微睡んでいたら朝になったようだ。
窓から射している朝の光で朱姫は気がついた。
朱姫は、床に横になっていた身体を起こした。
貞女と李姫を道術で送り返したのは、おそらく夜中だったと思う。
結局のところ、貞女が強く主張し、さらに李姫も同意したので、本当にふたりが裸で抱き合った状態のまま、道術で邸宅に転送した。
おそらく、大騒ぎになったかと思うが、
いまは、司政官という新しい仕事に取り組んでいて、傍目から眺めていても、李媛は気が張っているように感じるが、そのうちに、心に余裕が戻れば……。
いずれにしても、李媛も李姫も貞女も、魔王に捕らわれて性奴隷のように調教されるという苦痛を半月も受け続けたのだ。
そこから解放はされたが、その心を癒す期間はまだまだ必要だ。
しかし、李媛を含めた三人がお互いを支え合っていければ、その心の傷もすぐに癒えるに違いない。
朱姫は、荷の中にしまってあって干した魚を取り出した。
そのまま食べようか、一度火で炙り直してから食べるのか迷ったが、やっぱり火を通すことにした。その方がおいしいのだ。
朱姫はその干し魚を台所に持っていって、かまどに火をつけて焼き始めた。
すぐに魚のいい匂いが漂い始める。
朱姫は火を消して、適当な皿に魚を乗せて居間に戻った。
そのとき、突然にこの家の入口の戸が開いた。
「うわっ」
朱姫はあまりのことに、思わず叫んだ。
そこには、李媛が立っていた。
後ろに、軍装姿の若い男を連れている。道術師隊の将校用らしき帽子を被っている。
かなりの美男子だ。
一瞬で、その男が道術遣いだということがわかった。
しかし、道術遣いということはわかるのだが、男の持つ霊気の大きさが読めない。
つまり、それを隠している……。
どうやら、かなりの遣い手のようだ。
「あ、あら、李媛さん……。よくここがわかりましたね」
朱姫は慎重に言った。
同時に驚いてもいた。
この廃屋には、朱姫の結界がかかっているのだ。
そう簡単に入って来られるものではない。
それなのに、いま、李媛はなんの抵抗もなしに、玄関の戸を開いた。
つまりは、李媛の後ろにいるこの道術遣いは、それだけの術師ということになるのだろう。
なにしろ、朱姫は、自分の結界が破れたのに、李媛が入ってくる瞬間まで、そのことに気がつかなかったのだから……。
「昨夜は李姫と貞女がお世話になったらしいな。わらわからも、一応、お礼を言っておこうと思ってな」
李媛が言った。
その口調も表情も冷静だが、その内心は激しい怒りに溢れている。
朱姫は、李媛の心の感情を読むことでそれがわかった。
朱姫には昔からの特殊な力があり、相手の心を読むことはできないが、ぼんやりとした感情くらいは感じることができるのだ。
李媛の感情は純粋な怒りでいっぱいだった。
そして、大きな嫌悪感が存在している。
つまりは、朱姫に対する大きな嫌悪だ。
青獅子に捕らわれているときに、朱姫が半妖だと知ってから、その嫌悪の感情は李媛に芽生えていた。
しかし、それはほかの感情に紛れて、小さく隠されたものでしかなかった。
だが、いま、この瞬間、李媛の心の朱姫に対する嫌悪の心は、前と比べものにならないくらいに大きなものに変わっている。
「お気遣いなく、司政官閣下……。あたしは、もう、城郭を去ります。二度とお会いすることもないかもしれませんが、ご機嫌にどうぞ」
朱姫は立ちあがった。
しかし、相変わらず、李媛の感情は、怒りの感情でいっぱいだ。
どう考えても、このままでは危険な気がする。
なにしろ、朱姫の『結界術』ほどの霊気をあっさりと無効にしておいて、それを気づかせもしないくらいの道術遣いが後ろにいるのだ。
朱姫は、自分の注意を李媛からその後ろの道術遣いに向けた。
だが、そいつからは、なんの感情も読めない。
心を閉ざしている。
また、やはり朱姫の能力でも、どうしても、その男から霊気を感じることができない。
自分の霊気を他者に隠す技も持っているようだ。
だが、朱姫の結界をなんなく無効にできるということは、道術遣いとしては、朱姫とは格が違うということになりそうだ。
朱姫は、荷を引き寄せて、抱えようとした。
「待ちゃれ、朱姫──。食事の途中であったのではないのか? 苦しゅうない。食べるがよい。わらわに構わずともよい。ただ、話がしたいだけだからな……。話は、そなたが食事をしながらでもできるしのう」
李媛が言った。李媛は相変わらず、戸の前で立ったままだ。
外に出るには、そこをどいてもらわなければならないが、なんとなく、そんな雰囲気ではない。
まあいい……。
いざとなれば、『移動術』がある。
念のために、ここから城郭外に繋げておいた『移動術』の結界がある。
そこまで跳躍してしまえばいい。
しかし、その背後の道術遣いが気になる。
こいつは、危険な匂いがする。
その眼の前で道術を遣うのはなんとなく躊躇われる。
たとえば、『移動術』を防ぐには、『逆結界』という道術がある。
こういう建物の四隅から複数の道術遣いが、結界を上から張って、朱姫のような道術遣いが、道術で逃亡するのを防ぐという道術だ。
だが、その『逆結界』には、複数の道術遣いが必要であり、通常は、力の強い道術遣いが四人は必要と言われている。
眼の前にいるのは、ひとりだから、その術は遣えないはずだ。
「食事は歩きながらします、閣下──。あたしは、急ぐんです──。ご主人様たちが、亜人軍に捕らわれたままなんです。それをなんとかして助けないと……」
朱姫は言った。
この三日間の情報収集で、孫空女と宝玄仙は金凰宮という場所に、沙那は白象宮という場所に連れていかれたこともわかった。
それぞれの場所も調べた。
亜人たちの棲む領域になるが、半妖の朱姫なら青獅子に捕らわれていたことさえ隠し通すことに成功すれば、怪しまれずに近づけると思う。
とにかく、彼女たちが捕まっている場所に接触して、どういう状況なのか情報を集める。
それからだろう……。
いずれにしても、朱姫は、まずは、白象宮に向かうと決めていた。
沙那さえ救い出すことに成功すれば、あとはなんとかなる気がする。
「急ぐのであれば、なぜ、出立を一日伸ばしたのじゃ? わらわが、先日、そなたに申し渡した期限は昨日までだったはずじゃ。昨日のうちまでに去らねば、法に基づいて、そなたを捕らえるかもしれんと申したはずじゃ──」
「いえ、だから、すぐに出立しようと……」
「黙れ──。それにも関わらず、そなたは、一日出立を先延ばしして、李姫や貞女の面倒を看たのじゃな──。昨夜、あのふたりは、とんでもない姿で戻って来たぞ。そして、わらわに、ふたりは愛し合おうておるとか堂々と主張しおった……。それで、頭を抱えておるのだ。だが、あのふたりが、そんな風にわらわに主張するのは、そなたに関係があるのであろう?」
どうやら、李媛の怒りの原因は、その辺りにあるようだ。
「どうして、あたしが絡んでいると思うのですか? ふたりがなにか言いましたか?」
朱姫はとぼけた。
「黙れ、黙れ──。わらわを馬鹿にするでないわ──」
李媛の表情が一変した。
険しい顔で朱姫を睨みつけた。
「──昨日、邸宅に道術を遣える何者かが入り込んで李姫をさらい、ついでに、貞女もどこかに連れていったのはわかっておる。ふたりとも、無事に帰っては来たが、司政官であるわらわの邸宅から娘を連れ出すなど、立派な犯罪であるぞ──。ああ、確かに、あのふたりは、お前に会っていたとも、お前に連れ出されたともひと言も喋っておらんわ──。しかし、わらわを馬鹿だと思わんことだな」
「馬鹿だなんて……」
すごい剣幕だ。
朱姫はたじろいでしまった。
「お前のことは、三日前からひそかに見張らせておったのだ。この廃屋に隠れていることも、ずっと知っておった。ただ、三日のうちに立ち去れば、半妖であろうとも、黙って立ち去らせるつもりであった──。だが、見張りの者の言葉によれば、随分と面白い恰好を李姫にさせて、この建物に連れ込んだらしいのう──」
李媛が凄い形相で怒鳴り声をあげた。
どうやら、李姫を裸で連れ歩いて、あれこれと羞恥責めに遭わせたのを見られていたようだ。
自分に見張りがついていることにはまったく気がつかなかった。
朱姫は内心で舌打ちした。
大事な娘の李姫をそんな目に遭わせられたと知れば、李媛の怒りも、もっともなのかもしれない。
それに加えて、李姫と貞女が、開き直ったようにふたりが百合の関係であることと、これからもその関係を続けることを李媛に告げたのだ。
李媛は混乱して、その怒りを朱姫にぶつけにきたというところだろう。
「り、李媛さんには、説明しても、納得してもらえないかもしれませんけど、あれは、ああいう遊びなんですよ……。まあ、一種の倒錯した性愛のかたちなんです。あたしも李姫も……いえ、李姫さんも合意のうえでやっていることでありまして……」
「やまかしい、半妖──。半妖風情がわらわの娘に近づくなと申し渡したであろうが──。もう、容赦はせぬ──。亜人も、半妖も、わらわの城郭には、もう一歩も足を踏み入らせぬ──。法に基づいて、お前を捕縛する。観念せよ、朱姫──」
李媛が叫んだ。
そして、さっと道術遣いの男の後ろに退がった。
朱姫は、『移動術』を心で唱えた。
自分の身体が跳躍するのを感じた。
次の瞬間、強い力が朱姫を襲った。
なにが起こったのかわからなかった。
身体の下に床がある。
もの凄い力で身体を押し潰されている。
「な、なに?」
朱姫がもがいた。
城郭の外に跳躍したはずだが、朱姫はさっきまでいた床の上になにかの力で押し潰されていた。
顔の前に李媛の足がある。
どうやら、『移動術』の跳躍の途中で、道術によって捕えられたようだ。
逆結界──?
とっさに思った。
しかし、『逆結界』という術は、ひとりでは完成しないはずなのに……。
「捕らえよ──。道術封じの枷を全身に装着してしまえ──」
ずっと黙っていた道術遣いが言った。
朱姫は床に潰された顔をあげた。
女の声──?
ずっと若い男だと思っていたが、実はその道術遣いは若い女だったようだ。
すぐに、わらわらと十人ほどの集団が家に駆け込んできた。
「は、離してよ──」
朱姫は暴れようとした。
しかし、大きな霊気が朱姫の身体を床に押さえつけている。
いま、道術を遣って朱姫を拘束しているのは、目の前の道術遣いの女のようだ。
家に飛び込んできた十人が朱姫の身体を手で押さえつける。
朱姫には、この十人がすべて道術遣いだということがわかった。
なんてことはない。
李媛が連れてきたのは、道術遣いの女ひとりではなくて、道術師隊の小隊だったのだ。
そういえば、情報によると、今日には、王軍から獅駝の城郭の統治を支援するために、道術師隊の先発隊が到着することになっていたはずだ。
それが少し早く到着したということか……。
朱姫は、こうなったら、『獣人』の道術で逃げようとした。
だが身体に、道術封じの枷をかけられるのが早かった。
十人くらいの道術師たちは、強い霊気に押しつけられている朱姫の両腕を背中に回させて、道術を封じる手枷を手首に装着させてしまった。
同じものが足首にもかけられる。
両方とも、枷と枷を繋ぐ短い鎖がついていて、手足の自由を奪われてしまった。
「
朱姫に枷を装着した道術師のひとりが言った。
「いや……」
一丈青と呼ばれた女の道術師隊の将校が朱姫の首輪に手を伸ばして、首を傾げた。
この女がやっぱり隊長なのだ。
一丈青が道術を遣ったことで、この女の持つ霊気の大きさがわかった。
とてつもない霊気だ。
しかも、この女だけが別格に霊気が強い──。
それに比べれば、ほかの十人は雑魚だ。
「……いや、どうやら、この首輪は霊具のようだ。強い霊気を集める能力があるようだな。しかも、小さな霊気をどこかに流し続けている。どういう霊具なのかはわからないが、とりあえず、霊気の流れだけは遮断しておくか……」
一丈青が朱姫の前に屈み、朱姫が嵌めている首輪に手をかざした。
一丈青が首輪に大きな霊気を注ぐのがわかった。
その一丈青の表情は不気味なくらいに無表情だ。
「いや、これは駄目だな……。この霊気を集める力だけは、私の力でも停止させるのは無理のようだ。首輪を外すこともできそうにない……。仕方がない──。このまま連れていこう──。首輪はそのままでいい。その代わりの強力な道術封じを装着させる。立たせろ──」
一丈青は身体を起こして首を横に振った。
朱姫の首輪は、宝玄仙の霊具だ。
その効果のひとつは、朱姫の身体に植え付けられているたちの悪い寄生虫の活動を抑えるために必要な霊気を集めるというものであり、もうひとつの効果は、霊気を発信して朱姫がどこにいても、宝玄仙が追いかけて来ることを可能にするというものだ。
霊気を発信する力を無効にされたということは、その追跡機能を遮断されたのだろう。
一方で、霊気を集める力は、一丈青には停止できなかった。
だから、そのままだろう。
とりあえず、寄生虫が霊気不足によって活性化して、朱姫がだんだんと獣になっていくことは避けられそうだ。
いずれにしても、宝玄仙の霊具は、簡単にはこれが霊具であることが気づけないように細工をしてあったはずだ。
それを一発で見抜くというのは、それだけでも、この一丈青という女道術遣いが、並々ならぬ道術遣いであるという証拠だ。
朱姫は、手枷と足枷をつけられたまま、その場に抱えて立たされた。
「な、なによ──。あ、あたしがなにをしたというのよ──。もう、城郭から出て行くと言っているでしょう──。こんなことをしなくても、出て行くわよ」
朱姫は両脇を道術師隊の兵に押さえつけられたまま、離れた位置から、満足そうに微笑んでいる李媛に向かって叫んだ。
「もう、遅い──。お前は、わらわの布告した法に背いた。この城郭では、半妖のお前が立ち入るのは重罪じゃ。三日の猶予を守らなかった、そなたが悪い──」
李媛が勝ち誇ったように言った。
朱姫は歯噛みした。
そのとき、一丈青が大きな宝石のようなものを朱姫の額に近づけた。
その宝石が朱姫の額に当たったと思った。
「あがあああ──」
その瞬間、もの凄い激痛が頭に走った。
朱姫は絶叫した。
「大丈夫だ。痛みはすぐ消える──。道術封じの石だ。これを額に埋め込んだ。これでどんなに強力な亜人であっても、道術は遣えん」
一丈青は言った。
その言葉の通り、すぐに頭の痛みは治まった。
しかし、全身を動く霊気が、この額の宝石の周囲でかき乱されるのがわかった。
それだけでなく、手足には、それとは別の道術を封じる霊具の拘束具をつけられている。
朱姫は、自分が大きな危機に陥ったことを悟らざるを得なかった。
「あ、あたしをどうするつもりよ、李媛──。あ、あたしは、これでも、青獅子宮だったあんたの屋敷から亜人軍を追放するのに協力しているわ。たくさんの証人もいる。そのあたしを処刑するの──?」
朱姫は声をあげた。
「ほうほう──。そんな風に力を封じられても、まだ、そんな元気があるというのは頼もしいのう──。心配いらん。わらわも、そのくらいのことはわきまえておる。お前は、この城郭で処刑されることもないし、裁かれることもない──。このまま、城郭の誰にも──、特に、李姫や貞女に知られることもなく、ひっそりと城郭から連れ出される。王都の郊外に亜人専用の収容所があるのだ。そこに収攬される手筈になっておる──。死ぬまでな──」
李媛は冷たく言い放った。
「お、王都──?」
朱姫はびっくりした。
そんな場所に誰にも知られることなく、監禁されたりしたら、今度こそ、仲間とは離ればなれだ。
「では、このまま、この半妖は城郭から連れ出させます──。ご心配には及びません、李媛殿。私の一隊は、亜人の移送には手慣れた者ばかりです。絶対に逃がすようなことはありません」
一丈青だ。
「よろしく頼むぞ」
李媛は言った。
そして、もう、すっかりと朱姫に興味がなくなったかのように、朱姫に背を向けた。そして、家を出て行く。
「ま、待って──」
朱姫は声をあげようとした。
だが、自分の両脇を抱えた道術師ごと、自分の身体が、なにかの霊気に包まれるのを感じた。
そして、目の前の風景が消滅した。
(第84話『半妖女の失敗』終わり)