*
603 救出者の出現と反撃の開始
前……。
後ろにも……。
いや、全周か……。
孫空女は、右手に『如意棒』を移した。
「わたしは、
現れたのは黒衣の集団だった。
上から下まで黒一色の軍装を身に着けた集団だ。
しかも、全員が『移動術』で出現した。
そして、なにが起きたのか、考える暇もなかった。
上から大きな網が降ってきていた……。
「ご主人様、ごめんよ──。伸びろっ──」
網になにかの害意を感じる。
孫空女ほとんど無意識に、『如意棒』を伸ばして、宝玄仙を胴体に当てていた。
網が落ちて来る前に、宝玄仙の身体を網の外に弾き飛ばす。
「うわっ」
宝玄仙の悲鳴だ。
『如意棒』に、身体を振り飛ばされて、みっともない恰好で地面に転がっていった。
仕方がない……。
後で怒られるか……。
「孫女、上よ──」
沙那の悲鳴のような叫びが聞こえた。
網が頭から降りかかって、身体を包まれる。
とっさに『如意棒』を網の穴に差し入れた。
しかし、その網が急速に縮んでいき、網の穴自体も小さなものになる。
「うわっ」
「くっ」
沙那の丸まった身体がどんとぶつかった。
『補網』だ。
人や獣を捕らえるための霊具であり、捕獲したい対象に触れると、こうやって一気に縮んで動けなくするのだ。
沙那の身体が押し潰されるように密着してきた。剣に手をかけたまま動けなくなっている。
「引き破るよ、沙那──」
孫空女は穴に挿入していた『如意棒』を力づくで押し破ろうとした。
「あれっ?」
しかし、力が入らない……。
いつの間にか全身が弛緩している。
しかも、さらにどんどんと力が抜けていく。
「ど、どうしたの、孫女──?」
沙那が孫空女の胸の谷間に顔を埋めながら言った。
「ち、力が……抜けて……」
孫空女はそれだけを言った。
「ち、力が……? ま、待って、じゃあ、わたしが……」
沙那が孫空女の掴んでいる『如意棒』を代わりに掴もうとしたが、沙那の手も完全に網に絡みつかれて動けない。
「ふふふ、無駄だ……。道術遣いや亜人の霊気を吸い取る特別製の『補網』だ。それに絡まれたら道術もなにも遣えん。観念するのだな」
一丈青と名乗った若者が勝ち誇ったような声で言った。
その言葉で、どうして力が抜けたのかなんとなくわかった。
孫空女の身体には、宝玄仙の道術が充満し、それが孫空女の怪力の源になっている。
しかし、その霊気の流れが『補網』によって封じられたために、孫空女の筋力も動かなくなったに違いない。
「……さて、お前も観念するのだな。お前は宝玄仙であろう? 亜人軍に協力した罪で、手配状が出ている。大人しくすれば、優しく扱ってやる……。抵抗するなら、多少痛い目を見てもらわなければならない。わたしはどっちでもいいが、どうするのだ?」
一丈青が孫空女たちに背を向けて、まだ地面にしゃがんだままだった宝玄仙に正対して言った。
三十人ほどの黒衣の兵がすっと地面を滑るように動いて、新たに宝玄仙を囲む態勢になった。
「いたたた……。思い切り投げ飛ばしたもんだねえ……。後でお仕置きだよ、孫空女……」
宝玄仙が腰を擦りながら立ちあがった。
その完全に一丈青という隊長を無視した態度に、一丈青がむっとしている。
「ご主人様、そんなことを言っている場合じゃ──」
孫空女の胸に顔をくっつけている沙那が声をあげた。
「……大丈夫だよ、沙那……。ご主人様は、すでに自分の周りに『結界』を刻んでいる。手は出せないさ」
沙那に向かって、ささやいた。
孫空女には、霊気の流れが見えるので、宝玄仙の周囲に分厚い霊気の層が数重にも重なったのがわかったのだ。
それに比べて、沙那は、白象宮の一件で身体に入れていた宝玄仙の『魂の欠片』を抜いてから、まったく霊気が探知できなくなった。
だから教えたのだ。
もともと、沙那は霊気の探知が得手ではなかったが、それでも、前はぼんやりと気の流れのようなもので感じていた。
だが、いまはまったく霊気を帯びていない人間族に戻り、霊気などとは無縁の存在になっている。
「一組は、捕えたふたりを確保──。残りは、人間族を裏切った宝玄仙を『逆結界』で包囲──」
一丈青が叫んだ。
すると、宝玄仙が刻んでいる結界に、さらに新しい霊気の層が覆った。
「へへへ、いい女たちだな……。訊問が愉しみだぜ……」
そのとき、網で動けなくなっている孫空女と沙那のところに、三人の黒衣の兵が集まった。
革の手枷と足枷を持っている。それで拘束するつもりだとわかった。
しかも、三人はなんとなく好色な表情をしている。
嫌な感じだ……。
いずれにしても、拘束するためには、網を外さないとならないから、そのときが脱出の機会だと思った。だが、兵は網の上から手枷をぽんと載せた。
ぎょっとした。
その手枷がまるで水に物が沈むように、網の中に入ってくる。
そして、のそのそと孫空女の腕に近づいてくる。
道術だ──。
そう思ったが、網がびっしりと張りついているので、やってくる手枷を避けることができない……。
「わたしの物に触るんじゃないよ──」
突然に宝玄仙の大喝が聞こえた。
なにか風のようなものが通り過ぎていった。
「うわあっ──」
「ぐああっ──」
「がはっ」
網の周りにいた三人が宙に浮いた。
霊気の波動のようなものが飛んだのだ。
その三人の身体が後方に跳ばされて、そのまま背中から地面に叩きつけられた。
「こいつ──。『逆結界』を突き破って霊気を──?」
一丈青が驚いている。
しかし、宝玄仙はそれを無視している。
「ほら、いつまでも乳繰り合ってんじゃないよ──。もう、網の霊気はないよ。さっさと、出ておいで──」
宝玄仙が怒鳴った。
確かに、身体に力が漲ってきた。
宝玄仙の霊気が『補網』の霊気を消滅させたのだとわかった。
孫空女は力の限り、『如意棒』を押し破る。
びりびりと音がして、『補網』に切れ目ができる。
そこから這い出すように、沙那と一緒に出た。
「こ、こいつら──」
一丈青が顔を真っ赤にして怒鳴った。
しかし、そのときには、孫空女は一丈青に襲いかかっている。
『如意棒』を一丈青の顔に向かって振りおろす──。
目が合った。
一丈青が顔をひきつらせたのがわかった……。
「きゃあああ──」
一丈青が甲高い悲鳴をあげる。
えっ──?
女?
その声は間違いなく女の悲鳴だ。
女だと思った瞬間に、顔に振りおろしていた『如意棒』を躊躇した。
それで手元が狂った。
一丈青が後方に自ら飛んだ。
孫空女の『如意棒』は、一丈青の軍服の襟元に当たり、そのまま上から下まで服を引き破っていた。
「ひいっ」
一丈青は後転しながら声をあげた。
追いかけようとしたが、ふたり、三人と黒衣の兵に割り込まれた。
構えを取り直して、『如意棒』を一閃する。
割り込んだ黒衣の兵がすべて倒れる。
「ご主人様──」
沙那の声だ。
横目で沙那が剣を抜いて、宝玄仙のいる場所に寄ったのがわかった。
これで宝玄仙は大丈夫だ。
孫空女は一丈青に詰め寄った。
一丈青は地面に腰をつけたまま、両手で服が破れて剝き出しになった乳房を隠すようにしている。
矢──?
身体が反応していた。
孫空女は後ろに飛んだ。
たったいままで、孫空女が立っていた地面に三本、五本と矢が突き刺さる。
視線を移す。
新手だ──。
三十人ほどの一隊が道に展開して、こっちに弓を向けているのだ。
蹴散らすか……?
一瞬、迷った──。
「孫女──」
沙那が叫んだ。
見ると、反対側からも別の歩兵の一隊がやってきて、態勢を取ろうとしている。
黒衣の兵は道術を使う者の隊だと思うが、新たにやってきた兵は普通の兵だろう。
道術遣いの兵は、おそらく、宝玄仙の敵ではないかもしれないが、矢を大量に浴びせられると、逆に宝玄仙は守れないかもしれない……。
孫空女は焦った。
「囲みを破るしかないわ──。こっちに、孫女──。ご主人様も──」
沙那も同じことを考えたようだ。
その沙那は、まだ態勢を取り終わっていない一隊に向かって、すでに駆けている。
沙那は宝玄仙の腕を掴んでいる。
孫空女も走った。
しかし、突然に、沙那たちの目前で眼の前の一隊が崩れた。
犬だ──。
横の家から十匹ほどの大型の犬が飛びかかって、一隊に襲いかかったのだ。
犬は狂ったように暴れて、歩兵に噛みついたり、飛びかかったりしている。完全に犬は狂っているようだ。
歩兵たちが剣や槍で対抗しているが、隊は大混乱だ。
「おいっ」
混乱している歩兵の後ろで、男がこっそり手招きをしているのが見えた。
沙那が宝玄仙を連れて、混乱をしている歩兵の横を駆け抜けて、その男の方に進んだ。
なぜか暴れ狂う犬は、沙那や宝玄仙は素通りさせてしまった。
「あれって、ご主人様の仕業?」
孫空女は、走り抜けながら、宝玄仙に訊ねた。もしかしたら、道術で犬を操っていると思ったのだ。
「そんな術は持っていないよ」
宝玄仙が怒鳴るように叫んだ。
とにかく、走りながら、一度振り返る。
最初に矢を射かけた隊も追ってきたが、やはり、さっきの犬が暴れている場所で混乱している。
「こっちだ──」
男が一軒の家に三人を招き入れた。
入る──。
そのまま、その家を反対側から通り抜けて路地に入った。
さらに、男は路地を突っ切って家に入り、また、そこを素通りした。
「あんたは、誰?」
駆けながら沙那が叫んだ。
孫空女は最後尾を進んでいる。
いまのところ、追手がかかっている様子はない。
「
「長庚──? あの自称調教師の坊やかい? あいつがいるのかい?」
宝玄仙が走りながら声をあげた。
いまは、路地のような場所をくねくねと進んでいる。
どこに向かっているのかはわからない。
「調教師? そりゃあ知らねえが、長庚坊やは、この先の隠れ家で待っている──」
双六が言った。
「
宝玄仙は少し嬉しそうだ。
いまは、全力疾走というわけでもない。
小走りで路地を進んでいるというかたちだ。
だから、話はできる。
「百舌というのは、長庚の愛人の可愛いお嬢ちゃんだな。いるよ。
蝶蝶というのが誰なのかわからないが、どうやら長庚は、獅駝の城郭にやってきていて、手を回して助けを差し伸べてくれたようだ。
やがて、眼の前の路地に三人ほどの男がさっと現れた。
孫空女はとっさに警戒したが、双六は平然としていた。
そして、その男たちの前で立ちどまった。
「どうだ?」
双六がその男のひとりに訊ねた。
「大丈夫です。まだ、通りには手は回っていません……。あの外門で捕らえられると踏んでいたんでしょう……。通りに兵を回すことは考えていなかったようですね」
男が言った。
すると、双六がこっちに振り向いた。
「この先は、また大通りに出る。そのまま、しばらく歩いてもらうが平然としていればいい。兵がやってくるようであれば、そいつらが接近するよりも早く、俺の手の者が伝えてくれるはずだ。心配するな──」
双六が言った。
「こうなったら、万事、任せるよ」
宝玄仙が笑って言った。
その余裕がありがたい。
「ご主人様、念のために、ここに『移動術』の出入り口の結界を刻んでください。なにかあれば、最低、ここには逃げられます。城郭の中では、逃げたうちに入らないかもしれませんが、まったく逃げ道がないよりはましです」
沙那が言った。
宝玄仙が頷いて、ここに『移動術』の結界を刻んだ。
『移動術』は基本的には、あらかじめ刻んでいいる結界と結界のあいだしか跳躍できない。
しかも、特別な処置をしない限りは、結界は数日でなくなるので、『移動術』を遣うには、いまのように、あらかじめ結界を刻まねばならないのだ。
大通りに出た。
行き交う人々は普通だ。
孫空女たち三人と双六の四人で連れ立って歩く。
さっきの三名は、少し離れた前後を自然なかたちで歩いている。
孫空女は周りに注意を払いながら進んだ。
城郭は賑わっている。
人通りも多いし、活気もある。わずか半月ほど前まで亜人軍に占領されていたはずだが、そんな感じはない。
また、双六の言う通り、いまのところ、先ほどの兵が捜索のための兵を動かしている形跡はない。
しばらく歩くと、商家が並ぶ通りにやってきた。
「平然をしていてくれ」
双六がささやいた。
ふと見ると、一軒の衣類を商う店の前で、あの長庚がにこにこしながらこっちを見ていた。
その横には百舌もいる。
ふたりとも、その店の者という感じだ。
双六に言われていたので、そのまま横をすぎた。
そして、しばらく歩いてから、今度は一軒の別の店に入った。
食料を売っている小さな店だ。
店の中には老夫婦がいて、双六を認めて慌てたようにお辞儀をした。
双六は軽く手を振って、そのまま店内を通り過ぎて、裏手から外に出た。
そこは大通りの裏道だ。
その道を今度は戻っていく。
「……さっきの店は、用心のためだ。万が一、あんたらが店に入ったのを見られていて、王軍の連中が、後であの年寄りを連れていっても、王軍の連中には、長庚の店との繋がりは発見できないはずだ。言わば、あのふたりは捨て駒として準備した者だ」
双六が言った。
「王軍?」
沙那だ。
「ああ、
双六は言った。
「ところで、さっき、長庚の店と言ったかい?」
宝玄仙が訊ねた。
「ああ、十日ほど前に開いた店だ。さっきの店だ。まあ、亜人軍が去ってから、次々にあちこちからやってきた商人が新しい店を開いている。あの坊やも、早速、亜人軍が占領したために、逃げるか殺されるかして持ち主のいなくなった商家を数軒買って、商売を始めたのだ……。まだ、数日だが、あの坊やは、あの歳でやり手だな。かなり、儲かっているようだぜ」
双六がくすくすと笑った。
やがて、さっきの店の裏に来た。
「お久しぶりです。やっと会えました──。とにかく、中に──。店で使っている者は、すべて、双六の手の者でもあります。この家は大丈夫です」
長庚と百舌が店の裏に回って来て待っていた。
「おう、お前かい──。嬉しいよ。いろいろと話をしたいんだけど、なにがどうなっているか、さっぱりとわからないのさ。一体全体、なんで、この城郭に入るや否や、おかしな道術遣いの兵に襲われたかもね……」
宝玄仙が言った。
「……それについてはご説明します──。それと、朱姫殿の行方も……」
長庚が家の中に案内した。
「朱姫の行方?」
沙那が声をあげた。
「僕らもわからなかったんです……。しかし、やっとそれがわかったのですが、同時に、宝玄仙さんたちが城郭にやってくるという情報に接して……」
長庚が家を案内しながら答えた。
家の中は広く、屋敷という感じだ。部屋も幾つもある。
「とりあえず、ここにどうぞ……」
長庚が客室らしい部屋に案内した。
そこには、ふたりの若い女がいた。
彼女たちが何者なのかはわからない。
すると、そのふたりが、すっと座っていた椅子から立ちあがり、こちらに向かって無言で頭をさげた。
「こいつらは?」
宝玄仙が長庚に顔を向けた。
「わたしは
貞女と名乗った女が答えた。
「李姫……さん──?」
沙那がびっくりしている。
「彼女たちの情報により、宝玄仙さんたちが城郭に戻ってくるということがわかったんですよ……。朱姫殿の行方も……。まあ、もっとも、僕たちが、彼女たちに接触できたのは、数日前なんですけどね……。なにもかも、この数日で一気に動きました──。長く行方不明だったあなた方の居場所や、朱姫殿の行方を僕が突きとめることができたのもの、このふたりに接触ができたのがきっかけです……。とにかく、座りましょう。話は長くなりますから……」
長庚が言った。
*
「取り逃がしたじゃと──」
李媛は自分の声が金切り声になるのがわかった。
取り乱しているところを周りの部下に見せたくはなかったが、爆発した自分の感情を李媛はどうしても制御ができなかった。
報告にやってきた一丈青は、神妙な顔で頭をさげている。
宝玄仙を取り逃がす……。
それは予想もしていない事態だった。
しかも、王軍の誇る道術師隊で包囲したというのに、それをかいくぐり、念のために待機させていた王軍歩兵隊からも逃げおおせてしまったのだという……。
「く、口ほどにもないではないか、一丈青──。宝玄仙を捕らえるなど容易いというようなことを言っておった気がするが……」
李媛は嫌味を言った。
「いま、周辺を捜索させております。人の波に紛れ込まれてしまったので逃がしましたが、道術師隊が動いておりますので、必ず、その波の中から、宝玄仙という高い霊気の塊りは見つけ出せます。見つけ出しさえすれば、今度こそ、道術師隊で完全包囲して捕らえます」
一丈青は不貞腐れたように言った。
「お、お前が言ったのだぞ──。宝玄仙を捕らえることはできると──。さもなければ、懐柔という手もあったのじゃ──」
李媛は一丈青をなじった。
亜人収容所送りにした朱姫の女主人である宝玄仙が、捕らえられていた亜人軍を道術で一掃して、獅駝の城郭に戻ってくるという情報に接したのは数日前だ。
それは、亜人領のずっと奥地で起こったことらしいが、亜人にとっても、金凰魔王という亜人軍の親玉が殺されたというのは、余程の大事であったのか、その噂は亜人たちだけでなく、その領域に接するこの獅駝領にも入ってきた。
李媛は、あの亜人軍の恐ろしさを身をもって知っている。
だから、それに捕らえられていたひとりの女が、亜人軍の魔王そのものを殺し、その軍さえ殲滅したというのは、とても信じられなかった。
とにかく、一丈青の道術師隊や、李媛が動かせる手の者を使って真相を探らせた。
まだ、数日しか経っていないが、そのすべてが、それが真実であることを報告してきた。
その宝玄仙という道術遣いが、獅駝の城郭にやってくる……。
本来であれば、なにも怯える必要はないことなのだが、李媛がそのとき、ふと思ったのは、一丈青に捕らえさせて、国都郊外の亜人収容所送りにした朱姫のことだ。
その宝玄仙という道術遣いが、朱姫の女主人だというのは、青獅子軍を掃討したときに捕えた亜人たちを拷問したときにわかっていた。
そもそも、亜人軍がこの獅駝の城郭を占拠した理由が、その宝玄仙ひとりを捕らえるための罠を作ることであるというのも、亜人の調教師を拷問して白状させた情報として李媛は握っていた。
ただ、朱姫を捕らえさせたときには、その宝玄仙は、亜人軍に捕らえられたまま亜人領深くに連れて行かれたことがわかっていたので、その女主人のことは気にも留めていなかった。
だからこそ、李姫に手を出した半妖の朱姫を容赦なく亜人収容所送りにしてやったのだ。
しかし、その女主人の宝玄仙が、あの青獅子よりもさらに強力だという噂の亜人の魔王さえ殺して、獅駝に戻ってくるという。
李媛が考えたのは、李媛が朱姫を収容所送りにしたことをその宝玄仙が知れば、必ず李媛に復讐をするに違いないということだ。
最初は、朱姫を収容所から釈放させて、その宝玄仙に詫びようかと思った。
だが、それは、朱姫や宝玄仙を自由にするということだ。
仕返しが怖い。
少なくとも、朱姫は李媛に恨みを抱いているだろう。
それに、そうすると、あの朱姫という半妖風情に謝罪をしなければならないかもしれない。
そんな屈辱は、想像するだけで気分が悪くなった。
それで、一丈青に相談した。
一丈青は、国都からやってきた道術師隊の若き女隊長であり、国都でもっとも優秀な道術遣いでもあった。
いくら、宝玄仙が優秀な道術遣いだとしても、あの一丈青よりも高い道術遣いであるということはありえない。
一丈青は、その宝玄仙がやってきても、捕えるのは造作もないと保障した。
だから、李媛は、その宝玄仙を捕らえさせることにした。
罪状はどうとでもでっちあげられる。
要は身柄を確保して、危険を排除することだ。
また手を回して、宝玄仙を遠い牢城に流刑してもいいし、その移送の途中で抹殺してもいい。とにかく、捕まえさえすれば、どうにもなるのだ。
だが、その捕獲に一丈青が失敗した。
しかも、取り逃がして、この城郭のどこかに潜んでいるはずだという。
李媛は恐怖した。
「ど、どうするのじゃ、一丈青──。お前が言ったのじゃぞ──。お前が言ったから、わらわは……」
李媛は狼狽えて声をあげた。
「……心配は要りませんと申しあげたはずです。宝玄仙は逃げただけです。しかも、この城郭のどこかにいることはわかっているのです。すぐに捕らえてみせます」
一丈青はそれだけ言うと、李媛に許可を得ることなく退出した。
それは、侯爵である大貴族に対する行いとしては、まったく失礼な行為だった。
*
一丈青は苛立っていた。
宝玄仙という流れ魔師を取り逃がし、あの李媛に無能だと言わんばかりの悪態をつかれたのだ。
それは、一丈青の高い自尊心を傷つけるのに余りあることだった。
それに……。
一丈青を苛立たせるのは、あの外門で宝玄仙たちを包囲したとき、不思議な棒の霊具の武器を扱う赤毛の女に服を破かれて、まるで少女のような悲鳴をあげてしまったことだ。
しかも、それを部下の全員に聞かれた。
思い出しただけで、腹が煮え返る。
あの赤毛の女……。
捕らえたときは、あの赤毛だけは許さない──。
部下たちの前で、徹底的に辱めて、同じような悲鳴をあげさせてやる──。
そうでなければ、一丈青の腹の虫は収まらないのだ。
とにかく、時間の問題というのはわかっている。
いま、部下の全員に霊気の淀みを探知する霊具を持たせて城郭に散らせている。
道術遣いという存在は、ある意味で霊気の淀みだ。
霊気というのは、自然の中に溶け込むようにして、どこにでも存在するものだが、道術遣いは、それを自分の身体の中に蓄えて、それを道術という術の力の源とするのだ。
従って、霊気の集まっているところや、霊気の流れの自然ではないところを探れば、いつかは、あの宝玄仙という道術遣いに辿りつくはずだ。
一丈青の見たところ、宝玄仙というのはかなりの遣い手だと思う。
霊気も高いだろう。
だから、高い霊気の道術遣いというのは、道術師兵に渡した霊具で探知しやすいのだ……。
李媛に報告するためにやってきた行政府を出た。
すでに夜だ。
かなり遅い時間になってしまった……。
周囲は、建物から漏れる灯の光のほかは、夜の闇に包まれている。
一丈青の執務室を兼ねた住まいは、軍営の中にある。
とりあえず、そこに戻るつもりだった。
しかし、行政府を出たところで、部下がひとり待っていた。
副隊長であり、道術師隊では一丈青に次ぐ地位にある男だ。
「どうした、
一丈青はその副隊長の名を呼んだ。
「……宝玄仙を見つけました……。ある商家です。最近になって獅駝に開いたばかりの商家に匿われています──。すでに、ほかの者に包囲させておりますが……」
索長が声を潜めて言った。
「よ、よくやったぞ──」
一丈青は、思わず声をあげた。
思わったよりも早かった。
城郭中を霊気探知するのだから、最低でも三日はかかると思っていたのだ。
「どこだ?」
一丈青は言った。
索長は、その商家のある通りの名を言った。
ここから遠くない……。
そんな近くに……。
大胆な連中だ。
「よし、行くぞ──」
一丈青は『移動術』を刻もうとした。
「お、お待ちください……。『移動術』は……。もしも、霊気の変化を悟られれば、逃げられるかもしれません。包囲している隊員にも、まだ、『逆結界』さえも、かけさせてはいません。態勢はとらせてはおりますが」
索長が慌てたように言った。
一丈青は確かに、その懸念はあると思った。
能力の高い道術遣いは、周囲の霊気の変化に敏感だ。
こちらの道術を感づかれて、『移動術』で逃げられたら終わりだ。
「ならば歩いていくか……」
一丈青は言った。索長が頷いた。
しばらく歩く。
程なく、索長の案内で、その商家通りに着いた。
「ここです」
索長はある一軒の商家の前に一丈青を連れてきた。
すでに近辺の商家の戸は閉じている。
周りには人通りもなく静かだ。
「ここか……?」
一丈青は呟いた。
ただ、なんとなく違和感があった。
索長が包囲させていると言った部下の気配がないのだ。
「包囲している連中はどこだ?」
一丈青は索長にささやいた。
そのとき、いきなり、眼の前の商家の戸が開いた。
びっくりした。
そこに宝玄仙がいたのだ。
「よくやったよ、孫空女──。面倒はなかったかい──?」
宝玄仙が索長に笑いかけた。
孫空女──?
一丈青は、索長に振り向いた。
すると、索長の顔だった顔が、あの赤毛の女に変化した。
「あっ」
思わず、一丈青は叫んだ。
「ご主人様、あのたまたま捕まえた道術師隊の男って、索長って名らしいよ……」
その孫空女が言った。
驚いた。
索長が赤毛の女に変身していたこともそうだが、その変化の術の霊具らしきものを眼の前で使われていたのに、一丈青がまったく気がつかなかったことにもだ……。
「こ、この──」
とにかく、捕まえる──。
一丈青は眼の前の宝玄仙を道術で捕まえようとした。
しかし、不意に風のようなものが通り抜けた。
「なっ?」
気がつくと、全身から一丈青の霊気が消えている。
しかも、身体が金縛りになったように動かない。
「よし、沙那、お前も出てきて、孫空女をふたりでこいつの服をひん剥きな」
宝玄仙が言った。
すると、剣を腰にさげた栗毛の女が店の中から現われた。
この女も外門で包囲したときに宝玄仙といた女だ。
「せめて、中に入れたらどうですか、ご主人様──。もう、ご主人様の道術で捕らえてあるんですよね?」
その栗毛の女がたしなめるように言った。
「いいんだよ──。こいつの服をここで脱がして、今度は、あの李媛に送り届けてやるんだ。下着から靴まで、なにもかも脱がせて、あの朱姫を陥れた恩知らずの李媛がいる行政府の前に捨ててやる。きっと、恐怖におののくさ──。わかったら、ふたりともさっさとやりな──。そして、孫空女は、もう一度、こいつの服を抱えて、行政府の前まで行ってきな」
宝玄仙が言った。
一丈青は、驚いて抵抗しようとしたが、身体はまったく動かない。
抵抗できない……。
一丈青の背に冷たい汗がどっと流れた。
まさか、こんなにも、道術遣いとして力量差があるとは……。
「やれやれ、じゃあ、やろうか、孫女……」
「そうだね」
孫空女と沙那のふたりが動けない一丈青の服に手をかけた。
一丈青は悲鳴をあげようとした。
しかし、その声さえも封じられている。
そして、ふたりの宝玄仙の部下らしき女が、一丈青が着ているものを淡々と脱がせ始めた。