*(左翼・第二線)
敵の増長天軍二万のうち、騎馬隊は五千ほどだったはずだから、残りの敵の騎馬の四千は
さらに、伶俐虫はさらに少なくとも一万五千の徒歩兵とも戦っている計算だ。
とにかく、精細鬼は駆けに駆けた。
一個目の橋梁でまったく敵の進軍を止められなかったのは大きな誤算だった。
あそこで敵をとめていれば、それなりの時間をかけてから、全軍が少しずつ二つ目の橋梁の位置に移動することになっていた。
いずれにしても、急いで移動して、南側の橋梁で敵を食い止める態勢を取り直さなければならない。
二個目の橋梁を敵に先に奪われたら終わりだ。
道術による移動は遣えない。
敵の『移動術』を防ぐために、この戦場一帯に広域の道術防護の膜をまだかけたままだ。
だから、いまのこの状況では、ふたつ目の橋梁に向かうには、遮二無二騎馬で移動するしかないのだ。
それは敵も同じだから、道術で追いつかれることはない。
それだけが救いだ。
戦場にかかっているいわゆる広域の道術防護というのは、一帯の大地全般の霊気を拡散させて、広い範囲に霊気を刻む攻撃道術を無効化する道術になる。
それによって道術がかけられなくなるのは、戦場を道術の爆風面で制圧するような弾幕道術や魔弾や霊気の刃、それに大規模な部隊を瞬間移動させるような移動術となる。
一般には、通信術や個人の周りにしか影響しないような小さな霊気の波による道術は関係ない。
そして、いま現在は、精細鬼たちがかけている道術防護のほかにも、敵がかけている道術防護もこの一帯を覆っているのもわかる。
つまりは、すでに敵は精細鬼が南側の橋梁に向かっている平原に広域道術防護を及ぼせるほど、深く入り込んでいるということだ。
その証拠に、精細鬼が駆けていくと、それを阻む敵の騎兵は後ろからではなく、横方向からや前側から襲いかかってくる。
精細鬼は両手で剣を持ち、さらに二本の剣を宙に浮かべて、襲ってくる敵を向かえ討つ。
このくらいの小さな道術なら、彼我の広域道術防護には引っ掛からない。
無論、戦わずにすむものなら、そのまま捨て置いて南に駆け続ける。
だが、大抵は戦わなければならなかった。
道術で操る宙に浮く二本の剣と両手剣の併せて四本の剣を振り回しながら、敵を叩き落とし、そのまま敵中を駆け抜けて進む。
それをひたすら繰り返した。
「邪魔するな──」
精細鬼はまたもややってきた百騎程の敵の騎兵に突っ込んだ。
目の前から五、六騎の騎馬が剣で斬られて馬から落ちる。
さらに敵──。
それも倒す。
精細鬼に従っている味方の騎馬も懸命に戦っている。
やがて、突破した。
精細鬼は味方の数をかぞえた。
二十騎ほどだ──。
伶俐虫と別れて出発したときには、五十騎はいたはずだから、すでに半分以上がいなくなっている。
「行くぞ──」
精細鬼は叫んだ。
しばらく進むと、やっと二本目の橋梁破壊として準備している場所についた。
百人ほどの味方が深い谷の上の橋梁を固めている。
あらかじめ配置しておいた部下だ。
ほっとした。
まだ、敵に奪われていない。
「橋梁破壊の準備をしろ──。それと、渡ってくる味方を収容しろ──。道術隊は俺の周りに集合──。広域道術をかけ直す。敵は橋梁を破壊しても河川や橋脚を一時的に冷凍させて渡ってくるぞ──。それを防ぐ妨害道術をかけるのだ。急げ──」
精細鬼は、ここに精細鬼がやってきたことに驚いている百人の亜人兵に対して、矢継ぎ早に指示した。
一方で、精細鬼とともに南下してきた騎兵は、橋梁に通じる谷の道で防護する態勢をとらせた。
橋に向かう道は狭い──。
ここであれば、ある程度の大軍でも阻むことができる。
その隘路部で態勢をとること命じると、精細鬼は橋梁の上に騎馬で立った。
道術隊は集まっていた。
まず精細鬼は、自ら広域道術防護の駆け直しに着手した。
集まった道術隊に精細鬼自身がかける広域道術防護の霊気の波を増幅させて河の水に霊気を弾く膜を刻むのだ。
さっきは広域道術防護を大地にしかかけていなかった。
だから、河の水を凍らされるという失態に繋がったのだ。
やがて、広域道術防護をかけ直すことに成功した。
精細鬼は必要な指示をして、部下たちが防護している北側の隘路部に戻った。
戦闘は始まっていた。
さっきは二十騎ほどだった味方が倍に増えている。途中で遅れた騎馬が追いついたのだ。
その代わりに敵もいる。
百騎程か──?
精細鬼は雄叫びをあげながら、押し寄せている敵に突っ込んだ。
敵の塊りに突っ込むと、部下たちがついてきた。
剣を振りまわす。
敵が倒れる。
やっと百騎の敵がばらばらになって後方に離れていった。
「俺は金角女魔王の四天王のひとり、精細鬼だ──。誰であろうと、ここは敵は通さん──。何万人であろうと、ことごとく斬り殺してやるぞ──」
精細鬼は逃げていく敵に向かって叫んだ。
そして、道術通信で、伶俐虫に橋梁の確保に成功したことを伝えた。
通信術は敵の道術封じの膜には引っ掛からない。
まだ、伶俐虫が生きていれば、この通信は道術により伶俐虫に届くはずだ。
そうしている間にも、次々に味方が渡ってくる。
精細鬼は百人までをこの隘路部に集めると、残りは橋梁の南側で陣を作るように命じた。
最初は騎馬兵ばかりだったが、少しずつ徒歩兵も通過する味方に混じり始める。
その中にはもちろん、伶俐虫はいない──。
そういえば、朱姫と
精細鬼はそれが気になった。
*(左翼・第一線)
伶俐虫は隊の一部に撤退を命じた。
精細鬼からの道術通信で、南側の橋梁を確保したことは知った。
敵が凍らせた河の正面に配置した部下を一隊ずつ橋梁に向かわせるのだ。
最初に固まった敵に、目前の河を渡らせてしまったので、すでにここを突破されている敵は騎兵を中心に数千だと思う。
しかし、大部分は、まだ敵の作った氷の橋の向こう側に阻んでいる。
敵が河を凍らせて作った氷の橋梁のこちら側のかなりの部分を融かすことに成功したのが大きかった。
これで、氷の河を渡ってくる敵が、こちら側で集約するかたちになったのだ。
そこに守りを集中することで一万以上の敵をなんとか支え続けている。
だが、精細鬼たちが完全に防護をやめれば、一万を超える敵兵は雲霞となって、河の南側の平原に放たれるだろう。
そうなれば、全部の味方が逃げることができなくなる。
従って、ここで敵をくいとめつつ、味方を退げるしかない。
最後まで残った隊は、ここで全員が死ぬだろう。
それは仕方がない。
いずれにしても、伶俐虫自身は最後までここに留まるつもりだ。
そして、数名でも多く南側に逃がす。
考えていたのはそれだけだ。
「また来るぞ──」
伶俐虫は雄叫びをあげた。
数度目の敵の突撃が始まったのだ。
敵が一斉に渡ってきた。
いままでに三度、突撃を撃退した。
だが、今度の突撃はそれまでのものとは違う勢いがある。
こちらの橋梁破壊を無効化しながらも、少数の敵に阻まれてしまい、なかなか河を渡りきれない味方に、ついに敵の将軍が焦れたという感じだ。
先頭を駆けてくる敵は血走った表情をして、興奮した様子で氷の橋を渡ってくる。
「火槍──」
伶俐虫は叫んだ。
油で火のついた投げ槍を一度に数百ずつ霊具の投射機で発射するのだ。
氷の橋の狭い部分にそれを集める──。
数万が一度に渡ってこれるわけではない。
だから、そこに迎撃を集中すれば、どんなに大軍でも防ぎ続けることはできる。
敵の先頭を進んでくる兵に投げ槍が突き刺さって、身体が燃え始める。
火のついた身体が氷の上でのたうちまわる。
その姿に後続する敵は怯み、しばらくすると勢いが消えて突撃が終息する。
さっきまではそんな感じだった。
だが、そのときは状況が違った。
先頭付近の亜人兵の身体に火がついても、その身体を踏みつけて後続の敵が前に進んでくる。
いままでにない死にもの狂いの凄まじい突撃だ。
「第二射、第三射も行け──。渡られるぞ──」
伶俐虫は大声をあげた。
数百ある発射機は三組に分けて発射するように準備をしていた。
それで交互に発射させつつ、一射を放ったなら、次の射撃の準備をして、ほかの二組が投射をする前に次の投射ができるようにするのだ。
それにより、常に前方に投射を継続できる態勢ができる。
しかし、一斉投射にたじろがない敵だと、とてもじゃないが全員を一度に倒すことなどできない。
投げ槍の当たらなかった敵がそのままこっちにくる──。
この発射機を集めている陣を抜けられれば、もうなにもない──。
一射目の投げ槍で倒れなかった敵の先頭がついに河のこちら側に来た。
さっき命じた二射目が彼らに当たり、大部分が火だるまになり倒れた。
しかし、敵の二列目がもうすぐそこだ。
そのとき、伶俐虫は狂ったように前進してくる敵の秘密がわかった。
矢だ──。
敵の後ろ側から矢が飛んでいる。
しかも、それは伶俐虫たちを狙っているのではなく、先頭を進む敵兵の背中に向かってくるのだ。
つまりは、敵は味方に背中から矢で追い立てられて、それで狂ったように前に出てくるのだ。
なに振り構わぬ敵将のやり口に伶俐虫はぞっとした。
「準備のできた発射機から、順次投射──」
伶俐虫は命じた。
もう組ごとの交互射ちは間に合わない。
敵の第二列がこっちに来た。
この陣地に殺到する。
そして、襲いかかられた。
「畜生──」
伶俐虫は叫びながら、隠れていた場所から飛び出した。
敵の塊りに突っ込む。
斬った──。
突いた──。
叫んだ──。
敵は続々とやってくる。
発射機についていたほかの味方も飛び出した。
乱戦になった。
だが、敵の圧力は凄まじい──。
一千──?
二千──?
いや、それ以上の敵が、ついに続々とこっちにやってきている。
「もういい、逃げろ──。全員、退却──。ばらばらになって、精細鬼に合流しろ──。逃げろ──」
伶俐虫は最後の命令を発した。
そう命じながらも、自分自身は敵の海の中で剣を振り続けた。
敵が押し寄せる。
大地そのものが敵となった感じだ。
伶俐虫の周りはすべて敵になった。
もう、部下の姿はない。
大部分はすでに死んだのだろう。
この状況で逃亡など成功するわけがない。
だが、ひとりでも逃げてくれれば……。
一兵でも惜しい。
まだ、戦いは続くのだ──。
とにかく、斬っても斬っても際限がない。
まさに敵兵の海だ。
伶俐虫の腹をなにがが貫いた。
槍だ──。
伶俐虫は振り返って、自分の身体を後ろから突いた敵を叩き斬ってやろうと思った。
だが、気がつくと、いつの間にか剣を持った右腕がなくなっていた。
仕方なく左手で腹から出ている槍を叩き折った。
それを敵に突き刺す。
すると、突然に視界が変わって空が見えた。
なぜ、空が、と思ったが、どうやら地面に倒れたようだ。
しかし、その空は自分を踏みつける敵の足で一瞬にして消失した。
*(左翼・第一線と第二線の間)
「朱姫、朱姫、とにかく馬にしがみついて──。絶対に手を離さないで──」
日値は悲鳴のような声をあげて、馬を駆けさせた。
朱姫が掴まっている騎馬の手綱は、しっかりと日値の乗る馬の鞍に結んでいる。
だが、遅い──。
それはどうにもならない。
朱姫は軍人ではないのだ。
馬から落ちないだけで十分に頑張っている。
なかなか南側の橋に辿り着けない。
敵に囲まれている。
その中を逃亡しているという感じだ。
周りに味方を見つけることは、なかなかできなかった。
最初のうちは一緒に南を目指す味方の騎馬もいたのだが、いつの間にか彼らもいなくなった。
いまは、出逢うのは敵ばかりだ。
「ひっ、ひいっ──」
朱姫の必死の声が聞こえる。
まだまだ元気そうだ。
とにかく、朱姫を一刻も早く安全な場所に──。
そのために、足が飛び、腕がなくなっても、馬の首に噛みついてでも馬を駆けさせる──。
「ひ、日値──。ま、また、敵よ──」
朱姫が絶叫した。
わかっている。
「草縛り──」
日値は叫んだ。
やって来る敵の騎馬の脚に大地の草が絡みつく。
植物を操る道術は、植物種族の日値の一族にしかできない道術だ。
近づいていた敵の数騎が一斉に転んだ。騎兵が落馬する。
その横を駆け抜ける。
駆ける馬の周りに敵の放った矢が次々に突き刺さる。
騎馬は草縛りで防げても、さすがに矢は無理だ。
日値は身体から発している草の蔓を風車のように回して矢を防ぐ──。
それで、大部分は落ちるが、それでも幾らかは身体に当たる。
だが、朱姫の身体と馬にだけは矢が当たらないようにと、懸命に蔓を動かす。
おかげで、朱姫と馬はまだ傷ひとつ負わせていない。
その代わりに、日値の身体には数本の矢が刺さっている。
抜く手間が惜しいのでそのままにしているが、腹に刺さった矢の部分から強い痛みが走り続けている。
「日値、横に敵──。ええい、影手──」
朱姫が叫んだ。
日値はすぐ横に敵が迫っていたことに気がつかなかった。
敵の騎兵の持つ矛が日値に向かって振りあげられたが、その手首に黒い手の影が浮かんだ──。
そして、腕を押されるように、その背中に向かって馬から落ちていく。
「う、うわあっ──」
そのとき、朱姫の悲鳴があった。
影手の道術を遣うために、一瞬だけしがみついていた馬の首を離したようだ。
それで体勢を崩して、馬から落ちてしまったのだ。
「朱姫──」
日値は慌てて馬を反転させた。
すでに朱姫の周りに数騎の敵が集まり始めている。
「影手──」
朱姫が道術で懸命にそれを防いでいる。
日値は草縛りをかけた。
朱姫の周りの敵が馬ごと草に包まれる。
「日値──」
朱姫が泣き顔でこっちに駆けてくる。
可愛い女性だ──。
日値は思わず、頬を綻ばせてしまった。
この朱姫とふたりきりで一緒に旅をしたのは数箇月間であり、もう何年も前の話だ。当時の朱姫は、
日値はその能生が男だと信じて疑わなかった。
その頃の朱姫は、いつもなにかに腹を立てているような顔をしていて、あまり喋らなかった。
結局、魔域に向かって、どこかの魔王の兵になることを決心した日値に対して、それを嫌がった能生とはそれで別れた。
その最後の最後まで、日値は能生が実は少女だと気がつかなかった。
別れるとき、能生はなにかを訴えるように日値を睨み、“じゃあね……。独りは慣れてるし平気だよ……”と呟くように言った。
そのときのとても寂しそうだった能生の顔はいまでも忘れられない。
自分は天下の愚か者だ──。
そう思う──。
能生が少女だと気が付かなかったことも……。
彼女とは別の道を歩むことを決心したことも……。
その能生と再会したのは一年後くらいだ。
日値は金角軍の兵になっていて、能生は朱姫と名前を改めて、宝玄仙という人間族の魔女の供になっていた……。
久しぶりに会った朱姫はすっかりと変わっていた。
とにかく、よく話すのだ。
一時は銀角の囚われとなって苦労していたが、それも新しく仲間になった女性たちと協力して、逆に銀角を捕らえ直した。
その女性たちと生き生きと語り、ときには際どい冗談ややり取りをする朱姫は、日値が知っていた能生とはまったく別人だった。
そのとき、日値には、自分と旅をしていた頃の朱姫が、どうしていつも寂しそうにしていたのかを悟った。
朱姫は、ずっと家族が欲しかったのだ。
幼い頃に両親を殺され、半妖という中途半端な存在だったために、朱姫は人間族にも、妖魔や亜人の仲間にも入れずに、ずっと孤独に旅をしていた。
だから、一緒に生きてくれる仲間をひそかに求めていたに違いない。
そして、ついにそれを見つけたのだ。
宝玄仙、沙那、孫空女という女たちと本当に愉しそうにしている朱姫を見て、そう思った。
もしも、そんな朱姫の心に早くから思いがいっていたら、日値は朱姫の家族になれたのだろうか……。
「危ない──」
朱姫の絶叫が聞こえた。
腹に激痛が走った。
脇腹に槍が突き刺さっている。
敵の徒歩兵だ。
馬を駆けさせる日値に下から槍を突きあげたのだ。
馬から落ちかける身体をなんとか支えた。
日値は草縛りでその敵兵の身体を包む
同時に身体の草の蔓で槍を抜く。
かなりの血が出たが、その傷口を新たに出した草の蔓で上から縛った。
それで血を止めることができた。
「ひ、日値──。だ、大丈夫──? 傷薬を──。ま、待って、どっかにあったと思うから──」
朱姫が慌てたように背負っている荷を探り始めた。
「そ、そんなのは後だよ──。いまは逃げるのが先だ──。それから、もう朱姫は道術はいいよ。それよりも馬から落ちないで、朱姫──」
日値は朱姫に手を伸ばして、空馬になっていた朱姫の馬に朱姫を引っ張りあげた。
腹の傷も痛いし、脇も怖ろしいほどの激痛だ。
だが、力は漲っている。
信じられないくらいに力が沸く。
大丈夫──。
これなら朱姫を守り切れる。
「行くよ──」
日値は叫んだ。
馬を駆けさせる。
しばらく、また駆けた。
だんだんと味方の数がかなり多くなった。
だが、敵も多い。
頻度は敵と出逢う機会が圧倒的だ。
一方で、日値と朱姫については、兵に見えないのか見逃されることも多かった。
とにかく、襲ってくる敵については、草縛りで防ぎながら遮二無二前に進んだ。
やがて、道が狭い崖に阻まれるような地形となり、そこに味方の一団が見えた。
しかし、そのあいだには敵の残党もいる。
「日値──。朱姫──」
大声がした。
精細鬼だ。
その精細鬼が一騎でやってきた。
集まりかけていた敵の残党に突っ込でいく。
まとまりかけていた敵が散っていく。
日値もまた草の蔓を振り回して、一騎、二騎と倒していく。
やがて、完全に敵が周囲にいなくなった。
「せ、精細鬼様、しゅ、朱姫です……。お願いします──」
日値は辛うじてそれを口にした。
精細鬼の姿を確認した瞬間に、怖ろしいほどの疲労が襲ってきた。
「おう、よくやったぞ、日値──。お前はよくやった──。さあ、朱姫、こっちに──。日値、お前も一緒に橋の向こうに行け──。ここは俺が防ぐ──」
精細鬼が言った。
その声を聞いた途端に、日値は目の前が急に真っ白になる感覚に襲われた。
*(左翼・第二線)
「しゅ、朱姫です……。お願いします──」
日値が言った。
「おう、よくやったぞ、日値──。お前はよくやった──。さあ、朱姫、こっちに──。お前も橋の向こうに行け──。ここは俺が防ぐ──」
精細鬼は吠えるように言った。
一方で、日値の声に力がないことが気になった。
全身に傷も負っている。
まあいい……。
橋梁の向こうには治療隊も揃えている。
負傷をしている者を次々に治療しているし、日値もしばらく休ませれば元気を取り戻すはずだ。
「ひ、日値?」
朱姫が困惑したような声をあげた。
精細鬼は振り返った。
日値が馬に跨ったまま動かないのだとわかった。
なにをしている──。
もう少しだ──。
行け──。
精細鬼は怒鳴りつけようとした。
しかし、日値の変化に気がついて、精細鬼はかけようとした声を飲み込んだ。
はっとした。
日値は眼を開いて、しっかりと馬に乗っていたが、すでに死んでいた。
それが精細鬼にはわかったのだ。
「ひ、日値? どうしたの、日値? ねえ、日値──?」
朱姫が騒ぎ始めた。
彼女は汗びっしょりで泥だらけで、見るからに疲労困憊していた。
だが、見たところ傷はない。
それに比べて、日値の身体は傷だらけで血まみれだ。
朱姫を一生懸命に守ったのだな……。
そう思った。
「朱姫……。日値は死んだ。お前を守るために、死ぬのを我慢していたようだ。お前を俺に送り届けて……。そして、死んだ──。ここはいい。ひとりで橋の向こうに行ってくれ……」
精細鬼は言った。
しかし、朱姫は震えている。
一方で、精細鬼は敵に目をやった。
敵が集まりかけている。
突撃の態勢を取っているのだ。
部下に攻撃準備を命じた。
「ああああああああ──」
その瞬間、獣のような咆哮がした。
眼をやって驚愕した。
馬に跨って、日値を掴むようにしていた朱姫の姿が巨大な獣の姿になっていた。
「な、なんだ──?」
精細鬼は叫んだ。
魔獣だ──。
朱姫の姿が魔獣になったのだ。
そして、馬から飛び降りると、まとまりかけていた敵の集団に駆けていく。
「ま、待たんか──」
精細鬼は慌ててそれを追った。部下も続く。
しかし、足も速い──。
騎馬で負う精細鬼たちを引き離しながら、朱姫が変身した魔獣が四つ足で駆ける。
そして、敵の集団に飛び込んだ。
敵の首が次々に飛ぶ──。
ものすごい怪力だ。
あっという間に十数人が馬ごと吹き飛んだ。
敵が度肝を抜かれて逃亡していく。
「朱姫──? 朱姫なのか──?」
やっと追いついた精細鬼は叫んだ。
そのときには完全に敵は逃亡し、魔獣の姿は朱姫に戻っていた。
服はぼろぼろで、あちこちから裸身が見えている。
しかし、朱姫はそれを気にした様子はない。
「……しばらく道術は遣えません。すみませんでした。仙薬を飲みます……。それで一日で快復できると思います……」
朱姫は激しく息をしながら言った。
精細鬼はただうなづいた。
そして、元の小柄な少女の姿になった朱姫を橋梁の南に連れていくように部下に命じた。
*(左翼・第二線)
かなりの味方が通過していった。
だが、敵の圧力が強くなってきた。
そろそろ敵のまとまった集団が来るはずだ。
ここまでだろう。
精細鬼は部下たちに橋梁を渡るように指示した。
一団となって橋を通過する。
「橋を落とせ──」
叫んだ。
あらかじめ準備しておいた綱が引かれて、大きな橋が真ん中で崩れて谷河に落ち、そして消えた。
最初の橋の南岸に展開していた一千五百の味方のかなりは戻った。
しかし、日値は死んだ。
伶俐虫も戻ってこなかった。
「これが
精細鬼は小さく呟いた。
これが戦なのだ……。