519 赤い烈風
熟睡していたと思う。
しかし、孫空女は、眼が覚めた瞬間に自分の肌がひりつくのがわかった。
いや、逆だろう……。
肌がひりつくほどの緊張を感じたから眼が覚めた。
そういうことだと思う……。
地面に横たわって眠っていた孫空女の耳と肌に、遠くから街道を接近する騎馬の気配が伝わったのだ。
その気配が、孫空女を目覚めさせて闘気を漲らせたに違いない。
目が覚めたことを自覚したときには、すでに孫空女は街道の真ん中に『如意棒』を抜いて立っていた。
まだ、夜が明けたばかりのようだ。
ここは、
移送されてくるはずの宝玄仙を救出するためだ──。
下手な策を弄するのはやめた。
宝玄仙を金凰宮に移送するのは亜人将軍の
孫空女はそれを信じた。
だから、まだ、玄魔隊らしき集団が、この街道を通りすぎてはいないということがわかったとき、孫空女は街道そのもので連中を待ち受けることにしたのだ。
ここで、宝玄仙を移送する玄魔を待ち受け、一生懸命に移送隊を蹴散らして、頑張って宝玄仙を助け出す──。
それが孫空女の策だ。
玄魔隊はここを通る──。
それをこの二日間、孫空女は一度も疑わなかった。
そして、いま……。
足の裏を通じて伝わってくる街道を揺らす振動は微かではあるが、間違いなく百に近い騎馬のものだ。
夜を徹して、夜道を急ぐ騎馬の集団が獅駝側から近づいている……。
この街道をそれだけのまとまった騎馬が通過するとすれば、それは玄魔隊以外にはありえない。
やはり、玉斧は正しかった──。
「余計なことは考えない……。ただ、突っ込み、檻車のようなものが見つかるまで、ただ駆ける……。そして、見つけたら、ただそれを壊して、ご主人様を救い出す……」
孫空女は自分自身に向かって呟いた。
やがて、その大きな騎馬の集団から数騎だけが分裂したのが、なんとなく地面の振動でわかった。
その数騎だけが速度をあげて近づいてくる。
眼を凝らすが、朝もやに隠れている山街道には、まだ、なにも見えない。
しかし、孫空女には、それが三騎ほどの騎馬だということは、すぐにわかった。
玄魔隊の斥候だろう。
後方から近づく本隊に先だって前を進み、罠や敵が潜んでいないかを探る役割の者たちだ。
この一帯は、この山街道沿いの中でも、もっとも狭隘になっている部分であり、待ち受けには持ってこいの場所だ。
だから、玄魔も斥候を出して、危険がないかを確かめたいと思ったのだろう。
相変わらず慎重な男だ──。
孫空女は思った。
獅駝の城郭で監禁され続けているあいだ、ずっと孫空女は、あのむっつり男に支配され、その部下たちにいたぶられ続けたのだ。あの臆病男の性格は、しっかりと把握している。
玄魔は、しつこいくらいに慎重で、絶対に危険は避ける。
危険がないような状況でも、慎重に策をたてて、可能性のある危機を未然に回避しようとする。
玄魔とはそういう男だ。
死んだ玉斧によれば、孫空女が獅駝の城郭から移送される少し前から、かなり不穏な事象が獅駝の城郭で続いていたらしい。
叛乱の兆候のようなものだ。
それを危険視した玄魔は、万が一にも、何者かが宝玄仙を奪おうとすることを考えて、あえて、自分たち亜人の領域ではなく、人間族の領域に近い街道を選ぼうとしていたらしい。
道術で移動する者が多い亜人族の街道は、あまり整備されておらず、少数の襲撃者に有利な隘路が多い。
それに比べれば、人間族の道は比較的整備されていて、待ち受けをされるような場所は数箇所に限定される。
女囚としての孫空女の移送も、後で護送される宝玄仙の移送経路を欺騙するために、宝玄仙の際で予定しているのと異なる魔王領側の経路が選ばれたようだ。
玉斧は、宝玄仙の移送経路は、必ずこっちだと断言した。
その通りだった。
孫空女の鋭敏な肌は、馬を走らせている三騎の斥候を見切っていたが、さらにずっと後方にいるようである大勢の騎馬から成る本隊の存在も感じていた。
この登り坂であれば、時間的な距離は、四半刻(約十五分)というところだろうか……?
駆けてくる斥候と比べれば、本隊はゆっくりと進んでいるようだ。
夜を徹して移動するほど急いでいるとしても、重い檻車と一緒であれば、速度はそれほどには出せないのだろう。
だから、玄魔隊はゆっくりと進むしかない。
孫空女は、後方の本隊に宝玄仙が一緒にいるのは間違いないと確信した。
見えた──。
やはり、三騎──。
亜人兵だ。
それを認めたときには、孫空女はまっしぐらに、その騎馬に向かって走っていた。
辺りには、まだもやが立ち込めていて視界が悪い。孫空女は、そのもやの中を走っている。
「な、なんだ──?」
亜人兵のひとりが、やっと孫空女の存在に気がついたようだ。
しかし、そのときには孫空女は跳躍していた。
「ふんっ」
一度声を放った。
『如意棒』が前面の騎兵の喉を突いた。悲鳴をあげながらその騎兵が後方に吹っ飛ばされる。
次の瞬間には、孫空女は乗り手のいなくなった馬に跨っている。
「こ、こいつ──」
ひとりが叫んだが、その瞬間に『如意棒』がその男の具足越しに腹を抉った。
その騎兵は声もなく気を失って、馬から滑り落ちていく。
さらにもうひと振りで、最後の騎兵も馬上で失神させた。
次は玄魔のいる本隊に向かって、一生懸命に戦って、頑張って宝玄仙を救出するだけだ。
「はっ」
一度馬の肚を蹴った。
馬が駆け出す。
『如意棒』を一度頭上で振る。
斥候と本隊を遮る者はないはずだ。
あったとしても蹴散らせばいい。
風になれ──。
風になって、ただ突き抜けろ──。
そして、宝玄仙のいる場所まで辿りつけ──。
もう、なにも考えなかった。
風のように一目散の玄魔隊に突入することしか考えていない。
やがて、玄魔隊の軍旗らしきものが、近づいてきた。
*
数日前、玄魔は、獅駝の城郭の城門の外の郊外で一日だけ待った。
なにかがあったときには、その場所を玄魔隊の集合地点にすると定めていたのだ。
しかし、あの人間族の叛乱から城郭を抜けて、玄魔と合流できた部下は、一千騎ほどにすぎなかった。
もともと玄魔隊は総勢で二千を超えていたのだ。
それがわずか半分になったことに玄魔は衝撃を受けた。
もっとも、集合地点に来なかった部下の全員が人間族に殺されたというわけではなさそうだ。
城郭の中央付近ではなく、城壁に近い軍営に駐屯していた玄魔隊は、ほかの隊とは異なり、かなりの人数が城門の外に逃亡することができた。
だが、
どうやら、それが、玄魔の予想をかなり下回る人数しか集合場所に集まらなかった理由のようだ。
仕方なく、玄魔はその人数だけで、亜人領に戻ることにした。
玄魔は、玄魔自身の道術を遣って、檻車とともに宝玄仙の身柄を城郭から連れ出すことに成功していた。
もともとは、宝玄仙を金凰宮に連れていくのが、玄魔の任務だったのだ。
玄魔にその命令をした青獅子は死んだが、その命令は生きていると思った。
無限の魔法石を産み出す宝玄仙の価値は玄魔も知っている。
その宝玄仙の身柄を金凰魔王に確実に引き渡すことこそが、玄魔の新たな役割と思った。
それにしても、突然に発生した人間族の叛乱はなんだったのだろうか……?
あの突然の騒乱の全容は玄魔も掴んでいない。
しかし、なにかが発生し、人間族が大叛乱を起こした。
そして、同時に、あの青獅子魔王までも暗殺されたらしいということもわかった。
情報を集めることによって明らかとなったのは、青獅子が狙われたのは、女侯爵の
青獅子は、人間族の美女であり、貴族である李媛を裸にして、犬のように四つん這いで歩かせて辱めるのが好きだった。
ほぼ、毎日のように、青獅子は、魔王宮にしていた李媛の屋敷から出て、一定の時間、城郭を連れ歩くと、また魔王宮に戻るという行為を続けていた。
玄魔は、それを危惧したものだ。
李媛という女をどう扱おうがそれはどうでもいい……。
だが、毎日の日課として、それを続けるというのを玄魔は心配したのだ。
もしも、青獅子の暗殺を企てる者がいれば、結界に守られた魔王宮から決まって同じ時間に外に出てくるその李媛の雌犬散歩の日課は、もっとも狙いやすい隙だ。
しかも、李媛をできるだけ辱めたい青獅子は、護衛隊で李媛の身柄が民衆の視線から隠れるのを嫌い、わずかな亜人兵だけを連れて、李媛を散歩させていたのだ。
玄魔は度々、それを諌めたが、青獅子は、歩いているあいだであっても、青獅子自身の結界は刻んでおり、どんな人間族の襲撃者が青獅子を狙おうとも、青獅子の身体に届くはずがないと豪語した。
青獅子の強力な結界は、確かに外から青獅子を殺めることを不可能にするだろうと玄魔も思ったので、それ以上の言葉を続けることはできなかった。
だが、青獅子は死んだ。
青獅子の暗殺に用いられたのは、あの
これも目撃者の情報によるものだが、いつものように李媛を散歩させている青獅子に、不意に大旋風がやってきて青獅子に近づいてきたようだ。
大旋風は、青獅子軍の総司令官であり、個人的な性癖を通じても青獅子と大旋風は仲が良かった。
その大旋風を青獅子が拒むわけがなく、青獅子は自分の結界の内側に大旋風を受け入れた。
その大旋風が突然に爆発した。
大旋風に密着されていた青獅子もそれを避けることなどできずに、一緒に木端微塵の肉片になったらしい。
玄魔が思うに、大旋風は身体のどこかに『炸裂砂』かなにかを隠していたに違いない。
さすがの青獅子も、結界の内側から大爆発の衝撃を受けてはひとたまりもなかったようだ。
それにしても、実際のところはなにが起こったのだろうか……?
青獅子の死因はわかったが、わからないのは大旋風が、その暗殺の道具に使われた経緯だ。
大旋風は自ら青獅子に話しかけながら、青獅子に抱きついたというから、大旋風が何者かに操られていたと考えるのが自然だ。
操りといえば、大旋風が生きた玩具にして遊んでいた
いずれにしても、玄魔が自分がやり遂げるべきと考えたのは、宝玄仙のことだ。
なんとかして、宝玄仙を金凰宮に無事に連れていくこと──。
誰がなんの目的で引き起こした騒乱なのか知らないが、その目的の大きなものが宝玄仙の身柄の強奪であることは十分に考えられる。
宝玄仙にはそれくらいの価値がある。
だから、宝玄仙の身柄を確実に金凰宮に送り届ける──。
それだけを考えることにした。
玄魔は、集まった玄魔隊の全体をふたつに分けた。
ひとつは副将の
彼らは、金凰宮に戻るふたつの経路のうち、魔王領を縦断する経路を進む。
九百の騎馬の集団は、かなり目立つ。
どんな敵が青獅子軍に襲いかかったのかわからないが、宝玄仙の身柄が目的だと考えれば、大勢の集団で移動するその九百に注目するはずだ。
そして、玄魔自身は、精鋭の百騎のみを率いて、すべての者の意表を突いて、人間族の領域に近い街道を進むことした。
その経路を使うことは、密かに玄魔は前から考えていたところであり、経路そのものについても、玄魔は熟知していた。
人間族も使う街道なので、道術を帯びている者が多い亜人と異なり、移動には自分の脚を使うしかない人間族は、亜人領に比べれば、よく道の整備をしている。
少数の襲撃の利点を生かせる隘路が多い魔王領の道に比べれば、山岳道といえども、人間族の街道はよく整備されていた。
危険な場所は、数箇所と踏んでいた。
その場所だけを気をつけて進めば、少数である分、人数の少ないこちら側の方が、速く金凰宮に辿りつける──。
玄魔はそう考えた。
事実、いまのところ、かなり順調な速度で一行は進んでいた。百騎の中心に置いている宝玄仙を監禁している檻車の歩みも順調だ。
あと一日──。
それだけ進めば、もう、どんな襲撃者だろうと手出しのできない地域に逃げ込める──。
玄魔は三日目となる行程を進んでいた。
かなりの登り坂が続く場所であり、峠に近い場所が比較的狭い場所になっている。
それから先は、しばらくは見晴らしのいい場所が続くから、峠を越えれば隊を休息させようと思っていた。
ただ、その隘路に派遣した三騎の斥候がまだ戻ってこない。
それが玄魔は少し気になっていた。
そのとき──。
夜が明け始めた薄明りを割って、なにか鮮やかなものが接近しているのが見えた。
一騎の騎馬だ。
最初は斥候が戻ったのかと思った。
馬の馬具が玄魔隊のものだからだ。
しかし、かなり視界が近づくにつれて、そうではないことがわかった。
女だ──。
赤くて長い髪が風で後方にたなびいている。
金色の棒を持っている──。
孫空女──?
玄魔が考えたのはその名だ。
そういえば、金凰宮に移送中の孫空女が逃亡した。
青獅子の死による混乱で失念していたが、その報せを聞いていたことを玄魔は思い出していた。
しかし、ただの一騎……。
隊の先頭近くにいる玄魔には、あの孫空女がなにをしようとしているか一瞬、理解することができなかった。
「玄魔──」
孫空女が疾走しながら叫んだ。
金の棒が昇ってきた朝陽を跳ねて赤く光った。
孫空女の憤怒の顔がはっきりと見えた。
「前衛、前に──。襲撃だ──」
玄魔は慌てて、それだけを叫んだ。
もう、孫空女は目の前だ──。
「孫空女、来い──」
思わず玄魔は声を出していた。
すると眼の前に孫空女の振る金色の棒があった。
自分の全身の毛が逆立つのがわかった。
両手に衝撃が走る。
孫空女の棒を受けとめた剣が空中に飛んでいるのがかろうじてわかった。
来る──。
逃げようがない──。
剣を失った玄魔は、孫空女の第二撃で自分の頭が割られるのを覚悟した。
しかし、次の瞬間、風のようなものを感じただけだった。
赤い烈風がただ過ぎていった。
そんな感じだ。
なにがどうなったのかわかなかった──。
玄魔の剣を弾き飛ばした孫空女が、玄魔には眼もくれずに、そのまま隊の中央目がけて駆け抜けていったと悟ったのは数瞬後だ。
「は、反転──」
すでに前衛が割られて、孫空女がずっと後ろに進んでいるのに気がついて玄魔は叫んだ。
馬の向きを変えたとき、遠くで部下の悲鳴が立て続けに起きたのを玄魔は聞いた。