748 女魔王の激怒
「馬鹿垂れが──。よりにもよって、皇子の
大角の頬を怒り狂った
まったくの容赦のない一撃だ。
大角の意識は一発で吹っ飛びかけた。
視界が揺らいで崩れかけたが、大角は辛うじて脚を踏ん張って耐えた。
しかし、その股間の急所に九霊聖女の凄まじい蹴りが食い込んだ。
「はがあああ──」
大角は今度こそ、床に倒れてのたうちまわった。
あまりの激痛に一瞬視界が消滅して、再び明るくなった。
もしかしたら、ほんの少しだけ気絶したのかもしれない。
そんな感じだった。
「この馬鹿垂れが──」
ひざまずいた体勢で手で押さえていた股間を、手の甲越しに再び九霊聖女の蹴りが食い込んだ。今度は背中側からだ。
「ほごおお──お、お許しを──」
大角は今度はのたうつこともできずに、その場で悲鳴をあげた。
九霊聖女の居城である
そして、その連環城の謁見の間だった。
左右には九霊聖女に仕える重鎮が居並んでいるが、大角はその目の前で、容赦のない九霊聖女の怒りを受けていた。
もちろん、謁見の間に集まった者の中に、九霊聖女を諌めて大角を助けてくれる者がいるはずもない。
ついこのあいだまでは、南山大王の居城だったこの連環城は、西方帝国と呼ばれる人間族の国の北辺に接する最初の亜人王の勢力地の中心だ。
魔域と呼ばれる大地から強い霊気を発散している広大な地域は、人間族を寄せつけない亜人の生息地域である。
その魔域は、強大な霊気を持った亜人王──すなわち、十人程度の魔王が自分の霊気の影響を及ぼすことができる範囲を勢力地として、そこに住む亜人の住民を従えている。
その中で、この連環城を中心とする人間族の帝国の北辺と接する地域が、九霊聖女の支配域だ。
それにしても、いつにない激しい九霊聖女の怒りだ。
敵には容赦はないが、部下には優しいと称されている九霊聖女が、これほどの折檻を部下にすることは、いままでなかったと思う。
その最初の折檻の対象が、自分なのだと思うと、大角も情けなくなるが……。
だが、九霊聖女が怒るのも当然なのだ。
そして、その場で、皇帝と降妖君を殺害して、九霊聖女の奴隷の刻印を打ちこんだ人間の皇子に、皇帝を継がせようとしたのだ。
人間族の皇帝を殺した後の傀儡皇帝の候補はふたりであり、ひとりが第一皇子の
金箍については、九霊聖女の部下でもある
大角が命じられたのは、第二皇子の釘鈀の工作であり、釘鈀が闘技場に向かう途中で誘拐し、この連環城で拷問して奴隷の刻印を受け入れさせ、そして、何食わぬ顔で戻らせて、暗殺していなくなるはずだった人間族の
ところが、大角は失敗した。
御者に変身して釘鈀を乗せた馬車を操縦して道術の罠に誘い込んで、護衛と引き離すまではよかったが、一緒に乗っていた奴隷娘に騙されて、本物の釘鈀の代わりに、その釘鈀に変身した奴隷娘を連れてきてしまったのだ。
大角はこの連環城に戻ってから、そのことに気がついた。
その奴隷娘の使った『変身の指輪』が、帝都から遠く離れることで効果を失い、釘鈀の姿から童女の姿に戻ったのだ。
だが、もう遅い。
慌てて、取って返そうとしたが、人間族の帝都はすでに厳戒態勢であり、道術をもってしても、もう亜人族の再侵入は不可能の状況になっていた。
亜人の侵入を防ぐ城壁の警告具がすべて刷新されて、既存の術では入り込めなくなっていたのだ。
仕方なく、九霊聖女にそのことを報告するために、謁見の間にやってきて、こうやって、罵倒とともに顔面を殴られ、股間を蹴りあげられたということだ。
しかも、ここにやってきてわかったのだが、九霊聖女の怒りは、大角だけのことではなかった。
闘技場においても、思惑とは異なり、皇帝には瀕死の傷は負わせたものの殺害には至らず、刻印を打ちこんで人形にするつもりだった金箍は死なせてしまう羽目になったようだ。
さらに、九霊聖女の一番のお気に入りの部下である
そのこともあり、九霊聖女はその憤りのすべてを大角にぶつけているのだろう。
「立ちな、大角──」
床に股間を押さえて呻いていた大角に、九霊聖女の酷薄そうな声が振りかかった。
大角は顔をあげた。
そこにはこれまでに見たこともないような怒りを浮かべている九霊聖女の顔があった。
大角は戦慄した。
「お、お許しを……。ど、どうか、汚名挽回の機会を……」
大角はそれだけを言った。
「いいから立つんだよ──」
九霊聖女に怒鳴りあげられて、大角は懸命に立ちあがった。
蹴られた睾丸の激痛で、まだ息もできないほどだった。
「手を頭の上に乗せな」
九霊聖女が言った。
仕方なくその通りにすると、九霊聖女の膝が大角の急所に喰い込んだ。
「ぐえええ──」
大角が前のめりに倒れかかるのを、九霊聖女が大角の股倉を鷲づかみにして引きあげた。
「ひぐううっ」
睾丸を下袴越しに掴んでいる九霊聖女の手に力がこもった。
あまりの苦痛に大角は再び意識が遠のいた。
「……いいかい、お前のここは、しばらくお前に貸しておいてやる……。お前はもう一度、人間族の帝国に行け。霊気を帯びたままだと、連中の警戒に引っ掛かるから、完全に霊気を消してから侵入するんだ。そうしたら、同じように霊気を消滅させて潜入したままの
九霊聖女がそう言って、力の限り大角の股間を握った。
大角はあまりの激痛に、絶叫とともに意識を飛ばしてしまった。
*
「こいつを廊下に放り出しな──。気絶から目覚めたら、大角の霊気を完全に抜いて、人間族の帝都の前まで『移動術』で送るんだ。いいね──。霊気が残っていると、連中の警戒具に探知されるから、完全に霊気を抜くんだよ」
九霊聖女は口から泡を吹き、完全に白目を剥いた大角を床に投げると、居並ぶ部下の中から適当な者を選んで必要な指示を与えた。
その部下は、衛兵を呼んで大角の身体を謁見の外に運ばせて、一緒に出いていった。
憤怒の収まらない九霊聖女は、あまりの興奮に肩で息をしながら玉座に戻った。
しかし、玉座に座ったところで、九霊聖女は少し冷静になり、それで、自分がいま大角に対して酷いことをやってしまったということに気がついた。
おそらく、いま、九霊聖女は、黄獅姫が捕らわれたことに気がつかないまま、あの闘技場から全員を退却させてしまった自分の失敗を大角にぶつけたと思う。
八つ当たりしたのだ。
そんなことは、女魔王としてすべきじゃなかった。
急に反省と後悔の心が沸き起こった。
大角に与えた任務を変更するつもりはないが、少し埋め合わせをしておこう……。
九霊聖女は立ちあがった。
しかし、数歩歩いたところで、ふと思い出して部下のひとりを振り返った。
「
寓天は普通の両腕のほかに、鞭状の二本の腕を持つという虫型の女亜人だ。
少し前まで、
さっきの大角をはじめとして、多くの部下が、本来は南山大王に忠誠を誓っていた者であるのに対して、寓天は南山大王の部下だったことがない純粋な九霊聖女の部下である。
能力は未知数だが、九霊聖女を裏切らないという点では信用していた。
ほかには行くところがないはずだし、少なくとも南山大王に仕えたことはない。
九霊聖女への忠誠の証に、あっさりと『奴隷の刻印』も受け入れた。
それに比べれば、ほかの部下については、いまは南山大王が九霊聖女によって封印されて隠されている状態のために、九霊聖女を女魔王と認めて忠誠を誓っているが、それは非常に不安定なものだ。
なにしろ、ほとんどの者が南山大王への忠誠の証に、なんらかの支配道術を受け入れたままなのだ。
いまは南山大王そのものを封印することで、南山大王の元部下たちに対する南山大王の支配道術も無効の状態であるものの、もしも、南山大王が復活して表に出れば、その支配道術の効果も復活し、九霊聖女に対する彼らの忠誠は瞬時に消えてしまう。
数箇月前まで、九霊聖女は南山大王に次ぐ、この連還城の副魔王の地位にあった。
さすがに、親族である九霊聖女にまで南山大王は、支配道術はかけてはいない。
あれはなんらかのかたちで、正常な判断力や的確な思考を阻害することがある。
従って、南山大王も九霊聖女にはそれをしなかったのだ。
だから、九霊聖女は、南山大王が金角の弔い合戦だと称して、あの牛魔王と戦端を開こうとしたとき、黄獅姫のように、南山大王の支配を受け入れていない者と結託して、南山大王を道術で封印することができた。
封印は、南山大王の部下に対する支配道術を停止させる効果もあり、それで九霊聖女は、南山大王の支配から脱した部下に、九霊聖女に従うことを要求したのだ。
力のない魔王が誰かに破れれば、その魔王を見限って、力のをある者に従う──。
それは、魔域では悪徳ではなく常識だ。
南山大王の部下だった者は、九霊聖女の支配を認めた。
そうやって、九霊聖女はこの連還城と旧南山大王域の支配者になった。
だが、九霊聖女は、自分の得た支配が砂塵の楼閣の上にあるということは十分に承知していた。
本当は新しい魔王が支配するということは、新魔王が旧魔王を霊気で上回るということだから、その部下に対する支配道術も書き換えてしまうのが普通だ。
しかし、単に油断している南山大王を封印しただけの九霊聖女にはその力がない。
まともにやり合えば、自分が南山大王にかなわないということは、九霊聖女も十分にわかっている。
数箇月前に、九霊聖女が南山大王という伯父を出し抜いて、その姿を封印することに成功したのは、なによりも、南山大王が姪であり副魔王だった九霊聖女が裏切るとは思っておらず油断したからだ。
また、南山大王の支配から脱した部下が九霊聖女に応じたのは、彼らのかなりの者が牛魔王という目前の脅威を恐れたからである。
万が一、南山大王が九霊聖女の監禁から抜け出し、さらに南山大王の霊気の封印が解けてしまえば、その瞬間に、ほとんどの部下の南山大王からの支配道術が有効になり、九霊聖女は部下に見捨てられて、南山大王の虜囚に落ちるのは間違いない。
そうならないためには、いっそのこと南山大王を殺してしまえばよかった。
南山大王を殺せば、南山大王と部下の支配道術は消滅する。
消滅したならば、今度は九霊聖女は南山大王の霊気を上回らなくても、部下たちに九霊聖女の支配道術を受け入れさせることができたはずだ。
だが、九霊聖女には南山大王を殺してしまうまでの冷酷さを抱くことができなかった。
親族を殺害するという行為を躊躇った。
殺す理由のない者を残酷に殺す気になれなかったのだ。
その結果、黄獅姫が人間族の手に落ち、場合によっては九霊聖女が苦境に陥る可能性が出てきてしまった。
改めて自分の甘さを認識した。
まあいい……。
いずれにしても、奴隷童女のことだ。
あの娘は人間族の娘のようだが、あんな小娘でも宝玄仙の奴隷のひとりだ。
宝玄仙という驚異に対して、なんらかの道具として使えるだろう。
「霊気で宙吊りにしております。特に、なにもしておりません」
九霊聖女の問いに寓天が答えた。
「あれは、すでに宝玄仙の支配道術を受け入れているのか、寓天?」
「その形跡はありません、陛下」
寓天は言った。
九霊聖女はほっとした。
ならば、あの童女奴隷が自分の意思で刻印を受け入れれば、あの奴隷は九霊聖女の支配下に陥る。
もしも、宝玄仙の支配を受け入れていれば、九霊聖女にはとてもじゃないが、その道術を打ち消せない。
「ならば、わたしを主人とする奴隷の刻印をあの奴隷に打ち込め──。拷問をして宝玄仙を見限らせるのだ。我々の操る道具にしてしまえ。ただし、刻印は目立たぬところに刻めよ。場合によっては、宝玄仙を殺す武器として使うかもしれんからな。猛毒のついた針を忍ばせて宝玄仙に近づけさせるとか……。ともかく、道具にしてしまえばいくらでも使い道もある──」
「承知しました」
「言っておくが、たかが童女と思って侮るな。あれでもあの宝玄仙の供のひとりだ……。そして、あの奴隷童女を屈伏させて、奴隷の刻印を刻むというのは重要な任務だ」
「それもわかりました。舐めません──。力を尽くします」
寓天が静かに言った。