※この作品はR-18です。

嗜虐西遊記【完結】   作:ドン・ドナシアン

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67  妖魔王の花嫁と浚われた仲間

 若い女の悲鳴が聞こえたのは、宝玄仙と孫空女が、沙那を探すために立ち去ってからしばらくだった。

 朱姫は、その声のする方向に向かった。

 結界を出ることについては、ほんの少し躊躇ったが、ただならぬその声の様子に、切羽詰ったものを感じたのだ。

 朱姫は、声のする方向に飛び出した。

 道の真ん中にひとりの女性が倒れていた。

 

「どうしたのですか?」

 

 朱姫は、近づいていった。

 その女性が顔をあげて、朱姫を見た。ほんの微かに微笑んだ気がした。

 なにかが、頭上から身体に被される。全身がそれに包まれていきなり、身体が丸められる。

 

「うわっ」

 

 咄嗟に『魔網』だと気がついた。

 すぐそばの樹の上に人間がふたりいる。

 

「よくやったよ、お前たち」

 

 その女性が、声をかけると、樹上からひとりの老人と若い男が降りてきた。

 

「な、なんだよ、お前たち――?」

 

 朱姫は叫んだ。

 懸命にもがくが、さすがに『魔網』からは逃れられない。

 しかも、もがけば、もがくほど拘束が強くなる。

 

「ほう、なかなかの上玉だね、これは……。こんな人外地でなにをしていたかわからないけど、とんだ拾いものだったさ」

 

「お、お前、なんだよ。あたしをどうする気だよ?」

 

「あたしは奴隷商人の白骨(はっこつ)という者だよ。だったら、どうする気かわかるはずさ。お前を連れて行って、売り飛ばす。まあ、この国では人間の奴隷は禁止されているけど、お前くらいの上玉なら、幾らでも買い手はつくさ」

 

「じょ、冗談じゃないよ。出して――。出しなさい――」

 

「出すもんかい。ところで、お前は、さっき妖魔城に向かって行った、やたらに霊気の強い巫女の連れだろう? 誰だい、あれ?」

 

「宝玄仙様だよ――。あたしに手を出すと、大変なことになるよ。さあ、出すんだ」

 

 朱姫は暴れるが、ますます『投網』は強くなる。もう、ほとんど動けなくなっていしまった。

 

「宝玄仙?」

 

 白骨が驚きを顔に浮かべた。

 

「白骨様、宝玄仙といえば……」

 

 老人が白骨に声をかけた。

 

「わかっているよ。例の天教の教団に追われて、西に逃げているという八仙だね。しかも、知り合いさ……。確かに、これは面倒だね……。本当に面倒だねえ……」

 

「どうします、逃がしますか?」

 

 老人の言葉に、白骨が朱姫をじっと見つめた。

 

「……ほら、わかったでしょう。さっさと解放して」

 

「お前の名は、娘?」

 

「……朱姫だよ」

 

 朱姫は言った。

 すると、白骨は、にやりと笑った。

 

「だけど、こんな上玉……。幾らになることか……。やっぱり、連れて行くさ。ほんの少し誤魔化せばいいんだ。道術でお前の偽の気配を残してから、『移動術』で飛んでしまえば、いくら宝玄仙でも追っては来れないさ」

 

 朱姫は焦った。

 このままでは、本当に、この奴隷商人に連れて行かれてしまう。

 

 『獣人』を唱える。妖魔に変身した朱姫は、爪で『投網』を引き破った。

 

「うわっ、こりゃあ、娘じゃない。妖魔じゃないか――。いや、この魔力……。もしかして、半妖かい? 珍しい――」

 

 白骨の喜々とした声がした。

 

 跳躍して逃げようとした朱姫の首になにかが飛んできた。

 それとともに全身に衝撃が走る。

 朱姫は、地面に倒れて動けなくなった。

 身体を弛緩させるなにかの霊具のようだ。

 

 く、来るな――。

 

 朱姫は、叫ぼうとした。

 だが、自分の口から出るのは、獣のような唸り声だけだ。

 朱姫は驚いた。

 改めて、身体を見る。

 いつもの『獣人』の姿よりも、ずっと獣に近い姿になっている。

 手足は短くなり、完全な四つ足の獣に変わっている。手足の先にしかない毛が全身を包んでいる。

 

 いったい、どういうことだろう――。

 しかも、いつもだったら、あっという間に人間に戻ってしまう『獣人』の魔術が解けない。

 倒れている朱姫の首の霊具に鎖がつけられた。

 

「これは驚いた。やっぱり半妖だったのだね。そうとわかったら、どうあっても連れて行くよ。黄袍魔(おうほうま)のところで、雌妖が手に入れられなくてどうしようかと思っていたんだ。今度の王都の妖魔市では、どうしても雌妖を出さなくちゃならなかったんだ。そうじゃないと、市に参加する資格を失うところだった。お前だったら問題ない」

 

 朱姫は、これはどういうことだと叫んだ。

 だが、口から出るのは獣の吠え声だけだ。

 

「この首の霊具は、お前を妖魔のままにしておく道具だよ。この首輪をしている限り、お前は人間の言葉を喋れない妖魔さ――。さあ、行こうか」

 

 白骨が首輪の鎖を引っ張った。

 朱姫は抵抗しようとしたが、なぜか身体が反応して、白骨の引っ張る鎖に従ってしまう。

 四つ足で白骨に引っぱられて、勝手に身体が歩いていく。

 朱姫は吠えた。

 しかし、どうしても、人間の言葉が喋れない。

 

「そんなに吼えるんじゃないよ。まあ、王都の妖魔市には、もう少しある。調教の時間もあるだろうから、少しは躾けてやるけどね」

 

 白骨は、くっくと笑いながら、どんどん朱姫を引っ張って山を降りて行く。

 朱姫は、なすすべもなく、ただ従うしかなかった。

 

 

 *

 

 

「気分はどうだ、百花(ひゃっか)?」

 

 黄袍魔が入ってきた。

 百花は、寝台に座ったままの姿勢で、黄袍魔に身体を向ける。

 黄袍魔は、いつものように、いきなり百花を抱こうとはしなかった。

 百花が横になっている寝台に向き合うように、椅子を動すと、そのに腰掛ける。

 

「ど、どうなったのですか、わらわは……?」

 

 白骨の淫靡な香と『振動片』の責めで、完全に正気を失っていたはずだ。

 ところが、いまは、すべての霊具が外されて、頭もすっきりしている。股間の淫具もない。

 身体も綺麗にされて、服も着替えさせられている。

 

「白骨の置き土産のお陰で、お前は酷い状態にあった。だから、魔術で元に戻すしかなかったから、仕方なく、お前の身体に内丹印を刻んだ。悪く思うな」

 

「内丹印……?」

 

「肩に小さな模様があるはずだ。そこから、俺の『治療術』を送り込んだ。お前は、それくらいひどい状態だった。ほとんど、狂いかけていて、神経もずたずたになっていた。あの白骨も惨いことをする」

 

 百花は、服の襟もとをはぐって身体を覗いた。右肩になにかの刺青のような紋様が刻まれている。

 いずれにしても、黄袍魔は、白骨の施した百花への責めの影響をすべて取り去ってくれたようだ。

 しかし、なぜだろう………

 この黄袍魔は、百花を言いなりにしたかったはずだ。

 白骨に与えられた責め苦の最中であれば、迷うことなく、百花は妖魔の嫁どころか、妖魔たちの餌になることさえ、歓んで同意したであろう。

 

「ど、どこに行っていたのですか? この五日間……」

 

 なんとなく訊ねていた。

 この妖魔城に置き去りにされたために、惨い目にあった……。

 そんな恨みのような気持ちが沸いたのだ。

 

「西だ。外国に向かっていた。結局、思ったよりも、早く用事が済んだ。それよりも、返事を聞こう」

 

 心臓が高鳴った。

 返事というのは、この妖魔の嫁になることを承知しろということに違いない。

 拒否すれば、この妖魔城にいる大勢の妖魔たちの慰み者になる。

 百花からすれば、選択の余地のない話だ。

 

「か、勝手にすればよいではありませんか。わ、わらわの意思など、お前には関係ないでしょう。どうせ、お前は、わらわを自由にできるのですから……」

 

 百花は言った。

 なぜか、声が震えてしまう。

 激しく自分が動揺しているのが百花にはわかった。

 

「俺との婚姻に同意しろ。そうすれば、『婚姻の誓い』と呼ばれる契約術を結ぶことになる。これには、お互いの意思が必要だ。しかし、一度『婚姻の誓い』を結べば、お互いの心が縛られる。術によって、心が離れなくなる。一種の支配術だと思え」

 

「支配術ですって――」

 

 百花は声をあげていた。

 

「お前の心は術によって支配され、お前が俺を忌み嫌う感情は消え去り、俺を夫としてしか見ることができなくなる。王家でも使う術であろう。『婚姻の誓い』のことを知らないのか?」

 

 知ってはいるが、心まで変える術だというのは初めて知った。

 黄袍魔の口調は、いつものように冷淡だ。

 だが、冗談ではない。

 この百花の感情が消えるということなのか。自分が自分でなくなる――。

 そのことに百花は恐怖した。

 

「じゅ、術で、わらわの心を支配するというのですか?」

 

 百花は、黄袍魔を睨んだ。

 

「だが、支配されるのは、お前だけではない。俺も同じだ」

 

「えっ?」

 

 それで気がついた。

 黄袍魔の言うことが正しいとすれば、契約術による支配は、百花を黄袍魔が縛るということだけではなく、黄袍魔を百花が縛るということでもあるらしい。

 ある意味で、対等の関係で契約を結ぶということになるようだ。

 だが、それは黄袍魔にとって、あまり利点のある申し出ではないような気がした。

 

「お前だけではない。俺の心もまた、術に支配されることになる。『婚姻の誓い』を結んでしまえば、それを解消するのは、どちらかが死ぬしかない」

 

「ほう、じゃあ、お前は、この百花を殺せるから、飽きたら処分するのでしょうね」

 

 百花は、口調に皮肉を込めて言った。

 

「心が縛られている以上、殺すことはできんだろう」

 

「なぜ、そんなことをする必要があるのです、黄袍魔。そんなことをしなくても、お前は、わらわを支配している。お前は、わらわを好きなように抱き、好きなように扱い、そして、捨てることができる。わざわざ、『婚姻の誓い』とやらで、お前が、契約術を結ぶ必要があるのですか?」

 

「……そうだな。最初は、そうするつもりだった。だが、なぜか、そうしたくなくなった。その理由は、実は自分でもわからん。だが、俺は別段、凌辱する人間の雌を欲しているのではない。生涯を愛し合う妻を欲している相手として、お前を選ぼうとしている。そう思え」

 

 百花は黄袍魔をじっと見た。

 その表情からは、どんな感情も読むことはできなかった。

 この妖魔王が、対等の相手のように百花に結婚の申し出めいたことを口にするのが、まだ、納得できないでいた。

 同時に、なぜか身体に熱いものが沸き起こっていた。

 それは、この黄袍魔が毎夜この部屋を訪れる度に感じていた疼きに似ていた。

 だが、その身体の疼きとはまた違うものだ。

 

「わ、わらわを愛すと――?」

 

 百花は、黄袍魔を睨んだまま言った。

 

「そうだ」

 

 平然と黄袍魔は言った。

 百花の心には、隠しようのない動揺が走る。

 なぜ、こんな妖魔にこのような感情を抱くのかわからない。

 だが、黄袍魔の言葉は、それがたとえ嘘であっても、女としての悦びを百花に与えるものだった。

 だが、百花は、自分の心とは別の言葉を口にした。

 

「お断りよ。お前は、わらわをすでに支配しています。だが、心まで支配される気はありません。わらわを妖魔の餌にでも、性処理の道具にでも、好きにするがよいでしょう。だが、妖魔の嫁……。いや、お前の嫁になどなりません」

 

 すると黄袍魔の顔が蒼ざめたような気がした。

 その瞬間、百花はたったいま、自分が言ったことを激しく後悔していた。なんということを言ってしまったのだろう。

 そこまで言うつもりはなかったのに――。

 

「……ならば、殺す」

 

 黄袍魔はぽつりと言った。

 

「殺す? ああ、なるほど、結構です。殺してくれるのですね。感謝します」

 

 一度、問い返して、すぐに、黄袍魔が百花を殺すと言ったことがわかった。

 それには不満はない。

 この妖魔城に浚われてから、何度、自殺をしようとしたかわからない。

 だが、右腕に嵌められた腕輪の霊具がそれを防止していただけだ。

 

「お前ではない。これを見よ」

 

 黄袍魔が手を振った。

 その先には、壁にある大きな鏡があった。

 百花が、白骨により恥部をさらけ出さされたあの鏡だ。

 あの羞恥を思い出して、顔が上気した。

 だが、その鏡の映像が急に歪み、どこかの薄暗い部屋が映し出された。

 映っているのは、膝を抱えて床に座っている茶色い髪の女戦士だ。

 とても凛々しくて美しい顔をしていた。

 

「彼女は?」

 

「偶然にも、この人外地に侵入して囚われた女だ。お前が、俺との結婚に同意しなければ、この女を妖魔の餌にする」

 

「な、なにを言っているのです、黄袍魔。わらわには、まったく関係のないことではありませんか」

 

「そうだ。関係がない。だから、お前がどうするのか興味がある。お前が『婚姻の誓い』に同意しなければ、この女は死ぬ。どうだ?」

 

 百花は、呆気にとられてしまった。

 

「そ、それが脅迫? お前と結婚しなければ、まったく関係のないこの女を殺すと? それにわらわが応じると思うのですか?」

 

「応じると思わん。だが、この女が死んだのは、お前のせいだということをいうことを覚えておけばいいだけだ。お前が、拒否し続ける間、三日に一度、ああやって、関係のない人間を妖魔城に連れてきて殺す。お前が、『婚姻の誓い』に同意するまで続ける」

 

「なんということを――。殺すなら、わらわを殺しなさい」

 

 百花は叫んだ。

 

「お前が妖魔の嫁になることが意味があることだということだ。お前が犠牲になることで、救われる命もある。それでも、同意せんか?」

 

「馬鹿馬鹿しい、関係のない女の命と引き換えに結婚しろとなど……」

 

「同意するのか、せんのか?」

 

「同意します」

 

 百花は答えていた。

 それとともに、全身の気力が抜けた。

 ほっとしたというのが正直な気持ちだろうか。

 黄袍魔の表情が初めて崩れた気がした。

 百花の座っている寝台の横の台に、二枚の手紙が置かれた。

 

「これは?」

 

「花嫁への贈り物だ」

 

 黄袍魔がにやりと笑った。

 ちょっと驚いた。

 おそらく、黄袍魔が笑ったこを見たのは、初めてだったからだ。

 そして、手紙を開いてはっとした。

 それは、百花とともに白骨に浚われた胡蝶(こみょう)と芙蓉(ふよう)のふたりの侍女からの手紙だった。

 

「こ、これは、なんなのですか、黄袍魔?」

 

「五日間、留守にしたのはこのためだ。あの白骨が、お前の侍女を奴隷として売り飛ばしたと聞いて、外国まで追いかけていた。なんとか、買い戻すことに成功した」

 

「ふ、ふたりは無事なのですね?」

 

 涙がこぼれた。

 それを知って、なにか力が抜けた。

 

「どうして、これを最初に言わなかったのです、黄袍魔?」

 

 人質にするのであれば、鏡に映ったあの見知らぬ女よりも、侍女のふたりの方が百花には効果があっただろう。

 だが、黄袍魔は、その切り札を使わずに、百花が拒否もできる材料で、百花に交換条件を持ちかけた。

 

「侍女たちを人質にすれば、お前はすぐに同意しただろう。俺は、お前が、どこで妥協して、俺の結婚に応じるかを知りたかったのだ」

 

「わ、わらわは……」

 

 本当は、最初から『婚姻の誓い』に応じるつもりだった。

 だが、なぜか拒否の言葉が口から出ていた。

 しかし、すぐに黄袍魔が、それを取り消すきっかけを与えてくれただけだ。

 おそらく、自分は、本当にあの鏡の女を助けたいと思ったわけではないだろう。

 ただ、自分が屈服する材料を探していただけだったに違いない。

 

「ところで、残念ながら、ふたりは王都に戻すわけにはいかない。だが、青蔡(あおさい)という俺の知人の術遣いの老人のところにいる。妖魔ではない人間だ。術遣いといっても、ひとり暮らしの老人だ。不自由も多い。あの娘たちは役に立ってくれるだろう。そのうちに、会う機会もあると思う」

 

「青蔡様――?」

 

 青蔡といえば、父の代から、王家で何度も仕官を求めている孤高の仙人様だ。

 しかし、宮仕えを疎んじて、世間を離れて山奥に暮らしていると聞く。

 あの青蔡と黄袍魔は、知り合いなのか?

 

「なんだ、知っておるのか。青蔡もそれなりに有名なのだな」

 

 黄袍魔が笑った。

 笑うと、まるで少年のような無邪気な顔になる。

 それは、百花には好ましいものに思えた。

 

「黄袍魔、どうか、わらわと『婚姻の誓い』を結んでください」

 

 百花は言った。

 今度は迷いはなかった。

 

 

 *

 

 

「おい、人間」

 

 沙那は顔をあげた。小妖が二匹、牢の前に立っていた。

 その小妖の顔は、なにか虫のようなものを感じさせた。

 額には、ほんの小さな角が突き出ている。

 

「なにか、用事?」

 

 そうは言ったものの、もしかしたら、食事の時間だろうかと思った。

 もちろん、沙那の食事ではない。

 沙那が、妖魔の食事になる時間だ。

 あの妖魔の王が言った通りであれば、沙那は、この狭い牢から直接に、釜に転送して放り込まれるらしい。

 反撃か脱出の機会はあるのだろうか。

 

「退屈そうじゃねえか」

 

 一匹の小妖が、き、き、きという不快な音を出して笑った。

 

「そうでもないわよ」

 

「いいものをやるぜ。人間には、いつもいつも、本当に酷い目に遭わされているからな。お礼だ――」

 

 どうやら、まだ、釜に送られるというわけでもないようだ。

 だが、なにをするつもりなのだろうか。

 小妖は、人の頭ほどの壺を沙那のいる牢に向かって傾けた。壺からは、なにかどろりとした物体が流れ落ちてきた。

 この牢は、内側から外にはなにも外に出すことはできないが、外側からは、なんでも放り込むことができるようだ。

 沙那は、外から侵入したその粘性のものを見て、思わず立ちあがって身体を壁につけた。

 

「な、なによ、これ?」

 

 泥と水の混じり合った黒色の物体だ。不定形のそのぶよぶよとしたものは、ゆっくりと壁にへばりついている沙那に向かってくる。

 

「腹を空かせた夷屠(いど)だ。これでも生き物だぜ。なんでも食っちまう。限界まで腹を空かさせているから、お前を餌にしようとしてるのさ」

 

 小妖たちが愉しそうに笑った。

 

「わ、わたしをこいつに食わせて、殺す気?」

 

「そんなことはしねえよ。剣があるだろう。殺せばいいじゃねえか。そいつに勝てば、次の魔物をけしかけてやるぜ」

 

 沙那は舌打ちした。

 こんな形の定まらない生物に、剣が効くとは思えないが、取りあえず、手に持っていた剣で鞘ごと、その夷屠という生物に突き刺してみる。

 だが、その突き刺した部分が、あっという間に呑み込まれて、吸収されてしまう。それだけではなく、剣が呑み込まれて、そこをつたって、夷屠がどんどん沙那に向かってくる。沙那は、慌てて剣を離した。

 剣が夷屠に吸い込まれていく。そして、その身体の中で溶かされてしまったようだ。剣を消化している間、夷屠は止まっていた。

 だが、短い消化の時間が終わると、またじわりと迫ってくる。

 

「い、いやあ――来ないでっ――」

 

 沙那は悲鳴をあげてしまった。その声を聞いて、外で小妖たちが大笑いしている。その間にも、本当にゆっくりだが、夷屠は沙那に向かって近づいてくる。あまりにも狭いこの牢では、ほとんど逃げる場所がない。

 

「あ、あ、あ、あんたたち、こ、こんなことしちゃあ、妖魔王に怒られるんじゃないの? この夷屠に、わ、わたしを食べさせていいの?」

 

 沙那は叫んだ。もうそこまで、迫っている。

 

「どんどん、なんでも、放り込みな。その間、夷屠はとまってくれるぜ」

 

 沙那は、すぐに具足を外して、夷屠に投げた。

 すると、確かに、夷屠が停止してそれを飲み込んでいく。

 だが、すぐに完全に溶けて、再び夷屠がのっ反りと動き出す。

 慌てて沙那は、次の品物を投げた。

 夷屠が近づいてこないように、籠手、脛当てというように、ひとつずつ、放り投げる。

 少しは時間が稼げたが、もう投げる具足はなくなった。あとは、上下の格闘服とその下の下着だけだ。

 

「お、教えてよ――。この生き物は、どうやったらいなくなるのよ」

 

 沙那は、小妖に叫んだ。

 

「そいつは、人間の小便が嫌いさ」

 

「小便?」

 

 沙那は声をあげていた。

 

「ああ。小便をかければ、それが嫌いで逃げていく。もっとも、もう入ってしまったからには、結界で、牢の外には出ていけねえから、牢のこちら側で、完全に小便が乾くまでじっとしているだけだと思うけどな。また、動き出したら、小便をかけてやりな」

 

「なっ――。わ、わたしに、ここでおしっこをしろというの?」

 

「嫌なら、その夷屠に喰われちまいな」

 

 沙那は、歯噛みした 。

 だが、またもや夷屠はだんだんとこっちにやってくる。あまり、迷っている時間はない。

 沙那は、ズボンの紐を解いて、下着ごとずり下げると、さっとしゃがみ込んだ。

 

「ほうほう、やる気になったかい」

 

「もう、ちょっと、股を拡げてくれよ」

 

 外からの揶揄に悔しさと羞恥に顔をあげることもできなかった。

 しゃがんだ沙那の股から、尿が迸り、床に流れていった。それとともに、夷屠があっという間に、牢の反対側に去っていく。尿に追いかけられるように、牢から出ようとしているが、魔力によりそれを阻まれている。身体に沙那から流れ出た尿が触れると、まるで石になったように動かなくなった。

 

「ひいっひひひひっ――。まあ、数刻は大丈夫だからな。動き出したら、また、小便をかけてやんな。もっとも、小便が出なくなったら、終わりだけどな」

 

 小妖が手を叩いて笑った。

 

「お前たち、なにをしているの?」

 

 廊下で女の声がした。沙那からは、その姿は見えない。沙那は、慌てて服を直した。

 

「あっ、お前は、黄袍魔様のところにいるはずの雌じゃねえか――」

 

「なんで、こんなところにいやがんだ――?」

 

 小妖たちが険悪な口調で叫んだ。

 その小妖が、なにかに弾かれて、後ろに転がっていった。たったいま、小妖たちが立っていた場所に、黄色い衣装を身につけた若い女が歩いてきた。

 手を前にかざしている。どうやら、その女の道術が、二匹の小妖を吹き飛ばしたようだ。

 

「口の利き方に気をつけなさい。わらわは、黄袍魔様の妻の百花だ」

 

 その女が、小妖に向かって強く言っている。転がって視界から消えたので姿は見えないが、小妖たちの呆気にとられたような声が聞こえてくる。

 百花と名乗ったその若い女はちょうど檻の前に立ったかたちになった。その百花が、沙那に向かって顔を向ける。

 

「沙那さん……というのは、あなたですか?」

 

「そ、そうですけど……。あなたは?」

 

 沙那は、その百花を見た。美しいというだけではなく、なにか高貴な雰囲気を持った女性だ。沙那よりも歳下なのは確かだが、それにも関わらず、圧倒するものを沙那に与えてくる。

 

「この妖魔城の主人である黄袍魔の妻の百花です。主人の黄袍魔には、もう会っていますね?」

 

「ええ……。ところで、あなたは、道術遣い? いえ、妖魔?」

 

 妖魔王の妻と言ったからには、同じ妖魔だとは思うのだが、どう見ても、人間の女性にしか見えない。角もない。もっとも、朱姫のような例もある。外見ではわからないかもしれない。

 百花は首を横に振った。

 

「ただの人間です。道術も遣えませんでした。でも、妖魔王と『婚姻の誓い』を結んだことで、この妖魔城内に限り、簡単な魔術を使えるようになっただけです。よくわかりませんが、そういうことになるんだそうです。実のところ、わらわも驚いているところです」

 

 百花は、にっこりと微笑んだ。屈託のない自然な笑顔だった。

 その百花が、牢に向かって手をかざした。牢と廊下の間の格子が消滅した。

 

「……本当に魔術って、面白いものですね。これは、ちょっと病みつきになりそう」

 

 百花が笑った。

 

「あ、あのう……。助けてくれるのですか?」

 

 沙那は、なにが起ろうとしているのか、よくわからずに、さっきの夷屠を踏まないように気をつけながら、牢の外に出た。

 

「廊下をこのまま、さらに奥に突き抜ければ、外に出る洞窟にぶつかります。そこを行くといいでしょう」

 

「に、逃がしてくれるのですか?」

 

「あなたが、この妖魔城に危害を加えないのであれば……」

 

 百花は言った。

 

「……どうして?」

 

 なぜ、助けるのかと訊ねようとした沙那に、百花は一枚の手紙を差し出した。

 

「その代わりに、この手紙をわらわの父のところに届けてはくれませんか?」

 

「お父様?」

 

「この宝象国の国王です」

 

「ええっ?」

 

 沙那は驚いてしまった。

 

「あなた方は、西に向かうのでしょう? それであれば、宝象国の王都は、あなた方が向かう街道筋にあります。なんとか、この手紙を直接に渡して欲しいのです。この手紙には、わらわが無事であることを書いてあります。せめて、わらわが生きていることを伝えたいのです。それと、わらわが浚われたことについて、わらわの侍女になんの落ち度もなかったことを伝えたいのです」

 

「浚われた? 本当に百花様は、宝象国の姫君様なのですか?」

 

 沙那は言った。

 

「いまは、妖魔の王の妻です。『婚姻の誓い』というものを結びました。黄袍魔の力の一部が流れ込んでいるのが、わたしたちが夫婦の契約術を交わした証拠です……。さあ、もう行ってください。沙那さんが、妖魔城の門を出るまでは、妖魔王も小妖も手出しはしません。でも、戻ってくれば、容赦なくあなたを討ち取るでしょう。残念ですが、そのときには、わらわもあなたを庇うことはできません」

 

「……百花様、このまま、一緒に逃げましょう」

 

 沙那は言っていた。百花は首を横に振った。

 

「それが不可能なことというのは、あなたもおわかりなのでは、沙那さん? いずれにしても、わらわは、もう、『婚姻の誓い』で黄袍魔と心が結びついてしまいました。それはできません。くれぐれも、孝行のできなかったことを父に百花が詫びていたと伝えてください。お願いします」

 

 沙那は、百花に押し出されるように、妖魔城の地下の廊下を歩いていく。

 百花が言っていた外に通じる洞窟はすぐにわかった。

 特に、沙那を咎めたり、とめようとする妖魔も出現せず、あっという間に、沙那は妖魔城の外門の外に出ていた。

 

 

 *

 

 

「沙那――?」

 

 妖魔城に突入する算段を宝玄仙としていた孫空女は、平然と出てきた沙那に呆気にとられてしまった。

 

「どういうことだい、沙那? 無事なのかい?」

 

 宝玄仙も岩陰から出てきて、沙那の肩をばんばんと叩いた。

 

「沙那、剣と具足は?」

 

「失くしたのよ、孫女。でも、それ以外は、なんともないわ」

 

 沙那が、孫空女と宝玄仙に説明を始める。

 それによれば、沙那は狩りをしていて、妖魔と出くわし、結界罠で飛ばされて、妖魔城の地下牢に転送されたということだ。

 そこで、妖魔王と名乗る黄袍魔と会った。

 さらに、人間であり、宝象国の王女でもあって、その黄袍魔の妻だと名乗る百花に命を助けられたそうだ。

 

「妖魔王の妻の百花が、この先の宝象国の王女だって?」

 

 宝玄仙も驚いている。

 

「手紙を預かりました。宝象国の国王に渡して欲しいと頼まれました」

 

 沙那が手紙を差し出した。

 宝玄仙はその封のしてある手紙をじっと見ていたが、やがて、頷いて、それを沙那に返した。

 

「じゃあ、王都に立ち寄ることに決めようか。その手紙は送り届けてあげる必要があるね。沙那の恩人に違いないし……」

 

 宝玄仙は言った。

 

「ご主人様と孫女がいれば、百花姫様を助け出せるのではないですか? わたしを救ってくれた百花姫様を妖魔から救ってはもらえませんか、ご主人様」

 

 沙那が言った。

 

「沙那、お前の話によると、ただの人間であるはずの、百花が魔術を使ったと言っていたじゃないか。それは、妖魔王と婚姻の誓いを結んだ恩恵だと……」

 

「はい、ご主人様」

 

「なら、無理だよ、沙那……」

 

 宝玄仙は首を横に振った。

 

「どうしてだよ、ご主人様。魔術に対抗するなら、ご主人様がいる。武術なら、あたしと沙那がいる。なんとかしてあげようよ」

 

「そういう問題じゃないのさ、孫空女……。まあ、いずれにしても、まずは、沙那が助かったことを待っている朱姫に伝えてやらなければね」

 

 宝玄仙が、鳴戸(なると)を出現させた。

 

「鳴戸、お前の主殿(しゅどの)の朱姫に、沙那が無事だったことを知らせてやりな。朱姫は、さっきの場所にいる」

 

「わかったね」

 

 鳴戸は、あっという間に結界を刻んで、その中に消えていった。

 

「さて、わたしらも行こうか」

 

 宝玄仙が、鳴戸の作った結界から移動しようとして、その道術紋に向かう。

 

「待ってください――」

 

 沙那が、宝玄仙の腕を掴んだ。孫空女は驚いた。

 

「お願いです。百花様を助けてあげてください、ご主人様。彼女は、この妖魔王に浚われたのです」

 

「だから、その百花は、黄袍魔とかいうこの妖魔城の主人と『婚姻の誓い』を結んだのだろう? そして、もう効果が発動している。その証拠は魔術を使ったことだよ。つまりは手遅れだ」

 

「でも……」

 

「でもじゃない、沙那。これは大事なことだよ。百花は救出を望んでいたかい?」

 

 すると、沙那はしばらく考えていたが、やがて、首を横に振った。

 

「本人が望まないのに救出はできない……。というよりも、いまの百花からすれば、妖魔王と離されることの方が“誘拐”だ。まあ、『婚姻の誓い』というものが、どういう契約術であるかは、後でゆっくりと説明してやるよ。いずれにせよ、その百花とやらは、妖魔王……黄袍魔だっけ? そいつと心が繋がってしまった」

 

 宝玄仙は言った。

 そこに鳴戸が戻ってきた。

 

「どうしたんだい、鳴戸? みんな、すぐに朱姫のところに戻るところさ」

 

 孫空女は結界から出現した鳴戸に言った。

 

「その主殿がいないね」

 

 鳴戸が言った。

 

「いない? どういうこと?」

 

「だから、いなくなっているね、孫さん。なにか争った跡もあったね」

 

「ふたりとも行くよ」

 

 宝玄仙が結界に急ぎ足で向かう。孫空女と沙那も続く。

 あっという間に、朱姫と別れた場所に戻った。荷物はそのままだ。確かに、朱姫の姿がいない。

 

「朱姫――?」

 

 孫空女は叫んだ。

 

「こっちだね」

 

 最後に出てきた鳴戸が、荷から少し離れた場所に連れて行った。

 確かに、そこには、争った気配が残っている。

 

「ご主人様――」

 

 沙那が顔色を変えて、宝玄仙を見た。

 

「道術の残留波があるね……。朱姫は道術を使う者に襲われたのかもしれない……」

 

「もしかしたら、妖魔王が?」

 

 沙那が顔色を変えた。

 だが、孫空女は首を捻った。

 孫空女には、霊気の波がなんとなく見える。宝玄仙の霊気を身体に受け入れることで、そうなったのだ。

 その霊気の残像に接していると、妖魔ではないように感じた。

 

「いや、沙那――。人間の足跡がある。そして、獣のようなものの足跡が残っているけど、それは朱姫の霊気の流れと一緒だ。ほかには、妖魔の痕跡はない」

 

 孫空女は言った。

 四つ足の生き物の足跡に朱姫特有の霊気の流れが繋がっている。

 半妖である朱姫の霊気は、ほとんど霊気を感じさせないのに、実際は強い。そんな不思議な霊気なのだ。

 間違えることはない。

 そして、ほかには、妖魔の魔力の残りはない。

 やっぱり、ここを妖魔が襲ったわけじゃないような気がする。

 

「主殿の主殿――。これがあったね」

 

 鳴戸が、破れた『魔網』を持ってきた。

 宝玄仙は、それを受け取って、顔色を変えた。

 

「この霊具から出ている霊気には記憶があるねえ。もしかして……、いや、間違いない……。あいつか……。こんなところに……。あっ、そうか。ここは宝象国か……。だけど、もしも、これを使っている者に浚われたなら、面倒なことになったかもしれないよ」

 

 宝玄仙は言った。

 

「どういうことだい、ご主人様」

 

「白骨(はっこつ)夫人……。裏の世界では有名な道術遣いの女だよ。希代の奴隷商人だね。あいつの道術の波には記憶がある。そいつに、朱姫は浚われたに違いない。だとすれば、行き先を辿る方法はあるよ」

 

「だったら、追いかけましょう、ご主人様」

 

 沙那は言った。

 

「だが、白骨がいま、どこで商売をしているか確かめないとね。まずは、あいつを頼るのが早いだろう。いろいろと情報を知っているに違いない」

 

「あいつとは誰ですか、ご主人様」

 

「この前、話をした古い知り合いさ」

 

「この前話した?」

 

「この宝玄仙の最初の男だよ、沙那。支度しな。出発するよ」

 

 宝玄仙が厳しい表情で言った。

 

 

 

 

(第11話『妖魔王と王女』終わり、第13話に続く)






 *


【西遊記:27回、白骨夫人】

 旅をする玄奘たちの前に、白骨夫人という女妖魔が出現します。
 白骨夫人は、人間の女、青年、老人と次々に姿を変えて、玄奘を騙して浚ってしまおうとします。
 だが、妖魔であることに気がついた孫悟空は、玄奘を襲おうとした白骨夫人を叩き殺します。
 しかし、孫悟空が人間を殺したと思い込んだ玄奘は、孫悟空を破門にしてしまいます。
 怒って、とりつく島もない玄奘に、孫悟空は仕方なく、みんなと別れて、故郷の花果山(かかざん)に戻ることにします。



【西遊記:28・29回、黄袍怪】

 孫悟空のいない玄奘一行は、うっかりと、黄袍怪(おうほうかい)という妖魔王の城に近づいてしまいます。
 しかも、玄奘は、猪八戒が食べ物を探しているあいだに、妖魔城に向かってしまい、あっさりと黄袍怪に捕らわれてしまいます。

 戻った猪八戒たちは、玄奘が妖魔王に浚われたと知りますが、その黄袍怪に沙悟浄も捕らわれます。
 猪八戒は、孫悟空に助けを求めるために、ひとり花果山に向かいます。

 一方で、その玄奘は、黄袍怪の妻の百花(ひゃっか)姫に、逃がされます。
 実は、百花は、宝象(ほうぞう)国の王女であり、十三年前に月見をしているときに浚われ、無理矢理に妻にされたのだと言います。いまでは、ふたりの子供もいます。
 百花は、玄奘に、このまま逃げて、自分の父である宝象国王に手紙を届けて欲しいと頼みます。
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