜ……。だ、だけど、いまは、女房になれと言ってるわけじゃねえ……。水を口移しで飲ませて欲しいと言っているだけだ……」
玉斧が真っ直ぐに孫空女を見あげている。
孫空女はなんだか、その視線に耐えるのがつらい気持ちになり、ふと眼を逸らせた。
その視界に横に置いている水筒が入る。
孫空女は嘆息した。
思い定めて、ほんの少しだけ水筒の水を口に含む。
そのまま寝そべっている玉斧の唇に自分の唇を重ねた。
ゆっくりと口に含んだ水を玉斧の口に入れていく。
するといきなり玉斧の舌が強引に孫空女の口の中に割り込んできて、孫空女の舌に荒々しく舌先を絡みあわせてきた。
一瞬、口を離そうと思ったが、なんとなくそれくらいの悪戯はしてくるのではないかという予想もあった。
たかが口づけくらいのことだし、孫空女はそのまま、玉斧が孫空女の口中に舌先を這わせるままにさせた。
すると、孫空女が抵抗しないことをいいことに、玉斧の舌は一層ずうずうしく、孫空女の口の中を動き回った。
玉斧の舌が口の上下を舌で刺激しながら、孫空女の舌を舐め尽くすように強く吸いあげてもくる。
全身を痺れさせるような感触が身体に走る。
しばらくのあいだ、孫空女は、そうやって玉斧の熱い口づけを受け入れた、
「ちょ、調子に乗んじゃないよ──」
やっと玉斧が孫空女の口を解放したとき、
孫空女は全身から力が抜けたような感じになり、そのことがとても恥ずかしくなって声をあげた。
「ははは……。だが、満更でもなかったようじゃねえかよ……。気持ちよさそうだったぜ、孫空女」
玉斧が悪戯っぽく片目をつぶった。
「じょ、冗談言うんじゃないよ……。と、とにかく、これでわかったろう──。あたしは、お前が考えるような貞節な女じゃないんだ。ご主人様に躾けられた淫女なんだよ。わかったら、あたしを女房にするなんて、くだらないことを言うのはやめな──」
「……な、なあに、ますます、気に入ったぜ……。見かけによらず、可愛らしい女なんだな。命を賭けてものにしようとした甲斐があったというものさ……。まあいいや。どうせ、こんな身体じゃあ、お前を女房にするなんてことは夢に終わりそうだ……。もう、思い残すことはねえよ……」
「お、お前、なに言って……」
孫空女は戸惑った。
急に、玉斧がにやけたような笑いを消して、真面目な顔になったからだ。
「……置いていきな──。俺が知っている情報は、全部、お前に教えた。俺がいなくても、関係ない──。おそらく、お前のご主人様とやらは、あの人間族の使う街道を数日後には通過するはずだ……。行って助けてきな……。俺の接吻を受け入れてくれただけで、俺は十分に満足したぜ……」
玉斧は言った。
その物言いに孫空女は、自分でもびっくりするくらいに気が動転した。
なぜ、そんなに不安な気持ちになるのかわからなかったが、とにかく、このまま玉斧が息を引き取るということに自分が耐えられるとは思わなかった。
「馬鹿を言うんじゃないよ、玉斧──。お前はご主人様のところに連れていくよ。そして、その傷を治してもらう。それで、貸し借りなしだよ──。それに、あたしのご主人様は変な人でね……。慎みとか貞操とかいうのを忘れて生まれてきたような人なんだ。あたしのご主人様だったら、面白がって、あたしとあんたが媾合えと命じるかもしれないよ。そうしたら、あたしはあんたに抱かれるさ。ご主人様の命令なら仕方ないもの……」
孫空女は言った。
玉斧の気力が萎えようとしている……。
それが本能で感じられた。
だから、少しでも玉斧の気力が保つようなことを口にしようと思った。
「……げ、玄魔隊の追補はしつこいぞ……。さ、さっきも言ったはずだが、近傍の亜人の村には、すぐに手配が回ったと思う……。ま、まずは、それから逃げ切ることだ……。そうでなければ、お前がご主人様を助けるなど絵空事だ……。い、いいから、俺を置いていけ……。俺はこのまま、休んでからどこかで傷の養生をする……。そ、そして、どこかに逃げるよ。へへ……、次に会うときまで、お、お前の礼は愉しみにしておくよ……」
「このまま置いていけるわけないだろ──。いい加減にしろよ──。お前ひとりくらい背負って、あたしはどこまでも逃げてやるよ──。だから、あたしの背中で耐えるんだよ──。聞いてるのかい、玉斧──」
「……お、俺を連れていけば……それだけ、遅れるだろう……。いつ、玄魔将軍が宝玄仙を連れて街道を南下するかわからんのだぞ……」
「う、うるさいなあ……。あたしはあんたを連れていく──。そう決めたんだ。もう少し、あたしの背中で頑張ってもらうよ。苦しいだろうけど、あたしは容赦しないよ」
孫空女は必死で言った。
こんなところに、置いていけば玉斧は確実に死ぬ。
玉斧自身もそれをわかっているはずだ。
周辺の亜人の村には頼れないのだ。
孫空女の背中に背負われながら玉斧は、孫空女とともに玉斧自身も魔王軍の移送隊を襲った裏切り者として、顔が割れていると何度も語っていた。
だから、玉斧が養生するところなど、この一帯にはないはずだ。
玉斧はこのまま死ぬ気だ。
それが孫空女にはわかるから、なおさら、ここに玉斧を捨てていくわけにはいかない。
「……見かけによらず、お前は馬鹿だな、孫空女……。俺を連れていっても、もう足手まといになるだけだぞ……。俺が知っていることは、全部さっき教えたんだ……。なんの縁もない亜人の男を助けるために、お前の命が危うくなるだけじゃなく、お前のご主人様を救出する時間まで無くなるんだぜ……」
「ば、馬鹿で結構だよ──。生憎と、あたしは馬鹿なんだよ。あたしは、あんたもご主人様も助けてみせるよ──。命懸けであたしを助けてくれた恩人をここで見捨てられないよ。あたしは馬鹿で十分だ」
「……ほ、本当に馬鹿な女だな……」
玉斧がぽつりと言った。
「ああ──、馬鹿なんだ、あたしは──」
孫空女もにっこりと笑いかける。
「……じゃあ、いまのうちに言っておくよ……。俺が死んだら、どこでもいいから、その場で土に埋めてくれ。俺たちの種族は土族といってな……。大地が俺たちの母親だ。死んで土に返る……。そして、また、新たな命になる……。それで十分さ……」
「死なせはしないと言ってるだろう──」
孫空女は怒鳴った。
生きるのを諦めたような玉斧の言葉に、今度は本当に腹がたった。
しかし、玉斧はそれ以上喋ろうとしなかった。
孫空女はもう一度、口に水を含んで玉斧の唇に水を少しだけ注いだ。
玉斧の弱々しい呼吸は感じた。
だが、玉斧の舌が孫空女の舌を襲うことは今度はなかった。
反応の消えた玉斧の唇から口を離す。
息はある……。
まだ……。
「死なせるもんかよ……」
返事をする者はいない……。
孫空女は、再び山を歩くために立ちあがった。