「はあ、はあ、はあ……、な、なんということだ……」
釘鈀は呆然としてしまった。
後ろでは宝玄仙と朱姫が大笑いしている。
釘鈀は急に羞恥と屈辱が込みあがってきた。
「あ、あのう……。これもお掃除します……」
そのとき、釘鈀と椅子のあいだに、四つん這いになった素蛾が割り込んできた。
釘鈀は驚愕した。
なんと、この素蛾は釘鈀が床にぶちまけた精まで舌で舐めとろうとしているのだ。
そのあまりの健気な態度にある種の感動が釘鈀を包んだ。
「さすがに、これじゃあ小生意気な態度もできないだろう──。金縛りを解いてやるよ。服装を整えな、皇子」
宝玄仙が言った。
身体が軽くなって霊気の拘束が解けた。
釘鈀はとりあえず立ちあがって、下袴をはき直す。
一方で、素蛾は一心不乱という感じで、飛び散った釘鈀の精を舌で舐めとり続けている。
なんというか……。底抜けに素直な子供だ……。
こんなに屈辱的な目に遭ったというのに、この素蛾のおかげで、まるで篤い奉仕でも受けたような心地になる。
「奉仕させていただいて、ありがとうございました」
やがて、作業が終わったのか、素蛾が四つん這いのまま顔をあげて、にっこりと釘鈀に笑いかけた。
かっと熱くなるものを釘鈀は感じた。
この世に正真正銘の天使を見たような気分になったのだ。
滑稽なこととは思うが、釘鈀は目の前の素蛾という童女に心を奪われたような気持ちになった。
なんという健気な性奴隷なのだろう──?
「おいで、素蛾……。ご褒美よ。汚れた口を綺麗にしてあげるわ……」
朱姫が素蛾を呼び寄せた。
「あっ……で、でも、汚れてます、朱姫姉さん……。床だって舐めたし……」
朱姫に抱き寄せられた素蛾が当惑した声をあげた。
「いいから、いいから……。素蛾の口が汚いわけないでしょう……」
朱姫がにこにこと笑いながら、素蛾の口を舐め始める。
「んんっ、んんっ、はあ……朱姫……姉さん……き、気持ちいいです……あああ……んんふうう……ふあ……」
素蛾が蕩けるような表情になって、朱姫に身体を持たれかけさせている。
完全に欲情した雌の表情だ。
「だ、だめ……あたしも……こ、この唾液は危険……。ふうう……力が……」
しかし、朱姫もまたうっとりとした表情になった。
どうやら、素蛾の唾液に媚薬のような効果があるとわかった。
それで釘鈀もあっという間に達してしまったのだ。
釘鈀は朱姫と素蛾のあまりにも艶めかしい口の吸い合いを茫然と見入っていた。
「どうだい、皇子。わたしの供はやるだろう? じゃあ、約束だ。沙那と孫空女を連れてきな」
宝玄仙が言った。
釘鈀は椅子に座り直した。
霊気で探ると、いつの間にか霊気で部屋の外と通信が可能なようになっている。
釘鈀は、とりあえず、無事であることを告げるとともに、沙那と孫空女に服を着せて連れてくるように道術通信で指示を送った。
「……指示はしました。準備でき次第、ふたりはここにやってきます──」
釘鈀は肩をすくめた。
これで闘奴隷がいなくなったので、闘技会には釘鈀は誰も参加させられなくなった。
溥儀雷帝が怒るだろうが仕方がない……。
賭けに負けたのだ。
「……お前、面白い皇子だね……。もっと、手こずるかと思っていたよ……。ところで、お前たち、いつまでやってんだよ。いい加減にやめないか──」
宝玄仙が言った。
そばでは、朱姫と素蛾が口を舐め合って、ずっと甘い声を出し続けていたのだが、宝玄仙の一括でふたりが我に返ったように口を離した。
ふたりが照れたような顔をして、揃って宝玄仙の後ろに立ち直す。
釘鈀も、その無邪気な光景に思わず微笑んでしまった。
「……まあ、仕方ないですね──。でも、これだけは言わせていただきますよ。俺はあなたに、文句を言われることをした覚えはありません。あのふたりは、
「ところが、そうじゃないんだよ──。あのふたりは無実だ。お前の部下が連れて行った直後に、それが判明して、沙那も孫空女も釈放される手筈だったんだ。ほら、これ証拠だ。あそこの知事の手紙だよ」
宝玄仙が朱姫から出させた手紙を釘鈀の前に放った。
釘鈀はそれに目を通した。
びっくりして声をあげた。
宝玄仙の言う通りだ──。
「こ、これは大変なことをしたようです。いまのいままで、俺は、あのふたりが殺人を犯した死刑囚だったと思い込んでいました。だから、なにをしても許されると思っていたんです──。申し訳ありません──」
釘鈀はその場で深々と頭をさげた。
「お前、本当に気さくで愉快な皇子だねえ……。まあ、いいさ……。沙那と孫空女が無事なら、それでいいのさ」
宝玄仙はすっかりと上機嫌になった。
釘鈀は安心した。
そして、外の様子を探知して、沙那と孫空女の転送の準備ができたことがわかった。
「ふたりの準備ができたようです」
釘鈀が言うと、宝玄仙がうなずいた。
すると、結界の強さが少し緩まる感触が伝わった。
『移動術』の道術を飛ばす──。
外から人間が転送されてくる気配がわかった。
沙那と孫空女が現れた。
ふたりは腹が露出した上衣と下袍が分かれた服を着ていた。
ふたりの腹には奴隷の刻印がある。すでに刻印を受け入れた孫空女の腹は赤い刻印であり、沙那はまだ黒い刻印のままだ。
「ご主人様──」
「ご主人様──」
ふたりが同時に声をあげた。
そして、ふたりが宝玄仙たちに駆け寄った。
「き、来てくれたんですね──。嬉しいです──。嬉しいです──。ありがとうございます──ありがとうございます、ご主人様──」
驚いたことに、あの冷静そうだった沙那が号泣しながら宝玄仙にしがみついたのだ。
余程に苦しかったに違いない。
本当に申し訳ないことをしたという気持ちが釘鈀の心の中に拡がった。
「寸止め責めに遭っていたそうじゃないかい、沙那……。じゃあ、今夜はみんなで心いくまで昇天させてやるよ。だから、もう泣くんじゃないよ」
宝玄仙が膝にしがみついて泣く沙那の頭にそっと手を添えた。
釘鈀は孫空女と沙那に謝罪しようとした。
しかし、そのとき、さらに『移動術』で誰かが入ろうとしていることに気がついた。
躊躇したが侵入を許可した。
やってきたのは陳嬌だった。
釘鈀は目を丸くした。
陳嬌はほとんど裸だった。
ただ、切り裂いたカ布を身体にひと巻きしている。
全身は汗にまみれていて、髪は乱れていて額にも張りついている。
そして、鞘から抜かれた剣を持っている。
すごい形相だ──。
「で、殿下──、ここはわたしがなんとか防ぎます──。で、ですから、お逃げください──」
陳嬌が怒鳴った。
釘鈀には、陳嬌が宝玄仙に飛びかかろうとしているのがわかった。
孫空女が前に出た。
沙那はまだしゃがんだままだったが、身体だけを反転させて、宝玄仙の前に盾になるように手を拡げた。
「ま、待て、待て、陳嬌──。待ってください──。話は終わりました。沙那と孫空女は、宝玄仙殿に返します。このふたりは無実の罪だったのです──。そうであれば、彼女たちを拘束しているのは、俺の不当な行いということになります。残念ですか、このふたりを闘奴隷にすることは諦めます。俺は陛下の処分を受け入れることに決めました」
釘鈀はなだめるように、陳嬌の肩に手をかけて言った。
陳嬌が驚いている。
しかし、釘鈀も少し驚いた。
陳嬌の身体からは、強い精の匂いがする。
まるでたったいままで、激しい情交をしていたような感じだ。
「そ、そんな──。そんなことはできません。廃皇子されるのですよ──。それだけでなく、あの気紛れな陛下のことです──。殿下にどんなお咎めがあるか……」
陳嬌が当惑した声を発した。
「いいのです。それは俺の事情であって、この方々の事情ではありません」
釘鈀は沙那と孫空女に道術を飛ばした。
ふたりの腹から奴隷の刻印が消滅する。
「わっ?」
「あれっ?」
孫空女と沙那のふたりが腹を押さえて声をあげた。
そして、ふたりともほっとした顔になった。
「そ、そんなあ──。ね、ねえ──お願いです──。だったら、皇子を助けてください、あなた方──。沙那と孫空女を……、いえ、沙那殿と孫空女殿をどうか貸してください。二日だけのことです──。釘鈀殿下の闘奴隷として闘技会に出場してくれれば、どんなお礼もしますから──」
今度は陳嬌は、訴えるような口調で宝玄仙に叫んだ。
「お、お前──、どの口でそんなことを言ってんのよ──。ふざけるんじゃないわよ──」
すると、沙那が怒鳴った。
「あ、謝るから──。ねっ? 謝るわよ、沙那──。でも、お願いだから、闘技会に出場してよ。あんたたち強いんでしょう? ちょっと出るだけじゃないの──。あなたたちに去られると、本当に殿下が困った立場になるのよ──。お願いだから──。この通りよ──」
釘鈀は驚愕した。
陳嬌がその場に土下座をしたのだ。
釘鈀のために、陳嬌がこんなことまでしてくれるとは思わなかったから、釘鈀も横で目を丸くした。
「……それにしても、お前、どうやって逃げてきたんだい? あの細蔡君の坊やはどうしたんだい?」
宝玄仙が陳嬌を眺めながら言った。
「か、身体がなんとか自由になったから、とっさに睾丸を捻って気を失わせました……」
陳嬌が言った。
すると、宝玄仙が大笑いした。
「ふっ──。まあ、二日ぐらいのことだしね……。まあいいだろう。じゃあ、沙那と孫空女、よくわからないけど、その天下一なんとかというのに、出場してきな」
やがて、笑いの発作が終わった宝玄仙が言った。
「ほ、本当ですか──。あ、ありがとうございます──」
陳嬌が土下座をしたまま声をあげた。
「じょ、冗談じゃありませんよ、ご主人様──。それに出場するには、奴隷の刻印というのを受け入れないといけないんですよ。絶対に言葉に逆らえなくなる支配道術です──。わたしは断固として受け入れません」
沙那が言った。
「いいじゃないかい──。この皇子はなんとなく人がよさそうで、信用もできそうだよ、沙那」
「嫌だったら、嫌です──」
沙那は強く言った。
「ねえ、いいじゃないの、沙那……。あんたのご主人様もそう言ってくれているんだし……」
陳嬌が床にひれ伏したまま顔だけをあげて、沙那をなだめるような声を出した。
「お、お前は喋んじゃないわよ、陳嬌──」
沙那が怒声をあげた。
「その奴隷の刻印というのは絶対の条件なのかい? それがなければ出場できないのかい?」
宝玄仙が釘鈀に顔を向けた。
「奴隷の刻印なしに闘技会に出場できません」
釘鈀も言った。
そして、宝玄仙たちに簡単に闘技会のことについて説明した。
宝玄仙はとりあえず納得したようだ。
一方で、孫空女については、宝玄仙の命令ならば出場してもいいと応じたし、刻印も受け入れると言った。
だが、沙那は、絶対に嫌だと頑なに拒否した。
どうやら、沙那は奴隷の刻印を受け入れて言葉に逆らえなくなるのが、心の底から嫌なようだ。
「……だったら、わたしの刻印を刻むというのはどうだい? 多分、その道術はわたしにも使えるよ。ただ、かたちは皇子の刻印に似せるけど、中身はわたしだ。わたしの命令に逆らえなくなるだけだ。それならいいだろう……」
宝玄仙が沙那に言った。
同時に、宝玄仙がちらりと釘鈀を見た。
釘鈀は大きくうなずいた。
それくらいの誤魔化しなら問題はない。
そもそも、本物の奴隷の刻印を刻んでいるかどうかはすぐにわかるが、誰の刻印を刻んでいるかなど、他人にはわかりようもない。
「もっと嫌です──。今度、ご主人様の刻印とか、首輪を受け入れたら、なにをされるかわかりません──。ご主人様に忠誠は誓いますが、道術支配は受け入れません」
沙那はきっぱりと言った。
宝玄仙も、これ以上はどうしようもないというように、両手を広げて釘鈀を見た。
釘鈀は大きく息を吐いた。
「だったら、この素蛾殿の刻印を受け入れるというのはどうですか? 素蛾殿の刻印を刻むのです。誰でもなく、素蛾殿の命令に逆らえなくなるだけです──。それでどうですか、沙那殿?」
釘鈀は言ってみた。
この五人の力関係はもうわかっている。
少なくとも素蛾はこの五人では一番低い立場のようだ。
素蛾は善良そうだし、もしかしたら、沙那もそれを受け入れるじゃないかと思ったのだ。
「素蛾に? 素蛾は道術遣いではないでしょう。そんなことはできないのではないですか」
沙那がきょとんとした表情になった。
すかさず、宝玄仙が口を挟んだ。
「あとで事情は説明するけど、素蛾はいまや道術遣いと同じだよ。霊具も遣えるし、限定的だけど遣える道術もある。確かに、素蛾を主人とする奴隷の刻印は刻めるねえ。いくらなんでも、素蛾なら文句はないだろう、沙那? それ以上、我が儘言うと、折檻するよ」
宝玄仙が強く言った。
「わ、わたくしが主人である奴隷の刻印を沙那様に刻むのですか?」
横でただ聞いていただけだった素蛾が驚きの声をあげた。
「素蛾が道術?」
沙那はそのことに驚いているようだが、素蛾を主人とする刻印なら受け入れる気配だ。
釘鈀もほっとした。
「じゃあ、話も収まりそうじゃないかい……。だったら、こうしようじゃないかい、皇子。このふたりをお前に貸す代わりに、この陳嬌を性奴隷として三日間貸しな。こいつに、わたしの奴隷の刻印を打ちこむんだ。それを受け入れれば、このふたりをお前の闘奴隷ということにして出場することを認めるさ。ただし、実際にはそして、沙那、陳嬌に奴隷の刻印を刻んだら、今度はお前の命令に逆らうなと命令してやるよ。そうしたら、この女は三日間、お前の玩具だよ」
宝玄仙が笑いながら言った。
「へええ……。こいつがご主人様の奴隷の刻印を? だったら、いいわ……。受け入れます。素蛾が主人である奴隷の刻印を刻んでください。それは、もう喜んで……」
沙那が陳嬌に視線を向けながら、酷薄そうな口調で言った。
陳嬌は話のあいだ、床に正座をしたまま上半身をあげた状態だったのだが、話の流れに絶句している。
顔が引きつっているようだ。
そんなことを申し出られるとは思わなかったのだろう。
しかし、ここは受け入れてもらわないと困る。
「わかりました……。陳嬌さえよければ、俺は同意します……」
釘鈀も言った。
陳嬌がいよいよ顔を真っ蒼にした。
「じゃあ、話ははまとまった。それでいいね、沙那」
宝玄仙がからからと笑った。
「同意します」
すると、沙那が陳嬌に近づいて、土下座をしている陳嬌の後頭部に、いきなり足で踏みつけた。
「ふぐうっ」
陳嬌が呻き声をあげる。
「わかってるんでしょうねえ、陳嬌──。同じ目に遭ってもらうからね……。いえ、それ以上よ……」
沙那がぐりぐりと陳嬌の頭を踏みつけながら言った。
「わ、わかった……。いえ、わかりました……」
額を床に擦りつけられながら陳嬌が言った。
すまない、陳嬌……
釘鈀は、心の中で陳嬌に手を合わせた。
(第109話『闘奴勧誘』終わり、第110話に続く)
【西遊記:88回、王華県の三王子】
天竺国の王華県に一行はやってきます。
その土地は、天竺国の皇帝の一族のひとりである王華王が治めています。
玄奘たちは、手形に印をもらうために王宮を訪問します。王華王は遠い唐の国から高僧がやってきたと喜び、玄奘たちを食事に招きます。
しかし、玄奘の供である孫悟空たちが姿を見せると、その恐ろしい姿に王華王は奥に引っ込んでしまいました。
代わりに現れたのが、王華王の三人の王子です。
三王子には武芸の心得があり、孫悟空たちに挑みかかります。しかし、孫悟空、猪八戒、沙悟浄は食事をしながら、簡単に三王子をあしらってしまいます。
その強さに驚いた三王子は、自分たちに武芸を伝授して欲しいと、孫悟空たちに頼み込みます。
玄奘はそれを許し、一行は王華県の王宮に逗留することになります。
孫悟空たちは、三王子の気を活性化させて、自分たちの得物を貸して武芸を教えます。(孫悟空の得物は「如意金箍棒」、猪八戒は「鉄把」、沙悟浄は「降妖宝杖」)
三王子は、わずか一日で驚くべき上達をします。
稽古の終わった三王子は、遣わせてもらった武器を模造したいので、数日貸して欲しいと頼みます。孫悟空たちは自分たちの武器を渡します。
三王子は、早速、子飼いの鍛冶師に借りた武器を渡しますが、それを千里眼で覗いていた妖魔が、孫悟空たちの得物を盗んでしまいます。
(この『西遊記』のエピソードは、本来は89回の「九霊元聖」のエピソードに続きますが、本作品については、91・92回の「避寒・避暑・避塵大王」のエピソードを