616 交渉開始
山道は整備されていたが隘路になっている。
また、両脇には切り立った崖が迫っていて、上から物を落とせば容易に道を塞いだり、山道を進む軍を押し潰すこともできそうだ。
実際、かなりの罠が備えられている気配だ。
沙那は馭者台で荷馬車を曳く馬を操りながら思った。
攻めるには難しい地形だろう。
見通しも悪く、ところどころに意図的に曲がりくねった角が作られているし、方々に岩も突き出ている。
しかし、最初の歩哨がいた柵で、
それからしばらく、急な坂になっている道を荷馬車で登り、幾つかの柵を抜けていった。
柵の位置には、警戒の警戒の兵らしき者もいたが、今度は止められることはなかった。
案内はない。
幹道に沿って進むように指示をされており、整備されている道をただ進むだけだ。
いまのところ、出迎えの者や警戒の兵がやってくる気配はない。
なんとなく、進入は許すが、歓迎はしないという砦の意思表示を感じる。
やがて、隘路が一気に開けた。
すると、道の両側に棚田が拡がる。
道も平坦になり、人家もちらほらと見え始めた。
さらにしばらく進むと、田園は道の両側にも拡がりだし、眼の前が一面の田園の拡がる里になる。
遠くには人家もあり、子供や女がそこで生活する風景も垣間見える。
「ご主人様──」
沙那は馭者台から声をかけた。
荷台から宝玄仙と孫空女が姿を見せる。
「へえ、のどかそうな里だねえ。これ本当に砦なのかい?」
孫空女が感心したような声をあげた。
「そのようね──。でも、
沙那は思い出しながら言った。
大黒山という場所がどういう場所であるかは、双六から詳しく聞いて細かいことまで頭に入れていた。
大黒山の砦の城門を抜けずに、田園が拡がるというのは、沙那の頭にある知識と異なる。
「ほう、確かに、これは大したものさ……。わたしの故郷を思い出すねえ……」
宝玄仙が微笑みながら言った。
「ご主人様の故郷もこういう田園だったの?」
孫空女が宝玄仙に視線を向けた。
「田園じゃなくて、一面の麦畑だったけどね。こういう牧歌的な場所に、ぽつんと不釣り合いな二棟の屋敷があって、そこでわたしの母親はひとりで暮らしていたんだ。そのうちにわたしら姉妹が生まれたけどね」
「ひとりなのに、屋敷が二棟? 凄いねえ。お金持ちだったんだねえ」
「金持ちには違いはなかったようだけど、あの女にはどうしても、ひとりで二棟必要だったのさ、孫空女」
「なんで?」
「ひとつは女を集めて自分が嗜虐をするための屋敷。もうひとつは男を集めて、自分を責めさせるための屋敷さ。そのふたつを毎日のように行き来していたよ、あの女は……」
宝玄仙は声をあげて笑った。
あまり、宝玄仙の家族の話題には接したことはないが、さすがはこの宝玄仙の母親だと思った。
「いずれにしても、目の前の棚田の拡がる牧歌的な風景は偽物だよ……。見かけに騙されないことだね。ここら辺は、大きな幻想の道術がかかっているよ。あれは見た通りのものじゃない……」
宝玄仙がにやりと微笑んだ。
「どういうことですか、ご主人様?」
沙那は驚いて訊ねた。
「見てな」
宝玄仙が眼の前に向かって、なにかを発するような仕草をした。
沙那には霊気は感じられないが、宝玄仙はなにかの道術を発したのだろうか。
すると、いきなり眼の前の風景が揺れ始めた。
「なに、なに?」
孫空女が声をあげた。
沙那もびっくりした。
荷馬車が進む前方の風景が霧でもかかったかのように白い靄に包まれたのだ。
そして、その靄が晴れていく。
すると、荷馬車の進む前方の場所に限って、緑の田園にしか見えなかった光景が一面の沼地に変わってしまった。
「な、なんですか、これ?」
沙那はびっくりして声をあげた。
いまは、眼の前にあるのは、黒い泥のようなものが一面に広がる沼地帯だ。
そこに整備のされた道が通っている。
さらに風景の周りは、さっきの白い靄のようなものな枠があり、その外は最初に見えた田園風景が拡がっている。
「凝った道術の
宝玄仙が首を竦めた。
「いえ、わかりました。これも砦の堅固な防御の一部なんですよ、ご主人様。隘路を登りきって、こののどかな田園風景があれば、どんな人間の軍でも油断します。でも、うっかりと、この道から外れてしまえば、沼に脚を取られて、歩兵でも騎兵でも動きが止められてしまうということなんでしょう。これは、この砦の防御のためのからくりです」
沙那は言った。
「なるほどねえ……。すると、さしずめ、棚田にしか見えないあの斜面も実際には、違うというわけかい。もしかしたら、あそこには防御のための陣のようなものがあって、伏兵を置けるようになっているかもしれないね。幻想の霧は、あの辺りまで拡がっているからね」
宝玄仙は両脇の棚田に眼をやりながら言った。
「さすがは、道術でも防御された砦だということだね。じゃあ、あっちに見える家や子供とかの光景も幻ということ?」
孫空女も感心したような声をあげた。
「まあ、そういうことさ、孫空女……。ここは一面の障害地帯だよ。見事に欺騙されたね。それよりも、念のためだ。この荷馬車の周りに、簡単な結界を作っておくよ。こんな幻影だらけの場所じゃあ、隠れて矢でも射られたら、お前たちでも避けることもできないだろう?」
すると、また眼の前の情景が揺れ出した。
宝玄仙の結界で霊気がまた動いたので、周囲に立ち込めている幻影の霊気の波がまた乱れたのだろう。
しばらくすると、前から騎馬の近づく足音が聞こえ出した。
前方から十騎ほどの騎馬がやってきたのだ。
そして、その十騎は道を塞ぐようにしてとまった。
中央のひとりの男を除いて全員が武具を身に着けている。中央の男は農夫のような身なりだ。
「俺は
真ん中の農夫の身なりの男が言った。
朱雀というのは、この砦では大黒天に次ぐ第二位の地位の男のはずだ。
宝玄仙が無言で手を横に振った。
結界を解除したのだろう。
「ついてきてくれ……。大黒天はこの先の招待場で会う」
朱雀はそれだけ言って、馬を反転させた。
十騎の騎馬がさっと散り、荷馬車の前後につく。
「どういうことなんだろうね? 迎えに来るなら、さっさと来ればいいじゃないか」
孫空女がぼそりと言った。
「どういう行動をとるのか、じっと見守っていたのだと思うわ……。ここは逃亡亜人の砦よ。それを忘れちゃいけないわ、孫女」
「つまり?」
「頭領あての招待状を持っていたといっても、わたしたちは人間族よ。万が一のことを考えて、おかしな動きをしないかどうかを見ていたのよ。不自然な行動をすれば、敵とみなすためにね」
沙那は応じた。
「そうか……。だけど、ご主人様が、防御のための霧を払っちゃったから、監視するのをやめて、慌てて出て来たということか」
「つまりは、まだ、敵意のようなものを向こうは抱いているということね、孫女」
沙那は言った。
しばらく進むと、屋敷のようなものが並んでいる場所に到着した。
木の垣根で囲まれていて、沙那はここが招待場という場所だと思った。
これも、双六に聞いていたとおりだ。
実のところ、ここはまだ砦の中ではない。
そう見えるだけなのだ。
ここからさらに奥に進むことで、大きな城門があり、そこから先が本当の大黒山の砦のはずだ。
住民が住む里もその城門の向こうにある。
つまりは、この招待場は、まだ、砦の外と呼ぶべき場所なのだ。
「ここが招待場だ。頭領の大黒天はすでに待っている。降りて来い──」
垣根をすぎると、さっきの朱雀が馬から降りて、馭者台に集まっている三人に声をかけた。
双六によれば、重鎮などが集まって物事を決定するのは、砦の中央付近にある「衆議館」という場所だといっていたから、頭領がここで会うというのは、あまり幸先のいい兆候ではないと思った。
つまりは、会うことには会うが、できれば門前払いしたいということかもしれない。
この「招待場」は、まだ、門前なのだ。
「さて、どうするかね、沙那? なにか策があるのかい?」
宝玄仙が言った。
「特にありません。ただ、説得するだけです」
「だったら、わたしに策があるよ」
「なんですか、ご主人様?」
「双六によれば、頭領の大黒天というのは、大人しそうだけど、かなりの好き者らしいじゃないかい。だったら、わたしとお前たち……。それで、その男を色仕掛けで迫るんだ。そして、朱姫を助けるために、収容所を襲う勢力を提供してもらうのさ」
沙那は呆れて、言い返そうとしたが、今回はこれといって策はない。
双六によれば、大黒天は女には目がなく、むっつりしているがなかなかの女好きとは言っていたから、人物を観察してそれが有効そうなら、それもありかもしれない。
とにかく、手段を選んではいられないのだ。
「場合によっては、その策でいきますか……」
沙那は嘆息した。
「本当?」
孫空女がびっくりしたような声をあげた。
*
沙那と宝玄仙と孫空女は、招待場と呼ばれる屋敷風の建物のひとつに案内された。
最初に案内されたのは、出入り口に近い小さな部屋だ。
そこでしばらく待ってから、案内の兵がやってきて、沙那たちを案内した。
連れてこられた部屋は大広間のような場所だった。
話し合いのための専用の場所というわけではなく、この会合のために準備されたようだ。
部屋には五個の椅子があった。沙那たちが入ってきたこちら側の入り口に三脚、部屋の反対側に二脚だ。
結構広めの部屋の両側の壁沿いにあるかたちなので、かなりの距離がある。
卓のようなものはない。
ただ椅子があるだけだ。
沙那たち三人は、案内のふたりの兵に導かれて三脚ある方の椅子に座った。
真ん中を宝玄仙にして、両脇に沙那と孫空女が座る。
案内の兵は三人の両側にそのまま立った。
「沙那、中央に道術の壁の仕切りがある……。お互いを遮断する透明の遮断幕というところだね」
宝玄仙が耳元でささやいた。
それで、なぜ、こんなに両者の間隔が開いているかがわかった。
宝玄仙がさっき、強い道術の一端を見せたので、慌てて、そんな道術の遮蔽を準備したのかもしれない。
そういえば、さっき朱雀は、すでに大黒天は待っていると言っていたのに、沙那たちは少し入口の部屋で待たされた。
もしかしたら、これを急遽準備したのかもしれない。
すぐに、向こう側の入り口から、さっきの朱雀ともうひとり別の男が現われた。
朱雀の隣の男が頭領の大黒天だろうか……?
双六からは、ぱっとしない風貌と聞いていたが、確かにそんな感じの男だった。
ふたりが向こう側の椅子に腰掛ける。
同時に六人の護衛らしき兵たちもやってきた。
こちら側に立っている兵も含めて全員が武装している。
全員が手練れであるということは、沙那にはすぐにわかった。
護衛たちは、左右に分かれて、こちら側にやや迫るように立った。
武装については、部屋の反対側に座る朱雀もしている。
唯一、大黒天と思われる男だけが丸腰だった。
こちら側は見かけは誰も武装していない。
沙那も剣は荷馬車に荷と一緒に置いてきた。
孫空女の耳の中には『如意棒』があるが、その情報は向こうにはないだろう。
いずれにしても、咎められることはなかった。
「大黒天です」
ぱっとしない風采の平凡な男だった。
やはり、この男が大黒天のようだ。
「わたしは沙那です……。こちらが女主人の宝玄仙。こっちは孫空女です。今回は、面談に応じて頂き感謝します」
まず、沙那は言って頭を下げた。
しかし、横の宝玄仙と孫空女のふたりは頭をさげなかったようだ。
宝玄仙はなぜか大黒天を見つめてにこにこと笑っているし、孫空女は一瞬も気を抜かないように警戒しているのがわかる。
「あなた方が双六という名で知っている男は俺の旧友です。その双六が、是非あなた方に会って話を聞いて欲しいと手紙で頼まれました。だから、こうやって会っています。俺は、頼まれれば断われない性分でしてね……」
「双六殿とは、昵懇にさせて頂きました。その名が本名でないことだけは教えられました」
「彼に本名などありません。とにかく、その双六とは義兄弟なんですよ。俺が知っている人間族の中では数少ない信用のできる男です。そして、彼はいまのところ、砦の内側に入ったことのある唯一の人間族です。その彼の頼みなら断れません」
「人間族にも信用のできる者とできない者もいます。逆に言えば、亜人族も同じですね。わたしたちは、ついこのあいだまで、亜人族の魔王に不当に囚われていました」
「それは知っています……。でも、亜人族といっても、俺たちは北に住む亜人族とは無関係です。彼らの故郷が
喋っているのは大黒天と沙那だけだ。
ほかのものは、じっと聞いているだけのような感じになった。
「その不当な扱いを受ける亜人族のために、大黒天殿は、このような砦を築いたのですね?」
「俺がひとりでやったことではありません。俺は頼まれたから頭領を引き受けています。頼まれた以上、全力を尽くして、ここを人間族に虐待される亜人族の逃げ場所にする。それだけです」
「では、聞いてください。わたしたちには、もうひとり仲間がいます。半妖の娘です。それを助けたいのです。あの亜人収容所に囚われているのです。どうか、力を貸してください」
沙那は言った。
頼まれれば嫌とは言わない男──。
それが、大黒天の二つ名だとは、双六からも聞いている。
少し話しただけの印象だが、この大黒天という男は随分と人当たりがいいし、自分でも頼まれれば嫌とは言わないというようなことを口にしている。
ならば……。
「お断りします──」
だが、大黒天はきっぱりと言った。