目的の街道に辿りつくまでどのくらいの時間がかかるのか見当がつかない。
あと一日か、二日か……。
それとも四日か……。
それまで
街道に辿りついたとしても、宝玄仙を救いだせるとは限らない。
また、最後に見た宝玄仙は、道術を封じられていて、すぐに玉斧に『治療術』を施すことができるような状況ではなかった。
山歩きをやめて、どこかの亜人の村に立ち寄って、医者に診せるべきじゃないだろうか。
少なくとも、道術による治療であれば、玉斧の衰弱はもち直す可能性が高い。
何度も考えた。
しかし、玉斧は、亜人の村には手配が回っているから近づくのは避けろと言う。
そう言われると、それも躊躇する。
だが、このままでは、玉斧はいずれ弱って死ぬだろう。
それよりも、危険だが『治療術』の道術が遣える者がいる亜人の村を探すべきじゃないか……。
死んではなにもならないのだ。
孫空女の思考はそこで再びもとに戻る。
結論は出ない……。
だけど、それで捕らえられることになっても、死ぬよりはましではないだろうか……。
もっとも、亜人の村など、どこに行けば見つかるかもよくわからないが……。
そんなことを繰り返し考えながら、孫空女は山道を玉斧を背負って歩き続けた。
語りかけても玉斧が返事をすることはほとんどなくなっていた。
だが、玉斧の呼吸はしっかりと感じる。
まだ、生きてくれている。
その日も夜に少し休んだだけで、朝になっても歩き続けた。
陽が少し高くなり始めた頃、急に道の状態がよくなり、ふたりの亜人に出くわした。農夫のような恰好をしていたので、すぐ近くに村があるのだろうと思った。
どうすべきか迷ったが、孫空女はなにも話さずに彼らとすれ違った。
向こうからも話しかけてくることもなく、そのまま離れた。
やがて、小さな山村に出た。
迷ったが、どこにも立ち寄ることなしに村を貫く道を突っ切り、反対側に出た。
すぐに道は再び細く険しくなった。
陽が高くなってきた頃、四方に不穏なものを感じた。
さっきの村からは少し距離がある。
周りは樹木に囲まれている狭い道だ。
すると、樹木と樹木のあいだから、さっきすれ違った男たちが出てきた。
いや、他にもいる。
全員に大小の角がある。
そして、前、後ろ、横から……。わらわらと樹木のあいだから湧くようにどんどんと亜人が出てくる。
全身が手に剣や鎌、あるいは棍棒を持っている。
ざっと見ただけで五十人は軽く超えているだろう。
おそらく、それ以上だ。
「ここまでだぜ、孫空女と玉斧──」
一番身体の大きな亜人が正面に出てきて言った。
手に大きな剣を持っている。
「なんであたしらの名を知っているんだい?」
「手配書が軍から回ってきているからだ。お前らを捕らえれば、軍から報奨金が出る。村全体が数年は楽にすごせる賞金だ……。それにすでに軍にも通報している。逃げることは無駄だぜ。大人しく降伏すれば、優しく扱ってやるぜ」
男が笑った。
「嫌だと言ったら?」
「優しくしてやることはできねえ。お前については、全員でまわし犯すことになるかもな。男は殺す。手配書では、お前は生きたまま捕らえなければならねえことになっているが、裏切り者の男は殺してもいいことになっている」
どうやら玉斧が言っていたことは正しかったようだ。
あんな小さな山村にまで軍の手配が回っているとしたら、この三魔王の領域で孫空女と玉斧が頼れる場所などないに違いない。
やはり、玉斧を助けるには、宝玄仙の救出に成功するしかないのだ。
「……そ、孫空女……」
不意に背の玉斧が言った。
玉斧が口を開いたのは久しぶりだ。
「な、なに?」
「……俺を置いていけ……」
「なに言ってんだい。いまさら……」
孫空女は腹がたった。
「……お、お前ひとりなら……逃げられる……俺は足手まといだ……」
「うるさいなあ……。ちょっと、黙ってくれるかい……。あんな連中、簡単にあしらってやるよ──」
孫空女は自分に縛りつけていた縄を解いて、玉斧を道の端に横たえた。
「相手してやってもいいけど、あたしは気がたっているよ。これだけが相手なら手加減はできない。あんたらを皆殺しにしなきゃならないと思う……。それでもやるかい?」
孫空女は耳の中から『如意棒』を出して大きくする。
周囲の男たちからどよめきがあがる。
「そんなものがなんでえ──。俺が叩き落としてやる──」
男が孫空女ににじり寄った。それが合図であるかのように、孫空女たちを囲んでいる輪が一斉に縮まった。
あの村の全員を動員してきたのではないだろうか。
そのとき、急に地面の土がその場に舞った。
なにが起きたのかすぐにはわからなかったが、孫空女を除く、全員の視界を塞ぐように、周辺の土が激しい土埃になって舞っている。
全員が顔を覆って、土を避けようとしている。
とっさに道術だと思った。
一瞬だけ玉斧を見た。
玉斧の術は、土や石を操る術だ。
孫空女の背中で何度もそう語っていた。
そして、駆けた──。
さっきの大男が孫空女の動きに気がついたときには、すでに孫空女は男の懐にいる。『如意棒』で喉を貫いた。
血を噴き出しながら、男が後ろに倒れていった。
そのまま三人、四人と首の骨を狙って『如意棒』を振り回す。
孫空女の周りで確実に男たちが死骸になって次々に倒れていく。
残った亜人の男たちが、悲鳴をあげて逃げ出した。
静かになった一帯に屍体となった男たちが地面に残るだけになった。
「玉斧──」
孫空女は玉斧に駆け寄った。
あんな傷で道術など遣って、大丈夫だったのだろうか……。
「……れ、霊気が戻らねえ……。こりゃあ……もう駄目かな……」
玉斧の顔はさらに蒼白になっている。
まるで死人そのもののようだ。
やはり、こんな傷で道術を遣うなど無理だったのだ。
「ば、馬鹿──。あんな連中、あたしひとりで大丈夫だったんだよ──。無理するんじゃないよ──」
孫空女は怒鳴りあげた。
無理をして命を削るような真似をした。
それに猛烈に腹がたったのだ。
「……そ、そりゃあ、悪かったな……。へへ……、お、お前にいいところ……見せたくてな……。も、もしかしたら……ほんの少しでも惚れてくれるんじゃないかと思ってな……」
玉斧はにっこりと微笑んだ。
「馬、馬鹿かい、お前──」
孫空女は叫んだ。
そして、自分でも信じられないようなことをした。
玉斧にしっかりと抱きついたのだ。
もちろん、瀕死の傷を負っている玉斧を力を入れて抱くことはできない。
でも、その代わり、自分の顔に玉斧の顔や胸を擦りつけるようにした。
「そ、孫空女──?」
玉斧が当惑したような声をあげた。
「……ああ、もう、なんだかわからないよ……。お前は馬鹿かい……。こんなあたしなんかを助けようとして、命を削るようなことはするんじゃないよ……。馬鹿かい……」
孫空女はそう言いながら、さらに玉斧の顔に自分の顔を擦りつけた。
そして、玉斧の唇に自分の唇を重ねた。
玉斧の唾液を吸う。
すると玉斧も孫空女の舌を吸い返してきた。
しばらくのあいだ、ふたりでそうやって、お互いの舌をむさぼり合った。
そして、孫空女は我に返ったようになって、玉斧の顔から自分の唇を離す。
「へへ、か……、感じちまうじゃねえかよ、孫空女……。そ、そんな熱い接吻されちまったらよう……」
玉斧が本当に嬉しそうに笑った。
なぜか、その笑顔に胸が痛くなる。
「に、逃げよう……。少しでも遠くに行かなきゃ……」
孫空女は激しい動悸を振り切りたくて立ちあがった。
そして、再び玉斧を背に乗せた。
「……し、死ぬんじゃないよ──。約束だよ。ご主人様を助けるまで、死なないでおくれよね」
孫空女はそう言うと、駆け足に近い速度で歩き出した。
登り坂になっている山道を進む。
とにかく少しでも遠くに……。
玉斧は大丈夫だろうか……。
そればかり考え続けた。
*
夢を見ていた……。
子供の頃の夢だ。
まだ、幼児の
だが、繭に包まれているはずなのに、なぜか母親に背負われているのだ。
だから、夢だと思った。
本当のところ、玉斧は母のことなど知らない。
玉斧に限らず、土族に生まれた者は、母親も父親も知ることはない。
それが土族だ。
土族の母親は、地面の中に幼体の入った十数個の繭を一度に産み落とす。
土族の母親としての役割はそれで終わりだ。
産み落とした繭に母体が関わることはない。
そして、幼体は成長を遂げるまで十年に近い時間を土に埋まったままその繭の中ですごす。
繭と土に守られて成長した子体は、育つために必要な霊気と栄養を繭の力によって手に入れながら成長する。
そうやって、ある時期に同時に産み落とされた兄弟の入っている繭とともに一斉に繭ごと土の中から外に出される。
そして、繭が破れて、初めて、地上の世界に立つことになる。
それからは、一緒に生まれた兄弟で成体になるまで協力して生きる。
だから、土族には親はいない。
そんな玉斧に母親に背負われている記憶があるわけがない。
夢ですらありえないのだ。
しかし、確かに玉斧はまどろみの中で母親に背負われていた。
それで、気がついた。
背負われているのは母親にではなく、孫空女にだ。
自分は孫空女に背負われて、三魔王軍の支配域である
土族は、あらゆる亜人の種族の中で、最も情に薄い種族だと言われている。
兄弟とは成体になるまでは共に生きるが、成体になると別れてばらばらになる。
そんなものだと思っていたし、別れを哀しいと感じなかった。それは土族に備わっている本能なのだ。
父親を知らないのは当然として、母親の姿さえ見ることなくこの世に出現し、成体になるという目的だけのために兄弟で生きるが、成体になればお互いに関わることもない。
玉斧自身も、成体になってから、共に成長した兄弟に遭ったことはないし、いまは、出遭ったとしても相手のことがわからないであろうと思う。
土族にとっては、それが当たり前であるし、そのこと自体を疑問に抱くことなどなかった。
ある時期までは──。
しかし、玉斧は、土や岩を支配できるという特殊能力を買われて、青獅子軍の将校になり、ほかの種族と接するようになると、自分たちのような生態は、数多い亜人の種族の中でも非常に珍しいものだと知った。
ほとんどの種族は、雄の個体と雌の個体が惹かれ合い、交合によって雌の胎内に新たな命を宿す。
そして、大抵は関わり合った個体同士が家族になり、産まれた幼体を育て、お互いを生涯の伴侶として慈しみ合いながら寿命をまっとうするのだ。
それを知ったとき、玉斧は、「家族」というものに憧れた。
「伴侶」という存在に焦がれた。
天寿を一緒にまっとうしたいと考える相手を見つけ、共に暮らし、共に生き、そして、共に歳を重ね、子を作り、育み、いつか同じ土に眠るということを夢見るようになった。
しかし、自分は土族だ。
伴侶を持ちたいというのは、ただの夢想であり、所詮は孤独に生きるという宿命を抱いている種族なのだと諦めていた。
実際のところ、性欲の解消として精を放つために異性に接することはあっても、性交という行為と無関係に生涯を共にしたいと望む相手に出遭うことなどなかった。
孫空女と出遭うまでは……。
ひと目惚れだった……。
孫空女を知って、彼女に抱いた感情──。
これこそが他種族がいう恋、あるいは愛という感情だと思った。
恋愛という経験のない玉斧には、それまでは、それがどういうものであるかがわからなかったが、その瞬間にこの感情がそうであることを確信した。
理由などない。
孫空女と出遭うことにより、玉斧は、愛という感情を理解したのだ。
土族である自分が、生涯の伴侶にしたいという気持ちを別の個体に抱いた。
玉斧はあのときの感動を忘れられない。
それは身震いするほどの激情だった。
孤独で他人を愛する能力が欠如しているとも言われている土族の自分が、他種族とはいえ、別の個体を愛することができたのだ。
そう思ったら言葉がどんどん出てきた。
孫空女を物にしたい。
それは自然な感情であり、孫空女を好きだという言葉が次々に口から出てきた。
一瞬だけだが、玉斧は有頂天になった。
愉しい……。
女を口説くということがこんなにも愉しいとは思わなかった。
結婚したい……。
ひと晩でいいから寝所を共にしたい。
知識でしかなかった女の口説き文句が、孫空女が相手であれば、いくらでも自然な言葉として溢れ出る。
孫空女は、口説くに値するほどの素晴らしい女傑だった。
しかし、それはすぐに恐怖に変わった。
自分は他人を愛する能力はないと言われている土族だ。
その土族の自分が異性を愛するなどという気持ちを抱くのは、一過性の病のようなもので、すぐにそんな気持ちなど消滅してしまうのではないか……。
そう思ったのだ……。
誰かを好きになるという感情を再び失うこと……。
玉斧はそれに恐怖した。
それと同じようなことを孫空女にも言われた。
孫空女が玉斧を愛するわけなどないと言われたのだ。
それも当然だと思った。
自分は土族で、もっとも愛情のない種族と呼ばれている。
そんな玉斧を孫空女が相手にする理由がない。
ならば、玉斧の感情が一過性のものではないことを孫空女に示す必要がある。なによりも、玉斧自身が自分がほかの種族と同じように異性を愛する資格があるかどうか知りたかった。
だから、初めて恋心を抱いた孫空女という人間族の女の前からすぐに去った。
しかし、そんなことなど杞憂にすぎないということがわかった。
孫空女という人間族の女を知ってから、玉斧の孫空女に対する気持ちは日に日に強くなる。
彼女のことを忘れるどころか、孫空女の存在が時間が経つにつれて強烈な感情に成長していったのだ。
玉斧は青獅子軍の諜報員の将校としての自分を捨てた。
そして、玉斧の孫空女を救出するための活動が始まった。
青獅子軍は、青獅子という強力な魔王の魔法力で強く支配されている軍だ。
一女囚とはいえ、その中から孫空女を救出するのは、簡単な仕事ではなかった。
しかし、やがて、その機会がやってきた。
孫空女が青獅子軍の強い支配から一時的に出されて、
しかも、その指揮をするのは、青獅子軍の中でも阿呆で有名な
玉斧はその移送の経路に罠を張って、孫空女が移送されてくるのを待ち構えた。
そして、それは成功した。
土族にしか扱えない土と岩を操る術で移送隊を襲うと、呆気なく移送隊を無力化することができた。
手違いで孫空女の閉じ込められていた檻車までも崖下に転落させてしまったが、結果的に孫空女を傷つけることなしに助けることができた。
孫空女と再会したときには、嬉しさに全身が震えた。
玉斧の想像の中で膨らんでいた孫空女の姿は、玉斧の想像を超えて美しく可憐だった。
だが、そのとき、石虎隊の生き残りが孫空女を狙って矢を放ったのだ。
玉斧はそれが当たり前であるかのように、身体を孫空女の前に差し入れて、孫空女が矢で傷つくのを防いだ。
その瞬間、玉斧の夢は成就していた。
玉斧の夢とは、異性を愛することだった。
でも、その種族の血によって、自分にはそんな能力などないかもしれないとも思っていた。
だが、その自分が孫空女を守るために、なんの躊躇もなく身体を投げ出せたのだ。
あの瞬間、玉斧は、自分の死よりも孫空女の死を恐怖した。
玉斧は、自分の気持ちが本当の恋愛感情だということを確信した。
嬉しかった。
それで死んでも後悔はなかった。
自分は他人を愛することができたのだ。
その感情と感動を抱いたまま、死にたいとさえ思った。
しかし、孫空女は玉斧をなぜか見捨てなかった。
どう理性的に考えても、孫空女が玉斧を連れていくことで得るものはないはずだ。
玉斧は馬鹿ではない。
確かに孫空女に懸想して口説いたが、それは孫空女を好きになった自分に酔っていたのであり、実際のところ、孫空女が行きずりの亜人にすぎない自分に好意的な感情を抱くわけがないということはわかっている。
孫空女を助けようと思ったのは、玉斧自身のためであり、自分が抱くことのできた感情を捨て去りたくなかったからだ。
だが、それは孫空女に関わりのないものであり、孫空女が玉斧を助けなければならないなんの理由もないはずだ。
それなのに、孫空女は矢を受けて瀕死の状態の玉斧を背負って、山道を歩き続けた。
それは鬼神ともいえるような行動だった。
何日も何日も、大きな玉斧の身体を背負って、夜にわずかに眠るだけで、ほぼ不眠不休で歩き続けているのだ。
その孫空女の行為は、玉斧の理解を超えていた。
自分のことは、この場に捨てていけ──。
何度もそう忠告した。
孫空女は確かに強い。
人間族の女としては、並外れた力もあるのだろう。
しかし、孫空女がやっていることは、力の強い亜人の男でさえも、できないような並外れた行為なのだ。
獅駝嶺の山嶺は厳しい。
それをほとんど不眠で歩いて、しかも、玉斧を背負って踏破しようというのだ。
眠るといっても、いつ、どこから襲われるかわからない緊張の中で休むのだ。
満足に休息できるわけがない。
孫空女は、玉斧を見捨てるべきだ。
心の底から思った。
だから、何度も言った。
孫空女が、自分のご主人様だという宝玄仙という女を助けたがっていることもわかっていた。
だから、玉斧が掴んだ宝玄仙の移送計画については、すぐにすべて教えた。
孫空女とすれば、それでもう玉斧など用済みのはずだ。
それなのに孫空女は玉斧を捨てない。
それどころか、玉斧が自分を置いていけという度に怒るようになった。
その怒りがあまりに激しいことに、玉斧も当惑した。
役に立たない自分を捨てろと忠告することが、なぜ、あれ程にも孫空女を怒らせるのかわからなかった。
「……それで、あたしは盗賊団の頭領になっちまったのさ。でも、頭領になったからには、連中を食わせなければならない……。食わせるためには、盗賊をやるしかない……。まあ、綺麗ごとだけ言っていても、連中を飢えさせるだけだからね……。まあ、そうこうしているうちに、ご主人様を襲ってしまって掴まったのさ……。それからのことは、さっき言った通りだよ……」
孫空女だ。
背負っている玉斧に対して、孫空女は一生懸命に話しかけてくれている。
それは、玉斧が返事をしても、しなくても続いた。
なにがそれほどまでにそうさせるのか、孫空女自身が口を開きたくないくらいに疲れているはずなのに、孫空女は玉斧を元気づけるかのように話しかけ続ける。
玉斧は、いま自分が夢のなかにいるのか、それとも、現実の中にいるのか、区別ができなくなっていた。
孫空女に背負われている。
それは単なる夢想のことなのか……。
それとも、本当に起こっていることなのか……。
「……それからさあ……」
孫空女が懸命に話しかけてくれている。
玉斧はそれを聞いていた。
返事や相槌をしたいが、その力がもう出ない。
孫空女の声……。
心地いい……。
「あれっ?」
急に孫空女が立ちどまった。
なにかまた起こったのだろうか……。
玉斧はわずかに顔をあげた。
しかし、いまは真夜中のようだ。
あまりに暗い視界で前は見えない。
「……玉斧……。辿りついたよ……。いまいましい山の森を抜けたみたいだ……。ここはあんたが言った街道そのものだ。間違いない──。やったよ。魔王領を横断しきったさ。目的の街道に出たんだ──。やったよ、玉斧──」
孫空女が嬉しそうに声をあげた。
本当に踏破しやがった……。
なんという女なのだろう……。
玉斧を背負ったまま、ついに歩ききったのだ。
「……そ、孫空女……」
玉斧は力を振り絞って声を出した。
声が出た。
それさえも驚きだ。
横断してしまえば、ここが目的地だ。
孫空女にこれ以上の苦労をさせないで済むかもしれない……。
不思議な安堵が玉斧にまた力を与えたのだろうか……。
「ぎょ、玉斧──。起きたかい──。よかった──。あたしたちはやったよ。抜けたんだよ。魔王領を抜けて目的の街道に着いたんだ──。ここまでくれば、人間族の里だって近くにあるかも……。よく頑張ったよ、玉斧──。頑張ったね」
頑張ったのはお前だ──。
俺なんか、背負われていただけだ……。
玉斧は孫空女の背で苦笑した。
「……と、とりあえず……俺をおろして休めよ……。ま、まだ夜じゃねえか……。だ、だから、寝ろ……。朝になるまで待てよ……。動くのはそれからにした方がいい……」
ここまで来れば、寝ているうちに亜人軍に襲われる危険はほとんどない。
身体だけではなく、緊張を解かせなければ、孫空女が本当に倒れてしまう。
玉斧はそれが心配だった。
「……そ、そうだね……。休もうか……。玉斧もずっと背負われていて疲れるよね……。と、とりあえず、ここで休もう……」
少しの躊躇のようなものの後、孫空女がそう言った。
玉斧は、自分の身体がそっと地面に横たえられるのを感じた。