意識が吸い込まれる……。
宝玄仙は混乱した。
「お宝姉さん──」
そのとき、大きなお蘭の怒鳴り声がした。
なぜか恐怖が宝玄仙を包んだ。
そして、気がつくと、元のとおり牛魔王に正対して、敵陣の中心に立っていた。
横でお蘭が心配そうに宝玄仙の顔を覗き込んでいる。
「大丈夫、お宝姉さん?」
お蘭が言った。
「だ、大丈夫だよ……」
宝玄仙は答えた。
だが、まだ心の動揺は続いていた。
いまのは、なんだったのか……?
突然、宝玄仙の中に別の誰かが現れて、宝玄仙の意識を乗っ取ろうとした……。
しかし、お蘭をはじめとして大勢の他人に取り囲まれているのを悟ることで、その何者かの心を大きな恐怖が包み、その意識が消滅した……。
一瞬だが、宝玄仙はその何者かと感情を共有したので、それがわかったのだ。
なんなんだ……?
「お宝姉さん──」
もう一度、お蘭が叫んだ。
「う、うるさいよ、お蘭。大丈夫だと言っただろう」
宝玄仙は意識を目の前の現実に戻した。
道術封じの手錠が嵌まっている手には、牛魔王から放り投げられた『服従の首輪』がある。
「早く、首に嵌めんか──。それとも、お前の供の金縛りを解くか? ふたりいるからな。人質はひとりが残っていればいい。どちらの金縛りを解いて欲しい? 解いた瞬間に、もうひとりの女は死ぬがな。まあ、最初は沙那だな。沙那はただの人間なので、お前が刻んでいる道術陣の波を使って霊気を注いでいるが、保持するのが面倒でかなわん。孫空女の金縛りから解除するか」
牛魔王が哄笑しながら、空になった杯を全裸で給女する銀角にすっと差し出した。
銀角が引きつった表情のまま、卓の上の瓶を手に取り、葡萄酒を思わせるものを注ぐ。
沙那はただの人間だから、本来は余人の霊気は注ぎ込められないのだが、沙那の身体に刻んでいる道術陣の正確な波動がわかれば、道術をかけるのは可能だ。
牛魔王のそれを提供したのはお宝だろうか……。
宝玄仙にできることは、お宝にもできる。
朱姫も宝玄仙から波動を教えてもらっているので、沙那に道術をかけることができる。
「下衆な男だねえ──。よくも、それで大魔王を名乗れるよ──。自分の力でもない力で能力が向上すると、お前のようなくず魔王ができあがるんだね」
宝玄仙は吐き捨てた。
「な、なんだと──」
牛魔王の顔が怒りで真っ赤になったのがわかった。
しかし、言い争いが無意味だということはわかっている。
宝玄仙は手にしている首輪を自分の首に嵌めた。
首輪は宝玄仙の首に吸い込まれるように装着された。
「首輪を受け入れるよ」
宝玄仙は言った。
次の瞬間、牛魔王の大きな笑い声が周囲に鳴り響いた。
「これで、宝玄仙は俺の玩具というわけだな、鳴智?」
牛魔王が相好を崩しながら、影のように背後に立っている鳴智に振り向いた。
そのとき、またも、さっきの異変を感じさせる心のざわめきを覚えた。
鳴智を見ると、急激な愛慕の感情が沸き起こる。
だが、遠い……。
その鳴智とのあいだに大勢の他人がいる……。
それを知覚すると、再び恐怖心に包まれた……。
なんだ、これ?
宝玄仙は当惑した。
これは宝玄仙の感情ではない……。
そして、消えた。
宝玄仙は我に返った。
「その通りです、牛魔王様……。では、沙那と孫空女への命令を取り消してください……」
鳴智が牛魔王に言った。
宝玄仙は意識を集中した。
「まあ、待て、鳴智──。本当に宝玄仙が俺の命令に逆らえない人形になったのかを確かめてからだ──。じゃあ、宝玄仙、その場で素っ裸になれ。命令だ」
牛魔王がにやにやしながら宝玄仙に視線を戻した。
「くっ」
宝玄仙はこんな下劣なくそっ垂れに肌を晒す恥辱に歯噛みしながら、拘束された手で上衣に手をかけた。
留め紐をひとつひとつ外して服をくつろげていく。
「お蘭、拘束された手では脱ぎにくいだろうから手伝ってやれ」
牛魔王がなにかをこっちに投げた。
本当に用心深い男だ……。
なかなか近づこうとしない……。
お蘭が地面に放り投げたものを手にして戻ってきた。
小さな刃物だ。
お蘭は無言で上衣の袖の部分を切り裂いた。
上衣が離れて地面に落ちる。
「貸しな」
宝玄仙はお蘭から刃物を受け取ると、乳房を包んでいる胸当ての中心を切断する。
刃物をお蘭に戻しながら、手で胸当てを取り去った。
剥き出しになったふたつの乳房が風に触れる。
続いて、下袍に手をかける。
「なかなかの乳房だな──。道術で大きくしているのか?」
宝玄仙の裸を面白そうに眺めている牛魔王がからかうように言った。
「自前だよ」
宝玄仙は下袍を脱いだ。
足元に落ちた下袍を足先で横にやって腰の下着に手をかける。
それを脱ぐと、身体はほぼ全裸だ。
あとは身に着けているのは足に履いている履き物だけだ。
「それでいいだろう……。では、犬──。犬らしい恰好をしろ──。そして、挨拶だ。これからお前は、わしが飼う犬だ」
「犬だって?」
牛魔王の言葉に思わず反撥してしまい、はっとして宝玄仙は口をつぐんだ。
いまは服従の首輪をしているのだ。
一切の抵抗はできない……。
「命令だ」
牛魔王が付け加えた。
宝玄仙はその場で四つん這いになった。
「あ、あなた様の犬でございます……。これからどうぞ調教して躾けてください」
宝玄仙は牛魔王に向かって頭をさげた。
腰だけを上にあげたみっともない姿になったのを自覚しながら、宝玄仙は屈辱に震えた。
「ほう……。なかなかの奴隷らしい物言いじゃないか。人を人とも思わぬ女嗜虐者と耳にしていたが意外だな」
牛魔王の声が響いた。
「これでも、お宝姉さんはたくさんのご主人様の奴隷だったことがありますから、しっかりと躾けられているのですよ……。
お蘭だ。
「母親?」
「はい──。わたしたちの最初のご主人様でした、牛魔王様」
「なるほど、生まれながらにして、実は奴隷だったということか……」
頭をつけている地面すれすれの目線に、牛魔王がすっと立ちあがるのが映った。
宝玄仙の心臓は早鐘のように動き出す。
牛魔王が近づいてくるのがわかったからだ。
こっちに来るのか……?
お蘭……。
お蘭は約束を守るだろうか……。
今更ながら、その不安が心によぎった。
こうやって、牛魔王の軍門にくだった素振りをして、牛魔王に近づく──。
それが千載一遇の機会だ。
お蘭の提案した策はそれだ。
服従の首輪を嵌めさせられたのは想定外だったが、まだ大丈夫……。
牛魔王が宝玄仙に触れさえしたら……。
ただしそれは、お蘭がいま宝玄仙の両手に嵌まったままの道術封じの手枷を外すというのが前提だ。
もしもお蘭が裏切っていたら、首輪の存在に関係なく、宝玄仙にはもう牛魔王に抵抗できない。
「牛魔王様、約束ですよ──。わたしをお宝姉さんの飼育係にしてくださいね。わたしはそのために、お宝姉さんを裏切ったんですから……。そして、お宝姉さんの命は奪わない……。それも約束です」
お蘭が言った。
「わかっておる……。宝玄仙がわしの従順な犬である限り命は奪わん」
「服従の首輪があるじゃないですか。この首輪がある限り、お宝姉さんは牛魔王様の従順な犬です……。それよりも、この首輪を嵌めたら、すぐに永遠に抵抗するなと命じないと……。この首輪をしたからといって、無条件に奴隷になるわけじゃないですよ、牛魔王様」
お蘭が口にした。
「おう、そうだったな──。どうも、この首輪の使い方にわしは精通しておらんでな」
そのままここまでやって来そうだった牛魔王は途中で歩くのをやめた。
なぜ、お蘭が牛魔王に忠告を……?
急に不安になった。
「宝玄仙、これからわしの喋る言葉の一切に服従せよ──。命令だ。また、わしの命を奪うこと、傷つけることを禁止する。わしが危なくなったら、命を張って助けよ。そして、その首輪を外そうとしたり、効果を失わせようとするすべての行為を禁止する。以上のことのすべてを命令する」
卓と宝玄仙のいる場所の中間付近で立ちどまった牛魔王が言った。
「は、はい……」
宝玄仙は地面に頭をつけたままの状態で言った。
お蘭が宝玄仙の飼育係……?
それを代償に宝玄仙を裏切った……?
馬鹿馬鹿しい話とは思ったが、もしかしたら、そっちが真実ではないかとふと思った。
いかにもお蘭がやりそうなことだ。
本質的にお蘭は、自分たち姉妹が誰かの支配に入ることを疎ましいことだと考えていないだろう。
お蘭は常に誰かに支配されることを望む女だ。
こいつが本当に幸せな時代だったと信じ切っているのは、ふたり揃って、あの母親の性奴隷のように調教されてきた幼少時代だ。
お蘭が宝玄仙と揃って牛魔王の支配に入ることをそれになぞらえて望んだとしたら……。
不安が走る。
しかし、次の瞬間、凄まじい電撃が全身を走り、宝玄仙の思考は吹き飛んだ。
「ぎゃあああああ」
宝玄仙は、身体を走る電撃に身体をひっくり返してのたうった。
電撃に苦しむ宝玄仙に牛魔王の哄笑が振りかかった。
「苦しいか、宝玄仙──。だが、自慢の息子をお前に殺されたわしの苦しみはこんなものではなかったぞ──」
しばらく、電撃の激痛が続いた。
宝玄仙は悲鳴をあげて、身体をばたつかせた。
そして、電撃がとまった。
宝玄仙は荒い息をしながら、汗びっしょりとなった身体を懸命に起こして、再び四つん這いの姿勢に戻った。
「なかなかに情けない格好だったぞ、宝玄仙。股ぐらをさらけ出しながら、仰向けに手足をばたつかせるなど、なかなかにわしを愉しませる無様ぶりを見せてくれるではないか……。これはどうだ?」
牛魔王が嬉しそうに笑う。
すると、別の苦しみが宝玄仙を襲った。
当惑した。
息が……。
息ができない……。
すぐには、なにが起きたのかわからなかったが、宝玄仙の顔の周りだけが小さな結界による力場に包まれている。
その力場を閉鎖して、牛魔王が外気を遮断したのだ。
つまりは、いくら息をしようとしても吸うものがないという状態だ。
宝玄仙はしばらく耐えた。
だが、いつまで経っても外気はやってこない。
やがて、限界を越えた。
宝玄仙は無駄だとわかっていながら、両手を顔の前を掻くように動かした。
「んぐうう……ぐうっ……」
宝玄仙は姿勢を維持できずに再びひっくり返ってしまった。
見えない膜を外そうとするかのように顔に手をやった。
だが、そんなものはない。
結界で外気を遮断されているだけだ。
身体中の筋肉が痙攣を始めるのがわかった。
「お、お宝姉さん──? 牛魔王様──、なにかしているのですね──? やめてください──。殺すのは約束違反です──」
お蘭が気がついたようだ。
牛魔王に怒鳴っている。
苦しい──。
叫ぼうとしたが声がもう出ない。
宝玄仙は息を求めて口を大きく開いた。
意識がこぼれ落ちていく……。
「ぷはああっ──」
不意に息が流れ込んできた。
宝玄仙は夢中になって息を吸った。
吸いながらも身体を犬のように四つん這いにすることは忘れなかった。
「ぎゅ、牛魔王様──。お宝姉さんを殺さないと約束したはずです。だから、わたしはお宝姉さんを裏切って、ここに連れてきたんです」
お蘭が怒気を孕んだ声で叫んだ。
「殺しはしない──。ただ、死ぬような目に遭わせたいだけだ」
牛魔王は平然と言い放った。
だが、宝玄仙はそれに意識を向けることはできなかった。
しばらくのあいだ、激しく胸を上下させながら呼吸を繰り返すだけだった。
そして、また、なにかの霊気が注ぎ込まれるのがわかった。
「ぐうううう──」
宝玄仙は両手で顎を掴んだ。
今度は苦しみそのものだ──。
痛みでもなく、熱さでもなく、電撃でもない──。
まさに苦しみだ──。
宝玄仙の身体にある苦痛を感じる神経を異常活性させられている。
絶叫した。
苦しい──。
死ぬ──。
いや、死の方がまだ優しい──。
一瞬も耐えられないような苦しみが長時間にわたって続けられる。
時間にして、まだ数瞬のことでしかないはずだ。
だが、宝玄仙には、もうこれが一日も二日も延々と続けられているように感じた。
宝玄仙は身体をのけ反らせて吠えた。
「頭が高いぞ、犬──」
そのとき、脳天に衝撃が走り、思い切り顔を地面に叩きつけられた。
なにが起こったのかわからなかったが、牛魔王が宝玄仙の頭を思い切り踏みつけたのだとわかった。
ぐいぐいと凄まじい力で顔を地面に擦りつけられながら、宝玄仙は両手の手枷が外れたのを感じた。
「き、汚い足を載せんじゃないよ、牛野郎──」
宝玄仙は自分の頭の上に乗っている牛魔王の足首を掴んだ。