717 炎からの脱出
朱姫は驚いた。
宝玄仙たちが待っている宿屋がすっかりと帝国の地方兵が囲んでいるのを多くの野次馬とともに、その包囲の外から宿屋を眺めていると、いきなり宿屋から火の手があがったのだ。
一箇所ではない。
数箇所から同時に炎があがった。
宝玄仙と素蛾が囲まれている宿屋が、すっかりと軍兵に包まれてから、すでに半刻(約三十分)以上が過ぎた頃だった。
たまたま、外にいた朱姫だったが、それを見たときには驚愕するとともに、どうしていいかわからなかった。
だが、さすがは宝玄仙だ。
ここからではわからないが、おそらく、宝玄仙は結界を作って閉じこもったのだろうと思う。
宿屋を囲んだ捕縛の隊は、その結界に阻まれてどうしようもない感じになっていた。
叫び声や喧噪のような音が宿屋の中から聞こえてくるが、宝玄仙と素蛾が宿屋から連れ出される気配はなかった。
だから、しばらく様子を見ることにした。
朱姫があの囲みの外にいるのは、昨夜ひと晩戻ってこなかった沙那と孫空女を探すために、夜明けすぎから宿屋を出ていたからだ。
沙那と孫空女は、結局見つけることはできなかったが、とりあえず宿屋に戻ってきた。
すると、すっかりと、宿屋が百人以上の軍の一隊に包囲されてしまっていて、近づくこともできなくなっていたのだ。
しかも、完全に宿屋の周囲を包囲しているだけではなく、宿屋の中にまで捕縛の隊が入り込んでいる気配だった。
すでに、宿屋の者たちもほかの客も外に出ているらしい。
いま、宿屋の中にいるのは、宝玄仙と素蛾のほかには、ふたりを捕えるために出動してきた軍だけみたいだった。
とりあえず、朱姫は、宿屋を包囲している軍のさらに外側を囲んでいる野次馬に紛れた。
なんとかしたいが、いまはどうしようもないとしか判断できなかった。
しばらく、様子を見守るしかないと考えた。
一方で、宝玄仙については、結界を作って、部屋に誰も入れないようにして抵抗しているのだろう。宿屋の中で膠着をしている雰囲気がずっと続いていた。
そこに、いきなり炎があがったのだ。
朱姫は驚愕した。
建物が並んでいる一帯だ。
燃え拡がれば宿町全体が炎に包まれる可能性もある。
そこまでやるとは思わなかった。
だが、結界に閉じこもっている宝玄仙と素蛾を炙りだすには、有効な手段だろう。
炎や煙でも、宝玄仙の結界はかなりの軽減ができるが完全ではない。
建物全体が火だるまになれば、炎そのものから逃れられても、呼吸ができなくなるか、あるいは、熱で身体が干あがる。
その前に脱出するしかなくなる……。
朱姫は歯噛みした。
どうするか……?
朱姫は迷った。
宝玄仙の命令で沙那と孫空女を探しに行ったのは夜明け前だった。
あのふたりもまた、昨日ひと晩戻ってきていない。
沙那はもうすぐ越える西方帝国内の関所に関する情報を集めるため……。
孫空女は嗜虐の材料に使う掻痒剤の材料を薬屋に購いに行くために、それぞれに外出していた。
あのふたりに限って、黙って戻ってこないということはありえないから、なにかあったのだと思う。
口では大して気にしていない素振りをしている宝玄仙が、実はひそかに死ぬほど心配しているのは朱姫にはわかっている。
素蛾を相手に、嗜虐の夜をすごし始めたものの、すぐにやめてしまったのだ。
それからは、眠った様子でいながら、しきりに道術でふたりを探しているのがわかった。
朱姫の首輪もそうなのだが、沙那の首輪も孫空女の首輪も、宝玄仙の道術で居場所を探知できるようになっている。
宝玄仙はそれで、懸命に夜のあいだ、探し続けていたようだ。
だが、わからなかったに違いない。
つまりそれは、なんらかの手段で、宝玄仙が首輪に仕込んだ居場所探知の仕掛けが無効にされているということを意味する。
それだけでも、ふたりにただ事でないことが発生したということはわかる。
だから、宝玄仙は、夜明けとともに朱姫にふたりを探して来いと命じたのだ。
しかし、昨日いなくなったふたりの行方を追うのは難しいことではなかった。
裸同然の破廉恥な姿で、宿町を歩く沙那と孫空女らしきふたりの姿は、たくさんの人間に目撃されていた。
沙那と孫空女のほかにもうひとりの男がいて、道端でふたりの下着を切断したり、服を切り裂いたりしながら、宿町の南方向に歩いて行ったそうだ。
そのとき、栗毛の美女が道端で乳を揉んだり、張形で自慰をやったりしたとも言っていた。
栗毛の美女といえば、沙那だと思うが、恥ずかしがり屋の沙那が、人前で自ら胸を揉んだり、自慰をするというのは信じられない。
男とふたりの女は仲がよさそうだったということだったので、誰かに操られていたのだろうか?
とにかく、その謎の男を含めた三人は、道術で突然に消えたということだったので、朱姫はさらに南に向かってみた。
そこにあったのは、大規模な捕物があったと思われる痕跡だった。
誰も住んでいない一軒家があり、そこに数十人の軍がいた痕跡があった。
目撃者もいた。
赤毛の女と栗毛の女が、全裸に上着だけを身に着けた羞恥の姿で、大勢の官軍と戦い、やがて、捕らわれて檻車で連れて行かれたのだという。
連れて行かれた先は、朱姫たちが先日までいた
県都に向かうと、捕縛隊の兵が口にしていたという。
この辺りの県都といえば、寇員外の屋敷のあった地霊の町からさらに戻ったところのはずだ。
とにかく、すでに檻車は立ち去ってから数刻がすぎているようであり、得ることのできた情報を持って、宝玄仙のところに戻るところだった。
すると、宿屋を囲んでいる官軍に、ここでも出くわした。
官軍の捕縛隊の目的が、宝玄仙たちを捕えることであることもわかった。
最初に考えたのは、『移動術』で、包囲されている宿屋の中から、包囲の外にふたりを跳躍させることだ。
しかし、『移動術』とは、跳躍のための結界と結界を霊気で結ぶという道術だ。
結界は同じ術者のものでなければならない。
そうでなければ、『移動術』は繋がらない。
だから、入口と出口の両方に『移動術』のための結界を作る必要がある。
しかし、ここで兵に囲まれるということは想定していなかったので、朱姫は宿屋側に結界を作って出てこなかった。
おそらく、宝玄仙もそうだろう。
宿屋の外のどこかに『移動術』の結界は作っていないはずだ。
ともかく、一度野次馬から離れて、路地裏の人影のない場所に結界を作ったが、それから先は、なんとか朱姫自身が包囲の中心に進んで、宝玄仙のいる場所で結界を作らなければならない。
だが、あの重包囲だ──。
それ以上は、朱姫はどうしていいかわからなくなり、ここで野次馬とともに佇んでいた。
そして、いま、宿屋が炎と煙に包まれ始めた。
もはや、猶予もない状況に追い込まれた──。
朱姫は困惑してしまった。
「火を消せ──」
「それぞれの持ち場を離れるな──。とにかく、火を消せ──」
宿屋を包囲した軍から叫び声があがっている。
その慌てぶりから考えると、火をつけたのは包囲している軍ではないのか……?
少なくとも、捕縛隊も予期していなかった出火に混乱している様子だ。
朱姫はそれを意外に思った。
いずれにしても、宿屋から激しい炎があがっている。
飛び込んで、助けるしかない──。
朱姫は決心した。
「『獣人』──」
朱姫は霊気を集中した。
自分の全霊気を使って、大きな亜人に変身するという道術だ。
朱姫の渾身の道術だが、
それだけに長い時間持続できないばかりでなく、一度使うと二日はほかの道術が遣えなくなる。
だから、滅多に遣えないのだが、いまはそれは言っていられない。
朱姫には、目の前の包囲を突破する手段をほかには思いつかなかった。
「きゃあああ──」
「うわあああ──」
「亜人だ──。獣の亜人だ──」
周囲が騒然となった。
朱姫は構わなかった。
獣人のまま、包囲をしている官軍に突進した。
「待て、後ろだ──」
「亜人だ──。構えろ──」
「防げ──」
気がついた数名が最初に剣を構えた。
続いて、ほかの者も剣や棒を構えて態勢をとった。
突進し、腕を振って、行く手を阻む兵を弾き飛ばした。
強引に兵を倒しながら進んでいく──。
腹や背が斬りつけられたが無視した。
獣人でいられる時間は長くない──。
前を阻まない限り、放っておくしかない──。
相手をしたら、その時間のうちに元の姿に戻ってしまう。
建物の中は、炎と煙でいっぱいだった。
その代りに、兵は一度退がったようであり、建物の中そのものにはいなかった。
朱姫は肌や毛が焼けるのを感じながら前に出た。
階段を駆けあがる。
吠えた──。
火に包まれた天井が降ってきた。
腕をあげて避けたが、全部は避けきれなかった。
頭に衝撃が走った。
気がつくと、朱姫は残骸の下敷きになっていた。
払いのけて、さらに駆けあがる。
だんだんと道術が解けはじめている。
身体が小さくなるのを感じる──。
「ご主人様──」
朱姫は炎の中で叫んだ。
目の前は煙でなにも見えない──。
突然、扉が開いた。
突風のようなものが吹き、一瞬、視界が開ける。
そして、誰かの手が朱姫を掴み、部屋の中に引き摺りこまれた──。
*
「ちっ──。どうやら、宿屋に火をつけやがったよ。やっていいことと、駄目なことの区別がつかないのかい──。わたしらを捕えるために、この宿町一帯を火の海にするつもりかい──」
宝玄仙は舌打ちした。
捕縛の軍が宿屋をすっかりと包囲して半刻(約三十分)にはなる。
宝玄仙は、この部屋全体を結界で包み、しっかりと霊気の防護を作っている。
だから、この部屋をどんなに大勢で襲いかかろうとも、宝玄仙の霊気が衰えない限り、突破される恐れはないと思ったのだが、どうやら外の連中は宿屋に火をつけたようだ。
炎そのものが結界の中に入ることはないが、結界の周りが煙で包まれれば、新鮮な風は入ってこないし、猛火に包まれれば結界の中で蒸し焼きになってしまう可能性もある。
その前に脱出するしかないが、周りは宝玄仙たちを捕えようという兵でいっぱいだ。
「素蛾、やばいことになったよ。こうなったら、強引に脱出するしかないね」
宝玄仙は寝台にちょこんと腰かけている素蛾に振り向いた。
「わかりました──。なにをしたらいいか言ってください、ご主人様。でも、もしも足手まといになったら、絶対にわたくしを見捨ててください。覚悟はしています」
素蛾が真剣な表情で言った。
動じてもいないし、不安がってもない。
さすがは、元お姫様だ──。
いざというときの覚悟は、幼いころから叩き込まれているのだろう。
「見捨てはしないけどね……。とにかく、わたしから離れるんじゃないよ。わたしは、攻撃道術というのは、それほどは得意じゃなくてね──。まあ、どこまでやれるかわからないけど、わたしの腰帯をしっかりと握って、絶対に離れないんだ。そうすれば、なんとかなると思うよ」
宝玄仙は苦笑しながら言った。
とにかく、こんなときに冷静でいてくれるのはありがたい。
そのとき、なにかの気配を外に感じた。
大きな霊気の塊が近づく気配だ……。
「なんだい?」
思わず言った。
がらがらとなにかが崩れる音もした。
いよいよ、この宿屋が危なくなっているようだ。
そろそろ脱出しないと、強引に外に出ることもできなくなる。
炎に焼かれた屋根や壁に結界ごと押しつぶされるかもしれない。
「ご主人様──」
部屋の外から朱姫の声がした。
「朱姫姉さん──」
素蛾が叫んで扉に取りつきかけた。
「どきな──」
宝玄仙は素蛾を横にやって、道術で大きな風を起こしながら扉を開いた。
結界で強化している扉を開いた瞬間に、外の灼熱の風が入り込む可能性がある。
それを阻止するためだ。
「朱姫──」
「朱姫姉さん──」
外にいたのは火だるまになりかけている朱姫だ。
服がびりびりに破れて、ほとんど半裸だ。
全身に火傷がある。
しかも、腹や頭から血を流している。
残った服の一部や髪が燃えてもいる──。
宝玄仙はあまりの状態に息をのんだ。
「ご、ご主人様……」
朱姫が倒れ込んだ。
「朱姫姉さん──。こっちに──」
素蛾が必死の形相で宝玄仙を押し避けて、朱姫を掴んで引っ張り込む。
自分も熱にやられたり、燃えている朱姫から素蛾に火が燃え移ることなど、まったく気にしていないようだ。
とにかく、宝玄仙は扉を閉めて炎の侵入を防いだ。
素蛾は毛布で懸命に、朱姫の身体に残っている火を消している。
「朱姫、お前、無茶をするんじゃないよ──」
火傷だけじゃなくて、全身に切り傷や刺し傷もある。
包囲網を『獣人』の道術で突進してきたのだろう。
宝玄仙は朱姫の身体に霊気を注ぎ込んだ。
焼け焦げの身体が綺麗な肌を取り戻す。
切り傷も塞がっていく……。
燃えていた髪などは素蛾が毛布で消しとめたが、その髪も普段の状態に治っていく。
「朱姫姉さん──。しっかりしてください──」
素蛾が朱姫を抱きしめている。
「だ、大丈夫よ、素蛾……。……そ、それよりも、ご主人様……。『獣人』を遣ったので、霊気が消し飛んでしまいました……。だ、だから、あたしに霊気を注ぎ込んでください……。外に『移動術』の結界が刻んであります……。だから、ここであたしが『移動術』の結界を刻めば、ふたつの結界が繋がります……」
朱姫が苦しそうな息をしながら、懸命の口調で言った。
宝玄仙には、朱姫がなにを提案しているのかわかった。
朱姫は、おそらく、すでにこの包囲網の外に『移動術』の結界を作ってきたのだ。
だから、ここで『移動術』の結界を新たに作って、そこと繋げば脱出できる。
しかし、『移動術』の結界は、原則として両方が同じ術者でなければ、結界を繋げることはできない。
ここで、もう一度、『移動術』の結界を作るのは朱姫でなければならない。
しかし、いま、朱姫はすべての霊気を放出する『獣人』の道術を遣ってきた。
だから、宝玄仙の力で強引に朱姫に霊気を注げと言っているのだ。
「ば、馬鹿なことを言うんじゃないよ、朱姫──。そんなことをすれば、お前の身体に無理が生じるのはわかっているんだろう──。お前の『獣人』の道術は、お前の身体に比して大きな霊気を遣いすぎるんだ。だから、お前に無理がかからないように、お前自身の防護機能が、数日間はお前の道術を遣えないようにしているんだ。それを強引に、新たな霊気を注ぎ込んで、しかも、『移動術』のような大きな霊気を必要とする道術を遣ったりしたら、身体がただじゃおかないかもしれないよ──。下手をすれば死ぬよ──」
宝玄仙は怒鳴った。
「だ、大丈夫ですよ……。そのときは、ご主人様……が助けてくれるんでしょう……。で、でも、すぐに逃げないと……ここで三人死にますよ……」
素蛾の膝に抱かれている朱姫が、つらそうな表情で言った。
宝玄仙は嘆息した。
「わたしを買い被るんじゃないよ──。まあいい──。だったら、身体の半分に流れている亜人の血の根性を見せてみな──。霊気を注ぐよ──。気持ちをしっかりと持ちな──」
宝玄仙は朱姫の身体に強引に霊気を注入した。
いま、朱姫の身体からは、霊気がどんどんと放出するような状態だった。
それは、大きな霊気を遣ってしまった朱姫の身体を守るための、朱姫自身の防護機能なのだ。
そうやって、数日間、朱姫の霊気に関わる器官を休ませるのだ。
その朱姫に向かって、霊気を逆流させる。
相当の無理をさせることになるだろう。
「くうっ」
朱姫が苦しそうに顔を歪めた。
「朱姫姉さん──」
素蛾が心配そうに朱姫の身体を掴んだ。
「だ、大丈夫よ、素蛾……。で、でも、そうやって、身体を抱いていて……。そうすれば、力が出る……。踏ん張れる……」
脂汗を流し始めた朱姫がかすかに微笑んだ。
結界が形成し始める。
朱姫と素蛾がいる場所と、どこかの場所が『移動術』で繋がったのがわかった。
宝玄仙は素蛾と朱姫を抱くように腰を屈める。
『移動術』で身体が跳躍するのを感じた。
*
どこかの路地のような場所に着いた。
宿屋の喧噪からは、少し離れた場所にある。
宝玄仙は、路地から顔を出してみた。
炎に包まれている宿屋があり、大勢の兵が火を消そうと躍起になっているのが見える。
その周りをさらに住民らしき者が囲んでいて、やはり火を消そうとしている。
こっちに気を留める心配はなさそうだ。
「朱姫姉さん、しっかり──」
素蛾が声をあげている。
宝玄仙は身体を屈めて朱姫に手を当てた。
朱姫は完全に意識がない状態だ。
昏睡していると言っていいだろう。
この状態になると、『治療術』で回復させるのも却って危険だ。
しばらく待って、朱姫の身体が霊気を受けられる状態になってからでなければ、さらに霊気を注ぎ込んでしまうことで、朱姫の身体に無理をさせてしまうことになるからだ。
だが、すでに朱姫は急速な回復状態にある。
これから数刻もすれば、意識を取り戻すだろう。
宝玄仙はほっとした。
「大丈夫だよ、素蛾……。朱姫は数刻は起きないと思うけど、それほどの負担はかかっていない。耐えきったようさ……。もう、大丈夫だよ」
「よ、よかったです」
素蛾が嬉しそうに、気を失っている朱姫を抱きしめた。
そのとき、路地に誰かが近づく気配がした。
宝玄仙は身構えた。
「……ご主人様──。申し訳ありません」
「だ、大丈夫──?」
やってきたのは、沙那と孫空女だった。
宝玄仙はかっとなった。
「お、お前ら、これまでどこに行ってたんだい──。ふざけるんじゃないよ──。お前たちがいないせいで……」
宝玄仙は怒鳴りあげようと思ったが、いまはぐっと堪えることにした。
その代わりに、大きな舌打ちをした。
「まあいい──。話は後だよ……。お前、朱姫を背負いな、孫空女──。とにかく、逃げなきゃならないんだ──。どうやら、この官軍の襲撃は、寇員外が関係しているようなんだ。なにがなんだか、さっぱりとわからないけど、とにかく、
宝玄仙は、孫空女の身体を引っ張ると、素蛾が膝の上に頭を乗せている朱姫の身体をその背に乗せた。
そのとき、孫空女の身体から強い油の匂いがした。
激しい煤もついている。
まさかとは思ったが、ふと思って訊ねてみることにした。
「孫空女、もしかして、宿屋に火をつけたのはお前たちかい? なんで、こんなに油まみれなんだい?」
あの宿屋の炎の速さは、油を撒かれて燃やされたのだと思う。
この孫空女の匂いは、その油をたったいままで扱っていたのに間違いないだろう。
「危ない、ご主人様──」
素蛾の絶叫がした。
どんと衝撃が起きた。
なにが起きたのか理解できなかったが、宝玄仙の身体に素蛾が当たって地面に倒れた。
その素蛾の背中が大きく避けて血が流れている。
沙那の持つ短剣にべっとりと血がついていた。
「お、お前、どういうつもりだい──?」
宝玄仙は叫んだが、やっと、目の前の沙那と孫空女が、本物でないことに気がついた。
このふたりには、宝玄仙の道術陣を身体に刻んでいる。
だが、目の前のふたりにはそれがない。
ふと見ると、指に赤い指輪をしている。
あれは、『変化の指輪』──。
指輪に刻んだ人物に変身するという宝玄仙自身の霊具だ。
「う、うう……」
素蛾が苦しそうに呻いた。
顔が真っ白だ。
これは出血のせいだけじゃない……。
毒だ──。
とっさに思った。
あれは毒のついた短剣だ。
しかも、致死性のある毒に違いない。
「ちっ──。この童女、邪魔しやがって──」
沙那の姿をした誰かが、倒れている素蛾に唾を吐いた。
「今度こそ仕留めてやるぜ、宝玄仙──」
そして、孫空女の姿をした者も腰の剣を抜いた。