「ご主人様、お懐かしや……。ご主人様にもう一度会えるなんて夢のようです……。信じられません……。ほ、本当に……本当に……」
いきなり闘技場にあがってきて、宝玄仙の足元にひれ伏した
沙那はびっくりした。
「えっ、知り合いなのかい、ご主人様?」
孫空女も驚きの声をあげている。
「お、お前……」
宝玄仙は押し黙ったまま眼を見開いている。
しかし、その表情がだんだんと険しいものになっていくことに、沙那は気がついた。
「ご、ご主人様……。わ、わたしたちは、この恵圭には随分と世話になりました。素蛾が死んだ金箍皇子に犯されそうになった騒動のときも、孫空女が暴れて捕らわれそうになったんですけど、恵圭の機転で助かったんです」
沙那は急いで言った。
この恵圭と宝玄仙は知り合いのようであるが、宝玄仙の顔を見ていると、随分と怒っているようだから、とりあえず、なだめようと思ったのだ。
「なんだって──。なんだい、それは──? そんな騒ぎがあったなんて聞いてないよ──」
すると、宝玄仙が喚いた。
沙那は慌てて、素蛾を
ついでに、沙那と孫空女がいろいろと恵圭に親切にしてもらったことも付け加えた。
だが、宝玄仙は怒りだした。
「だいたい、お前たちは、昨日、恵圭に遭ったんだったら、なんですぐにわたしに報告しないんだい──? わたしがこの女を殺したいくらいに憎んでいるのを知らないのかい──?」
いきなり、宝玄仙が沙那と孫空女に向かって怒鳴りあげた。
「そ、そんな……。どうして、わたしたちが、ご主人様と恵圭が知り合いだなんてわかるんですか……? それに、殺したいくらいに憎んでいるってなんですか……?」
「うるさいよ、沙那──。こいつがあの恵圭なら、こいつは、わたしの飼い猫のくせに、わたしという飼い主を
宝玄仙が怒鳴りあげた。
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ……。ば、罰なんてひどいですよ……。わ、わたしたちは、恵圭のことなんて、なにも知らないですよ。ご主人様はそんなことは一度も……。そ、それに、昨夜はそんな暇なんてなかったじゃないですか……。戻ったら、すぐに陳嬌さんの調教をしろとか命じるし……」
「お前、口ごたえするのかい、沙那──? このところ、甘やかしていたから、すっかりと躾けを忘れたみたいだねえ。自分の立場を思い出させてやるよ。そこに正座しな、沙那。ただし、下半身はすっぽんぽんになってね……。お前もだ、孫空女──」
宝玄仙が喚いた。
沙那は絶句してしまった。
「な、なんで、下半身がすっぽんぽんなんだよ、ご主人様──? こ、こんなところで堪忍してよ──」
孫空女が声をあげた。
沙那は自分の顔が青くなるのを感じた。
ここは闘技場の真ん中だ。
闘技場に詰めかけていた観客は、近衛兵の誘導により、やっとあらかた外に出ていなくなったが、まだ、転がっている金箍や降妖君の遺骸、あるいは、死んだ護衛兵の処置なので、周囲はごった返している。
それらを指図しているのは、近衛軍団長の
そのふたりに面識があるわけではないが、この帝国の重鎮として、沙那は一応は顔と名を頭に入れていた。
いずれにしても、まだ、大勢の近衛兵たちが近くをうろうろしているのだ。
こんなところで、そんな恰好になるなど冗談じゃない。
第一、理由も意味もわからない。
まあ、宝玄仙にそんな理屈を求めても、無駄というのはわかっているが……。
「早く、脱がないかい、お前ら──。それとも、脱ぎたくなるようにしてやってもいいんだよ。そうだね……。どんな道術がいいかねえ……」
すると、宝玄仙がにやにやし始めた。
これは本当に駄目だと沙那は観念した。
これ以上、ぐずぐずしていると、ただ裸になるだけで済まない。
悪乗りしたときのこの女主人は、本当になにをするかわからないのだ。
「ぬ、脱ぐよ、ご主人様……」
横の孫空女は、この宝玄仙の表情ですっかりとのまれてしまったようになり、下袴の紐を緩め始めた。
沙那も観念して下袴を脱ぎ始める。
幸いなことに、ここは闘技場の真ん中くらいであり、貴賓席側で忙しくしている劉旺以下の近衛兵と宰相の玄海たちとは離れている。
こっちに注目などしていない。
沙那と孫空女は、下袴と下着を脱ぐと、恵圭の横に正座になり、上着の裾を伸ばして股間を隠した。
「沙那姉さんと孫姉さんの下袴と下着は、あたしが預かりますね……。ふふふ……。貴賓席から闘技場の出入口までの通路の途中に待合室のようなところがあって、そこに
朱姫がくすくすと笑いながら、さっと沙那と孫空女の横から下袴と下着を取りあげた。
「ま、待ちなさいよ──。どこに持って行くのよ、お前──?」
沙那は駆け去ろうとする朱姫に怒鳴りあげた。
「勝手に動くんじゃないよ、沙那──。これで許してやろうと言ってんじゃないか──。さっさと謝罪しな──」
宝玄仙が威嚇するように一度地面を踏んづけた。
沙那はびくりと身体を硬直させた。
そのあいだに、朱姫は遠くに行ってしまった。
絶対に、あとでとっちめてやろうと思った。
「さ、沙那……」
孫空女が小声でささやいた。
孫空女に顔を向けると、孫空女が眼でなにかを訴えるような仕草をした。
沙那は嘆息した。
孫空女は、観念をして宝玄仙に一緒に頭をさげようと言っているのだ。
なんで謝らないとならないのか……?
どうしてこんな理不尽な罰を受けないとならないのか……?
まったく沙那の理解の外なのだが、確かに孫空女のいうとおり、ここは頭をさげることが得策なのだろう。
沙那は地面に手をついて頭を下げた。孫空女も同じようにしている。
「も、申し訳ありません」
「わ、悪かったよ、ご主人様」
沙那と孫空女は言った。
「よし──。お前らのことはいい──。これで許す。立っていいよ」
宝玄仙はそう言ったが、立っていいと言われても、脱いだ下袴と下着は、あの馬鹿朱姫がどこかに持っていった。
沙那は上体はあげたが、脚はそのまま地面に座ったままでいた。
「さてと……。じゃあ、次はお前だね、恵圭……」
宝玄仙が言った。
その口調は急に穏やかなものになった。
沙那にはそれにかえって不気味なものを感じた。
「は、はい──。ご、ご存分に処罰してください……。で、でも、その前に謝罪を……。許されることをしたとは思っていませんが、し、死ぬ前に謝ります。それで心置きなく死ぬことができます……」
恵圭が土下座をしたまま言った。
「へえ、死ぬってかい? まあ、お前に闘勝仙に売り渡されたおかげで、二年も惨めな目に遇った挙げ句に、こんな異郷くんだりを旅することになったんだけどね……。まあ、それはいいけど、お前がわたしを売り渡した闘勝仙がどうなったか、知っているかい?」
「えっ……、いえ……」
「わたしの道術で操って自分の睾丸を引き千切って食わしてやったよ……。その姿を帝都中に晒してね……。そうやって殺したんだ。腰巾着どもも同じような目に遭わせて殺した。お前と一緒にわたしを裏切った鳴智はまだ捕えてないけど、どうやら魔域にいるみたいなんで、そのうち、捕まえて相応の仕打ちをするつもりさ」
「ええっ、な、鳴智も魔域に──?」
恵圭が布に隠れた顔をあげて声をあげた。
「……鳴智のことはいいんだよ。それよりも、お前が恵圭なら、わたしに対する謝罪の仕方を間違ってんじゃないのかい? わたしに謝罪するときには、どんな格好をするんだい? お前の後輩がどんな格好をして謝ったのか、両隣を見てみな」
宝玄仙が言った。
すると、恵圭は弾かれたように身体を起きあがらせて、その場で灰色の粗末な貫頭衣を脱いだ。
貫頭衣の下はまったくの素裸だった。
恵圭の完全な全裸姿は初めて見たが、全身には惨たらしい古傷もあり、また、手足は若いのに乳房や下腹部の付近は、まるで老婆のように衰えた肌をしている。
それだけで、恵圭がいままでどんなつらい目に遭ったのかわかる気もした。
素裸になった恵圭は、またさっきのような土下座の姿勢に戻った。
「まだ、その顔を隠している布があるじゃないかい、恵圭? 全裸になれと言われたら、すっかりと取らないかい──。まだ、わたしは、お前の顔も見ていないんだよ。本当にあの恵圭かどうか、確かめられないじゃないかい──。恵圭の名を騙っている偽者なんてことがあり得るわけはないけど、なにが起きるかわかりもしないしね。顔を見せな──」
「こ、これは……。あまりにも醜いものなので、かえってご主人様には失礼かと思って、失礼を承知で顔を隠しておりました……。わかりました。取ります……。どうか、ご主人様を裏切った女のなれの果てをご覧ください」
恵圭が顔をあげて、さっと顔の布を外した。
さすがに宝玄仙は、小さな声をあげた。
沙那と孫空女は昨日接しているが、恵圭の顔はとても人間の顔とは思えないような醜いものだ。
鼻は欠け落ち、本来は鼻があるべき場所には小さな穴がふたつあるだけだ。
また、顔の肌全体がどす黒く、気味の悪い吹き出物やその痕が顔全体を覆っている。
身体も痩せているが顔はもっとひどいのだ。
本当に老婆のように皺が多くて、ほんの少しの肌の張りもない。
だが、宝玄仙が闘勝仙の罠にかかったときに、宝玄仙の愛人のひとりだったとすれば、どう考えてもまだまだ若いはずだ。
しかし、顔の布も服もなにもかも脱いだ恵圭の顔と身体は、老婆としか思えないものだ。
「……それは病気かい、恵圭……?」
宝玄仙は、かなり長い時間、恵圭の顔を凝視していたが、やがてぽつりと言った。
「は、はい……。魔域にある娼館で病気になり死にかけました。命は取り留めましたが、このように醜い姿になったために捨てられたのです……。それでこの西方帝国に流れてきました……。それでも、もう内臓はぼろぼろで死にかけていたのだと思います……。そして、国境沿いの人間族と亜人族が共存して生きている城郭で、土族の医師に治療を受けて、なんとか健康だけは戻せました……。それから、さらに流れて、いまに至っています……。ここで闘士相手の奉仕女という口専門の娼婦をしているのです」
恵圭が言った。
「土族だって──?」
しかし、急に孫空女が横から口を挟んだ。
沙那は、少し前に三魔王に全員が捕らわれているとき、孫空女が玉斧という土族の男と関わりがあったことを思い出した。
「……う、うん……。そこには人間族とさまざまな亜人族の集落がそれぞれにたくさんあるのよ、孫空女……。あたしは、そこで土族の老人の医師に助けられたんだけど……」
恵圭は孫空女の大きな声に戸惑ったように、そう言った。
「まあ、その話は後だよ、孫空女……。とにかく、苦労したというのはわかったよ。だけど、それでわたしの罰を免れるわけじゃないよ。わかっているだろうね、恵圭……」
「もちろんです、ご主人様……。ご主人様に謝罪できないまま死ぬことだけが、この世の心残りでした。もう、なにも思い残すことはありません。殺してください……。本望です。それと、あたしが“ご主人様”と呼んでも怒らなかったことに感謝します」
そして、恵圭は、耐えていたものが堰を切ってしまったように、その場でわんわんと号泣し始めた。
「いい覚悟だよ──。だけど、簡単には殺しはしないよ。苦しむだけ苦しんでから死ぬのだと思いな──。その場にうつ伏せになりな。手足を大きく伸ばしな。そして、どんな目に遭ってもぴくりとも動くんじゃないよ──」
宝玄仙は言った。
恵圭は言われたとおりの格好になった。
「ご、ご主人様……?」
「あ、あのう……」
孫空女と沙那はほぼ同時に声を出していた。
この宝玄仙は、本当に目の前の恵圭を殺すつもりなのだろうか……?
「口を出すんじゃないよ、ふたりとも──。じゃあ、恵圭、いくよ──」
宝玄仙がそう言って、地面に手足を拡げてうつ伏せになっている恵圭の背中に指を伸ばす仕草をした。
「ひぎゃああああ──」
次の瞬間、恵圭の口から絶叫が迸った。
恵圭の背中はまるで炎に炙られたかのように真っ赤になった。
沙那は驚愕した。
「動くなって言っているだろう、恵圭──。沙那、孫空女、恵圭の手足を押さえてな──」
宝玄仙が叫んだ。
沙那は孫空女とともに慌てて恵圭の身体に飛びついた。
だが、沙那には宝玄仙が恵圭になにをしようとしているのかがわかった。
全体が真っ赤だった恵圭の背中に蔓が走るような紋様が浮きあがり始めたのだ。
「ひぐううう──がああああ──ぐうううう──」
恵圭は歯を喰い縛りながらも、狂気のような悲鳴をあげた。
それでも、懸命に耐えて、必死に身体を動かさないようにしている。
「まだまだだよ──。もっと、苦しみな、恵圭──。苦しんで、苦しんで死ぬんだ。このわたしに殺されるなら本望と言ったんだから、このくらい仕打ちはなんでもないだろう?」
宝玄仙が揶揄するように言った。
背中の模様が真っ赤になる。背中全体の赤がその紋様の線に集まるようになっていくのだ。
いまや、耐えられなくなって恵圭はかなりの強い力で暴れ出そうとしていた。
だが、沙那と孫空女は必死になってその身体を押さえた。
やがて、恵圭の身体の真っ赤な線の模様が、赤色から朱色に近いものになってきた。
それとともに、恵圭の態度も少しずつ落ち着いたものになっていく。
「はあ、はあ、はあ、はあ……」
恵圭がやっと息をし始めた。
これまで、あまりの苦痛で息を吸うこともできなかったに違いない。
沙那もそうだったのだ……。
宝玄仙が恵圭の身体に刻み込んだのは『道術紋』だ。
恵圭は、霊気を帯びていない純粋な人間族なのだろう。
だから、恵圭の身体を治療したくても、宝玄仙の霊気を受けつけない。
そのために、宝玄仙は恵圭の身体にまずは道術紋を刻んで、霊気を受け入れる身体にしているのだ。
ただ、道術紋を刻むと、宝玄仙の『治療術』を受けつけることができるようになる代わりに、身体の成長が停止して老化しなくなるとともに、子供を産めなくなるという作用もある。
しかし、それはいまの恵圭には問題はないだろう。
いまは、もう恵圭は落ち着いてきている。
その恵圭の背中は朱色の紋様が浮きあがっているほかは、だんだんと若い女そのものの瑞々しい肌に変化していっている。
顔は伏せているから変化はわからないが、髪の毛は見事な艶を帯びてきた。
背中の紋様も、個人差はあるが、いまは少し目立つが半年もすれば、まったくわからなくなる。
素蛾など、ついこのあいだに『道術紋』を受け入れたばかりなのに、すでに凝視しなければわからないくらいに、肌に同化している。
「終わったよ、恵圭──。顔をあげな」
宝玄仙がほっとしたように言った。
恵圭がまだ荒い息をしながら身体を起こした。
「うわっ──」
孫空女が大きな声をあげた。
沙那も目を見張った。
恵圭の顔はすっかりと整ったものに変わり、さっきの醜さの片鱗もなくなった。
鼻も肌もなにもかも治療されて、可愛らしい二十すぎの女性の顔がそこにあった。
まだ顔や身体の変化が飲み込めていないようだが、恵圭は自分の身体の変化が少しは感じるのか、当惑した顔をしている。
「ご主人様──」
そのとき、朱姫の大きな声がした。
ふと顔をあげると、朱姫が駆けてきている。
その横には、第二皇子の釘鈀とその護衛らしい騎士が数名いる。
それがこっちに走ってくる。
「しゅ、朱姫──。つ、連れてこないでよ──。それよりも、下袴を持ってきなさいよ──」
沙那は必死で上衣の裾で股間を隠しながら怒鳴った。
「……そんな場合じゃありませんよ、沙那姉さん──。ご主人様、素蛾が……」
朱姫が血相変えた様子で宝玄仙に言った。
「宝玄仙殿──。申し訳ない──」
すると、朱姫と一緒にやってきた釘鈀皇子が、突然にその場で頭をさげた。
沙那は呆気にとられた。
(第113話『亜人族たちの陰謀』終わり、第114話『妖魔城の虜囚』に続く)