「きゃあああ」
素蛾は悲鳴をあげてしまった。
とっさに
「い、
日値がほっとした声をあげた。
それは衛兵の格好をした倚海龍だった。
「引きあげてくれ……」
倚海龍が右手を日値に出した。
闇でよくわからないが、倚海龍は血だらけだ。
それでも大丈夫だったのだ。
素蛾も安堵した。
「よかった、無事で……」
倚海龍を舟に引きあげながら、日値が嬉しそうに言った。
しかし、すぐに日値が息をのんだのがわかった。
素蛾もわかった。
倚海龍の左腕は軍装の袖ごと肘から先がなくなっていたのだ。
「い、倚海龍さん、腕が……?」
日値が声をあげた。
「だ、大丈夫だ……。道術で粉砕されただけだ。だから、出血はない……。それよりも、出せ──」
倚海龍が日値に低い声で叫んだ。
日値が慌てたように、棹を操り始めた。
舟が川の上を走りだす。
「わ、わたしくしが……」
素蛾は舟の上を這い、倚海龍のところに寄った。
倚海龍のなくなっている腕を掴んで股で挟むようにした。
尿をかけようとしたのだ。
だが、さっきしたばかりなので、それほど出ない。
しかも、尿がかかっても、少しも倚海龍の失われた腕の切断面には変化がなかった。
「ど、どうして……? じゃ、じゃあ、舐めます……、待ってください──」
素蛾は今度は切断面に舌を伸ばそうとした。
「い、いや……。駄目なようだな。おそらく、素蛾殿の力は道術で消滅させられた部位の復活はできないのだと思う……。これは、武器で斬られたのではないのだ……。道術で粉砕されたのだ……。だから、簡単には治療できないのだと思う……」
倚海龍は素蛾から腕を引いた。
「そ、そんな……」
素蛾はがっかりした。
「いや、素蛾殿のおかげだ……。それより、日値、あのいまいましい牢番の連中は、全員を殺してやったぞ。ひとり残らず逃がさなかった──。小気味よかった──。この三箇月の溜飲が一変にさがった──。日値のいない場所で復讐を終わらせてしまって、申し訳なかったがな──」
倚海龍が朗らかに笑った。
本当に嬉しそうな笑いだ。
「素蛾殿、このまま、とりあえず、さらに北に向かい、金角軍の残党に合流したいと思う。どこにいるかまではわからんが、牢番の連中が俺を拷問しながら、金角軍の残党のことを口走っていたのだ。だから、まだ、仲間がまだ残っていて、いまだに抵抗を続けていることだけは間違いない……。そこに合流できれば、素蛾殿は必ず、宝玄仙殿のところに連れていくことができる。それだけは約束する」
「わ、わたくしには、もうお願いするしかありません……。どうか、ご主人様や朱姫姉さんのところに戻してください……。お願いします」
素蛾は舟の上で頭を下げた。
「なんとしても、俺たちのどちらかが送り届けることを約束する。それから、本当に感謝する。よくぞ、あの惨めな軍牢から俺たちを救い出してくれた。本当に感謝する」
倚海龍が残っている右手で、しっかりと素蛾の手を握った。
「わ、わたくしこそ……」
「いや、あなたのおかげだ。あなたが隣の牢にやってきてくれなければ、俺は明日も惨めな拷問をあの牢番たちから受けなければならなかったんだ。今度は俺たちの番だ。なんとしても宝玄仙殿のところに連れて行く。俺としても、宝玄仙殿には、金角様の復讐の旗頭になってもらわなければならないしな。銀角様の救出もある……。宝玄仙殿がいなければ……。まあ、もっとも、宝玄仙殿は、俺の顔を見た瞬間に俺のことを殺すかもしれないがな……」
倚海龍が自嘲気味に笑った。
素蛾は驚いた。
「まあ、どうして、ご主人様が倚海龍様を殺すのですか?」
「なあに……、随分と以前に、俺は宝玄仙殿たちを殺そうとしたことがあってな。それが、金角様の役に立つと思っていたのだ……。残念ながら、殺すには至らなかったがね……。いまにして思えば、殺せなくてよかった……」
倚海龍がまた笑った。
素蛾は呆気にとられた。
「い、倚海龍さん──」
舟を操作していた日値が悲痛な声をあげた。
倚海龍が唸り声をあげた。
素蛾も日値が見たものが見えた……。
ぎょっとした。
少し先に橋らしき場所があり、その付近にたくさんの篝火がある──。
兵も大勢いる──。
かなりの人数だ──。
逃げられなかったのだ──。
素蛾は背に冷たい汗が流れたのがわかった。
「日値、篝火の集まっているところからぎりぎり見える場所で舟を岸につけろ──。俺が囮になる──。お前たちは、舟に腹這いになって、その隙にあの橋の下を潜り抜けろ──。一か八かだ──。あの橋を越えれば、大きな河に出るはずだ。そこに出れば、連中も簡単には追えん──」
倚海龍が静かに言った。
素蛾は驚愕した。
そんなことをすれば、今度こそ倚海龍は死ぬだろう。
囮になるということは、わざと発見されるように岸に出るということだ。
素蛾は倚海龍が橋の上にいる追っ手を引きつけるために、あそこで戦って死ぬ気であることがわかった。
「だったら、俺が行きます……。俺の草縛りの術なら十分な時間を確保できます。倚海龍さんは、このまま河に出て、北に進んでください」
日値が言った。
しかし、倚海龍が闇の中で首を横に振ったのがわかった。
「残念だが、俺は片手だ。舟の操作はできん。だが、右手があれば剣なら振れる。どちらがどちらの役目をするかは自明だな……。ほかに策はない……。そうでなければ、三人揃って死ぬことになるだけだ……」
「で、でも……」
「命令だ、日値──」
倚海龍は叱るような口調で言った。
日値が大きく息を吐いた。
「わかりました……。舟を岸につけます……。それから、舟を流します……。大きな河にぶつかるまでなら、そのまま舟は流れてくれるはずです……」
日値が中心を進んでいた舟を岸に近づけ始めた。
「そんなあ──」
素蛾は声をあげてしまった。
「声を出すな──」
倚海龍が低い声で言った。
それ以上、素蛾にはなにも言えなかった。
言う権利もない──。
素蛾は、舟がゆっくりと岸に近づくのを傍観するしかなかった……。
「日値──、素蛾殿を頼むぞ──。必ず、宝玄仙殿のところに──。それと、素蛾殿、宝玄仙殿たちに伝えてください。できれば面と向かって謝罪したかったがそれはできそうにないと……。そして、必ず金角様の仇を打って欲しいと──」
「は、はい……」
素蛾はそれだけを言った。
*
倚海龍はわざと大きな水音を立てて、舟から飛び降りた。
同時に舟を蹴飛ばして、川の中心に押し流した。
日値と素蛾は舟底に張りつくようにうつ伏せになっている。
この闇では人が乗っているかどうかなどわかるわけがない。
乗り手のいなくなった舟が流されてしまったように見えなくもないはずだ。
「いたぞ──」
「あそこだ──」
「逃げるぞ──」
橋の上から水面を含めた周囲を見張っていた一団が一斉にこっちに注目するのがわかった。
倚海龍は剣を持ったまま、川の土手を駆けあがった。
道術の火弾が空中に飛んで倚海龍のいる一帯を明るく照らした。
倚海龍はとっさに草むらに飛び込んだ。
舟からおりた倚海龍が土手に駆けたことは悟られても、ここにいるのがひとりしかいないことが知られてはならないのだ。
草むらに入れば、その中に隠れていると思うだろう。
また、幸いにも、倚海龍のいる上を火弾が照らしていることで、相対的に水面は真っ暗になっている。
倚海龍からも舟の存在はわからなくなった。
橋の上の火が一斉にこっちに移動してもきた。
「ここにいるんだ──。わかったな──」
倚海龍は、草むらから飛び出ると、大声で誰もいない草むらに叫んだ。
そして、やってくる一団に向かって駆けた。
倚海龍に気がついた数人が槍のようなものを前にかざした。
「うおおおお──」
雄叫びをあげて倚海龍は、それに向かって飛び込んだ。
先頭の三人を一度に斬った。
さらに突き進む──。
四人──。
五人──。
斬り進む──。
やがて、完全に囲まれた。
斬って、斬って、斬りまくった。
四方のどこを見ても敵ばかりだ。
橋の上を見た。
すでに橋の上には人影はない。
完全にこっちに誘導することに成功したようだ。
倚海龍に集まっている兵の一部が川の方向に向かう気配もない。
日値と素蛾が隠れている舟は、そろそろ橋の下を通りすぎたはずだ。
その向こうは大きな河だ──。
そこまで逃げれば、日値と素蛾は舟に乗ったまま九霊聖女の勢力地の外まで脱出できると思う。
倚海龍は敵を斬りながら思った。
どんどんと倚海龍の周りに敵が集まってくる。
もう、見える視界のすべてが敵兵になった。
倚海龍はひたすら斬りまくったが、際限がない。
下腹部をなにかに貫かれた。
槍だ──。
倚海龍は腹に槍を刺したまま、突き刺した者を斬った。
今度は背中から胸に向かってなにかが貫いた。
「はははは、金角軍の四天王がひとりの倚海龍だ──。死にたい者だけこい──」
剣を背中側に回して、身体を槍で貫かせた相手を叩き切る。
うまいぐあいに槍が抜けた。
さらに三人、四人と斬り倒す。
ついでに腹に刺さった槍も根元で切断した。
身体が自由になる。
走った。
走れなくなったときが最期だ。
そう思った。
追いすがった敵を二人ほど、一刀で切断する。
囲みに隙間ができる。
そこを突破する。
大勢の敵が慌て始めるのがわかった。
これでも、精強で鳴らしている金角軍で四天王を名乗った倚海龍だ──。
その倚海龍の最期の戦いを見せてやる──。
囲みを抜けても、そこには新しい囲みがあるだけだ。
倚海龍は、突如反転して、追ってくる敵を四人同時に殺す。
すると、目の前に近づいていた敵が倚海龍に背を向けた。
「まずは、大きく囲め──。囲みを完成しろ──」
誰かの吠えるような声がした。
囲んでじわじわと縮めるつもりか──?
倚海龍は包囲を突破することを諦めたつもりはない。
隙を見つけて突進する。
しかし、なにかが耳を掠めた。
矢だ──。
次々に射かけられてくる。
片手で持っている剣で払い落とすが全部は避けきれない。
膝に刺さる──。
背中にも──。
さらに腹──。
「この九霊聖女軍の腰抜けどもがああ──」
倚海龍はありったけの雄叫びをあげた。
「片手しかないこの倚海龍をまともに戦える者はいないのかああ──。お前らは卑怯者の糞ったれだああ──。弱い敵を卑怯な手段でしか戦えないうじ虫どもだあ。二度と戦士を名乗るんじゃない──」
河原が静かになった。
そして、雄叫びが起こった。
大きな獣馬に跨がっている男が突進してきた。
「来い──」
倚海龍はひとりに向かって駆けて跳躍して、獣馬の上の男の首を落とした。
しかし、地上に降りたときには、片脚の膝から下がなくなっていた。
倚海龍は片膝をつくような格好で河原にうずくまる。
「槍だ──。槍と矢で殺せ──」
再び声がして、一斉に槍と矢が襲ってきた。
近づこうとする敵はいない。
三本ほどの槍が身体に刺さり、矢もどんどんと身体に吸い込まれる。
剣で払おうとしたが、その腕にも矢が数本刺さった。
星が見えた──。
空?
いま、自分は上を見ているのか?
なにもわからない。
音も聞こえない。
日値と素蛾はうまく逃げられただろうか……?
そして、視界が消滅した。