709 客人去って
「結局、千人切りというのはなんだったのですか、お父さん?」
久しぶりに親子三人だけの食事だ。
主席に
給仕はいない。
この四日間、宝玄仙一行の接待などで家人たちには忙しく働いてもらった。
それに、寇員外の千人切りなどというくだらない願かけについては、長年にわたって迷惑をかけたとも思う。
それで満願成就の区切りを期に家人には賞与を与えるとともに、十日の暇を与えた。
屋敷はほとんどが空になるが、満願成就の祝いは寇員外自身だけではなく、みんなで祝いたいのだ。
まあ、十日くらいのことは不便ではあるが問題はない。
寇棟もいるし、寇女もいる。寇員外だって多少のことはできる。
今夜の食事だって、寇棟と寇女だけに任せずに、寇員外も多少は手伝った。
自分たちで作って、自分たちで給仕して、自分たちで食べる。
まだ、いまのように商売で大成功する前までは、それが当たり前だったのだ。
妻と最初の食事は、こうやってふたりきりだった。
あの妻と夫婦になってすぐに商売に成功して、家人を養える身分になったが、最初の食事のときに、亡き妻が作ってくれた汁の味はいまでもはっきり思い出すことができる。
「なんだったのかのう? 千人切りという目標を追っているあいだは愉しかったなあ。だが、終わってみればなに程のことはない。阿呆げた願をかけて、年甲斐もなく、女に夢中になった。それだけのことだったのかのう……」
寇員外は言った。
妻が死に、まるでそれを待っていたかのように、大勢の女を抱くようになった父親のことをこの息子と娘が本当はどう思っているかは知らない。
だが、夢中になっているあいだは愉しかったし、充実をしていた。
そういえば、千人切りの最後の女になった宝玄仙が、女を追いかけているうちが、若さだという趣旨のことを言った気がする。
そういうものかもしれない。
「お父さん、あえて申し上げますが、どうか千人切りはやめないでください。余人に迷惑をかけるわけでもなし、よいことではないですか。いっそこのこと、万人切りを目指されてはいかがなのです?」
寇棟が言った。
寇員外は驚いてしまった。
「なぜ、そんなことを言う? 女千切りなど、お前たちも呆れて見ておったのではないか? お前たちの母親が亡くなった途端に、お前たちの父親の私が、とんでもない色惚け男になったのだ」
「いえ……」
寇棟がなにかを言いかけたが、寇員外はそれを制した。
「まあ聞け。、これからは、少しは大人しくしようと思うよ。千人の女と媾合ったが、私にとっては、お前たちの母は故郷のようなものだ。千人の女を抱くという長い旅をして、故郷に戻ってきた。千人切りとはそんなものだったよ。これからは、お前たちの母を弔いながら静かに暮らすとしようと思う」
「お父様、それには、わたしも反対です」
すると寇女が言った。
「反対?」
これには寇員外もびっくりした。
「お兄様のいうとおり、誰にも迷惑をかけていないからいいではないのでしょうか? わたしも正直にいえば、最初は女性の千人切りというのは、なんだか女を小馬鹿にしたような感じで、快く思っておりませんでした。でも、いまではそうは思っておりません」
「寇女?」
寇員外は、寇女の物言いに唖然としてしまった。
「お父様と夜を一緒にすごされた女性の方は、皆様とも満足しておられましたし、感謝さえしておられました。わたしが、お兄様の意見と同じなのは、なによりも、お父様のことを考えてのことです……」
「私のこと?」
「はい。わたしはまだ童女でしたが、お母様が亡くなったとき、すっかりと狼狽えて、そして、呆けてしまったお父様のことをよく覚えています。わたしたちは、お父様がまた、あんな風にならないか心配なのです」
「そうか……」
寇員外は呆然と寇女を見た。
すると、寇棟も口を開いた。
「そうですよ、お父さん──。老いて静かに暮らすのはまだ早いですよ。もっともっと無邪気にすごすべきです。それに、俺は思うのですが、七年前にお父さんの夢に出てきた女神というのは、姿を変えたお母さんだったのではないでしょうか?」
「お前たちの母だと?」
寇員外はびっくりした。
「そうです。お母さんはそうやって、お父さんに、お母さんがいなくなってからも、愉しい時間をすごして欲しかったのですよ。それに、俺もお母さんが病で死に、腑抜けのようになってこの土地にやってきたときの落ち込んだお父さんのことは覚えています。それが、あの夢のおかげで、びっくりするくらいに生き生きと毎日をすごしてくれるようになりました。きっと、お母さんは、お父さんにはそれが必要だと思ったのですよ……」
「あいつがか?」
寇員外は都合のよすぎる寇棟の言葉に笑ってしまう。
「それに、これが無理矢理に女性を抱くような千人切りなら反対ですが、お父さんが抱かれる女性は、みな相手が望んだ方ばかり……。それなら、やめる必要はありません。お父さんが大人しくなり、老け込むのをお母さんは望んではいないはずです……」
「わたしからもお願いです、お父さん」
寇女だ。
「お前たち……」
さすがに、寇員外も苦笑してしまう。
「お父さん、もう一度、申しあげます。千人切りとはいわず、二千人、三千人……、いっそ、万人切りを目指してはいかがです。老け込むのはそれからでも十分です
」
寇棟が言った。
「万人切りか……。確かに、それは途方もない大願だな。きっと、百まで生きても終わらぬ」
寇員外は苦笑した。
「だったら、百五十まで生きたらいいでしょう。まだまだですよ、お父さん」
寇棟が笑った。
「だが、都合がよすぎはせんかな……。亡き妻が女神となって、自分が死んだあと、たくさんの女を抱けと言ったなどとは……」
「いいじゃないですか、お父様。また、忙しくなりますね」
寇女も笑った。
そのとき、なぜか、屋敷の中を誰かが走る気配があった。
「なんだ?」
訝しむ声をあげて立ちあがったのは寇棟だ。
それからすぐに、なにかを壊したり、ひっくり返したりする気配がした。
「ちょっと、見てきます」
寇棟は部屋の外に向かった。
普段だったらもっと家人がいるが、たまたま、今夜はほとんどが出払っている。
残っているのは、休暇をもらっても行き場のない老いた庭師や温泉の湯番の老婆くらいだ。
「気をつけろ、寇棟」
寇員外はそれだけを言った。
寇棟が出ていく。
それからも、喧噪は続いた。
すると、いきなり、十五、六人の男が部屋に乱入してきた。
「きゃああ──」
寇女が悲鳴をあげた。
「おお、若い娘がいるぞ──。
男たちが寇女を引っ掴んだ。
寇女がびっくりして泣き叫んでいる。
「な、なんだ、お前たちは──?」
寇員外は叫んだ。
「見ての通りだ」
男たちが寇員外と寇女をすっかりと取り囲んだ。
しかも、寇女はふたりくらいの男に身体を掴まえられている。
「賊か?」
寇員外は言った。
「ご名答」
男たちのひとりが笑った。
さらに数名の賊が部屋に入ってきた。
寇員外はその賊の姿を見て驚愕した。
「孫空女殿、沙那殿──?」
五人ほどの賊徒の男をひきつれて部屋に入ってきたのは、紛れもなく孫空女と沙那のふたりだった。
今朝出て行ったときとは服装も違って、着流しの着物のようなものを赤い帯で締めた姿であり、髪もかなりくしゃくしゃだ。
だが、孫空女と沙那のふたりに間違いない。
なぜ、ここに──?
というよりは、どうして賊を──?
寇員外は唖然とした。
「おお、数日前に世話になった親父じゃないか。俺たちのことを覚えているかい? 孫空女と沙那だぜ──。この屋敷にいけば、見知らぬ女を不用心に屋敷に招き入れる助平親父がいると聞いて二日ほど世話になり、すっかりと金目の物がある場所を覚えたんで、ちょっと外出して、今度は子分を引き連れて来てやったということだ」
孫空女がせせら笑いながら言った。
言葉使いは、まるで男だ。
寇員外はびっくりした。
「まあ、これからは用心して、知らねえ女を下手に屋敷にあげるのは自重するんだな。とにかく、教育料ということで金目のものはもらっていくぜ。それにしても、人の少ない屋敷だなあ。お前のところは、もっと大勢の家人がいたじゃないか? それが、今夜に限って空っぽだ。おかげで楽でよかったが、どうしたんだ?」
今度は沙那が言った。
やはり、沙那も今朝まで一緒だった沙那とは全く違う言葉遣いだ。
「か、家人は沙那さんたちのおかげで千人切りの満願成就が達成できたので、お父様が家人にもお礼の休暇を与えたのです。それにしても、どうして、こんなことをするのですか、沙那さん──? 今朝まではあんなにお優しかったのに……。ひどいですよ──」
寇女が叫んだ。
「今朝まで……?」
しかし、沙那が眉間に皺を寄せた。
「どういう意味だ、娘? 俺たちが屋敷を出ていって数日経つと思うが、今朝まで俺たちがいたのか?」
孫空女も腑に落ちないという口調で言った。
だが、なんとなく、寇員外にはどういうことかわかってきた。
確かに、このふたりの女をこの屋敷に泊めた。
五日ほど前のことだ。
そのときは、もっと大人しく振る舞っていたが、醸し出す粗野な雰囲気が全く同じだ。
このふたりは!孫空女と沙那と名乗り、一日だけ泊めた。
そして、千人切りの話を持ち出したら、屋敷が見たいというのであちこち案内した。
しかし、しばらくしたら、なにも言わずにいなくなってしまった。
屋敷の外に出かけたのかと思い、寇棟と寇女に探しに行かせたら、宝玄仙という女主人とともに戻ってきた。
朱姫や素蛾という仲間と一緒にだ。
だが、そのときには、深くは考えなかったが、最初に泊めた孫空女と沙那と、あとで宝玄仙と一緒にやってきた孫空女と沙那は別人なのではないだろうか?
他人の空似としては、名前まで一緒だし、それにあまりにも似すぎているが、最初にいたふたりが、目の前のふたりであることは間違いない。
とにかく、彼女たちと、宝玄仙と一緒にいた孫空女と沙那が別人であることは明らかだ。
醸し出す雰囲気もまるで違うし、話し方や態度はまったくの別人だ。
一緒なのは外見の姿と声だけだ。
「なに言ってんですか、今朝まで宝玄仙様とご一緒だったじゃないですか? 皆さんが賊徒だったなんて信じられません。宝玄仙様や朱姫さんや素蛾さんはどうしたのです?」
賊徒に身体を掴まれている寇女が声をあげた。
「宝玄仙だと──? おい、名月……、い、いや、阿難」
「ああ、迦葉……。懐かしい名だぜ。朱姫も一緒か……。素蛾というのは知らねえなあ。とにかく、面白いことになってきやがったぜ。
沙那……いや、沙那の顔をした誰かが寇女に詰め寄った。
このふたりは、沙那の顔した者を
やはり、別人なのだ。
ふたりに詰問された寇女はうなずいたが、あまりにも今朝までとは異なる孫空女たちの様子に茫然としている。
「まったく、こんな偶然もあるんだな……。くくく……。こりゃあいい……。あいつら、こんなところまでやって来たのかよ……。しかも、広い西方帝国で、たまたま同じ屋敷に……。ははは……。こりゃあ、いいや」
沙那の顔の女──すなわち迦葉も笑い出した。
「ど、どうしたのです、沙那さん、孫空女さん?」
寇女が当惑した様子で言った。
「ち、違うぞ、寇女──。そのふたりは……」
寇員外は、その沙那と孫空女は偽者だと教えようとした。
「おい、待て──。この娘は連れ出して、さっきの若い男と一緒に縛っておけ。ひと仕事終わったら、最後に味見をすることにする」
孫空女の顔をした阿難が言った。
寇女が部屋から連れ出される。
「お、お前たちは、孫空女殿と沙那殿ではないのだな──。その姿は偽者だ。本当の名は阿難と迦葉──。そうなのだな?」
寇員外は言った。
阿難と迦葉という名であれば、噂くらいは知っている。
この王華国一帯を荒らしている盗賊団だ。
だが、首領の阿難と迦葉は髪のない男ふたりはずだ。
女などではない。
このふたりが、その阿難と迦葉であるのならば、おそらく、何らかの手段で、孫空女と沙那に変身をしているのだと思う。
「おっ、察しがいいな。確かに、俺たちは阿難と迦葉と名乗ってるな。だが、ちょっと面白いことになったから、今回の悪事は俺たちじゃなくて、孫空女と沙那の仕業だということにさせてもらうぜ。あいつらへのせめてもの仕返しだ」
「まったくだぜ──。おい、この男を椅子に縛れ」
沙那、つまり、迦葉が言った。
部下の賊徒たちが寇員外の身体を椅子に押しつけて、腕と脚と胴体を椅子に縛りつけた。
「よし、お前たちも行け──。手筈に従って金目の物を運び出してしまえ。ただし、ふたりだけ残って、さっきの若い男と娘を見張っていろ」
阿難の命令でほかの男たちも出ていく。
部屋には、縛られた寇員外、孫空女の姿をした阿難、そして、沙那の姿の迦葉の三人だけが残った。
阿難と迦葉が指にしていた赤い指輪を外す。
すると、美女ふたりの姿が消えて、髪のない男ふたりが出現した。
どうやら、あの赤い指輪が変身の道具だったようだ。
霊気を帯びた道具、つまり、霊具なのだろう。
「どうするつもりだ、お前たち? その指輪は霊具だな? それで沙那殿と孫空女殿に変身していたのか──」
寇員外は言った。
「そういうことだ……。別にあのふたりに変身していたのは深い意味はねえ。女と見れば、不用心に屋敷に泊める分限者が地霊という田舎にいると耳にして、たまたま、女になれる霊具があったから使っただけだ。だが、本物のあいつらが、こっちに来ているというなら話は違う──。この仕事は、阿難と迦葉の仕事じゃねえ。孫空女と沙那の仕事ということにさせてもらう」
阿難が寇員外の前に立って喉の奥で笑った。
「まあ、そういうことだ。実を言うと、俺たちはあの孫空女と沙那には恨みがあってな。宝玄仙という女と朱姫にもな。だから、恨みを返す機会を逃したくないのさ。従って、この屋敷に入り込んだ賊は、孫空女と沙那が連れてきたということにする」
迦葉も笑った。
「そ、そんなことにはならんぞ。お前たちの悪事は私が知っている。なにを考えておるは知らんが、くだらぬことはやめよ。沙那殿も孫空女殿も心の優しい女性だ。それを陥れるようなことはやめるのだ」
すると、阿難と迦葉がいきなり爆笑した。
ふたりは、そうやってしばらくのあいだ笑い続けた。
寇員外は茫然としてしまった。
「お前はやはり、のんびりとした性格なのだな。なんで、俺たちがお前の前で、変身を解いたり、べらべらといろいろなことを喋っているかわからないのか?」
やがて、笑いの発作が止まった阿難がそう言った。
「これは、俺たちの慈悲なんだぜ。自分がなんで死ぬのかをわからずに死ぬのは、あまりにも気の毒と思ってな」
迦葉は懐から小刀を抜いた。
ぎょっとした。
次の瞬間、その小刀は寇員外の胸に深々と突き刺さっていた。
「寇員外という分限者を殺して、屋敷からものを盗んだのは、孫空女と沙那。お前の息子と娘がそう証言してくれるさ。お前は俺たちが恨みを抱いている孫空女と沙那という女に濡れ衣を着せるために死ぬのだ。お前がなぜ死ぬのかわかったか──」
そして、寇員外の胸から刃物が抜かれた。
自分の胸から血が噴き出すのがわかった。
いきなり視界が暗くなった。
ただ、胸から血が流れるのを感じる。
寇棟──。
寇女──。
叫ぼうと思ったが声が出ない。
そのとき、闇の中にぼんやりと女の姿が浮かんだ。
妻だった。
その供女が悲しそうに首を振った。
まるで、まだその時ではないと寇員外に告げているようだった。
ふと見ると、針仕事をしていたようだ。
そういえば、針仕事が趣味だった。
多くの家人を使うようになっても、針仕事だけはやめなかった。
針仕事が上手な女──。
それが妻のあだ名だった。
急に視界が戻った。
阿難と迦葉がいた。
目の前で談笑している。
あの赤い指輪をつけ直している。
すると、ふたりが孫空女と沙那の姿に戻った。
そして、また、視界が暗くなった。
自分の意識が暗い闇に吸い込まれるのを寇員外は感じた。
*
沙那と孫空女に変身できる者の正体……。
思い出したい方は、第14話『魔域からの軍団』の最後側を読み直しください。
清風と名月という男たちがいましたが……。
張須陀については、第58話『ぶち切れた堪忍袋』をどうぞ……。