「わらわは、
眼の前の娘が言った。
宝玄仙は、案内をされた白象宮の一室にいる。
孫空女も一緒である。
白象宮は政務を行う公的な宮殿と、魔王の私的空間である離宮に分かれているようだ。
宝玄仙と孫空女は、その離宮側に案内された。
白象宮の城下となる城郭に入ったのは、今日の昼のことだ。
城門はあったが閉鎖はされておらず、出入りも自由だった。
宝玄仙は孫空女とともに、多くの亜人たちに紛れて城郭の中に入った。
かなり賑わいのある城郭であり、暮らしている亜人は多く、城門の出入りも盛んだ。
少し歩くだけで、この城郭の豊かさを十分に感じた。
また、屋台や商家の軒先には物が溢れており、道は清潔で人には活気があった。
旅でたくさんの城郭を見てきたからわかるが、ここの支配者は、良好な統治をしているようだ。
店に物が溢れるのは、ここで暮らす庶民の生活に余裕があるからであり、その豊かな生活から生まれる物欲を支える物流の力があるということだ。
また、道が清潔なのは、下水などがきちんと管理され、公衆衛生が整っているということである。
そういう城郭では、人が密集しても疫病などは流行り難い。
その支配者に、沙那が捕らえられているのだろうか……?
どうやって、それを調べたものかを考えていると、目の前に身なりのいい亜人の上級役人らしき者が現れて、自分は魔王の使いだと言って、宝玄仙に声をかけてきたのだ。
そして、ここまで案内をされ、その役人が準備していた馬車に半ば強引に乗せられて、白象宮の敷地にまで連れてこられた。
ついで、馬車をおろされ、いくつかの関門を抜けて、この部屋にやってきたところである。
案内された部屋は、広い部屋に柔らかい長椅子があるだけの殺風景だった。
長椅子に向き合うように、少し豪華な椅子が一脚ある。
部屋に存在するのはそれだけだ。
長椅子に孫空女と並んで座って待っていると、ひとりの少女がやってきた。
首をすっぽりと覆う襟の白色の装束を身に着けており、銀白色の髪には小さな冠が乗っていた。
また、少女は、護衛の女兵を四人連れている。
身なりや頭の冠からそれなりの立場の者かもしれないと思ったが、なにしろやってきたのは、十四、五歳にしか見えない少女だ。
こいつは誰だろうと思っていると、その少女がいきなり、自分は魔王だと名乗ったのだ。
「魔王だって? この白象宮の魔王は子供なのかい?」
宝玄仙は驚いて言った。
すると、小白象と名乗った女の眉がぴくりと動いた気がした。
「そ、そんなことも調べずに、ここにやってきたのか?」
小白象は問いかけとも、独り言とも取れないような口調で呟いた。
その顔から呆れたというような表情が垣間見えた気がした。
「お前、知っていたかい、孫空女?」
「さあ……。金凰宮の魔王は金凰魔王だったから、白象宮の魔王は白象魔王だと思っていたよ……。ああ、そう言えば、白象魔王は変態女だと、青獅子軍の連中が笑っていたような気がするよ、ご主人様」
孫空女が応じた。
孫空女は、獅駝の城郭で捕えられていたときに、幾らかの情報に、監禁されていた玄魔軍の兵と格闘の試合をしながら接したという。
そのときに、ここの白象宮のことも、少しは聞き齧ったようだ。
「……こ、これからは、どこかに、なにかをしに行くときには、事前にきちんと情報取りをした方がいいと思う……ぞ……。旅を続けるときには、これから進む道の先にあるものを可能な限り調べるものだ……」
小白象が苦虫を潰したような顔で言った。
その様子に宝玄仙は噴き出してしまった。
「そんなことは、お前に関係ないだろう──。まるで、沙那みたいなことを言うねえ……」
宝玄仙は笑った。
それで、やっと本題を思い出した。
「……ああ、そうだ──。それで思い出したよ。一体全体、お前がどういうつもりで、わたしらをここまで連れて来たか知らないけど、ここに沙那がいるんじゃないのかい? いたら連れてきな──。わたしの用件はそれだけだよ」
宝玄仙は言った。
「つ、つまり、沙那……がここにいるかどうかをまったく知らないの?」
小白象が意外だという顔をしている。
「まあ、知らないけどね……。だけど、ここに奴隷として連れ込まれたという話は聞いている。だから、いるんだったら連れてきな。言っておくけど、わたしはこれ以上の面倒をかけたくないのさ。とにかく、わたしが穏やかに話をしているうちに話を終わろうじゃないか、小娘」
すでに宝玄仙は、孫空女の身体とともに、自分たちのまわりを結界で防護している。
それに比べて、目の前の小白象は道術の防護はしていないようだ。
宮廷全体として、大きな結界を刻んでいるのは感じるが、いま、宝玄仙と相対している小白象の身体そのものは、なにも道術の護りをしていない。
すると、小白象は、しばらくなにかを考えるように黙り込んだ。
宝玄仙は小白象が口を開くのを待っていたが、その時間が少し長くなったので、だんだと苛々を感じてきた。
「なに、黙り込んでいるんだい、娘? その様子じゃあ、なにかを知っているね? 隠すと為にならないよ──」
宝玄仙は声をあげた。
すると、小白象が嘆息した。
「ならば、正直に言おう……。これは秘密なのだが、沙那はここにはおらん……。いや、確かに、少し前まで沙那はこの白象宮におった。奴隷としてではない。白象宮の重鎮として迎え、わらわを助けてくれる者として仕えてくれていた……。だが、死んだ。残念なことにな」
小白象がそう言った。
宝玄仙は驚いた。
「し、死んだ?」
「そうなのだ……。実は、あまり知られていないことなのだが、十日ほど前に、この離宮に金凰魔王がやってきてな……。わらわは、その道術に捕らわれて酷い目に遭った。それを助けてくれたのが沙那だ。しかし、その沙那は、そのときの負傷で残念ながら……」
小白象が神妙な顔をした。
「お、お前、ふざけたことを言うんじゃないよ──。沙那がわたしに断わりもなく死ぬわけないだろう──」
「済まないと思っておる……。だが、事実は事実だ……。証拠も示す。沙那からは、あなたのことは、とても素晴らしい女主人だったと聞いてもいる……」
「はあ?」
「……だが、沙那は死んでしまった。わらわを護るために命を失わせてしまったのだ……。済まないと思っている。できる限りの償いはするし、旅の路銀も提供させてもらう。もしも、ほかに求める物があれば……」
「やかましい──。お前、殺されたいのかい──。沙那が死んだだなんて出鱈目を言って──」
宝玄仙は叫んだ。
そして、思わず詰め寄ろうとした。
だが、孫空女がすっと手を伸ばして、立ちあがろうとした宝玄仙をとどめた。
「な、なんだい、孫空女……?」
宝玄仙は孫空女を睨んだ。
「うん……。ちょっと、あたしに任せてよ……」
孫空女はそう言った。
次の瞬間、驚いたことに、孫空女はいきなり立ちあがって、目の前の小白象に飛びかかった。
しかも、飛びかかりながら、耳から『如意棒』を抜いている。
宝玄仙は度肝を抜かれた。
しかし、それに対する小白象の対応も宝玄仙を驚かせた。
さっと椅子から身を翻して、後方に飛び退がると、その孫空女と距離を開けたのだ。
孫空女は、それを確認すると、その場で攻撃の態勢を解いて、『如意棒』を耳にしまった。
宝玄仙は呆気にとられた。
孫空女が小白象に打ちかかる恰好を示したのは、ほんの少しの時間のことだ。
そして、それに対する小白象も動きも速かった。
なにしろ、小白象の後方に立っていた護衛は、瞬時のことに対応できなかったくらいなのだ。
「なんの冗談なのだ?」
小白象が姿勢を戻しながら言った。
「それはこっちの台詞だね、沙那──。どうして、そんな変身をしているのさ?」
すると孫空女が微笑んだ。
「沙那だって?」
宝玄仙はびっくりして立ちあがった。
小白象の姿の少女は、ちょっとだけ困惑した顔を示したが、すぐににやりと笑った。
「よくわかったわね、孫女」
小白象と名乗った少女姿の女が指輪を外す仕草をした。
すると、その姿が沙那に変わった。
「沙那?」
宝玄仙は声をあげた。
「やっぱりね……」
宝玄仙に次いで、孫空女も声をあげた。
「なんでわかったの、孫女? あんたにしては、勘がいいじゃないの……」
沙那が言った。
「外見や仕草を誤魔化しても、鍛えあげている武芸の腕というのは、ちょっとした息遣いの癖だけからでも、わかるものなのさ。もしかしたら、沙那じゃないかと思ったのは息遣いからさ。それに、目の前の娘が武芸の達人だというのはすぐにわかったよ」「
「息遣い?」
「そうさ。それなのにほとんど気も感じない。実際のところ、強い武芸者はいくらでもいる。だけど、沙那のように、その強さを普段感じさせないように気を制御できる者はそうはいないんだよ。だから、もしかしてと思って、ちょっと試してみたのさ」
「でも、本気の攻撃だったわ。もしも、本物の小白象魔王陛下だったらどうするつもりだったの? 魔王宮で魔王に襲いかかるなんて、いまごろ大騒ぎよ……。わたしが化けていることは半信半疑だったんでしょう?」
「本気で飛びかからなければ、沙那は反応しないだろう? 結局は沙那だったしね」
孫空女が言った。
「そうね……。だけど、失敗したわ……。わたしは、宝玄仙様に見破られないことだけを考えて、わたしの身体に亜人特有の霊気の波を帯びさせることや、逆に身に着けている霊具を隠す処置をすることはしっかりと準備したのに、まさか、武芸の腕で、しかも、あなたに見破られるとは思っていなかったわ、孫女」
「なんで、死んだだなんて言ったのさ、沙那?」
「それを信じてくれれば、一番、それが面倒がなさそうだったからよ……。そのために、わたしが死んだという証拠も、しっかりと捏造してあったのに無駄に終わったわね……。じゃあ、第二案の策に移行するわ。悪いけど、消えてね、孫女」
沙那が軽く手をあげた。
「なに?」
宝玄仙は声をあげた。
声をあげたのは、部屋の中で、大きな霊気が動くのを感じたからだ。
次の瞬間、不意に孫空女がその場から消滅した。
部屋の中で霊気が動いた……?
それが孫空女を『移動術』でどこかに跳躍させた。
しかも、天井から宝玄仙の周りになにかが降ってきた。
いきなりのことだったので、宝玄仙は対応できなかった。
周囲から轟音がして、気がつくとすっかりと、周囲を天井まで続く金網の檻に囲まれてしまっていた。
しかも、霊気を消す網だ。
この網に四方を囲まれた瞬間に、宝玄仙が刻んでいた霊気による結界が四散してしまった。
気がつくと、さっきまで腰掛けていた長椅子も消滅している。
孫空女と一緒に、どこかに『移動術』で跳ばされてしまったようだ。
これは、道術だ──。
部屋の中に強力な道術遣いがいる……。
まるで、沙那が道術をかけたような仕草だったが、沙那が道術を遣うわけがない。
そして、探るとすぐに、いま道術をかけた主はわかった。
護衛だ。
沙那の右隣りに位置する右から二番目の女兵だ……。
その護衛が夥しい霊気を持っている。
だが、さっきまでは、その霊気がまるで沙那から放出されるように欺騙されていたのだ。
そうやって、巧みに隠れていたのでわからなかったが、その護衛が霊気を動かして、宝玄仙を道術封じの檻で囲み、孫空女や椅子をこの部屋から出したのだ。
宝玄仙は、そのときはじめて、その右から二番目の護衛が、さっきまで沙那が変身していた小白象と同じ顔をしていることに気がついた。
「なんの冗談なのか、確かにわたしも聞きたいねえ、沙那……」
宝玄仙は金網の外の沙那を睨みつけた。
この金網が宝玄仙の道術を封じる檻であることは明らかだ。
この檻の中にいる限り、宝玄仙は道術を遣えない……。
これは、宝玄仙のような道術遣いを監禁するために特別に作られた大きな檻だ。
宝玄仙は檻に閉じ込められた……。
すると、いきなり、沙那が檻の前に移動してきて、がばりとその場に土下座をした。
「申し訳ありません、宝玄仙様──。わたしを解放してください。わたしは、この白象宮で小白象様の家臣として仕える立場になったのです。いままで、面倒を看てくれたことは感謝します。しかし、わたしは、この白象宮に残りたいのです──。ここで生き甲斐を見つけました。お願いします。どうか、それをお許しください──。どうか……どうか……」
沙那が床に頭を擦りつけながら叫んだ。
「は、はあ──? な、なにを言ってるんだい、沙那──」
宝玄仙は、思いもよらない沙那の言葉に唖然としてしまい、なかなか次の言葉が出てこない。
いま、沙那が宝玄仙から去りたいと言ったか?
脅かされて言っているという感じでもないし、なにかの作為があるという雰囲気でもない。
沙那は、いま真摯に頭をさげて、それを宝玄仙に直訴している。
しかし、なぜ──?
そのとき、宝玄仙は、沙那の胸の中にある宝玄仙の『魂の欠片』に微妙な濁りがあることを感じた。
沙那の胸の中の『魂の欠片』は、『魔法石』でもあり、沙那に霊気を帯びさせて、霊具を使える能力を沙那に与えている力の根源だ。
そして、それは、宝玄仙の魂そのものでもあるので、その気になれば、宝玄仙は、容易にその霊気に触れることができる。
この檻に閉じ込められているために道術を発揮することはできないが、周りの霊気の流れを読んだりすることは可能だ。
目の前に存在する宝玄仙自身の魂の欠片に接触するくらいは簡単にできる。
それでわかったのだが、沙那の中にある『魂の欠片』には、純粋な状態ではなく、大きな淀みがある。
つまりは、なんらかの異質の霊気を帯びているのだ。
「ああっ──。お、お前、誰かと真言の誓いを結んだね──。そうだろう、沙那──。しかも、多分、『主従の誓い』だね──。それでわたしと別れたいと言っているね──?」
宝玄仙は叫んだ。
『魂の欠片』の状態から類推するに、沙那がなんらかの真言の誓いを結んでいるのは明らかだが、小白象とかいうわけのわからない女魔王に仕えたいとか、小白宮に残るとか主張していることから考えると、それは『真言の誓い』の中でも、別名、奴隷契約とも称される『主従の誓い』に間違いない。
宝玄仙は、沙那の右側の護衛を指差した。
「おい、お前だね──。お前がさっき道術を遣ったのは、もうわかっているんだ。そして、どうやら、お前が本物の小白象だね──? 沙那になにかしたんだろう──。とにかく、痛い目に遭いたくなければ、すぐに、沙那と交わした『主従の誓い』を解除しな──。しかも、わたしを怒らせないうちにね」
兵の格好をしているので、すぐにはわからなかったが、その女はさっきまで沙那が化けていた少女の顔にそっくりなのだ。
だから、こいつが本物の魔王なのだろう。
しかも、どうやら、本物の小白象も年端もいかない娘のようだ。
「宝玄仙様、お願いします──。これまでの旅でわたしは、宝玄仙様に尽くしました。それに免じて、ここでわたしを解放してください──」
沙那は頭を床に擦りつけたまま言った。
「やかましい、お前は黙ってな、沙那──。わたしは、その小娘と話をしているんだ──。沙那になにをしようとしているんだい? とにかく、その服装を解いて素顔を見せな──」
すると、その兵が被り物を外した。
被り物を外すと、中から銀白色の髪をした少女が出現した。
「いかにも、わらわが小白象だ──。お初にお目にかかる、宝玄仙殿──。こんな失礼な対応をしたことは謝罪する。なにしろ、白象宮には、金凰宮をひとりで潰したほどの宝玄仙殿に対応する力はないのでな。万が一のことを考えて、力の強い道術遣いや亜人用の檻を準備させてもらった──。悪く思わないで欲しい……」
「やかましいよ――。とにかく……」
「とにかく、先ほどの沙那の言葉は本当だ。わらわは、家臣としても、また、友人としても、沙那を大切な存在と思っておる。どうか、沙那をわらわに譲って欲しい──。この通りじゃ──」
本物の小白象が頭をさげた。
だが、宝玄仙はかっとした。
「訊ねてもいないことをべらべらと喋るんじゃないよ──。だいたい、娘っ子の分際で、沙那を一人前に操って部下にしようとは、まずは身の程をわきまえな──。すぐに、真言の誓いを解除しろと言っただろう──。それをやるんだよ」
「ねえ、宝玄仙様、わかっていただきたいのですが……」
沙那が顔をあげて、宥めるような声をあげた。
「お前は口を開くんじゃないよ、沙那──。お前は操られているんだよ──。それよりも答えな、沙那──。お前は、こいつと『主従の誓い』をかわしたのかい──?」
「そ、それは、かわしましたが……」
「かわした──? そうかい、かわしたんだね──。わかった、もういい──。だったら、もう口を閉じていな。話をするのはその小娘だ──。こらっ、小白象──。沙那との『主従の誓い』を解除するんだ──。さもなければ、この宮殿なんて吹き飛ばすよ──」
宝玄仙は怒鳴った。
「……なるほどのう……。沙那の言う通りだな……。取りつく島もないというか……。なんか、話し合いに応じるような気配さえないな」
小白象が嘆息した。
そして、足で軽く床を叩いた。
すると、小白象の立つ場所に、床から箱状の卓がせりあがった。
こっちからはよくは見えないが、卓の上には、なにかの操作盤がある気配だ。
次いで、背後の壁に棚も出現した。
棚には沢山の箱がある。
「沙那、これで、ここの拷問室の設備は整えた……。後は頼むぞ──。なんとか、宝玄仙殿を説得してくれ」
「お任せください」
沙那が立ちあがりながら言った。
「こらっ、こっち向け、小娘──。お前、なにをやっているかわかっているんだろうねえ──。あんまり、わたしを怒らすと為にならないよ。これでも、十分に優しく話してやっているんだ。あんまり、わたしを怒らせると、この宮殿なんて吹き飛ばすよ。お前なんか、胴体から首と手足を引き千切って、肉片を四方八方に飛ばしてやる──。聞いているのかい──」
宝玄仙は喚き続けた。
喚きながらも、懸命に金網によって霊気を停止させられたこの状態を打開できないかと霊気を探り続けている。
とりあえず、金網そのものには、まったく霊気は通じない。
金網の回りですべての周辺霊気が遮断しているのだ。
ただ、金網を通り抜けて、網の外の小白象の霊気の流れには触れることができるのだから、少量の霊気なら通過はできるようだ。
だから、少量の霊気でもいいから、時間をかけることで、金網のどこかに霊気の穴が開けられないかと考えた。
だが、すぐにそれも不可能だと悟った。
宝玄仙がなんらかの意思で道術を遣おうとすると、完全に霊気が打ち消されるのだ。
檻の中のすべての霊気が動かないという感じではなく、囚人と特定された対象者が動かそうとする霊気だけを選んで、金網が霊気を無効化しているようなのだ。
そして、宝玄仙がその囚人と特定されているのは明らかだ。
つまりは、この状態で道術を遣えないのは宝玄仙だけだ。
一方で、おそらく、ほかの者が金網に入った場合は、道術は遣えるのだろう。霊具も有効に違いない。
まさに、これは囚人用に作られた檻なのだ。
「宝玄仙様、落ち着いてくださいよ……。そんな脅しが効く状況じゃないということは明らかじゃないですか……。宝玄仙様は、いま、道術を封じる檻の中に閉じ込められているんですよ。そんな状態で、よく考えもせずに脅しをかけるのは、却って状況を悪くするだけですよ……」
沙那が呆れたような声で言った。
「口を開くなと命じただろう、沙那──。それに、なにが“宝玄仙様”だよ。ちゃんと“ご主人様”と呼びな──。さもなければ、口も開いてやらないよ」
宝玄仙は憤慨して言った。
「わかりました。じゃあ、ご主人様とお呼びします……。とにかく、交渉に応じてもらえませんか? 小白象様と真言の誓いを交わしていただきたいのです……。わたしという供を対価と交換に小白象様に譲ると──。どうか、お願いします」
沙那が言った。
「断る──。はい、じゃあ、これで交渉は終わりだ──。さあ、わたしを解放しな、小娘──。そして、孫空女をどこに跳躍させたか知らないけど、孫空女も連れてきな──。そして、もう行くよ、沙那──。まだ、朱姫を探さないとならないんだ。お前と、ここでくだらない遊びをするつもりはないからね。いい加減にしないと、お仕置きするよ、沙那」
「これは、遊びじゃないですよ、ご主人様──。わたしの人生をかけた交渉です。それに、わたしには話し合う時間はたっぷりとあります……。わたしは、ご主人様が、わたしを譲ると小白象様と真言の誓いを交わすことを約束するまで、ここで説得を続けるつもりです」
「はあ? 説得だと? しかも、お前が交渉? それこそ、哄笑だね──。さあ、沙那──。いいから、その操作盤を動かしてこの金網を取り払いな。どうせ、その操作盤でなんでも動くようになっているんだろう?」
宝玄仙は言った。
「じゃあ、後は頼むぞ、沙那……。なにかあれば、『通信球』で伝言を送れ」
小白象が沙那に言った。
そして、ほかの三人の護衛を促して出て行こうとする。
「あっ、待ってください、ご主人様──。これをお返しします」
沙那が小白象を呼びとめた。
宝玄仙は、沙那が小白象を“ご主人様”と呼んだことにむかついた。
沙那が小白象に化けるために見つけていた衣装を脱いで、冠を外す。
そして、それを最後尾の護衛に渡した。
沙那は衣装の下に普段身に着けているような動きやすい男物の服を着込んでいた。
そのとき、宝玄仙は沙那が首に布を巻きつけていることがわかった。
どうやら、あれは霊気の流れを遮断するための布のようだ。
あれを巻いていたので、いままで、宝玄仙は、道術で首輪を追跡できなかったのだ。
「ま、待つんだよ、小白象──。どこに行くんだい──。話は終わっていないよ──」
宝玄仙は怒鳴った。
しかし、小白象と三人の護衛は、宝玄仙の抗議に構わず、部屋を出て行ってしまった。
宝玄仙は沙那とふたりきりになった。
「心配いりませんよ、ご主人様……。交渉はわたしが応じます……。わたしは、ご主人様を説得して、わたしを小白象様に譲るという真言の誓いを交わしてもらうつもりですから……。真言の誓いに応じて頂ければ、ご主人様をそこからお出しします」
沙那は言った。
ふと見ると、いつの間にか、沙那は棚から薄手の茶色い手袋を取り出していた。
どうやら霊具のようだ。
沙那がその手袋をすると、宝玄仙のいる檻の中に、その茶色い手袋をしている手首から先の部分だけが、こちら側に出現した。
宝玄仙はぎょっとした。
「な、なんだいこれは──?」
宝玄仙は宙に浮かんで近づいてくるその茶色いふたつの手を思わず避けながら言った。
しかし、その“手”は、沙那の実際の手と連動しているようだ。
沙那が動かす手の動きのままに、檻の中のふたつの手首も動いてくる。
「これは、『道術手』という霊具です。この手袋は、手袋をした部分をその檻の中に出現させます。出現した手は、『道術手』であり、道術によって作られたものですが、しっかりと物を掴むこともできるし、わたしには、その道術手で触れたものの触覚も感じます……。そういう檻の中の囚人を拷問するには、うってつけの霊具ですよ」
「ご、拷問だと──?」
宝玄仙はかっとして言った。
「間違えました、交渉です……。とにかく、説得のための交渉の準備をさせてもらいますね」
沙那は言った。
次の瞬間、ゆっくりと動いていた二本の手首がいきなり素早く動いた。
そして、宝玄仙の片側の足首が強い力で掴まれた。
「うわっ──。な、なにするんだよ──」
宝玄仙は抵抗しようとしたが、簡単に靴と靴の中に履かされているものを脱がされて素足にされた。
もう片足も靴を取られて素足にされる。
ふたつの手が宝玄仙から脱がせた履物を改めて掴んだ。
すると、すっと宙に浮かんでいたふたつの手と靴が消滅した。
ふと見ると、沙那の手もとに、宝玄仙が両脚に履いていた靴が移動している。
「な、なにするんだい、沙那──。お前、自分のしていることがわかっているんだろうねえ──? お前が『主従の誓い』をして、あの小娘に心を操られているとはいえ、このわたしに手を出そうとしているのは、お前の意思なんだよ──。承知しないからね──。あとで正気に戻ったときに、後悔したって遅いんだよ。このわたしが怖くないのかい──」
「もちろん、怖いですよ、ご主人様──。だから、わたしも必死です。交渉が失敗したら、わたしにはご主人様によるきついお仕置きが待っているんですからね……。だから、一生懸命にご主人様を説得します。わたしの要求に応じてくれるように……。ところで、もう一度お願いします。どうか、小白象様と真言の誓いをしてください。わたしを譲ると……」
「応じないと言っているだろう──。しつこいねえ──」
宝玄仙は叫んだ。
すると、檻の外の沙那はなにかを決意したように息を吐いた。
そして、靴を下に置いて、宝玄仙から視線を外し、さっきの卓の上を操作し始めた。
しばらくすると、檻の中の上部分に、檻を横断する一本の鉄棒が出現した。
跳躍すれば、届く程度の高さだ
なにか嫌な予感がした。
沙那は、こっちをちらりと見ると、卓上の操作盤に指を動かした。
「がああああっ──」
その途端、宝玄仙は素足に衝撃を感じて、その場にひっくり返った。
凄まじい電撃だ。
床に火花が飛ぶかと思うような強い電撃が走ったのだ。
しかも、それは、宝玄仙がひっくり返ってもとまらなかった。
「ひぎいいっ」
倒れたために、服越しに全身にも激痛を覚えた宝玄仙は、さらに悲鳴をあげた。
「上の棒に捕まるんですよ、ご主人様……。そこには、電撃は流れていませんから」
沙那が檻の外から冷静な口調で言った。
宝玄仙は、慌てて棒に跳躍した。
宝玄仙の足は、一尺(約三十センチ)ほど床に離れて宙に浮く。
やっと、電撃の痛みから解放された。
だが、それだけだ。
手を離して素足を床に着けてしまえば、さっきの怖ろしい電撃を浴びることになる。
「そうやって、しばらく床と離れていてくださいね、ご主人様」
沙那が無表情で言った。
「お、お前……こんなことして、わかっているんだろうねえ……」
宝玄仙は鉄棒を両手で握りしめたまま、沙那を睨みつけた。
しかし、非力の宝玄仙には、いまのこの短い時間だけで、腕の筋肉に痛みを感じて、ぶるぶると腕に震えが走ってきた。
だが、手を離せば、あの電撃だ……。
その恐怖が、宝玄仙の腕の筋力を支えている。
「もちろん、わかっています……。まずは、ご主人様に疲れてもらいます。調教をして、相手を言いなりにするには、まずは、相手の体力を根こそぎ殺いでしまうこと……。それはご主人様が、わたしに教えてくれたことでしたね」
「お、お前……わたしを調教しようとしているのかい……」
宝玄仙は呻いた。
「間違えました。交渉です──。でも、交渉は数刻後から始めさせてもらいます。それまで、その金網の中で休んでもらって結構です──。ただし、床の電撃はそのままですから、落ちない方がいいですよ」
沙那はそう言うと、部屋の外に向かう扉に向かっていった。
宝玄仙は両手で鉄棒を掴んだまま、呆気にとられた。
だが、すぐに我に返って、沙那に向かって口を開いた。
「ま、待つんだよ、沙那──。どこにいくつもりだい──。ふ、ふざけるんじゃないよ──」
宝玄仙が喚いた。
しかし、沙那はただの一度も宝玄仙に視線を向けることなく、部屋の外に出ていく。
宝玄仙はひとりぼっちにされた。
床に流れる電撃を避けるため、すでに限界を感じ始めてきた両手で鉄棒を握りしめた状態のままで……。