744 闘技会二日目
嫌な感じだ。
孫空女は十六名の闘士の行進に混じって闘技場を囲む高い壁に沿って歩いていたが、おかしな緊張感がぴりぴりと肌を刺すのだ。
これから行われるのは、今日の試合に先駆けて行われる闘士たちへの皇帝直々による声掛けという儀式のはずだ。
実際の闘技の試合はその後に行われることになっていて、まだ、誰と戦うのかということも発表されていない。
殺気など向けようもないはずなのだ。
だが、闘技場を観客席に向かって手を振りながら歩いている闘士たちからは、確かに殺気のようなものを感じることができる。
しかも、かなり強い……。
孫空女は当惑していた。
単に皇帝が闘技場に降りてきて、最後の日に残った闘士十六人に、ひとりずつ声をかける──。
それだけであり、ただ黙って頭をさげていればいいと言われていたのだ。
孫空女と沙那は十六名で歩く列の最後尾を歩いていた。
先頭は
ほかに知っている闘士は、中段を歩く
この十六人で、まずは観客たちに姿を見せながら、大きく闘技場を一周して歩く。
そして、最後に中央の貴賓席に向かって横一列に並ぶというわけだ。
また、貴賓席の中央には、すでに皇帝自身が警護の取り巻きとともに座っているのが見える。
貴賓席はそれぞれ壁で仕切られているようだ。
皇帝に座っている場所の近くに、宝玄仙と朱姫がいる場所もあるが、あれは
ただ、なぜか今日もまだ来てはいないようだ。
素蛾もいない。
宝玄仙たちは、早朝に屋敷を出立してきた孫空女と沙那を一緒に送ってきたのだが、素蛾は釘鈀皇子に気に入られて、同じ馬車でやって来ることになっている。
その釘鈀皇子がまだ到着していないのだろう。
その代わり釘鈀皇子の女執事の
ここから見ているだけで、なんとなくげっそりとしているのがわかる。
昨日は宝玄仙と朱姫にいじめ抜かれて完全に性根を抜かれたような感じだった。
今日もそのふたりに挟まれて座り、不安そうにしている。
ともかく、いまやっているのは、闘技に先立つ練り歩きであって、こんなにほかの闘士たちが殺気に溢れる理由がわからない。
それとも、なにかあるのだろうか……?
正式の闘技会の作法はなにも知らないし、詳しくも教えられていない。
なにか、武器を持って戦うようなことがあるのか……?
とりあえず、孫空女は手にしていた『如意棒』を持つ手に力を入れた。
孫空女に限らず、闘士の全員は手に武器を持っている。
そのように指示をされたのだ。
理由は、闘士が皇帝に謁見する姿は、闘う姿でこそあるべきだということだった。
武器を持っていなければ、それは闘士ではないし、闘士でなければ、皇帝が近くまでやってきて声をかける意味などないということらしい。
だが、武器を持って、こんな風に殺気を出されると物騒だ。
「ねえ、沙那……?」
孫空女は前を歩く沙那に声をかけてみた。
「なによ、孫女……? まったく、腹立つわよねえ……。わたしたちのこと裸女とか……。今日はどんな格好で戦うんだとか……。もっと、ましなこと言えないのかしら……」
沙那が不機嫌そうに言い返した。
孫空女は、ふと顔をあげた。
なるほど、観客席から孫空女と沙那をからかう野次がいっぱい飛んできている。
さっきまで、気にしていなかったから聞こえていなかったが、昨日の試合で孫空女も沙那も試合中に全裸で闘う羽目になってしまった。
それで、観客たちがそれを中傷しているようだ。
沙那はそれに怒っているらしい。
しかし、一方で、孫空女が感じたほかの闘士たちのおかしな気配は気にしていないようだ。
やっぱり、気のせいなのだろうか……?
やがて、十六人の闘士が正面の貴賓席に面して並んだ。
観客が大歓声をあげた。
皇帝が立ちあがったのだ。
ゆっくりと貴賓席から階段を降りてくる。
初めて見るが随分と身体の大きな男だ。
そういえば、この皇帝もかつては、金箍皇子や降妖君のように自ら一介の闘士として闘ったこともあると、顔の潰れた闘技場の奉仕女の
それがこの西方帝国の風習のようだ。
皇帝や皇子も自ら鍛錬して、武術大会に出場するくらいだから、志ある者は当たり前のように武術の鍛錬をする。
だから、この国は別名“武の国”とも称されているのだ。
釘鈀のような武術嫌いの皇子の方が珍しいのだろう。
観客席と闘技場は随分と段差がある。
だから、臨時の階段が設けられて、皇帝が降りて来られるようになっている。
その階段を使って、皇帝が闘技場におりてきた。
十六名の全員が一斉に片膝をついて、武器を横に置いて頭をさげる。
皇帝が金箍皇子の前に立つのがわかった。
だが、常人にはなにも見えないが、実際には闘士と皇帝のあいだには薄い結界がある。
孫空女の眼にはそれが薄っすらと見えていた。
それがあるから、皇帝が直に闘士の前に立つということができるのだ。
実際のところ、皇帝とともにいるのは屈強そうな護衛兵が五人だけだ。
それも皇帝の後ろについているのみだ。
実際には透明の壁があるのだが、まるで無防備に皇帝が闘士たちに面しているように見える。
孫空女が思うに、あれも民衆に皇帝の勇敢さを見せる演出に違いない。
まずは皇帝は、第一皇子である金箍に声掛けしている。
ここからでは、皇帝がなにを語りかけているのかはさすがに聞こえない。
観客の声が大きすぎるのだ。
そのとき、薄っすらと存在していた結界が突然に消滅した。
「ええっ?」
思わず孫空女は声をあげてしまった。
「どうしたの、孫女?」
沙那が不審そうな声をあげた。
孫空女とは異なり、道術の気配がわからない沙那には、結界の消滅は認識できないのだろう。
沙那に理由を説明しようとした。
しかし、そのとき、わっという悲鳴と怒声が闘技場を包んだ。
闘士たちの多くが、武器を手にして立ちあがっている。
「な、なにさ?」
孫空女はびっくりした。
その闘士たちが一斉に飛びかかって、皇帝の後ろの護衛に斬りかかったのだ。
ふと見ると、皇帝については金箍皇子が飛びかかって後ろから首を羽交い絞めにして、その皇帝の首に剣をつきつけている。
「き、金箍──、ど、どういうことだ──?」
巨漢の金箍に背中から羽交い絞めにされている皇帝が声をあげた。
「動くな──。動くと皇帝を殺す──。誰も動くな──」
金箍が叫んだ。
観客席側には多くの近衛兵がいるのだが、皇帝自身を人質にとられたためになにもできないでいる。
慌てたように動く気配もあったのだが、いまの金箍のひと言で凍りついたように全員の動きが止まった。
「兄者、なんてことをするのだ──?」
騒然とした闘技場にひと際大きな声が響いた。
孫空女の眼には、降妖君がすっと立ちあがって、皇帝を掴んでいる金箍に武器を向けるのが見えた。
*
「兄者、なんてことをするのだ──?」
降妖君は大声で叫びながら金箍に剣を向けた。
計画はうまくいった。
降妖君は笑いをこらえるのに必死だった。
降妖君を「主人」とする奴隷の刻印を刻まれている金箍は、降妖君が命じたとおりに、皇帝の声掛けのときに、皇帝に剣を向けて人質にとることに成功した。
それに合わせて闘技場に皇帝の防護のために張ってあった霊気の結界を消滅させたのは、降妖君の手の者の仕事だ。
もはや、降妖君の計画を阻害するものはなにもない。
皇帝の
西方帝国の法では、皇位継承権を持つ皇子はふたりと決められている。
金箍がいなくなれば、溥儀雷帝は欠けた皇位継承権の枠に降妖君を選ぶだろう。
なにせ、これから降妖君は、皇帝を人質にとった謀反人を処断して、皇帝の命を救うのだ。
その貢献に報うためには、当然、皇位継承権を持つ皇子に降妖君をあてるということをするしかない。
ふたりの皇位継承権を持つ皇子に降妖君があがれば、次は、あの軟弱皇子の釘鈀と皇帝の椅子を争うことになるが、武の国である西方帝国の次期皇帝に、溥儀雷帝があの釘鈀を選ぶわけがない。
当然、次期皇帝は降妖君ということになる。
あるいは、状況によっては、溥儀雷帝を早々に引退させるか、ひそかに殺す方法を考えてもいい。
まあ、それは、とりあえず降妖君が皇位継承権を持つ皇子に正式になってからだ。
「金箍──。お前はすでに謀反人だ。なにをしたかわかっているのか──? 皇帝に傷をつけるな──」
降妖君は剣を向けながら、ゆっくりと金箍に近づいた。
周囲からすれば、降妖君が威嚇して、金箍の身体をとめているように思えるかもしれないが、あの金箍の胸には、降妖君を主人とする奴隷の刻印が刻んでいる。
その刻印に心を拘束されている金箍は、いまの降妖君の言葉に逆らえないのだ。
これで金箍は皇帝を傷つけられない。
これから始まるのは、降妖君による謀反人の金箍の退治という茶番だ。
金箍には、あらかじめの命令により、降妖君が“卑怯者──。俺と勝負しろ──”という合言葉を口にすれば、掴んでいる皇帝を離して、降妖君に斬りかかってくることになっている。
降妖君自身を「主人」とする奴隷の刻印を刻んだ相手を殺すのだ。
いかに、帝国一の闘士と名高い金箍でも、赤子の首を捻るよりも楽に殺すことができるだろう。
それが終われば、降妖君は皇帝を救った英雄だ。
この状況を作るために、さまざまな工作をしながら、この天下一闘技会を主催して、条件を整えた。
北の亜人の地において、南山大王にとって代わって、その勢力地の女王となった
いま、この闘技場にいるほとんどの者は、本当は金箍を含めて、降妖君の奴隷だ。
だが、それを知っているのは誰もいない。
もしも、夕べのうちに、
しかし、朝になり、ふたりから金箍に奴隷の刻印を刻むことに成功したと報告を受け、事実、金箍は降妖君の奴隷状態になっていたので、皇帝を人質にとって降妖君に殺される役目は金箍にすることにした。
それが、降妖君にとって、一番都合のいい結果に終わるからだ。
いずれにしても、あのふたりも、降妖君のためにいい仕事をしてくれた。
「
降妖君は叫んだ。
これでいい……。
降妖君はちらりと黄獅姫を見た。
黄獅姫に教えていた手筈では、ここで黄獅姫たちが、仲間であるほかの亜人闘士を殺すという命令は与えられることにはなっていなかった。
黄獅姫は目を丸くしている。
降妖君はほくそ笑んだ。
亜人同士を殺し合わせるという計画だと説明すれば、奴隷の刻印があるとはいえ、なんとかそれを阻止しようと動くかもしれない。
だから、それを教えず、単に皇帝を人質にとるだけだと言っておいたのだ。
しかも、全部の亜人の行動を黄獅姫に任せると仄めかしておいた。
黄獅姫は、ここで改めて別の行動を命じられるとは思ってなかったはずだ。
だが、このことはあらかじめ決めていたことだ。
奴隷の刻印を刻んでいる亜人闘士のうち、黄獅姫、猱獅、雪獅の三人は降妖君の奴隷だと公表しているし、降妖君の家紋を刻印として刻んでいる。
だから、この三人には、「謀反人側」の行動はさせていない。
一方で、ほかの九名は本当は降妖君の奴隷の刻印を刻んでいるのだが、それは巧みに欺騙しているし、表向き公表している奴隷の主人にも細工をして、どんなに調べても、降妖君との繋がりはわからないようになっている。
だから、この連中にはここで死んでもらい、主従のどちらかが死ねば消滅するという奴隷の刻印の決まり事により、刻印そのものを消滅してもらわなければならない。
そうなれば、降妖君の悪巧みを辿ることは不可能になる。
殺す側を命じた三人には刻印の力で口封じをすればいい。
「卑怯者──。俺と勝負しろ──」
降妖君は金箍に向かって叫んだ。
これで、金箍は皇帝を突き離して、それで金縛りになったように動かなくなるはずだ。
だが、皇帝の首から血しぶきが飛んでいる。
降妖君の言葉の直前に、金箍が皇帝の喉に刃物を刺していたのだ。
驚いた──。
金箍には実際には、皇帝を傷つけるなと命じておいたのだ。
なんで「命令」に逆らったのだろう──?
降妖君は、予定と異なる光景に茫然としてしまった。
だから、反応が遅れた。
気がついたときには、皇帝の身体を捨てた金箍の身体が目の前だった。
金箍の大剣が迫っている。
「斬るな、命令だ──」
降妖君は金切り声で叫んだ。
しかし、次の瞬間、降妖君は自分の首が胴体から離れる感触をはっきりと感じた。
*
「お前たち、闘うな──。それよりも、人間族の皇帝を殺せ──」
黄獅姫は絶叫した。
ぎりぎりだった──。
背中からどっと冷たい汗が吹き出すのを感じた。
降妖君の「命令」に従って、黄獅姫はほかの仲間の亜人闘士を殺しかけていたところだったが、その黄獅姫の視界に、金箍の剣が降妖君の首を飛ばしたのが辛うじて見えた──。
その瞬間に、黄獅姫の身体に刻まれた降妖君の呪縛から解放されたのだ。
それで、降妖君が死ぬ寸前に発した、ほかの亜人闘士への殺害命令が無効になり、仲間を殺すことを免れた。
そのときには、黄獅姫の剣は、命じられた殺戮をするために、やはり、降妖君が死の寸前に発した命令により身動きできなくなった仲間をほとんど殺す直前だった。
「うおおおおっ──」
「うがああ──」
「うしゃあああ──」
お互いに闘う姿勢をとっていた亜人闘士たちのうち、皇帝に近い側にいた数名が一斉に皇帝に向かった。
金箍の剣により、首を斬られた皇帝だが、まだ生きていることは明らかだ。
必死になって、血まみれで観客席に向かって這い進んでいる。
また、金箍が剣を皇帝から手を離したので、突進を躊躇っていた観客席側の護衛の近衛軍も闘技場に雪崩れ込もうとしていた。
「そうはさせないよ──」
声がした。
黄獅姫は、隠れていた
その九霊聖女が闘技場のこの一角だけを包み込むような結界を張ったのもわかった。
闘技場に降りる階段に接していた近衛兵がそれに阻まれる。
「お前ら、なにすんだい──?」
そのとき、女の声がした。
赤毛の女が、棒で皇帝に斬りつけた亜人闘士を跳ね飛ばしたのだ。
もうひとり剣を持った栗毛の女もいる。
このふたりは、確か、孫空女と沙那だ。
第二皇子の釘鈀のところの闘奴隷であり、昨日の試合で、それぞれ、
そのふたりが、皇帝にとどめを刺すのを邪魔している。
黄獅姫は舌打ちした。
その孫空女と沙那が、血まみれで動いている皇帝を守るように、次々に亜人闘士を打ちのめす。
しかも、強い──。
黄獅姫は息をのんだ。
「全員で女ふたりを殺せ──。全員でかかるのだ──」
黄獅姫は叫んだ。
すでに何人かは、ふたりの足元でうずくまっているから、亜人闘士の残りは六人か五人というところか──。
全員で沙那と孫空女のふたりの女戦士に襲う──。
その空隙をついて、地面に這っている血まみれの皇帝に飛びかかって、とどめを刺す──。
できるはずだ。
亜人闘士たちの仲間の全員がふたりに一斉に飛びかかった。
黄獅姫も剣を持って飛び込んだ。
黄獅姫の狙いはただひとつ──。
ここで皇帝を殺す──。
それが九霊聖女に命じられている本当の指示だ。
そうすれば、すでに奴隷の刻印を刻んでいる金箍か、あるいは、第二皇子の釘鈀が皇帝となるだろう。
釘鈀には別働の一隊が向かっている。
第二皇子である釘鈀にも九霊聖女は奴隷の刻印を刻み込んでしまうつもりだ。
人間族の西方帝国の皇帝に、九霊聖女の奴隷である者がつけば、この国は九霊聖女の属国になったも同じだ。
亜人闘士と戦っている孫空女たちの横をすり抜けたと思った。
血だらけの皇帝が、黄獅姫に気がついて顔をこっちに向けた。
黄獅姫は剣を真っ直ぐに皇帝の背中を貫かせた──。
だが、それだけだ……。
剣が届いていない──。
なぜか黄獅姫の身体は宙に留まったままだった。
腹に孫空女の棒が喰い込んで、身体が浮いているのだとわかったのは、孫空女の棒が黄獅姫の身体を跳ね飛ばして、地面に黄獅姫の背中を叩きつけてからだ。
「させないよ──」
孫空女が倒れた黄獅姫に向かって跳躍するのがわかった。
ふと見ると、すでにほかの亜人闘士たちは地面に倒れている。
凄まじい棒の突きが黄獅姫の胸を直撃した。
「黄獅──」
そのとき、九霊聖女の悲鳴が聞こえた気がした。
しかし、黄獅姫の身体はおかしな体勢で地面にひっくり返ったまま動けなかった。
もう一度腹に棒の先端が抉った。
そのまま身体が孫空女の棒で宙に持ちあげられる。
自分の口から血が吹き出した。
そして、闘技場の壁に背と後頭部を叩きつけられた。