「き、汚い足を載せんじゃないよ、牛野郎──」
宝玄仙が牛魔王の足首を掴んだ。
なにかが起こったと思った──。
牛魔王が感じたのは、凄まじい霊気の衝撃と、一瞬にして自分の身体から霊気が消失する脱力感だった。
思わず片膝をついた。
「よ、よくも、やってくれたね、くそ牛が……」
目の前に宝玄仙が怒りの形相で立っている。
牛魔王は呆然と宝玄仙を見あげた。
宝玄仙の汗まみれの身体は、のたうちまわったときについた泥で汚れていた。
顔にも身体にも汗に濡れた土がついている。
しかし、それよりも牛魔王は、宝玄仙が放出している霊気のすさまじさにおののいていた。
同時に自分の中の霊気がなぜこんなにも小さいのだろうと呆然とした。
そして、目を見張った。
宝玄仙が装着していた道術封じの枷が外れている。
それで宝玄仙の霊気が復活したのか……?
さらに牛魔王は、宝玄仙の手に小さな道術石があることに気がついた。
「そ、それは──それは、わしの道術石だ──」
牛魔王は宝玄仙に飛びかかろうとした。
なにが起きたのかがわかったのだ。
ずっと以前に牛魔王が雷音大王に埋めてもらった道術石を宝玄仙が抜いたのだ。
それがこの喪失感の原因だ。
どうしてそんなことができたのかはわからないが、牛魔王が魔域を席巻して、逆らう各魔王たちを次々に攻略できたのは、あの道術石があってこそだ。
それを奪われたら牛魔王は終わりだ。
「なにがお前の道術石だい──。これはわたしの命の
顔面に宝玄仙の足の裏が食い込んだ。
牛魔王は反動で仰向けにひっくり返ってしまった。
そうだ──。
服従の首輪──。
「ほ、宝玄仙、わしに逆らうことを禁止する。その道術石をわしに渡せ──。命令だ──」
牛魔王は急いで言った。
道術石が身体から抜かれたとしても、宝玄仙の首には鳴智とお蘭が持ってきた服従の首輪が嵌まっているのだ。
命令には逆らえないはずだ。
「なにが命令だよ──。操られてやっている演技をしてやっていただけなのに、いい気になってんじゃないよ──」
宝玄仙が怒鳴って、首から服従の首輪を無造作に外した。
牛魔王はびっくりした。
「な、なぜだ──。外すなと命令したはずだ──」
牛魔王は思わず叫んだ。
「こんな、偽物になにを命じても意味はないよ。これは服従の首輪にみせかけた偽物だよ──」
宝玄仙が首輪を投げつけた。
牛魔王は顔に飛んできた首輪を手でそれを庇って避けたが、偽物という言葉に唖然としていた。
偽物──?
そんなはずはないと思ったが、よく考えれば、お蘭たちが持ってきた四個の首輪が大きな霊気を帯びていることはわかったが、本物と偽物の違いが牛魔王にわかるわけがない。
牛魔王は雷音大王の使者という立場でやってきたお蘭と鳴智から、大王から預かってきたという服従の首輪を渡され、それを銀角や宝玄仙や宝玄仙の供たちに使っただけだ。
それだって、牛魔王のところに残った鳴智に、そのままずっと管理させていた。
そして、はっとした。
もしかして、最初から仕組まれていた?
宝玄仙に渡した服従の首輪だけは最初から偽物──?
お蘭と鳴智が本物の首輪に混ぜて一個だけ偽物を含んでおき、うまく宝玄仙には、その偽物が渡るようにしていたとしたら……。
そう考えると、宝玄仙にだけ、服従の首輪の操りが効かなかった理由が納得できるのだ。
つまりは、最初からお蘭と鳴智に、罠を仕組まれたのだ。
「お、お蘭、貴様、わしを裏切ったのだな──?」
牛魔王は宝玄仙の横に立っている人間族の魔女に怒鳴った。
そもそも、この女を信用したのは、雷音大王の使者であるという証である本物の宝珠を持っていた。
もしかしたら、あれすらも偽物だったのだろうか……?
「裏切り者だとは酷いわねえ……。最初からわたしはお宝姉さんを守るために動いていたのよ……。馬鹿ねえ……。わたしがお宝姉さんを裏切るわけないでしょう」
お蘭が馬鹿にしたような笑みを浮かべた。
そして、ぞっとした。
怒りのせいか、目の前の宝玄仙の霊気がどんどんと増幅している……。
その圧倒的な霊気に牛魔王は、死の恐怖を感じた。
だが、牛魔王はここが自分の率いてきた軍団の陣営であることを思い出した。
周りを見回す。
牛魔王がかなりの霊気を失ったので、大勢の亜人兵が消失している。
急進したことで集められなかった軍団の勢力を補完するため、多数の傀儡兵を軍団に混ぜることで膨張させていた。
それがすべていなくなっている。
いずれにしても、護衛や車両を牽引させていた奴隷は消失している。あれは
だから、牛魔王のいる周りには、いまは誰も部下がいない状態だ。
とにかく、ほかの亜人兵にいる陣の中にまずは逃げなければ……。
牛魔王は立ちあがった。
この状態では宝玄仙には敵わない。
単純な霊気合戦では、道術石を抜かれた牛魔王が太刀打ちできないことは、お互いが醸し出す霊気だけで明らかだ。
「どこに行くんだい、牛魔王──? 往生際が悪いよ──」
宝玄仙に背を向けて駆け出した牛魔王に宝玄仙が喚くのがわかった。
だが、牛魔王は構わなかった。
とにかく、いまは逃げるのだ──。
「銀角、孫空女、沙那──。宝玄仙を倒せ──。命令だ──」
牛魔王は逃げながら叫んだ。
命令と同時に、沙那と孫空女にかけていた金縛りの術を解く。
三人が動き出すのがわかった。
「孫女、銀角を押さえて──。銀角だけは、牛魔王の命令が生きているわ」
沙那が叫ぶのが聞こえた。
銀角だけは、命令が生きている──?
それはどういう意味だ──?
つまりは、沙那と孫空女には、牛魔王の命令は生きていないということか……?
しかし、それ以上考えることはできなかった。
気がつくと、剣を持った沙那が目の前にいた。
「うわっ」
声をあげた。
慌てて、自分の周りを結界で包もうとした。
だが、沙那の剣が牛魔王の首に当たるのが遥かに早かった──。
自分の首が胴体から離れるのがはっきりとわかった……。
*
牛魔王の首が沙那から切断されると、宝玄仙は遠目からでもわかるように、首のない胴体と牛魔王の生首を空に浮かべた。
道術石により霊気が失われ、さらに本人の死により、残っていた牛魔王の霊気が軍団から消滅したことで、この一帯を包んでいた牛魔王の霊気の痕跡が消失している。
ここから見える範囲だけでも、すでに陣に大きな動揺が走りだしているのがわかっていたが、宝玄仙が牛魔王の死骸を空に浮かべることで、さらにその動揺が大きくなった気がした。
見える範囲の敵兵が早速、我先に逃げ始めている。
「いずれ、牛魔王軍団全体に牛魔王の死は伝わるでしょう。もちろん、魔域全体にも……。放っておいても、ここにいる連中は全員が逃げ散ると思います……。牛魔王軍団は終わりです。牛魔王ひとりで保っていた軍団ですから、まずは軍団のまとまりはなくなります。次いで、いままで牛魔王に屈していた他の魔王の反乱や逆襲が続くはずです。でも、牛魔王の部下たちには、後継者として軍団をまとめて、反乱などを治める力はないと思います」
牛魔王の首を切断した沙那が、血の付いた剣を持ったまま宝玄仙に近づいてきた。
宝玄仙もそうだが、沙那は素っ裸だ。
「ご主人様……」
「宝玄仙様……」
孫空女と銀角も顔をこっちに向けている。
このふたりも全裸だ。
牛魔王の命令で宝玄仙を襲おうとした銀角を孫空女が取り押さえていて、ふたりで取っ組み合っていたのだ。
いまは、銀角は「主人」として刻まれた牛魔王の死で、命令が無効になっている。
事態の急変にまだ呆然としている感じだ。
銀角が思い出したように立ちあがった。
宝玄仙は、やってきた沙那の首にある服従の首輪を改めて見た。
宝玄仙が嵌めさせられた首輪は操り効果のない偽物だったが、沙那の首にあるのは本物だ。
さらに、こっちにやってきた孫空女の首輪も本物だ。
もちろん銀角のものもだ。
この三人は首輪の力によって、牛魔王の服従状態だったのだろう。
だから、銀角は牛魔王の命令で宝玄仙に襲いかかろうとしたのだ。
だが、それならば、なぜ、沙那と孫空女は牛魔王の命令に従わなかったのだろう……?
そのとき、銀角が金角の首を抱いてやってきた。
「宝玄仙……」
金角が目に涙を浮かべて宝玄仙を見た。
「金角、すぐに身体は戻してやるよ。まあ、三日くらいはかかるだろうけどね……。心配しなくていい。身体が復活したら可愛がってやるからね」
宝玄仙は言った。
金角と銀角が嬉しそうに笑った。
宝玄仙は改めて、沙那と孫空女に視線を向けた。
「お前たちは、牛魔王の支配には陥らなかったのかい、沙那、孫空女?」
宝玄仙は訊ねた。
「わたしたちは、正確には牛魔王ではなく鳴智の支配にあったのです。わたしたちの首に首輪を嵌めたのは鳴智です。だから、わたしたちが首輪を受け入れると口にしたとき、首輪に『主人』として刻まれたのは鳴智なのです」
「鳴智? 牛魔王ではなくて、鳴智が?」
「は、その鳴智は、牛魔王に従えと命令をしたので、わたしと孫空女は、牛魔王に逆らえませんでしたけど、ご主人様が牛魔王から道術石を抜いた瞬間に、鳴智がすべての命令を解除すると言ったのです。そのおかげで、わたしと孫空女は牛魔王の支配から抜けました」
「なるほどねえ……」
鳴智もまた、ひそかに宝玄仙の危機を救うようにお蘭と動いていたということだろう。宝玄仙は納得した。だが同時にはっとした。
「ところで、鳴智はどこだい?」
宝玄仙は周囲を見渡した。
鳴智がどこにもいない。
どこに行ったのか──?
「鳴智は消えたよ、ご主人様……。道術紙を持っていたよ。ご主人様とは極力接触しないように命じられたみたいだ。なんか、そんなことを言ってた。ごめん……。とめる暇はなかったんだ……」
孫空女だ。
道術紙というのは、使い捨ての道術を刻んだ霊気を込めた紙だ。
それに『移動術』の道術を込めて準備していたのだろう。
もはや、鳴智がどこに消えたのかを追うのは不可能だ。
また、逃げられた──。
宝玄仙は嘆息した。
「ひと思いに殺してしまってすみません。こいつだけは、もっと苦しませて殺したかっんですけど……」
沙那が牛魔王の生首を地面に放り捨てた。
「仕方ないさ。首輪の支配を断ち切らないとならなかったしね。まあ、今回についてはお仕置きは勘弁してやるよ」
宝玄仙は笑った。
すると、沙那が真っ赤になる。
「お、お仕置きって、なんですか──。今回は、わたしは結構、頑張りましたよ──」
「そうかい。じゃあ、ちゃんとご褒美をやるよ。一日ほど、お前だけを可愛がってやる。孫空女と朱姫と素蛾と一緒にね。お前はなにもしなくていいよ。動けないように術をかけて、丸一日ずっと世話してるからね。お前はずっと気持ちよくなっていればいい」
「な、な、な……。お、お仕置きはしないって、言ったじゃないですか、ご主人様──」
「話を聞いてたかい? お仕置きじゃなくて、ご褒美だよ」
宝玄仙は大笑いした。
そのとき、すっと、お蘭が宝玄仙の前に出てきた。
「お宝姉さん、牛魔王の道術石を預かるわ──。それはそのままにしておくと力を失うから……。わたしが責任を持って管理しておく」
お蘭が手を伸ばす。
宝玄仙はまだ牛魔王から抜いた道術石を手に持ったままだったことを思い出した。
「ああ、頼むよ……」
宝玄仙はお蘭に道術石を渡そうとした。
お蘭には訊くこともある。
とにかく、まずは鳴智とどこで知り合ったのかを質さねば……。
「それは駄目です、ご主人様──」
すると、突然に沙那が宝玄仙とお蘭のあいだに割って入った。
宝玄仙は驚いた。
「な、なによ、沙那殿──? もしかして、あなたたちに教えずに、牛魔王に身柄を引き渡したことを怒っているの──? 仕方ないじゃないの──。お宝姉さんが牛魔王と接触するのはこの方法しかなかったのよ──」
「ええ、それについては感謝しているわ……。わたしには思いつかなかった策だけどね……」
沙那が言った。
だが、その沙那の身体に殺気が漲っている。
なぜ、沙那がお蘭に殺気を?
宝玄仙は戸惑った。
「あなたの言うとおりに大きな戦いを続けても、絶対に牛魔王軍団には勝てないし、牛魔王がお宝姉さんの前に不用意に出てくることはないわ。あいつは用心深い男だったのよ──。あなたたちが囮になって牛魔王を油断させ、ああやって、お宝姉さんが牛魔王の前にやってくるという方法しかなったのよ」
さらに、お蘭が早口で声をあげる。
「それはわかっていると言ったわ……。でも、あなたに、道術石を渡すわけにはいかない」
沙那ははっきりと言った。
「沙那……?」
宝玄仙は沙那の態度と口調にびっくりした。
「なに訳のわからないことを言うのよ──。もういいわ。お宝姉さん、それをちょうだい──」
すると、お蘭が強引に宝玄仙から道術石を奪おうと手を伸ばした。
「駄目だと言っているでしょう──」
そのとき、沙那の凄まじい斬撃がお蘭の身体に振り下ろされた。