『移動術』特有の腹が捻られるような感触が宝玄仙を襲った。
お蘭の道術だ。
いまの宝玄仙は、お蘭が前手錠に嵌めた道術封じの枷の力で道術が遣えない。
また、遣えたとしても、宝玄仙は牛魔王軍団の正面に移動できる『移動術』の結界を持っていない。
移動術というのは、例外的な道術遣いを除いて、あらかじめ刻んだ結界と結界を一瞬で結ぶという道術だ。
従って、出口側の結界を事前に刻んでおかなければ、移動術は遣えないのだ。
案外と遣いにくい道術でもある。
しかし、亜人にはそのような面倒がなくても記憶だけで移動できる種族もいるし、人間にも鎮元仙士のように、どこにでも瞬時に移動できるという稀種もいる。
いずれにしても、お蘭が牛魔王軍団の前に出現できたのは、あらかじめそこに移動術の出口を刻んでおいていたからだ。
しかも、沙那たちが奇勝天を破ったことにより、急遽、牛魔王率いる主力がこの盤桓平原の北部に進出してきたときには、お蘭は宝玄仙と一緒にいた。
だから、そのとき以前に出口側の結界を刻んでかなければお蘭はここに来れない。
つまりは、お蘭は、後発してくる牛魔王直属の軍団がどこに宿営するかということまでわかっていたということだ。
なにからなにまで、牛魔王と予定を擦り合せていたのだ。
目の前の風景が一変し、周囲が兵で溢れるのがわかった。
気がつくと十数名の亜人兵が周囲を囲んでいた。
全員が槍を持っていて、刃先を宝玄仙たちに向けている。
「宝玄仙を連行してきたわ──。お蘭よ──。牛魔王殿のところに案内しなさい──」
お蘭が言った。
囲んでいる亜人兵のひとりがほかの兵に声をかけた。
声をかけた亜人兵は将校のようだ。
槍がおろされ、歩くように指示された。
宝玄仙の腕にかかる道術封じの手錠には、縄がかけられていてその縄尻をお蘭が持っている。
宝玄仙はお蘭に引かれるようにして進んだ。
槍を持った亜人兵も周りを囲んだままついてくる。
辺りには、たくさんの牛魔王軍の集団で溢れていた。
ここで宿営をしているらしく、地平線の向こうまで、十名程度ごとの集団で宿営のための布幕がずっと拡がっていた。
また、物資運搬の馬車も多くある。
牛魔王軍団は少し遅めの朝食を取っていたようだ。
各布幕の横では焚火が燃やされて、なにかを煮ているような感じだ。
だが、お蘭は亜人兵たちがいる場所を避けて経路にしているため、彼らの様子が垣間見れるほどには近づかない。
ともかく、いま向かっているのは、牛魔王本人がいる場所のはずだ。
お蘭の言葉が真実なら、そこに沙那と孫空女と銀角が捕らわれている……。
もっとも、伊籍隊には沙那たちが行方不明になったという報せは入っていない。
むしろ、伊籍隊が多門軍に大勝利したという報せを本隊に送ったときには、中央迎撃隊は異常なく要塞に前進中だと返ってきていた。
いずれにしても、信じると決めたら信じるだけだ。
宝玄仙の両手には、お蘭が嵌めた道術封じの手錠がしっかりと装着されている。
お蘭が外さない限り、宝玄仙の力でもこれは外せない。
もしも、お蘭が裏切っていたなら……。
それは信じられないが……宝玄仙はなんの抵抗もできずに、牛魔王の虜になるだけだ。
しかし、お蘭が説明した策が千載一遇の機会だというのは理解できる。
牛魔王の身体から道術石を抜き取るには、宝玄仙が牛魔王の身体に触れることが必要なのだ。
この道術だけは遠隔では不可能である。
そして、牛魔王に触れるほど近づくには、確かにこの方法しかない……。
宝玄仙とお蘭は、しばらく牛魔王軍の陣の中を歩いた。
やがて、馬鹿みたいに巨大な車両が、宝玄仙たちが進む方向に出現した。
曳いているのは馬などではなく亜人のようだ。
上半身裸体の屈強な亜人が、百人ほど縄と鎖と枷で繋がれている。
お蘭は、巨大馬車を回り込むように反対側に進んでいく。
すると、馬車の前に大きな卓があり、そこで食事をしている巨漢の亜人を見つけた。
頭の両側に牛を思わせる角がある。
また、帯びている霊気もかなりのものだ。
こいつが牛魔王だろう。
その牛魔王の向こうには、大勢の亜人兵による人垣があった。
また、牛魔王の横には銀角がいた。
給女のようなことをさせられているようだ。
ただし素裸だ。
しかし、その首になにかがある。
「服従の首輪……?」
宝玄仙は小さくつぶやいた。
遠目だが、あれは服従の首輪に違いない。
またもや、お宝とかいう宝玄仙の偽者の仕業だろう。
性懲りもなく、あの支配霊具を量産して、まだあちこちに配りまくっているようだ。
だがそれで、拘束もさらていない銀角が、牛魔王の給女に甘んじている理由もわかった。
「そこで、とまれ、宝玄仙──」
さらにしばらく進むと、牛魔王が怒鳴った。
宝玄仙と牛魔王の距離は三間(約三十メートル)くらいだ。
そのとき、宝玄仙は卓に立てかけられている太い杖の存在に気がついた。
「金角?」
宝玄仙は叫んだ。
その杖の先に金角の首が取り付けられていたのだ。
「宝玄仙──」
宝玄仙の存在に気がついた金角が声をあげた。
その両眼からぼろぼろと涙が出だした。
「下品な真似をするじゃないか、牛魔王──」
宝玄仙は牛魔王を睨みつけた。
「なにを言うか。特別な慈悲の心で苦痛の腫瘍を無くしてやったのだぞ。懐かしの対面に免じてな。優しいものだぞ」
牛魔王がにやりと微笑んだ。
よくわからないが、金角は酷い目にずっとあってきたのあろう。
「大丈夫だよ、金角──。もうすぐ助けてやるよ」
宝玄仙は金角に言った。
すると、牛魔王が大笑いした。
「どうやって助けるというのだ、宝玄仙? お蘭に裏切られて道術封じの枷を嵌められ、霊気を封じられているお前が──」
牛魔王が大笑いした。
そして、懐からなにかを取り出して、こっちに放り投げた。
宝玄仙の足元に“それ”が転がってきた。
投げられたのは、一個の金属の首輪だ。
紛れもなく服従の首輪だ──。
「拾え──」
牛魔王の声──。
そして、思わず眉をひそめた。
似ているが宝玄仙の首輪ではない……。
いや、機能はまったく同質だろう。
ただ、刻んである霊気の波動が宝玄仙のものとは変えられている。
これだと宝玄仙の自由にはならない。
お宝の道術に違いない。
基本的にはお宝は宝玄仙と同じ能力を持つ。
あいつは、宝玄仙が持っているのと同じ霊具作りの才能もある。
宝玄仙とは異なる霊気の波で服従の首輪を作り直すこともできるようになったのだろう。
だが、拾いあげて気がついた。
これは……?
「それを嵌めよ──。そして、首輪の力を受け入れると、口にするのだ」
牛魔王が言った。
「馬鹿を言うんじゃないよ──。そんなことに従うと思ってんのかい? 殺すんなら殺せばいいだろう──。こんなものを嵌めたら、自殺することもできなくなるんだ。お前の人形に成り下がるくらいなら、素直に殺されてやるよ」
宝玄仙はわざとせせら笑ってみせた。
「お、お宝姉さん……」
横にいるお蘭がたしなめるような声をあげた。
しかし、牛魔王は不敵に笑っただけだ。
「ならば、これを見よ──」
牛魔王の声とともに、背後の人垣がさっと割れた。
「あっ──。沙那、孫空女──」
思わず叫んだ。
そこにいたのは素っ裸のふたりだ。
しかも、お互いに剣を持ち、それぞれの喉に剣を突きつけ合っている。
「ご、ご主人様……」
「ご主人様……」
ふたりが泣くような声をあげた。
沙那と孫空女の腕が震えている。
どうも様子が不自然だ。
また、そのふたりの首にも服従の首輪があることがわかった。
「わかるか、宝玄仙? このふたりには、すでにお互いに殺し合えと“命令”を与えている。いま、そうしないのは、わしの道術でこのふたりが金縛りになっているからだ──。従わねば、術を解く──。その瞬間にこの人間族の女たちは死ぬ」
牛魔王が言った。
宝玄仙は歯噛みした。
これでは単純に牛魔王を殺すということもできない。
もしも、牛魔王を倒してしまえば、金縛りの術が解けてしまい、沙那と孫空女の持つ剣は、瞬時にお互いの喉を突き刺し合うだろう。
無論、「主人」として刻まれているのが牛魔王なのであれば、牛魔王が死ぬことで首輪の支配はなくなり、命令は無効になる。
だが、それは完全に牛魔王の生命が断たれた瞬間以降だ。
どんなに瞬時に死んだようでも、身体から生が離れるには幾らかの時間がかかるものだ。
それよりも以前に、必ず牛魔王の命が残っていて、そして道術が消滅する一瞬が存在してしまう。
あの状態では、その一瞬に、沙那と孫空女が死んでしまうだろう。
そのとき、宝玄仙はふたりの横にいるひとりの女に目がいった。
「な、鳴智──?」
宝玄仙は叫んだ。
そこにいたのは、紛れもなく鳴智だった。
無表情だった鳴智の顔が一瞬歪んだ。
“
そのとき、どこからか大きな声がした。
「なに?」
宝玄仙はびっくりして声をあげた。
いま叫んだのは誰だ?
「どうしたの、お宝姉さん?」
お蘭がきょとんとしている。
「い、いや……。いま、変な声が……」
「変な声?」
お蘭は首をかしげている。
ねえ、御前──。
もう一度、その声が叫んだ。
宝玄仙は驚愕した。
なんのことはない。
その“御前”と叫ぶ声は宝玄仙自身から聞こえてくるのだ。
宝玄仙の心の中の誰かが叫んでいる。
しかも、それは小さな女の子の声のような気がした。
「う、うわあっ──」
そのとき、宝玄仙は悲鳴をあげた。
なにかに飲み込まれるのを感じたのだ。
自分の意識が巨大な闇に包まれようとしている。
「ひ、ひいっ」
もう一度叫んだ。
意識が消滅する。
真っ暗闇の空間が……。
無意識の世界に吸い込まれる……。
一気に視界が消滅した……。
「お宝姉さん──」
横でお蘭の怒鳴り声がした。