「沙那姉さん、こっちですよ。どうぞ、どうぞ」
外から宿に戻ってきた沙那に、いきなり朱姫がひとりだけやってきた。
沙那たちが宿泊することにした宿は、一階が食堂で二階に宿泊のための部屋があるという典型的な宿屋である。
朱姫が待っていたのは、その一階の食堂であり、ほかの三人がいないところを見ると、すでに夕食を済ませて部屋に入ったのだろう。
食堂には、十個ほどの卓があったが、その半分くらいが埋まっていた。
もう、陽が沈んでかなり経つ。
卓にいるのは男も女もいるが、酒をかわしている者がほとんどだ。
「こっちです」
朱姫はひとりでひとつの卓を占領していたようだが、沙那の姿を見つけると駆け寄ってきた。
そして、沙那を自分が占拠していた卓につかせると、自分も座り、すぐにひとり分の夕食を注文した。
「いつもあたしたちのために、情報集めをしたりしてくれてありかとうございます」
「え、ええ……」
とりあえず返事をしたが、なんなのだろう?
沙那はこの旅の管理を任されているので、城郭などに入ると周辺の噂話や先の路程の状況などの聞き込みをして、なるべく先で災難に遇わないように情報集めをしている。
そのため、ほかの者とともに宿に入ってから、すぐに出ていくのが常だが、この娘は、いまだかつて感謝の言葉など口にしたことはないはずだ。
「それで、
朱姫は低い声で言った。
素蛾は、この天神国の本物のお姫様であり、なぜか気がついたら国境近くの平原にひとりで立っていたという災難に遇った十二歳の童女だ。
そして、あっという間に奴隷狩りに遇って奴隷商で売られていたのを、偶然に見つけた宝玄仙が保護することにしたのだ。
しかし、調べてみても、国都からは素蛾という王女……この国では「公主」と称するのだが……は行方不明にはなってはいないということだった。
それが、どういうことなのかわからないが、ともかく素蛾を国都まで連れてこようということになったのだ。
それで半月ほど一緒に旅をしてきた。
ここは、国都の手前の宿町だ。
ここまで来れば国都までは半日もかからない。
無理をすれば、今夜のうちに国都に入ることもできたと思うが、それは避けた。
国都にいると思われる素蛾の偽者がどういう状況なのかも判然としない。
いずれにしても、ここでいくらか情報を集めてからの方がいいと思ったのだ。
「いえ、さすがに有益な情報はなかったわね。わかったのは、公主のひとりが、一瞬でも行方不明となったというような話はないということね。明日には、国都に入ると思うから、そのときにもう一度、聞き込みをしてみるわ」
「そうですか……」
朱姫が神妙な顔で頷く。
「素蛾のことが心配?」
沙那は訊ねた。
わざわざ待ち構えていたのは、やっぱり、素蛾のことを心配してのことだと思ったのだ。
素蛾を伴っての旅のあいだ、素蛾は完全に朱姫の妹分だった。
本物の王女を助けるために、国都に連れていくことにしたのはいいのだが、あの宝玄仙が、王女に戻るまでは、素蛾は宝玄仙が購った性奴隷であり、旅のあいだにきっちりと性調教すると言い出したのだ。
その調教係を命じられたのが朱姫であり、朱姫は素蛾に対して連日、淫乱な調教を繰り返している。
最初は沙那も驚いてやめさせようとしたのだが、当の素蛾がそれを悦んでおり、積極的に調教に勤しんでいる。
だから、沙那もとめようもなく、いまに至っている。
しかも、素蛾の朱姫への慕いようは尋常ではなく、愛情だけのことなら、まるで本物の姉妹であるかのようだ。
だから、朱姫も、明日は国都という状況で素蛾が心配になり、わざわざ待っていたのかと思った。
「そりゃあ、心配ですよ……。ちゃんと、宮殿に戻してあげたいし……」
朱姫は言ったが、その表情は複雑そうだ。
素蛾が宮廷に戻るということは、素蛾との別れを意味する。
別れが近づいていると思うと寂しいに違いない。
「とにかく、素蛾については、まだ顔を隠していた方がいいと思うわ。それで、これ……」
沙那は宿町を歩いていて購ってきた頭巾付きの外套を朱姫に手渡した。
「なんですか、これ?」
「明日はこれを素蛾に着せなさい。国都に入れば、素蛾の顔を知っている者もいるかもしれないわ。状況が判然とする前に騒動を起こしたくないのよ。だから、素蛾にはこれを着せて」
「ふうん……。これを着せるんですね……。わかりました、沙那姉さん。沙那姉さんの命令だと言いますね」
朱姫は、沙那の準備した袖なしの外套を広げながら意味ありげに微笑んだ。
なんなのだろう?
沙那は首を傾げた。
そのとき、食事が運ばれてきた。
「どうぞ、沙那姉さん。あたしたちは先に頂きましたから」
朱姫が言った。
沙那は食事を始めた。
すると、朱姫が食事とともに運ばれてきた水の瓶を手に取り、空の杯に注いで沙那の前に置いた。
「な、なによ?」
沙那は思わず食事の手を止めて言った。そんな親切をこの娘がやるわけがない。
やるとすれば、この瓶に得たいの知れない媚薬でも入っているときだ。
「な、なにって、なんですか?」
「それはわたしの言いたいことよ。食事はひとりでできるわ。部屋にあがりなさいよ。そう言えば、部屋割りはどうなっているの?」
「沙那姉さんは、ご主人様と孫姉さんと一緒です……。ああ、そう言えば、孫姉さんが、早く沙那姉さんに部屋に戻って欲しいと伝えてくれと言ってました。なにか、ご主人様に新しい霊具の実験台になれとか言われたみたいで……」
「あっ、そう……」
沙那はうんざりしながら言った。
そして、聞いておいてよかったと思った。
あの気まぐれな女主人のことだから、熱情は二刻(約二時間)もあれば覚めるだろう。
その頃には、かなり宝玄仙の責めも緩やかになっているはずだ。
沙那は、あと二刻(約二時間)は、二階にあがらないと決めた。
「それじゃあ、あんたは素蛾と二人部屋?」
「そうです。ご主人様が最後の夜かもしれないからと……」
朱姫が言った。
宝玄仙も朱姫と素蛾がすごく仲がいいことはわかっている。
だから、気を使ってあげたのだろう。
「じゃあ、素蛾はいま、部屋にひとりなの?」
沙那は訊ねた。
「そ、そうです」
「それで、あんた、なにしてるの?」
「な、なにって……」
「白状しなさいよ。だったら、あんたがこんなところで、油でも売るようにわたしの相手をするわけないでしょう。なんの悪戯しようとしているか言いなさい──」
沙那はほかの客が注目しない程度の声で怒鳴った。
朱姫の様子がおかしいのは明らかだ。
今度はどんな性悪な悪戯を思いついたのか……?
「ひ、ひどいですよ、沙那姉さん……。そんなんじゃないです……。実は、相談があるんです……」
「相談?」
沙那は眉間に皺を寄せたが、朱姫はなにかを企んでいるという感じではない。
顔はどこまでも真剣だ。
どうやら、この悪戯娘が珍しくもなにかを悩んでいるのだと思った。
だが、なかなか言いにくかったのだろう。
それで、ちよっとおかしな態度だったのだとわかった。
沙那は嘆息した。
「聞くわ……。言いなさい、朱姫」
沙那は言った。
「あたし……、素蛾に、あたしが半妖、つまり、人間と亜人の合の子であることを教えようと思ってるんです。もう、最後の夜かもしれないし……。だけど、いざとなると怖くて……。それで悩んでいたんです。どうなんでしょう、沙那姉さん──? あたし、素蛾にあたしが半妖であることを告白してもいいんでしょうか?」
朱姫は一気にまくし立てるように言った。
沙那は驚いた。
「な、なんでお前が半妖であることを素蛾に教えないとならないのよ? 黙っていればいいじゃない……。というか、それを教えてどうするのよ?」
沙那は思わず言った。
「だ、だって、多分、素蛾はそれを受け入れてくれると思うんです。あたしにはわかるんですよ。素蛾はあたしがどんな存在なのかなんて、まったく関係なくあたしを受け入れてくれます。多分、間違いないです。だから、教えてもいいと思うんです」
朱姫は必死の口調で言った。
「質問に答えてないわよ。わたしには意味があると思えないわ。あんたと素蛾は、傍目から見て、とてもいい関係だと思う。素蛾はあんたが半妖であることを気にしないかもしれないけど、半妖に偏見のある者は多いわ。わざわざ、そんなこと教えて、お互いに嫌な思いをすることないじゃないの。黙ってなさい」
「でも、素蛾はまったく気にしないと思います。そういう子なんです。とても素直で……。そして、あたしのこと好きだと言ってくれて……。それから……」
「いいから聞きなさい、朱姫──。だから、なんのために言うのよ? その告白で誰も得しないわ。素蛾が気にしなければ、あんたと素蛾の関係は変わらない。でも、万が一、気にしたら? あんたが半妖だと告げることで、急に冷たい視線であんたを眺めだしたらどうするの? あんたは耐えられるの?」
沙那たちがいた東方の世界でもそうだったし、こちらの西方の世界でもそうだが、朱姫のように、人間と亜人、つまり、妖魔との合の子である半妖というのは偏見と差別の対象だ。
理由などない。
理屈もない。
しかし、なぜか、中途半端な存在として、昔から嫌われ者とされている。
朱姫は見た目が人間だから黙っていればわからないが、朱姫と普通に接していたのに、朱姫が半妖だとわかった瞬間に態度を覆す者は多かった。
沙那も実際にそんな場面に少なからず接してきた。
朱姫は性格も強いし、基本的に陽気だから、そんな扱いを受けても気にしたような態度は出さないが、内心ではやっぱり傷ついているということを沙那も知っている。
朱姫の気持ちはわからなくもない。
素蛾にそれを打ち明けたいというのは、逆に朱姫が半妖であることに劣等感を持っている証だし、素蛾への朱姫の愛情が本物であるということでもあるのだろう。
朱姫は素蛾が朱姫を受け入れるということを信じたいのだ。
だが、もしも、素蛾が受け入れなかったら……。
そのときは、朱姫は本当にひどく傷つくだろう。
沙那は朱姫が傷つくのを見たくない。
傷つかせたくないのだ。
「いい、朱姫──? あの子は素直よ。王女であるということは通り越して、本当に人としていい子よ。でも、考えてみてよ。素直であるということは、生まれ育った環境の価値観にも素直ということよ。残念ながら、この天神国にも、半妖、つまり、合の子への偏見は根強いわ」
「で、でも……」
「いいから聞きなさい──。それは、あの子の罪でもないし、仕方がないことよ。そりゃあ、変わってるから、まったく気にもしないかもしれないけど、もしかしたら、びっくりして、あんたの調教を拒否したりするかも……」
「そ、そんなことないですよ。素蛾はそんな子じゃないです。あたしのこと好きって──」
すると、朱姫がいまにも噛みつかんばかりの口調で怒鳴った。
沙那は嘆息した。
「わかったわ……。だったら言いなさい……。ただ、その結果、素蛾の態度が変わっても怒らないであげて……」
沙那は静かに言った。
「そ、そんなあ──。打ち明けて、素蛾があたしを嫌ったらどうしたらいいんですか?」
朱姫は抗議の口調で言った。
「じゃあ、どうしたいのよ?」
沙那は呆れて声をあげた。
「……それがわからないから、悩んでいるんです……」
朱姫は俯いた。
沙那は息を吐いた。
「わかったわ……。じゃあ、こうしなさい。『縛心術』を遣いなさい。自分と素蛾に……」
沙那は言った。
「『縛心術』ですか?」
朱姫はきょとんとしている。
「そうよ……。こんなときこそ遣いなさい。打ち明ける前に、素蛾と自分自身に暗示をかけておくのよ……。あなたの告白が望んだ通りの結果だったらなにもしない。だけど、もしも、望んだ結果じゃなかったら、ふたりの記憶からそれを消去するの。それなら、どっちの結末でも、ふたりとも傷つかないわ。あんたは自分自身にも術はかけられるし、霊気のない素蛾にも『縛心術』をかけられるのでしょう?」
沙那は言った。
「で、でも、告白したことを忘れてしまえば、もう一度、同じことをしようとするかも……。いえ、多分すると思います。記憶を消すのは簡単ですが、やりたいことをやめるようにするのは難しいんです」
「それも自分自身に暗示をかけるといいわ。もしも、記憶消去をする結果になったら、なにかの記しを残しなさい。そして、告白しようと思ったら、必ず、前もってわたしに相談するようにも暗示するの……」
「暗示ですか……?」
「いまも相談しているくらいだから、素蛾に打ち明ける前に、わたしに話をするように暗示をかけるのは、あなたにとってかけやすい暗示のはずよ。わたしは、明日の朝、お前に記憶消去の記しがあるかどうかを確認して、もしも、残念な結果に終わっていれば、次に相談されたときには、全力で阻止するわ」
朱姫はしばらくのあいだ、沙那の言ったことを考えていたようだったが、やがて、大きく頷いた。
「そうします……。あたし、これから上に行って、素蛾にあたしが半妖であることを言いますね。もしも、素蛾がそれを受け入れなかったら、あたし、明日の朝、下着を着けません。沙那姉さんは、それを明日、確認して下さい」
なんで下着なのかと思ったが、それはもう言わなかった。
「わかったわ。いってらっしゃい……」
沙那はにっこりと微笑んだ。
「ありがとうございます。やっぱり、沙那姉さんに相談してよかったです」
朱姫が立ちあがった。
沙那は頷いてから、食事に戻った。
「本当に沙那姉さんは、花の美しさは死に絶えなくて、時とともに艶を失っても、子がその美しい面影を伝えますね」
朱姫が言った。
なんのことかわからなかったが、特に気にはならない。
不思議に頭がぼんやりとするが、別段に問題もないだろう。
沙那は黙って食事を続けた。
「服をお預かりしますね。下着姿になるといいですよ、沙那姉さん。服は部屋に置いておきます」
朱姫が言った。
「そうね。お願いするわ……。でも、わたしのことは気にしないで。あなたのことに集中しなさい……。だけど、素蛾は多分、まったく気にしないと思うわ」
沙那はいったん立ちあがって、上衣と
急に周囲が騒然となったと思ったが、とりあえず無視した。
「じゃあ、いってきます。いずれにしても、今夜は素蛾とふたりですごします。あたしに話があっても、明日の朝でお願いします。食事が終わったら、正気になると思いますけど、あたしに会えるのは明日の朝です」
「ふうん」
沙那は座り直した。
相変わらず周囲がやかましい。
今夜に限ってなんなのだろう?
だが、沙那はだんだんと不愉快に感じてきた。
なんだかじろじろと見られている気もする。
いずれにしても、朱姫のことだ。
素蛾への告白がうまくいくといい。明日の朝まで朱姫には、どんなことがあっても話はできないから、明日、朱姫の
沙那は食事を再開しながら思った。
「そうだ──。こうしましょう。正気になるのは食事の後ですけど、その場でおしっこをしている最中です。食事の終了と同時におしっこが出ますけど、気がつくのはそのときで、しかも、おしっこが最後まで終わるまで立てませんから」
「わかったから、行きなさい、朱姫」
まだ不安なんだろうか?
なかなか上にいかない朱姫に、苦笑しながら沙那は上にあがるように手で促した。
すると、沙那の服を抱えた朱姫が、なんだか嬉しそうに二階に上がっていった。