眼の前に奇妙なものがぶらさがっている。
手足をひとつにまとめて縛られたひとりの女だ。
黒松林は自分の眼を疑うとともに、この素晴らしい幸運に興奮を噛みしめていた。
地湧子に命じられた四人旅の女を見つけたのは一日前のことだ。
その人相書きの女たちを見つける仕事は、大して面倒なことではなかった。
なにしろ、この四人は
黒松林は二十名近くの手下を街道沿いのあちこちで見張らせていたが、料理屋の前には、黒松林自らが張っていた。
すると、四人のうちのひとりであり、剣を持っている沙那という栗毛の女がいきなり、道の真ん中で小便をし始めたのだ。
この辺りの田舎ではちょっと見ることもないような美女が、突然に周囲に大勢の人間がいるのにかかわらず、
だが、同時に、その四人のうちのひとりを捕まえて砦に戻れというのは、思っていたよりも、難しい仕事だということもすぐにわかった。
手を出すと危険な相手と、単なる獲物を見分ける眼は盗賊に絶対に必要な眼力といっていい。
うっかりと手を出してはならない相手を襲ってしまって、返り討ちになるというのは珍しい話ではない。
その点、黒松林は相手の力量を見分ける自分の眼には絶対の自信を持っていた。
地湧子に命じられた宝玄仙、沙那、孫空女、朱姫という四人の女は簡単な相手ではない。それはわかった。
まずは、宝玄仙──。
黒松林もそれほどの霊気は持っていないが、霊気を帯びる者の霊気の大きさくらいはわかる。
あの宝玄仙には途方もない霊気があるのは明白だ。
だから、絶対に宝玄仙には、手を出してはならない。
そして、沙那という女と孫空女という女。
このふたりがかなりの武術の遣い手だというのも、すぐにわかった。
道術をたしなむ者は、発する気だけでお互いの力量がわかりあえるものだ。
この女ふたりも、黒松林には手が追えないと思った。
手が出せるかもしれないと思ったのは、辛うじて朱姫という若い少女だった。
帯びている霊気も大したことはないし、武術をたしなむ気配はない。
だから、なんとか朱姫をさらっていこうと考えた。
だが、料理屋の前の騒動に接して、その考えは甘いということを悟った。
じっと見ていると、朱姫はかなり、大きな霊気を必要とする道術を実に無造作に使っているのがわかった。
沙那に座り小便をさせたのは、おそらく『縛心術』だろう。
そして、その沙那が我に返って朱姫を捕まえようとしたときには、『移動術』を遣ってどこかに消えてしまった。
どちらの道術も、小さな霊気の持ち主では遣えない技だ。
しかし、朱姫の帯びている霊気はそれほど大したものとも思えない。
つまりは、朱姫は普段は霊気を帯びているということを感じさせない道術遣いだということだ。
そういう目に見えない能力の持ち主というのは、力の見えている者よりも却って危険だ。
黒松林は、朱姫もまた手を出してはならない相手だと思った。
陥空山には、黒松林のほかにも多くの盗賊がはびっこっている。
やはり、そのどの一味も、あの四人には手を出そうとはしなかった。
隠れて見張っている大黒山の眼には、あの料理屋の前で、何人かの盗賊らしき者も見たが、彼らも一様にあの女四人組のことは、諦めるべき対象とみなしたとような表情をしていた。
あの女四人が危険というのは誰の目にも明らかなのだ。
案の定、女四人が野宿を始めだしたというのに、誰も手を出そうとしない。
さらに、驚いたが、あの女たちは百合の関係でもあるようだ。
遠くから見張っていると、今度は沙那という女が、朱姫のことを裸にして羽根のようなものでなぶりだした。
これこそ隙かもしれないと色めきだったが、霊気を研ぎ澄ませると、どうやら厚い結界の中に連中がいるというのがわかった。
どうしたものか……。
隠れている手下の顔も暗い。
五日以内にあの女猛者のひとりでも捕まえて戻らなければ、全員の首が切断されてなくなるのだ。
いまでも、あの恐ろしい童女がすぐそばで見張っているような気がする。
そんなことを考えていると、朱姫という少女が沙那を担いできて、すぐそばの樹の枝にぶらさげたのだ。
手首と足首をひとまとめに縄で縛って……。
沙那は気を失っているようだった。
そして、朱姫は、くすくすと笑いながら戻って行った。
大黒林は眼を疑った。
すぐ近くの樹木の枝にぶら下がった沙那は、困っている黒松林に神が与えてくれた贈り物の果実のように思えた。
いかなる馬鹿げた考えで、あの朱姫が眼の前のようなことをしたのかわからないが、千載一遇の機会だ。
それにしても、裸の女が樹木からぶらさがっているなど、これほどの奇妙な果実があるだろうか……。
「おい──」
黒松林は部下たちに声をかけた。
いずれにしても、これに失敗すれば、黒松林たちは死ぬしかない。
黒松林は、沙那が吊られている縄を切断して、砦に連れ戻るために、部下とともに草の外に出た。
*
「いいかい、朱姫。しばらくは、隠れて見ているんだよ……。すぐに声をかけちゃ駄目だよ。沙那の慌て振りと、狼狽ぶりをたっぷりと見物してから、出ていくんだからね」
「とりあえず、沙那姉さんのお尻を丸出しにしてから、術を解いて起こそうかと思ってます。さっきまで、みんなのそばにいたのに、気がついたら、誰もいなくて、しかも、下袴と下着だけを脱がされて、樹にぶらさげられているなんて、沙那姉さんもびっくりするでしょうね……。あたし、わくわくしちゃいます──」
宝玄仙は朱姫とともに、沙那が朱姫に再びかけられた『縛心術』で樹木にぶらさがっているという現場に向かっていた。
寝ている孫空女と荷が置いてある場所と、それほど離れていない場所であるが、沙那のいるところからは、直接にはそこが見えない場所を選んで、朱姫は沙那を樹木にぶらさげてきたようだ。
まったく、さっきまでいたぶられていたのと、同じ格好で今度は沙那を嗜虐しようという朱姫の発想には驚かされる。
これだから、こいつは面白いのだ。
たったいままで懲らしめていた朱姫から、今度は逆に懲らしめられる。
沙那は怒り狂うに違いない……。
だが、その怒り狂う沙那をふたりがかりで嗜虐する……。
そのことに、宝玄仙は興奮を覚えていた。
「だけど、孫姉さんは大丈夫ですかねえ。ご主人様が結界の外に出ちゃったから、孫姉さんと荷を覆っていた結界は消えちゃったんですよね。沙那姉さんが、ここは盗賊が多いって言っていたけど、心配ないですよねえ?」
「おやおや、仕掛け人のお前がそれを言うのかい──。まあ、孫空女に限って大丈夫だよ。あいつは、誰よりも気配に敏感なんだ。ぐっすり眠っていたけど、盗賊が近づけばすぐに起きあがるさ──。気の毒なのは、孫空女が寝ていると思って襲ってくる盗賊の方さ」
宝玄仙は、朱姫と並んで歩きながら笑った。
刻んだ結界は、ほとんど無敵の空間をそこに作り出すのだが、それは宝玄仙が結界の中にいるときだけなのだ。
宝玄仙がこうやって、結界の外に出てしまえば、たちまちに結界は消滅してしまう。
だから、さっきまでの場所を覆っていた結界は消滅してしまっている。
そこに、眠っている孫空女と荷を置いたままで……。
朱姫はそのことを言っているのだ。
「そうですよね……。孫姉さんは心配ないですよね」
朱姫も笑った。
しばらく歩いて、山道が少し屈曲している場所にきた。
「この先です……。とりあえず、ご主人様、こっちに結界をかけてくださいね。沙那姉さんを置いてけぼりにしたように見せかけて、あたしたちは離れて隠れるんですから、縛られている沙那姉さんに万が一のことがあったら、可哀そうです」
朱姫がにこにこしながら先導する。
「わかっているよ……。だけど、明日の朝はお前も覚悟するんだね。沙那は怒り狂うよ」
「それこそ、わかっています。でも、そうしたら、そのうちに沙那姉さんに仕返しをするんです……。ちゃんと沙那姉さんのお仕置きは受けますよ。さっきだって受けたじゃないですか──。あたしと沙那姉さんは、そうやって、仕返しをしたり、受けたりすることを繰り返して、お互いの愛情を深めている間柄なんです。沙那姉さんだって、どんなに怒り狂っても、最後には許すんですから……。お互いに愛情があれば、意地悪をし合ってもいいんです」
朱姫はきっぱりと言った。
「そうかねえ……。そう思っているのは、お前だけと思うけどねえ……」
宝玄仙は苦笑した。
「あれっ?」
朱姫が急に立ちどまった。
「どうしたんだい?」
なんだか様子がおかしい。ひどく当惑しているような気配だ。
しかし、夜闇のために宝玄仙にはなにも見えない。
朱姫は夜目が利くから、灯りなしで先導しても、すたすたと歩いていたが、宝玄仙は明かりがないと、ちょっと夜道を歩くのはつらいのだ。
宝玄仙は持っていた灯りをひょいとかざした。
そこには、明らかに刃物で途中を切断された思われる縄が枝からぶらさがっていた。
「朱姫、沙那はどこだい?」
宝玄仙は訊ねた。