*(右翼・多門隊本陣)
朝もやが立ち込めている。
多門は馬上のまま、人間族の隊が陣を築いている林を見つめていた。
そこにこもるのは、たった三千程度の隊である。
そこを突破できない。
それどころか、昨夜一日の戦闘だけで五千を超える亜人兵が死んでいる。
多門の記憶において、これほどの大敗は初めてだった。
負けたのだ。
人間族の「銃」という武器で完膚なきまでに叩かれた。
亜人族に比べて、人間族というのは霊気に乏しい反面、謀略に長け、また戦いの技術に精通しているとは言われている。
それが決して、誇張ではないことを身をもって知ることになったが、それにしても、この兵力差でこの損耗は考えられない。
昨日の戦闘の前には、いっそのこと目の前の人間族など、少数の隊を配置しておいて、主力は摩雲要塞に進むことも考えていたのだが、もはやそれはあり得ない。
このまま敗北したまま終わるのでは、多門の気が済まないし、魔域最強と唄われている牛魔王軍団が負けたままで許されるわけがない。
たった三千の軍勢に対し、十倍近い勢力で攻めながら、敵の勢力に倍する損亡を与えられたままとあっては、後方に控えているはずの牛魔王は許しはしないだろう。
多門は生命の危機を感じていた。
不甲斐ない戦いぶりには、容赦のない死──。
牛魔王軍団の鉄の掟だ。
それを逃れるためには、もはや、あの人間族の隊を殲滅するしかない。
「人間族との遊びもこれで終わりだ。魔域に入り込んだ人間族はひとり残らず殺す。今日の戦いは、身の程知らずの人間族の隊を撃滅させるだけではない。ひとり残らず殺戮する。ひとりでも残してしまえば、我らの敗北と思え」
多門は横に騎乗で並んでいるひとりの若者に顔を向けた。
「わかっております。父上」
息子の
多聖は多門の長子だ。
この戦いが初陣であり、次の世代の牛魔王軍団を背負う者のひとりとして、父親の多門だけでなく、牛魔王にも期待を受けいている。
武技は優秀であるし、頭脳もいい。同性代の若者の中では抜群の素質を持っている。
それは父親としての贔屓目ではないはずだ。
今回は、実戦の風に触れることで、さらにひと皮剥けた成長をすることを期待して、多門付の上級将校という資格で今回の戦役に同行させていた。
この息子の見ている前で、これ以上の無様な姿は見せられない。
「将軍、全亜人兵が興奮薬の服用を終了しました」
各隊の準備状況を確認していた副官が報告してきた。
今朝の戦闘に先立ち、準備したものがふたつある。
ひとつは、全兵卒に服用を命じた「興奮剤」だ。
道術で培養した特別な大麻に、精神物質を混ぜたものであり、それを服用すると、一時的なものだが、知能が麻痺して異常に使命感が昂揚する。
攻撃性が極限にまで活性化されて一切の恐怖心が消滅するのだ。
それにより、無敵の兵ができる。
ただし、服用を繰り返すと、脳の老化が急激に発生することがあるために、あまり使用することはできない。
だが、多門は今朝の戦いに先立って、将校を除く全兵士に服用することを命じた。
兵卒など使い捨てだ。
副作用で老化すれば、交換すれば済むことだ。
それよりも、今日は負けるわけにはいかないのだ。
昨日の敗北の要因のひとつは、兵卒が「銃」という武器に感じた恐怖心だと思っていた。
身に着けている具足などを簡単に貫通して、隣りの兵が死んでいく恐怖──。
それが兵の身体を硬直させ、敵陣に突撃することを躊躇わせてしまったのだ。
そこを人間族の隊長につけこまれた。
その恐怖心を薬物により失わせる──。
それが準備したことのひとつ──。
もうひとつは、もっと直接的なものだ。
最前線を進む隊の前面に、大きな弾除けの盾を装備させたのだ。
急ごしらえで支度させたものだが、人間族の「銃」に、ある程度の効果があるはずだ。
基本的には竹製であり、それを曲げて中央部分を出っ張らせて弾を左右に跳ねさせる形にしている。
また、盾の表面には麻布を凝固の性質がある妖虫の体液で幾重にも重ね、さらに、表面に薄く伸ばした金箔を貼った。
そうやって、頑丈な弾除けをひと晩掛かりで大量に作らせたというわけだ。
その弾除けの盾を全隊が装備している。
ここから見下ろせる各陣でも、その前面を金色の大きな盾を数名で抱えて覆っているのがわかる。
「突撃を命じよ──」
多門は静かに言った。
副官が道術で、陣太鼓の音を激しく戦場に鳴り響かせた。
*(右翼・宝玄仙)
「そろそろ、来ますね」
伊籍がにこにこと微笑みながら言った。
伊籍隊のある林だ。
林はこんもりとした低い丘陵を覆っていて、低い草の拡がる平原においては、海に浮かぶ小さな岩のようにも見える。
宝玄仙は、伊籍がいる陣に支度された椅子に座って、戦場を見おろしている。
伊籍は、昨日の戦いでは、戦闘が開始されるとすぐに、林の前面まで出て陣頭指揮をしていたが、今日はここから戦いを指揮するようだ。
また、宝玄仙の横にはお蘭がいる。
今朝はいつになく物静かだ。
お蘭も柄にもなく緊張でもしているのだろうか。
林に向かって攻撃態勢をとっている敵の大軍は、ここからでも十分に見える。
確かに、あれだけの数の亜人兵が勇ましく迫っているのは大した迫力だ。
お蘭が緊張する気持ちはわかる。
昨日に比べれば、かなり減っているような気もするが、まだまだ大軍だ。
また、昨日は方陣の陣形がなにかの図形のように組み合わせて並んでいたが、今朝はただ方陣を密集させて、さらに大きな方陣にしているだけだ。
ただ力押しで突っ込んでくるということだろうか。
さらに、敵の陣の各前面には、金色の大きな盾が準備されている。
連中も一日の敗戦で少しは物を考えたらしく、あれは伊籍隊の放つ銃の弾除けの効果を狙ったものに違いない。
「死にもの狂いで攻撃してくるに違いないですね なにしろ、昨日はあれだけ、俺たちに翻弄された亜人軍ですから、連中の面目にかけて猛攻を仕掛けてくるでしょう。だから、今日は、魔域の歴史にも残るくらいの大勝をお見せしますよ──」
「愉しみにしているよ」
宝玄仙は微笑んだ。
伊籍が微笑んで頷く。
「そして、摩雲城に帰還します。そのときには、道術で支援をお願いしますね、宝玄仙殿──。それにしても、道術というのは便利なものですねえ……。あれだけの大きな物を簡単に輸送できるのですから。おかげで“仕掛け”が簡単に終わりました」
「わたしらの出番は、ただの武器の運搬かい? これでも数千の亜人兵を一度に殺せるくらいの道術を持っているんだよ」
宝玄仙は苦笑した。
「でも、今日は広域の道術封じとやらを敵も敷いているんでしょう? 道術戦は無理ですよ。それに今日も戦いそのものは、俺たちだけで十分です。宝玄仙殿とお蘭殿は、敵が思わぬ道術でこちらを翻弄することだけを防いでください」
「道術さえ遣われなければ、敵が十倍であろうと、二十倍であろうと勝てるという口調だね、伊籍」
「もちろん、勝ちますよ……。釘鈀陛下にもそう命じられていますから……。俺たちは、魔域まで物見遊山でやってきたわけではありません。人間族の怖さというのを見せつけに来たのです」
伊籍はきっぱりと言った。
宝玄仙は、もうわかったという意味を込めてうなずいた。
三軍に分かれて進軍してくる敵の第一軍に対して、こちらも三隊に分かれて迎撃態勢をとったのだが、とりあえずの目的を達したので、退却して摩雲要塞に集結せよという各隊への指示が沙那から届いていた。
それによれば、昨日の戦いにおいて、沙那と孫空女と銀角は、中央から進んでいた軍を指揮する奇勝天という大将を討ち取ったようだ。
それで敵はとりあえず後退したようだ。
伊籍隊にも、精細鬼隊にも、引きあげるようにという指示が沙那から送られていた。
それを受け、深い峡谷の橋を破壊して敵を遅滞させていた西側の精細鬼隊は、昨夜のうちに摩雲要塞に退がったようだ。
しかし、伊籍はそれを拒否した。
敵と膠着状態にあり、簡単に退がれないというのは表向きの理由だが、伊籍はもう一戦したいのだ。
伊籍の唱える“人間族の怖さ”というものを知らしめるために、わざわざ西方帝国から運んできた武器がある。
それを使用せずして撤退など考えられないに違いない。
いずれにしても、宝玄仙とお蘭は、万が一のときのことも考えて準備をしていた。
それは伊籍の仕掛けが効果がなかった場合の逃亡の準備だ。
伊籍の仕掛けの効果がなければ、減じたとはいえ、二万に近い亜人軍の大軍だ。
ここにいる三千の人間族の兵は皆殺しになるしかない。
そうならないように、一気に跳躍して摩雲要塞に全員を『移動術』で跳躍させるのだ。
三千もの人間を一度に跳躍させるのは、複雑な道術の術式と巨大な霊気が必要となるが、宝玄仙とお蘭であれば不可能ではない。
ただ、これから伊籍がどういう戦いをしようとしているかを知っている宝玄仙は伊籍が勝つと思っている。
しかも、完膚なきにだ──。
すぐに始まる戦いには引き分けはない。
圧倒的に勝利するか、仕掛けが通用せずに殲滅させられるかだ。
敵陣から大きな太鼓の音が響き始めた。
それを合図に、丘陵の下の平原で金色の盾を抱える敵陣がゆっくりと動き出した。
盾は数名掛かりで持つもののようであり、進軍そのものの速度は比較的ゆっくりだ。
だが、敵兵が発する雄叫びが凄まじい。
異常なほどに興奮しているらしく、大地が震えるほどの喚声をあげながら、方陣態勢のままこっちにやってくる。
「まだだ──。十分に引きつけるんだ……」
伊籍が敵陣をじっと見ながら呟いた。
それはただのひとりごとだ。
伊籍が今日の戦いで発する命令はただのふたつ──。
“撃て”と“やめ”──。
ここであげる赤旗があがれば、“撃て”──。
おろされれば“やめ”だ。
命令に複雑さはない。
だから、伊籍は最前線にはいかずに、ここで指揮をしているのだ。
伊籍の指示を待つ伝令兵が息を詰めるように、伊籍の後ろで待っている。
その緊張が宝玄仙にも伝わってきそうだ。
やがて、伊籍が手をあげた。
伝令が陣の外に大声を発した。
赤旗があがる。
次の瞬間、風を貫き、大地を震わせる凄まじい轟音と震動が起こった。
*(右翼・多門本陣)
多門は馬上で人間族がこもる林から大きなものが一斉に前に出されたことに気がついた。
最初はそれがなんなのかはわからなかった。
しかし、多門の記憶と林から出現した物のかたちが繋がり、それが“大砲”と呼ばれるものではないかと思った。
もっとも、多門も大砲というものは見たことがない。
しかし、人間族の戦では、稀ではあるがそれが使われると耳にしたことがある。
林から出てきたのは、その大砲という武器に間違いない。
銃を巨大にしたものであり、火薬により砲弾と呼ばれる金属の弾を落下させる武器だ。
だが、その数はひとつの戦いで十門くらいであるはずだ。
いま、目の前に並んでいる敵の準備した大砲は五十門はある。
しかも、あの「大砲」は、多門の知識にあるものよりもずいぶんと小さい。
「大砲」というよりは「小砲」だ。
昨日、人間族が使用した「大筒」をさらに二回りほど大きくした筒という感じであり、それに車輪がついて移動ができるようにしてある。
一瞬後、聴覚を麻痺させる轟音が発生した。
しかも、連続で……。
だが、大砲は派手さの割には、破壊範囲の狭い武器だ。激しい音で心理的効果はあるものの、思うよりは損害はないはずだ。
鉄の塊りを火薬で飛ばしているだけのことであり、つまりは投石器と変わらない。
普通の状態であれば、玉を陣に落とされる兵卒は恐怖におののくかもしれないが、いまは全員に興奮剤を服用させている。
たとえ、隣りで仲間が脳味噌をぶちまけようとも、前進が停止することはない。
さらに、あれでは打ち込める玉の小さなものでしかありえない。
せいぜい、拳二つ分程度だ。あれが直撃しても、ひとりの兵が倒れるだけだろう。
ただ、たったいま大砲からは鉄玉ではなく、もっと小さなものが無数に飛び出した気がした。
それが小さな曲線を描いて、盾を持った先頭の兵を越えて降ってくる。
そして、驚愕した──。
砲から放たれたものが前方の方陣の中心に落ちると、一気に数十名が爆音とともに肉体を引き千切られて倒れたのだ。
それがあちこちで引き起こった。
しかも、数十門の砲が次々に雨のように玉を炸裂させていく。
一発一発の玉が落下して兵に当たるというものではない。
こちらの第一列目の方陣に雨のように降り、炸裂し、その一発ごとに一瞬で数十名の死骸を作り出している。
多門は呆然とした。
ここから見える多門軍の第一線は、破壊された亜人の身体で埋め尽くされだした。
やがて、やっと多門にも、人間族がなにをしているのかわかった。
あれは、ただの「玉」ではなく、その玉が無数の「弾」を破裂させているのだ。
昨日の午後の戦闘で使われたものと同じであり、散弾と呼べるものが発射されて、落下とともに鉄の破片をあちこちに爆風で広げているのだ。
その一片一片が亜人兵の具足を簡単に引き千切って肉体を壊している。
それを大量に使用されている……。
「いかん──」
多門は思わず叫んだ。
すでにこちらの第一線は半分以下になっている。
身体を引きちぎられて倒れた亜人兵は数千を超えただろう。
こちらが方陣で密集しているから、余計に一発ごとの被害が大きいのだ。
密集せずに、ばらばらになって林の中に駆けこめば、それであのような「砲」など簡単に無力化できる。
だが、今更方陣を崩すという命令などできない。
そんな態勢で牛魔王軍は攻撃したことはないし、薬物で狂人化している亜人兵には、急には攻撃のやり方を変えられない。
連中にできるのは、どんなに損亡を受けても恐怖心もなくただ突っ込むだけだ。
さらに悪いことに、各陣の前面に大きな弾除けの盾を担いでいる。
あれが全体の動きを鈍重にして、人間族の放つ「砲」の狙いを狙いを簡単にしている。
突撃が開始して、まだ幾らも経っていない。
しかし、第一線はほぼ壊滅状態だ。
それは想像を絶することだった。
いまや敵の砲の半分は前ではなく、こちらの第二陣に向かって散弾玉を撃ち込んでいた。
第一線と同じように、やはり密集して鈍重になったところを狙われて、次々に損害を拡大していく。
すでに全軍が崩壊してしまった。
時間にして、紅茶一杯分をゆっくりと飲むほどの時間ではなかっただろうか……?
たったそれだけの時間で、多門の率いていた二万に近い軍勢は姿を消してしまったのだ。
「多聖──」
多門は横にいる息子の名を呼んだ。
「は、はい──」
多聖は顔を蒼くしていた。その唇は震えている。
無理もない。
いまだに注がれ続けている敵の散弾玉により、目の前の自軍の亜人兵は次々に身体を切断された死骸に変わっていっている。
夥しい血の匂いが戦場から漂っているが、あれはすべて味方の将兵によるものなのだ。
おそらく、林の中の人間族はただのひとりの損害もないだろう。
普通であれば、とっくの昔に兵たちは四散して逃亡していたに違いない。
だが、薬物によって狂人化されている亜人兵は、逃げることは知らない。
だから彼らは、だた身体を引き千切られて死ぬためだけに、味方の死骸を踏んで進んでいくだけだ。
「お前は逃げよ──。逃げるのだ──。魔域を出て、いっそ人間族に紛れてもよい……。とにかく、生きよ──」
それしかない。
多門の失敗はあまりにも大きすぎる。
二万の軍勢を率いて、人間族にほとんど損害を与えることなく、文字通り全滅させたとあっては、牛魔王の怒りは多門個人だけではなく、家族にも及ぶのは間違いない。
ここにいる多聖くらいは生き延びて欲しかった。
「そ、そんな……。で、では、父上も一緒に……」
「さらばだ、息子よ──」
多門はただそれだけを言った。陣内にいた副官を始め、従卒たちにも同じことを言った。
だが、多聖と同様に、目の前の光景に息を飲んでいるたけで反応がない。
まあいい……。
すぐに我に返るだろう。
馬腹を蹴る。
そして、敵砲が注がれ続ける戦場に向かって、一騎駆けで進んでいった。
*(右翼・宝玄仙)
「終わりましたね……。さあ、朝食にしましょうか、宝玄仙殿、お蘭殿──。その後、撤収となります。我々は隊列を組んで整斉と摩雲城まで帰還します。おふたりについては、道術で先にお戻りになられても結構ですよ」
伊籍が言った。
耳をつんざく砲の轟音は終わっている。
丘陵の下の平原では、無数とも思える亜人兵の死骸が広がっている。
なんという戦いだったのだろう。
宝玄仙もこれほどの一方的な戦いになるとは思わなかった。
数で圧倒的に上回っていた敵軍は、完全に死滅して平原に無残な死骸を晒している。
どうでもいいが、血の匂いが酷い。
ここまで漂ってくるのだ。
伊籍はにこにこと微笑んでいるが、とてもじゃないが、ここで食べ物を口にする気にはなれない。
「食事はいいよ……。だけど、戦いが終わったのなら、一度要塞に退がるよ。移動術でね……。だけど、わたしとお蘭で、お前たちも跳躍させることはできるんだよ」
宝玄仙は言った。
しかし、伊籍は首を横に振った。
「お言葉はありがたいし、次の要塞防御戦のことを思うと、そうすべきというのはわかってはいるんですがね……。どうも、道術で跳躍するということに慣れてはいなくて……。自分たちの足で戻りますよ。沙那殿の話によれば、牛魔王が第二軍を率いて要塞にやってくるのは五日後なのですよね? 普通に移動しても、一日で要塞には戻れます。十分に準備する時間はありますから、隊列を組んで移動することにします……。ただ、できれば砲だけはお願いしたいですね。予備砲も含めて百門近くありますから、運搬には骨も折れるんですよ」
伊籍は笑った。
さっき敵の殺戮に使った「砲」は、宝玄仙の道術によりこの林の中にひそかに運び入れたものだ。
伊籍は、最後の最後までこの砲を多門軍には見せたくはなかったのだ。だから、そうしたのだ。
「お安いご用さ──。じゃあ、道術で要塞の営庭に運んでおくよ。膨大な弾薬箱も一緒にね」
「ありがとうございます……。それにしても、亜人兵は勇敢でしたね。最後まで一兵も逃げなかった。それは驚嘆に値します」
伊籍は言った。
おそらく、伊籍のその言葉には、半分の本心と、半分の揶揄の気持ちが込められているだろう。
普通はあれだけ一方的に殺戮をされたら途中で逃げていく。
それが最後の最後まで彼らが逃げなかったために、あれだけの一方的な大勝をこんなに短い時間で得ることになったのだ。
ただ、宝玄仙のみるところ、あの亜人兵は異常だった。
おそらく、恐怖心を一時的に麻痺させる薬物を摂取させられたか、それに類する道術をかけられていたのではないかと思う。そういうことも道術は可能なのだ。
ただ、どうでもいいことなので黙っていた。
「いえ、伊籍殿……。申し訳ありませんが、撤退については伊籍殿の隊のみで行ってはいただけませんか? お宝姉さんとわたしは、別のところに行かないとならないのです」
そのとき、昨日の夜くらいからずっと口数少なく黙っていたお蘭が口を挟んだ。
「なんでだい、お蘭? あの荷をわたしらが道術で転送することは、あらかじめの取り決めだったろう。その準備もしているのに、なんの不都合があるんだい?」
宝玄仙は驚いて言った。
「……お宝姉さん、ふたりきりで話したいことがあるの……」
だが、お蘭はそれだけを言った。
伊籍はひょいを肩を竦めて、陣幕の外に出ていった。
お蘭は、宝玄仙をさらに陣幕の外に連れていった。手に小さな袋荷を持っている。
「なんだい、お蘭? もったいぶるんじゃないよ──。ほかの者には告げられない話かい──」
宝玄仙は呆れて言った。
お蘭が陣幕の外に宝玄仙を連れて出たのは、伊籍がいなくなっても、ほかの兵卒などが近くにいたためだろう。いまここには宝玄仙とお蘭以外には誰もいない。
「ねえ、お宝姉さん、わたしが昨日言ったことを覚えている?」
「昨日?」
宝玄仙は首をかしげた。
「わたしは言ったわ……。お宝姉さんを助けるために全力を尽くすと……。お宝姉さんには申し訳ないけど、どんな手を使ってでもお宝姉さんを守る……。わたしがお宝姉さんを助けたいと思っていることだけは信じて欲しい……。そういうことを言ったわ」
「ああ、そうかもしれないね」
宝玄仙は答えたが、正直自信はない。
そんなことをお蘭が言ったかもしれないが、それがなんだというのだろう?
「いまがそうよ……。お宝姉さんには教えなかったけど、沙那や孫空女たちが亜人軍に勝利したというのは嘘よ……。あれは拷問の末に言わされたことよ──。奇勝天軍に勝ったことは本当のはずよ……。だけど、その後で急遽、前進してきた牛魔王自身が率いる軍に捕えられたと思うわ。わたし自身もここにいたから確かなことはわからないけど、沙那からは異常なことが起きたという報せはなかった──。それは、異常なことが予定通りに起こったという証拠なのよ」
「はあ──? お前、なにを言ってんだい? 沙那たちに異常なことが起こって、牛魔王に捕えられた? しかも、お前がそう思う理由が、沙那がなにも言わなかったから──? お前、頭がどうかしたのかい?」
「支離滅裂なことを言っているのはわかっているわ。だけど、本当なの──。沙那たちは捕えられたはずなの──。だって、もしも、奇勝天が敗れれば、牛魔王は予定通りの侵攻じゃなくて、道術で一気に軍を跳躍させて、こっちに向かってくるつもりだったの──。だから、わたしは、牛魔王が直接率いる軍団が近づいたら、沙那殿と孫殿が、わたしがあらかじめ銀角に刻んでいた道術で、銀角とともに、牛魔王の前に跳躍してしまうように処置していたの」
「ちょっと待ちな、お蘭。お前、なにを言って……」
「いいから聞いて、お宝姉さん……。沙那殿たちが奇勝天軍を破ったのなら、牛魔王主力はすぐに道術で前進してきて、それにより、事前に刻んだ銀角の道術で沙那殿たち三人は牛魔王の前に無理矢理に跳躍することで捕えられたはずなの──。それにもかかわらず、沙那殿からは予定通りに摩雲城に戻れという何事もない言葉だけしか送って来なかったわ……。これこそ、沙那殿たちがまさしく捕らわれたという証拠よ。しかも、沙那殿の声で通信球も送られた。沙那はそれを強要する拷問をされたのかも……。あるいは、三人とも服従の首輪を嵌められたのかもしれないわ……。そういう予定だったから……」
お蘭は言った。
宝玄仙は目を丸くした。
お蘭の喋ったことがさっぱりとわからない。
まるで、お蘭は自分が裏切り者であり、沙那たちを牛魔王に意図的に捕えさせたと言っているようだ。
「……沙那殿たちには申し訳ないことをしたと思っている。でも、お宝姉さんを助けるにはこれしかなかったの……。牛魔王は、沙那たちの命までは取らない……。殺す必要がないように、そのためにお宝姉さんの霊具の服従の首輪を事前に牛魔王に渡したんだから……。お宝姉さんの霊具といっても、あのお宝という偽者の作ったものだけど……」
お蘭は言った。
「お蘭……?」
宝玄仙はそれ以上なにも言えなかった。
絶句してしまった。
「これしかないの……。あの牛魔王軍団に勝つなんてできるわけないわ。あいつは傀儡といって、無限に兵を産み出せるの……。負けても負けても、兵を作っては送り出せるのよ。絶対に勝てない……。だから、あの金角までも最後には負けるしかなかったのだわ」
お蘭はそう言って、袋から一個の手錠を取り出した。
「道術封じの手錠よ、お宝姉さん。もう一度言うわ。わたしを信じて……。あの男を倒すのは、戦じゃ無理よ。この前教えたとおり、あの男の身体にあるお宝姉さんの道術石を取り出すしかないわ」
お蘭は言った。
(第119話『摩雲城外の戦い』終わり、第120話に続く)