「随分と待たせるじゃないか、
宝玄仙は隣の席に手を伸ばすと、文春という男の睾丸を下袴の上から鷲づかみにして静かに揉みあげてやった。
「うっ」
文春が上気した顔をかすかに天井に向ける仕草をした。
そして、溜息のような息を吐きながら小さな声をあげる。
宝玄仙の手の中の文春の肉棒がたちまちに怒張になる。
「おやおや、さすがは、宮殿きっての色男じゃないか。また回復したのかい。だったら、宰相が来るまでまた一発遊んでやろうかい?」
宝玄仙が文春の股間をさらに刺激しながら笑った。
「ご主人様、いい加減にしてください──。すでに約束の刻限はすぎているんですから、もう来ますよ──。それと、宰相じゃありません。副宰相です。ふたりいる副宰相のひとりで、
椅子に座っている宝玄仙と文春から少し離れた壁際で護衛然として立っている沙那が叱咤した。
天神国の国都にある三階建ての料亭だ。
その最上階にいる。
貴人しか使えぬというこの席で、宝玄仙は文春という宮殿の文官とともに、その蔡玄人という男を待っているのだ。
料理と酒はすでに卓に並んでいる。
隣の部屋には、男と女が寝るための寝所まである。
そんなことまでするかどうかは成り行き次第だが、交渉事がうまくいかないようなら、四人掛かりで色仕掛けでもなんでもする……。
そういうことになっているのだ。
副宰相だろうと、宰相だろうと、片っ端から朱姫に『縛心術』をかけさせてもいいのだが、ただの人間に対する『縛心術』については不安定だし、宰相や副宰相くらいになると、そういう操り術を避けるための霊具で防護していることが十分に考えられる。
だから、できれば相手を「説得」したい。
ここまでこぎつけるのに、丸二日かかった。
素蛾を連れて行ったあの亜人が、宮殿で公主に化けていることは明らかだ。
だから、そいつを捕まえて素蛾を取り戻すには宮殿に行けばいい。
だが、そこ手段がない……。
一介の旅人である宝玄仙たちでは、宮殿にあがるなど簡単ではないのだ。
最初は、宮殿にいる公主は偽者だと真正面から役所に訴え出てみた。
だが、駄目だった。
門前払いされただけでなく、危うく兵を呼ばれて捕縛されそうにもなった。
次に考えたのは、なんとか宝玄仙たち四人を宮殿にあげることができる権力者を捕まえることだ。
道術でも脅迫でもなんでもいい。
とにかく、宮殿にあがり偽公主と対面することができれば、化けの皮を晴らすとともに、素蛾を取り戻すこともできるだろう。
宝玄仙の道術でも歯が立たなかった『防御術』は大したものだが、この際、別にあの亜人を倒してしまう必要はないのだ。
偽者だということをもう三日後に迫っている婚姻の式典の前に暴露してしまえばいいのであり、それについてはいくらでもやりようがある。
そして、沙那と孫空女があちこちに聞き込みをして、この文春というの文官の存在を見つけてきた。
この男は宮殿に出入りしている文官の中で、宰相と直接話をするほどの上級の役人であり、しかも、かなりの色事師だということだった。
毎夜のように贔屓にしている高級娼館に出入りして、女を抱いているということもわかった。
そこまでわかれば、あとは面倒ではない。
沙那と朱姫がその娼館に乗り込んで、娼館の主人に朱姫の『縛心術』をかけて、沙那と朱姫を昔からの娼婦のひとりとして誤認させ、この文春に抱かせる女として差し出させた。
そして、文春を沙那と朱姫がふたりで相手をして、朱姫が『縛心術』をかけてしまったのだ。
あとは朱姫の完全な操り状態だ。
この文春に、宝玄仙たちを宮殿に入れることができるほどの権力を持っている相手を紹介しろと命じたところ、副宰相とやらの蔡玄人の名を出したのだ。
ただ、いまはどの大臣級の役人も、公主と西方帝国の皇子の婚姻の儀式でひどく忙しいようだ。
明日には、皇子がこの天神国の国都に道術で到着して、明後日には道術契約の『結婚の儀』を結ぶ儀式がある。
正式の儀式は、さらに十日も続くらしいが、一連の婚姻行事の最初が、その『結婚の儀』なのだ。
なんとかその前に、偽公主の陰謀を阻止しなければならない。
そのとき、店の者が客がやってきたと報せてきた。
副宰相の蔡玄人は、文春がしつこく念を押しているので、完全なお忍びでここにやってくるはずだ。
文春と蔡玄人はふたりとも好色ということで馬が合い、それで個人的にも仲がいいと文春は言っていた。
文春が立ちあがって蔡玄人を迎える態勢になった。
宝玄仙も一緒に文春の横に並ぶ。
沙那は部屋の端にある衝立の横に立ち、その衝立に後ろにいる孫空女と朱姫に声をかけている。
「文春か……。大事な話とはなんだ?」
三人の護衛を伴った恰幅のいい禿げ男がやってきた。この男が蔡玄人だろう。
「わざわざ、ご足労頂いてありがとうございます。国の大事でございます」
文春が頭を下げた。
宝玄仙もそれに合わせて頭を下げる。
文春が蔡玄人を準備してある上座に案内しようとした。
しかし、蔡玄人は険しい顔をしたまま、部屋に一歩入ったところから動こうとしない。
「この女はなんだ?」
「宝玄仙と申します……。公主の素蛾様とは昵懇の仲の女でございます」
宝玄仙はお辞儀をして顔を伏せたまま静かに言った。
「公主様の?」
蔡玄人の顔が曇った。
そして、部屋を見回して、衝立の横にいる沙那を見つけて、不審そうな視線を送った。
「……お館様、あの衝立に向こうに誰か潜んでおります」
護衛が蔡玄人にささやくのが聞こえた。
「どういうことなのだ、文春? いささか胡散臭いな。俺に誰かを会わせたい者があるとしても、いきなり引き会わされてものう……」
蔡玄人が文春を睨んだ。
話を聞くことなく、いまにも帰りそうな気配だ。
「ご主人様、とにかく、先に顔を見て頂いた方が……」
沙那が声をかけてきた。
宝玄仙はうなずいた。
「どうぞ」
沙那が芝居がかった口調で衝立の後ろに声をかけた。
ふたりが出てきた。
「こ、公主様──。なぜここに──?」
蔡玄人が目を見開いた。
朱姫にかしずかれるかたちで衝立の横から姿を出したのは、素蛾の姿に変身させている孫空女だ。
孫空女は随分と緊張しているようだ。
ぎこちなく歩く素蛾の姿の孫空女に、宝玄仙は思わず吹き出しそうになった。
*
「公主様? いや、まさか……? 公主様は宮殿におられるはずだ……。だが、確かに、公主様のようだ。なぜ、公主様がここに?」
蔡玄人が呆気にとられている。
沙那はその表情をじっと観察して、とりあえずほっとした。
半信半疑ながらも副宰相の蔡玄人を話の土台に乗せることができたのだ。
しかし、問題はこれからだ。
これから、なんとか宮殿にいるのが偽公主であることを納得させなければならない。
「宮殿にいる公主様は偽者です。このお方こそ、まことの公主様の素蛾様でございます。あまりにもお辛いことがおありになりましたので、いまは口をきくことができません。しかし、いま宮殿にいる公主の姿をしている者は、真っ赤な偽者──。どうか、可愛そうな公主様を助けてあげてください」
宝玄仙が静かに頭を下げた。
こんなに物静かで礼儀正しい宝玄仙など、沙那は接するのは初めてだ。
やろうと思えば、こんな演技もできるのだと沙那は感心してしまった。
とにかく、今回の宝玄仙はいつになく真剣であり、素蛾の奪回に協力的だ。
沙那がみんなに策を説明するときも、宝玄仙は真剣だった。
「こっちが本物の公主様で、宮殿の公主様が偽者だというのか──? 確かに眼の前におられるお方は公主様であることは俺にわかるが……。さて、しかし、公主様はいまは、明日やってくる西方帝国の皇子の出迎えの準備の真っ最中のはず……。こんなところにおられるのはなぜなのです?」
「だから、その公主は偽者……。ここにいる公主の素蛾様こそ本物ということです」
宝玄仙が言った。
「まさか、そのような戯言……。公主様、いかなる理由でこの蔡玄人をおからかいなさるのですか?」
蔡玄人が孫空女が変身している素蛾を見つめて言った。
「嘘ではありません。宮殿の公主様は偽者です──」
沙那は横から口を挟んだ。
「あなたは?」
蔡玄人が突然に沙那の割り込みに不機嫌そうな顔をした。
沙那のことは護衛かなにかと考えているはずだ。
それが突然に話に割り込んできたので不快に思ったのだろう。
だが、そんな蔡玄人の感情に構ってはいられない。沙那はさらに話を続けた。
「この方は宝玄仙というお方です。わたしたちは、その供で沙那と朱姫と申します。わたしたちは旅の途中なのですが、偶然にもこの国の公主様である素蛾様と、ある事情で旅を同行することになったのです。それでお可哀想な素蛾様を助けて、この国都までやってきたのですが、こちらが本物の公主様だと言って連れて行っても、役所では門前払いをされるばかり……。それで偶然に知り合った文春様に頼り、いま、こうして、蔡玄人様に頼っているということです──。どうか、この話を真剣にお聞きください」
沙那は言った。
蔡玄人は驚愕した様子で、孫空女が変身している素蛾の顔を見つめている。
見れば見るほどそっくりのはずだ。
なにしろ、朱姫が作った『変化|(へんげ)の指輪』という霊具で孫空女が変身している素蛾は、本物の姿そのものなのだ。
朱姫が作った『変化の指輪』は、宝玄仙が以前に作ったものを改良したものなので、その効果はほとんど同じだ。
共通するのは、相手の体液を口に入れることで、その姿とまったく同じになるということだ。
変わるのは外見だけでなく、毛髪の一本一本、内臓のすべてまで変わってしまう。声
声もだ、
そういう霊具なのだ。
変身に使うための素蛾の体液は、この国都に入るときに、朱姫が素蛾にした悪戯で施した股縄にたっぷりと残っていた。
沙那は素蛾が連れ去れた直後に、とっさに誰かが素蛾に変身して本物だと名乗り出ることで、宮殿にいる玉兎とかいう亜人が変身している素蛾こそ偽者だと訴えるということを思いついたのだ。
それで、あの素蛾が玉兎と名乗る亜人にさらわれた直後に、朱姫の『変身の指輪』に素蛾の体液を刻ませた。
とにかく、この霊具で変身すれば、およそ外見だけでは、絶対に本人とは見分けはつくことはない。
「確かに、こちらは公主の素蛾様に間違いはないが、しかし、宮殿におられる公主様が偽者というのは……。素蛾様、やはり、なにか俺に悪戯のようなことを仕替えておられますか?」
蔡玄人が困惑した口調で言った。
「あ……」
素蛾役の孫空女が口を開いた。
しかし、ただ声を発しただけだ。
喋ればぼろが出る。
だから、精神的な衝撃で口がきけないという設定にしたのだ。
「さきほど、わたしの主人の宝玄仙が説明しましたが、素蛾様は随分とつらい経験をなさいました。それで口がきけなくなったのです」
沙那は声を潜めて言った。
「口が……? 信じられんなあ……」
蔡玄人がじっと素蛾に変身した孫空女の顔を覗き込みながら、つぶやくように言った。
「公主様は死ぬ思いで……、しかも、命の危険を何度も味わいながらここまでやっと、辿り着いたのです。その言葉は悲しゅうございますね」
宝玄仙がたしなめるような口調で言った。
「こ、これは失礼を……」
蔡玄人が一応は、孫空女に向かって頭をさげた。
「どうか、お座りを……、蔡玄人様」
文春が言った。
蔡玄人がじっと文春を見た。そして、しばらく文春の顔を見てから口を開いた。
「文春、それよりも話せ。この公主様とお前とはどういう繋がりなのだ。そして、なぜ、公主様がここにおられる?」
「わざわざ、ご足労頂いてありがとうございます。国の大事でございます」
文春が言った。
「それはさっき聞いた──。質問に答えよ、文春」
「どうか、お座りを……、蔡玄人様」
文春が真面目な顔をして言った。
沙那ははっとした。
そういえば、朱姫はこの男に、“国の大事でございます”と“どうか、お座りを”蔡玄人に言えと暗示をかけていた。
もちろん、沙那が指示したのだが、それはその文意に従って、意味のある会話をしろという意味であって、物真似鳥のように同じ言葉しか話させるなという意味ではない。
あれじゃあ、操られているのが丸わかりで怪しすぎる。
沙那は孫空女の変身している素蛾の侍女のように横にいる朱姫を睨んだ。朱姫はしまったという顔をして、無言で沙那に謝る仕草をした。
「国の大事でございます」
文春がまた言った。
「わかった。とにかく、座る──。おい、出入り口を閉めろ。ひとりを残してふたりは部屋の外に出て、近づく者がいたら追い払え」
蔡玄人が三人の護衛に指示した。
護衛はひとりが部屋に残って、ふたりが部屋の外に出た。
全員で料理と酒が載っている横長の卓に向かう。
とりあえず、上座に孫空女が座り、その隣に蔡玄人を誘導した。
そして、孫空女の隣には朱姫が素蛾に付き添うようなかたちで座る。
蔡玄人の向かい側に文春が座り、その両隣に宝玄仙と沙那が腰かけた。
「とにかく、事情は聞こう──。先ほどのことが真実とすれば、確かに、国の一大事だ。なにしろ、明日には帝国の皇子がこの天神国にやってきて、公主様との婚姻のための一連の行事が始まる。それがまやかしの公主などであったとしたら大問題だ」
蔡玄人は言った。
「さきほど供が申しましたとおりに、わたしは宝玄仙と申す旅の女でございます。修行のために旅をしている道術遣いであり、このふたりはわたしの供です」
すぐに宝玄仙が言った。
「道術遣いですと?」
蔡玄人はそれを聞いて、宝玄仙に驚いた表情になった。
どこの人間族の国でも道術使いは貴重な存在だ。
この天神国では、ほかの国に比べれば、道術遣いが軽視される傾向があるが、ほかの国なら能力の高い道術遣いともなれば、大抵は高い報酬で雇ってくれる。
それが面倒で、宝玄仙は旅の途中では滅多に自分が道術遣いであることを公開しないが、今回は仕方がない。
そうでも言わないと、素性のしれない女を宮殿には入れてくれないだろう。
天神国が道術遣いを重んじないといっても程度問題のことであり、やはり、道術を扱う存在は一目置かれる存在には違いないのだ。
「ええ、そうです。お見せしましょうか?」
そう言うと、宝玄仙は指を振った。
次の瞬間、宝玄仙の後ろの床で巨大な炎が燃えあがった。
この部屋は、すでに宝玄仙の結界が刻んでいる。
宝玄仙の意にままに大抵の道術は起こせる。
「うわあっ」
蔡玄人がびっくりして立ちあがった。
しかし、宝玄仙が手を振ると、すぐに炎は消滅した。
「いまのが道術か?」
蔡玄人が目を見開いている。
明らかに動揺を示したようだ。
あまり、道術に慣れていないのかもしれない。
「ちょっとした悪戯程度ですが……。いまのような道術など、ものとのもしない強力な力を持った亜人が公主様に成りすまして宮殿に入っているのですよ」
宝玄仙は言った。
「ま、まさか……。ま、まあいい。とにかく事情を離してくれ」
「わかりました。では、詳しいことは沙那に説明させます。沙那──」
宝玄仙が促した。
「わかりました。本題に入りましょう。その前に、ご主人様……」
沙那は宝玄仙に合図をした。
その合図で、宝玄仙は結界術を利用して蔡玄人のただひとり残っている護衛の顔の周りだけに眠りを与える風を充満させる手筈になっている。
護衛がその場に眠って、ばたりと倒れた。
「やや──? これは?」
蔡玄人が声をあげた。
それとともに顔に恐怖の色を浮かべて立ちあがる。
「眠ってしまっただけです。ご安心を……。また、声をあげても無駄です、蔡玄人様──。この部屋にはもう誰にも入れませんし、大声を出しても、声は一切外には聞こえません」
沙那は、立ちあがって落ち着かない様子の蔡玄人を制した。
蔡玄人が硬直する。
「どうか、お座りを……、蔡玄人様」
蔡玄人が立ちあがったので、朱姫の『縛心術』をかけられたままの文春が言った。
ここで道術を見せたのは、蔡玄人の度肝を抜いて、交渉事を有利に進めるためでもある。
それにも成功したようだ。
蔡玄人は文春が大人しく座ったままでいるのをちらりと見て、とにかく座り直した。
だが、蔡玄人の眼は大きく見開き、椅子の手摺に置いた手がかすかに震えていた。
「他意はありません。ただ、公主様がこの一箇月、どこでなにをしていたかという事実を知られたくなかったのです」
沙那は言った。
「どういう意味だ?」
「公主様は、布金の城郭にある奴隷商によって、ある者に奴隷として売られていたのです。わたしたちは、偶然にも以前から公主様を見知っており、その奴隷として扱われている公主様を見て驚愕しました──。もちろん、奴隷商もその購入者も、それが公主様とは知らなかったことです」
沙那は言った。
「公主様が奴隷だと? しかも、布金だと? 随分と東ではないか……」
蔡玄人は眉をひそめた。
「しかも、性奴隷です……」
「せ、性奴隷?」
「公主様は性奴隷として調教を受けておいででした。それをわたしたちが買いとって、お助けしたのです。ただ、公主様は、そのときの精神的な痛手で口をきけなくなっておりました」
精神的な痛手どころか、素蛾は嬉々として調教に取り組んでいたし、わずか十二歳の素蛾に性調教をしたのは、ほかならぬ宝玄仙と朱姫だ。
まあ、そんなことはもちろん語るつもりはないが……。
「し、信じられんことだ……。ほ、本当であればな……」
蔡玄人が言った。
「わたしどもは公主様を買い取って、どうして公主様がこんなところにおられるのかを知ろうとしました……。そし、心の痛手で口がきけなくなっている公主様を道術で治療して、事情を少しは聞き出すことに成功しました。また、国都にやってきて、あちこちを調べて事情を知ろうともしました──。その結果、宮殿で恐ろしい陰謀が行われていることがわかり、しかも、それに一刻の猶予のないことを知り、いま、こうして蔡玄人様に助けていただきたいと思ってやってきたのです──」
「いや……まさか……」
「繰り返しますが、この公女様は本物です。いま宮殿にいる素蛾様こそ偽者です。その偽者は、偽者の自分と西方帝国の皇子を『結婚の儀』を結ばせることで、この国を陥れようとしているのです」
沙那は言った。
「だが……」
蔡玄人も事の大きさにびっくりしてきた感じだ。
「信じられないかもしれませんが、宮殿にいる公主様は偽者です。事が終わってしまっては、取り返しのつかないことになりますよ」
「し、しかしだなあ、もしも、宮殿の公主様が亜人に変わられているなら、王軍道術長が気がつかぬはずがないないと思うが……」
蔡玄人は困惑している。
「そんなの亜人に操られているに決まっているだろう。こんな小さな国の道術士程度だったら、わたしでも自由にできるよ」
宝玄仙が横から口を挟んだ。
「えっ?」
さっきとは一転して粗雑な物言いに蔡玄人は驚いている。
沙那は咳払いで、蔡玄人の注意を自分に向け直した。
「宮殿で道術を遣う者は道術長くらいですよね? その道術長自体が操られている可能性はないですか? この一箇月に道術長に不自然な点はありませんでしたか?」
沙那は言った。宮殿にいる道術遣いがその道術長くらいであることは、すでに事前調査で確認している。
この天神国はこの辺の周辺国に比べれば、あまり道術の浸透していない国だ。
だから、宮殿そのものの道術封じも貧弱なものだったのだろうと予想している。
それが
沙那の調べたところ、それはいまの国王の代になってからのことのようだ。
いまの国王は、若い時代にこの天神国の北側にあった多くの亜人村を征服して領域を拡大するということをしている。
道術に頼る傾向の強い亜人村というのは、案外、霊気を帯びない兵の集団である人間族の軍に簡単にやられることが多いのだ。
それはどんなに高い霊気を使用した道術でも、霊気を帯びていない人間族には直接には効果がないというところからきている。
いずれにしても、いまの国王は道術に頼らない軍を作ることで、若いころに亜人領域だった地域の征服に成功している。
現国王は、この経験から、宮殿や城郭のあちこちに霊気を帯びたものを近づけない傾向があるようだ。
それで、霊気に関する防護に関することは、その宮殿道術長という存在だけが一手に引き受けているらしい。
だから、最初に道術長という存在をなんとかしてしまえば、玉兎のような存在に宮殿は無防備になる。
「うむ……」
蔡玄人は考え出した。
なにか思い当ることがあるらしい。
「公主様にも変化があったはずです……。そもそも、帝国の皇子との婚姻話など、この一箇月以内に突然にやってきた話ですよね。そのことについて、公主様が妙に積極的だったりしませんでしたか? それは、それまでの公主様の性格から不自然なことではありませんでしたか?」
沙那はさらに言った。
素蛾が宮殿にいた頃には、少なくとも素蛾には結婚話などなかったらしい。
そんな話が以前からあったのなら、素蛾自身が沙那たちに言っているはずだし、素蛾は宮殿のことについてはなんでも語ってくれている。
そもそも、国と国との婚姻行事がわずか一箇月で性急に行われるというのは不自然なことだ。
沙那はこの西方帝国の皇子そのものだって、操られている可能性があると考えている。
「……確かに降って沸いたような慶事には違いないが……。帝国からの申し出を最初に仲介したのは宮廷道術長だ……。それを誰よりも公主様自身が喜ばれた。それで一箇月以内に、『結婚の儀』とかいう道術契約だけでも交わそうという話になったのだが……」
蔡玄人がぶつぶつと言った。
そして、慌てて口をつぐんだ。
そのような宮廷内の事情をここでうっかりと口にすべきではないと思ったのだろう。
「……ともかく、わたしたちは逃げも隠れも致しません。今夜からは、文春様の屋敷に匿っていただくことになっております。素蛾様も一緒です……。どうか力になってください。そして、どうか、宮殿にいる偽公主とわたしたちを対決させてください──。彼女は危険な存在です。わたしたちでなければ歯は立ちません」
沙那は言った。
「しかし、そんな話を誰が信用するというのだ……。この俺でさえも、まだ信用できない話を……」
蔡玄人が困ったように言った。
「朱姫、素蛾様の足を……」
沙那は言った。
「はい」
朱姫がさっと移動して、素蛾の姿の孫空女の足元に跪いた。
そして、左足の靴を脱がせて素足にした。
その素蛾の足の裏を蔡玄人に見せる。
「足の裏にほくろがあります。これを皇后様に伝えてはいかがでしょう。娘の変化には誰よりも皇后様が違和感を覚えでないかと思うのです。皇后様に、素蛾様の左足の裏にほくろがあるかどうかを訊ね、いま宮殿にいる素蛾様の足の裏にほくろがあるかどうかを確かめるように提案なさっては?」
沙那は言った。
素蛾の身体はありとあらゆる場所を知っている。
それこそ、ほくろの位置までわかるくらいに、この半月、素蛾の裸身に接し続けてきた。
孫空女の変身は、素蛾そのものと同じ姿だから、ほくろの位置まで一緒だ。
だが、玉兎の変身はただ外見を似せているだけでほくろまでは一致させていない可能性が高い。
「ほくろは内腿の付け根にもあったね。三つのほくろが三角に並んだようなのがね。合わせて皇后に訊ねてみておくれ」
宝玄仙が言った。
「内腿の付け根?」
蔡玄人がちょっと驚いていた。