「
ほんの一瞬の変化だった──。
なにもかも手筈通りだったのに、それがたったふたりの人間族の女戦士によって阻まれたのだ。
操っている
それは完全に成功した。
次に九霊聖女は、金箍に刻み込んでいた合図で、
降妖君殺しを皇帝殺しに優先させたのは、黄獅姫たちが、その降妖君の操り状態にあるからだ。
「主人」である降妖君が死んでしまえば、『奴隷の刻印』の効果は終わりだ。
黄獅姫たちの身体からは、刻印が消滅して降妖君の呪縛から逃れられる。
あの降妖君は卑劣にも、九霊聖女の部下の亜人闘士たちに、殺し合わせるように命じたのだ。
だから、咄嗟に金箍に降妖君を殺すように合図した。
従って、金箍が皇帝を殺そうとしていたのを途中でやめさせることになった。金箍はまだ皇帝に致命傷を負わせる前に、皇帝の身体を捨てて降妖君の殺害に取り掛かった。
降妖君は一瞬にして金箍の剣に殺された。
次の瞬間、お互いに殺し合いをしそうになっていた黄獅姫たちは、その動きを中止し、皇帝にとどめを刺そうとした。
それは事前に黄獅姫に命じてあったのだ。
降妖君の呪縛から逃れた瞬間に、全員で皇帝を殺せと──。
すでに守る者もいないし、喉を斬られかけた皇帝は血まみれだ。
それを十人近い亜人闘士で殺すのだ。
それは家畜を屠るよりも容易い仕事のはずだった。
いずれにしても、皇帝を殺しを成功させた瞬間に、亜人闘士たちを回収して、ここから逃亡しなければならない。
九霊聖女は隠れていた場所から姿を現した。
だが、思いもよらなかったのは、釘鈀の闘奴隷の女闘士がふたり揃って皇帝を守ろうとしたことだ。
しかも、強い──。
九霊聖女の部下たちがよってたかってかかっても、ふたりの女闘士を倒せず、たったいま、黄獅姫でさえも倒された。
黄獅姫は口から血を吐いて壁に激突し、いまは動かなくなっている。
九霊聖女は、霊気の矢を数十本発生させた。
それを皇帝と釘鈀の闘奴隷に向かって飛ばす。
しかし、あり得ないことが起きた。
霊気の矢が途中で消滅したのだ。
なにが起きたのかがわからなかった。
「面倒は嫌いなんだけど、わたしの供に手を出そうとするなら仕方ないね……。加勢することにするよ。わたしが相手だよ」
人間の女だ。
いつの間にか黒髪の美女が皇帝のそばに立っている。
九霊聖女は驚いた。
「お、お前、誰だい──? しかも、この一帯は、わたしの結界で覆っているはずだよ。どうやって、その中に入ってきたんだい?」
この黒髪の人間族の女は、九霊聖女がやってきたときにはいなかったはずだ。
だから、九霊聖女の結界をすり抜けてやってきたとしか思えない。
その女がせせら笑った。
「結界──? こんな玩具みたいな霊気の壁なんて、このわたしにかかれば存在しないも同じさ──。ほらっ──。完全に消滅させてやるよ」
黒髪の女が手を振った。
九霊聖女の結界が完全になくなったのがわかった。
観客席の方向から人間族の軍隊が殺到してきた。
「金箍、命令だ──。防ぐんだ──」
九霊聖女は絶叫した。
金箍が階段から降りようとしている兵を防ごうと駆けた。
観客席から闘技場への降り口はその階段だけだ。
巨漢の金箍が階段の入口に立てば、いかに人数が多くても、そこで阻める。
実際、金箍はそうしている。
だが、いかに金箍でも、いくらも時間を稼げないだろう。
時間がないのは明らかだ──。
もう一度、霊気を皇帝に飛ばす。
今度は『魔弾』だ──。
さっきの『道術矢』よりも、ずっと強力な霊気の塊による攻撃道術だ。
巨大な霊気の塊りが皇帝に飛ぶ──。
しかし、やはり、途中で中和された。
あの人間族の魔女だ──。
しかも、今度は打ち返してきた。
気がつくと、九霊聖女の身体は、人間族の魔女の『魔弾』の直撃を受けていた。
九霊聖女は地面にひっくり返ってしまった。
その九霊聖女に、黒髪の魔女の高笑いが降りかかった。
「大人しくしな──。さもないと、今度は裸にされるだけじゃすまないよ。手足を引き千切るからね」
驚いて九霊聖女は自分の身体を見た。
一糸まとわぬ素裸だ──。
どうやら、さっきの『魔弾』のためのようだ。
あれは、九霊聖女の身体ではなく、服を消滅させるための道術だったようだ。
慌てて手で身体を隠しながら、同時に九霊聖女は恐怖に包まれた。
圧倒的な力量の差──。
それを感じたのだ。
これは、とても勝てない……。
九霊聖女は悟るしかなかった。
「……ちっ──。撤収だ──。全員、撤収──」
九霊聖女は叫んだ。
部下の大半は倒されていたが、それを次々に『移動術』で、一気に魔域まで跳躍させる。
一度、外に出れば、人間族は帝都全体の防御道術を張り直すだろうから、もう侵入は難しいだろう。
だが、仕方がない──。
部下たちの身体は次々に消滅していっている。
別動隊からは、釘鈀の身柄の確保に成功したという報告が、たったいま道術通信で九霊聖女の頭の中に来ていた。
皇帝は殺しそこなったが、降妖君は死に、金箍ももうすぐ殺される。
完全に策が失敗に終わったわけじゃない……。
「お前、何者だい──?」
九霊聖女は声をあげた。
「宝玄仙というただの旅の女だよ。たまたま、この帝都を通りかかってね──。別にお前たちに恨みもなにもないけど、わたしらがお前らの襲撃に居合わせたのが運が悪かったと思いな」
女が言った。
だが、九霊聖女はびっくりした。
「……宝玄仙だって──? もしかしたら、殺された金角が主人に選んだという人間族の魔女かい──? お前が──?」
九霊聖女は叫んだ。
どうりでかなわなかったはずだ。
金角ほどの亜人が、人間族の魔女を主人にしたというのは、魔域の中でも有名な話だった。
どんな女なのだろうと、九霊聖女も思ったものだ。
その宝玄仙は、まだ旅の途中であり、魔域に向かってはいるようなのだが、どこにいるのか判然としないということだった。
しかし、金角はいつかやって来るその宝玄仙に魔王の地位を譲り、勢力地を明け渡すつもりのようだった。
九霊聖女もその話には呆気に取られたものだった。
だが、その宝玄仙という人間族の女が、旅の途中のどこかで
それで怒った牛魔王が、仇を討つために、軍を率いてその宝玄仙を殺しに行こうとした。
それを阻止しようとして、強大な軍団で知られる牛魔王軍に、軍を進軍させたのが金角だ。
たかが人間族を守るために、それほどのことをするというのは驚愕だったが、それによって、金角と牛魔王のそれぞれの軍が戦うことになった。
この戦争は思いのほか長く続き、数年経っても、なかなか決着がつかなかった。
無敵と思われていた牛魔王軍に対して、あれほど金角軍が抵抗するとは意外だったが、両軍は一進一退の攻防を続けた。
すると、ほかの勢力地の亜人王もこの戦いに関与し始めた。
両軍のいずれかに援軍を送り込んのだ。
それで、一気に戦争の正面が拡大した。
『魔界大戦』だ──。
このとき大部分の亜人王は、牛魔王に援軍を送ったが、金角に援軍を送った亜人王も少なくはなかった。
魔域の覇者である
だから、これを機会に、牛魔王が滅んでくれればいいと願う亜人王たちは金角にこぞって味方したのだ。
九霊聖女の伯父の
南山大王は、軍こそ送らなかったが、金角の勢力地の後方に位置する亜人王として、その兵站を支え続けた。
つまり、金角の部下を受け入れ、彼らが南山大王の勢力地で兵站基盤を作ることを許したのだ。
九霊聖女は大反対だったが、南山大王は聞き入れてくれなかった。
もともと、南山大王は、女魔王の金角の後見人を任じていて、金角と仲が良かったのだ。九霊聖女はどうすることもできなかった。
九霊聖女が反対した理由は簡単だ。
九霊聖女は、この戦争は牛魔王が勝つと思った。
金角が負ければ、それに味方した亜人王には、牛魔王の報復があるだろう。
それを恐れたのだ。
そして、ついに決着がついた。
ほんの数箇月前だ。
金角が、部下の
そのときの状況について、九霊聖女が聞いているのは、以下のようなものだ。
まず、金角は部下たちの命を取らないという条件で道術契約を結んで牛魔王軍に投降した。
そして、金角は部下の前で首を切断されて処刑されてしまった。
道術契約により、金角の部下は殺されはしなかったが、大将軍の銀角の行方はわからない。
そのまま、牛魔王が連れて行ったとも言われている。
金角の部下と勢力地は、裏切りの功績により巴山虎に与えられた。
それがほんの数箇月前のことだ。
ところが、南山大王は、九霊聖女を絶句させる行動を取ろうとした。
金角の死を知って、その弔い合戦をしようとしたのだ。
その戦いの相手は、金角の勢力地の新魔王になった巴山虎だ。
だが、巴山虎に戦争を仕掛ければ、間違いなく牛魔王がまた出てくる。
九霊聖女は驚愕した。
いまは、勝利した牛魔王に、ひたすらの恭順の姿勢を示して、金角側についたことを謝罪すべきなのだ。
牛魔王軍に攻めかかるも同然のことをするなど、とんでもない。
そんなことをすれば、牛魔王軍の次の侵略先が、南山魔王の勢力地になるのは間違いない。
九霊聖女は行動した。
南山大王の居城である連還城の家臣の中の戦争反対派を集めて、政変の叛乱を起こしたのだ。
南山大王を捕え、ある場所に幽閉して隠して、南山大王域にいた元金角の部下を捕えさせた。
叛乱は簡単に終わった。
油断していた南山大王が、九霊聖女に身柄を確保されてしまったところで終わりだった。
九霊聖女は、伯父が失脚したということと、今後は九霊聖女は、牛魔王に恭順するという使者を送った。
それで牛魔王軍と戦端を開くことは防ぐことができたというわけだ。
しかし、目の前にいるのが、あの大戦争のもともとの原因を作ったという宝玄仙という女なのだ。
なんで、こんなところをのこのこと旅しているのかは知らないが、あの金角がそこまで一目置いた存在だ。
九霊聖女の霊気を上回る力を持つというのもうなづける。
事実、凄まじい霊気だ──。
ふと、九霊聖女は、
すでに無数の傷を負っており死にかけている。
もう時間がない──。
まだ、一応は近衛軍を防いでいるが、間もなく死ぬだろう。
そうすれば、この闘技場に人間族の軍が雪崩れ込む。
「金角が殺されただって──? お前、そう言ったかい──? どういうことだい──?」
宝玄仙が驚いたような声をあげた。
「知らなかったのかい──。金角はお前のせいで牛魔王軍と戦端を開いて首を斬られたよ。その妹の銀角は行方知れずだ。銀角はいい女だったからね。今頃は、牛魔王か巴山虎の慰み者にでもなっているんじゃないかね」
九霊聖女は言った。
最後に念のために、もう一度部下を確かめた。
すでに、全員の姿はない。『移動術』による跳躍に成功したようだ。
そして、九霊聖女自身も『移動術』で跳躍した。
最後に聞いたのは、待てという宝玄仙の大きな叫び声だった。
*
「待て、お前──。ちょっと待つんだ──」
宝玄仙は絶叫した。
だが、女亜人は、阻止しようとした宝玄仙の霊気をすり抜けて、姿を消してしまった。
宝玄仙は舌打ちした。
「ご主人様──?」
「ご主人様、大丈夫かい──?」
沙那と孫空女だ。
ふたりとも、傷ひとつ負っていないようだ。
「親玉には逃げられたよ──。それよりも、お前たちも、いまの言葉は聞いたかい?」
宝玄仙は言った。
「は、はい……」
沙那が暗い顔で頷いた。
金角が牛魔王と戦争をして殺された──?
信じられない事実だった。
だが、それに近いことは、もう数年前だが、金角の部下が通天河までやってきて、その男から耳にしていた。
あれは、
金角の四天王のひとりで人間族だった。
牛魔王と戦端を開くことに反対していた倚海龍は、宝玄仙たちが通天河で溺れ死んだということにして、主人の金角と牛魔王の確執の原因を消滅させようとしたのだ。
だが、宝玄仙たちは生き延びて、旅を続けた。
それから、金角の噂は耳にしなかった。
魔域で起きていることなど、人間族の世界に伝わることはない。
しかし、あの金角がすでにこの世にいないというのは、とてもじゃないが信じられることではない。
「ご主人様──」
そのとき、朱姫がやってきた。
駆けてきた朱姫は、手に水晶を持っている。
「あの黄金の髪をした女だけは捕えました。いまは、この水晶の中で眠らせています」
朱姫が言った。
亜人や人間を水晶の中に閉じ込めるのは、朱姫の新しい道術だ。
朱姫は、その術で、素蛾を故郷の王宮から連れ出したのだ。
「お手柄だよ、朱姫──。よくやったさ──。じゃあ、この女をゆっくりと訊問しようかねえ。金角と銀角のことを洗いざらい吐かせるよ。ついでに、この騒動の理由もね」
宝玄仙は水晶を受け取って言った。
確かに、この小さな玉の中に、あの女闘士が閉じ込められている。
「ご、ご主人様──。ご主人様──。ご主人様──」
そのとき、地下からあがってくる小さな通路から、ひとりの女らしき者が出てきた。
そして、泣き声をあげながら、こっちにやってくる。
女だと確信が持てなかったのは、その人物が顔を布で覆っていてわからなかったからだ。
「ご主人様──。ご主人様──宝玄仙様──」
その顔に布を被った女──やっぱり、身体つきは女だった──が一目散に駆けてくる。
「あれっ?
「本当、恵圭だわ──。ねえ、ご主人様、わたしたちは、あの恵圭に随分と昨日世話になったんです」
孫空女の言葉に次いで、沙那が宝玄仙に語りかけた。
宝玄仙は眉をひそめた。
身体の外見は違うが、声はあの恵圭に似ている気がする。
そもそも、宝玄仙のことを“ご主人様”と呼ぶ「恵圭」にはひとりしか心当たりがない。
かつて、宝玄仙が闘勝仙の罠に陥ったとき、
もっとも、その恵圭は、宝玄仙を裏切った直後に、
とっくに死んだだろうとは思っていたが、生き延びることができたとすれば、魔域に近いこの西方帝国にいても不思議ではない。
「恵圭だって──? もしかして、あの恵圭かい?」
宝玄仙は目の前にひれ伏した女に向かって言った。
「えっ、知り合いなのかい、ご主人様?」
孫空女がびっくりした声をあげた。
【作者註】
長い物語であり、関連(伏線)する話も随分と前なので、以下にそれを記載しておきます。
■宝玄仙と恵圭の関係
70 裏切りの日
71 十日置きの解毒剤
■宝玄仙と金角の関係
91 義姉妹の誓い
■宝玄仙と倚海龍の関係(金角と牛魔王の確執)
145 魔域からの使者
146 通天河の真ん中で