御影は、
ひとりだ。
確かに、城壁の東側一面に、
御影は唖然とする思いで、それに接していた。
女宰相である美小淋となった御影が最初に指示したのは、雷音院を守る軍勢を整えることだ。
小さくは雷音大王の居城だけを「雷音院」と呼ぶが、大きくは、その居城を含む城郭全体を雷音院という。
女宰相である美小淋の立場で命じたのは、守備隊を城郭を展開させて、城郭全体を守る態勢を作ることだ。
武官たちは、すぐに二万の軍を整えて守備につかせた。
しかし、すでに独角兕大王の
守備隊が配備されたのは城壁そのものだ。
西に集結している反雷音連合よりも、独角兕大王が厄介だと言った美小淋の言葉の意味がやっと御影にはわかった。
雷音大王の領域をめがけて独角兕大王の傀儡兵軍団が西侵を開始したという情報に接したのは一昨日の夜だ。
そのとき、慌てふためいた重鎮会議に押されるようにして、御影に身を隠すように告げに来た美小淋を殺して、御影は美小淋の影法師でとってかわった。
だが、その日の昼過ぎには、独角兕大王は軍団とともに姿を消してしまったという報告を受けたのだ。
独角兕大王は、かつてただの一度も雷音大王の領域に踏み入れたこともない孤高の魔王と呼ばれた男だ。
重鎮たちは独角兕大王が決起したという情報そのものが、なにかの錯誤であったのであろうという結論に達した。
独角兕大王が要求していた御影の身柄の引き渡しの話も沙汰止みになった。
しかし、その独角兕大王が雷音院の近くに出現したという報告は今朝のことだ。
驚いた御影は、美小淋の影法師の姿で雷音院の城塔に登った。
五万は超えると思われるような傀儡兵の軍勢が雷音院の東側の城壁を囲んでいた。
御影は驚愕した。
確かに、雷音院の城郭を囲む城壁の外に傀儡兵の軍団が展開している。
昨日の時点でまだ領域にも入っていなかった独角兕大王が、わずか一日で雷音大王領域の首都でもある雷音院に殺到した理由は、わかってしまえば簡単なことだった。
独角兕大王は、いつでも土から傀儡兵を作りだせるし、独角兕大王自体も道術で移動できる。
大王は雷音大王の領域に入るときに一度は出現させた傀儡兵軍を消滅させ、身ひとつで雷音院の外まで駆けつけ、朝になって再び傀儡兵を出現させたということだ。
そうやって、独角兕大王の傀儡兵が一夜にして城壁の外に殺到したのだ。
しかも、あの軍勢は独角兕大王がいる限り、簡単に勢力を数倍にだって膨れさせることができる。
それが傀儡兵の術だ。
無限の兵を持っている相手に勝つ方法はない。
美小淋の能力を受け継いだことで、やっと御影にもそれを現実のこととして理解することができた。
同じことをできたのは牛魔王だ。
だから、牛魔王は雷音大王の子飼いの魔王として、魔域を席巻できた。
だが、残念ながら雷音大王にはその能力がない。
雷音大王は、その気になれば、牛魔王の傀儡兵の術を受け継ぐこともできたのだが、戦そのものには興味のなかった雷音大王はそれをしなかったのだ。
従って、雷音大王と同じ能力を持つ影法師をもってしても、城壁の外にいる独角兕大王に対抗することはできない。
御影としては、本物の雷音大王の腑抜けぶりに舌打ちしたくなる思いだ。
まあ、その腑抜けの状態であるように全力で保持したのは、御影と御影が殺した美小淋のやったことなのだが……。
「ここにいたのですか、美小淋様?」
城塔まで追ってきたのは、
「独角兕大王から二度目の通告が来ました、美小淋様。やはり、御影の身柄を要求しています。それと宝玄仙という女の身柄もです」
「それについては結論は出たでしょう。御影は渡さない。雷音大王陛下の結論よ。陛下がそれを拒んでおられる以上、それ以上の話はないわ」
美小淋としての御影の影法師は言った。
御影は、重鎮たちの要求する御影明け渡しについて、雷音大王の権威をもって否定させていた。
昨日については独角兕大王の傀儡兵が消滅したこともあり、話はそれで終わっていた。
だが、今朝になり、独角兕軍団が間近に迫ったことで、再びその話が再熱してきたのだ。
「しかし、誰も納得していません。本当に陛下のお言葉なのかどうかも、皆が危ぶんでいます」
「陛下の言葉よ。わたしが嘘を言っているというの?」
「私はそうは思っておりません。ですが……」
「お前がそう思っていないならいいわ」
「でも、美小淋様──」
張冒が泣くような声をあげた。
この男は美小淋が育てた男といっていい。
いまは重鎮会議にも名を連ねる高官のひとりだが、以前は美小淋の家人ともいえる立場だった。
張冒が美小淋を本当に心配していることはわかっている。
また、雷音大王をひとり占めしたかたちで権力を保持してきた美小淋に、ほかの重鎮たちがいい思いをしていないのも知っている。
それもあり、独角兕大王の要求を拒み続ける美小淋を監禁してでも、御影を拘束して城壁の外に放り出してしまえという声がだんだんと大きくなっているのだ。
それらの動きに対して、御影は一応、屋敷全体を結界で包んで守るとともに、監禁している宝玄仙たちを雷音大王の後宮に避難をさせた。
だが、いまこの瞬間にも、御影の受け渡しを要求する勢力が屋敷を襲わないとも限らない。
いまや状況は非常に緊迫している。
御影は、眼下の軍勢を目の当たりにして、十分にそのことを理解した。
「ならば、宝玄仙という女だけでも独角兕大王に引き渡してやったらどうなのです? そもそも宝玄仙とは誰なんです?」
張冒が言った。
「御影が捕えてきた人間族の女よ。陛下の後宮に入ることになっているわ」
御影はとっさに言った。
「そんな女など──」
張冒が声をあげた。
しかし、それを美小淋である御影は手で制した。そして、口を開く。
「心配いらないのよ、張冒。独角兕大王の件は夕方には片付くわ。それをほかの重鎮たちに言いなさい。独角兕大王も引きあげるだろうと……」
とりあえず、そう言った。
時間は限られている。
もはや、宝玄仙と手を打つしかない……。
それなら、夕方までにはなんとかなる。
「夕方? でも、それまでに独角兕大王が攻めてきたら──?」
「それまでに片付くと言っているでしょう──」
御影は声を荒げて、張冒を黙らせるしかなかった。
*
宝玄仙は、喉に滴る涎を懸命に飲み込まねばならなかった。
だが、口に咥えさせられている穴あきの球体の嵌口具は、飲み込むことのできない涎を宝玄仙の乳房に向かって滴り落としている。
御影が考えた嫌がらせだ。
宝玄仙は両手を横に伸ばして長い一本の鉄の棒を両腕に括り付けられていた。
だから、宝玄仙は水平に腕を横に伸ばした状態から態勢を崩せないのだ。
しかも、腕に括り付けられた鉄の棒の両端には、大きな重りが装着されていて、肩に強い圧迫を与え続けていた。
だが、服従の首輪を装着している首に鎖を巻かれて、天井から真っ直ぐに引っ張られてもいる。
少しでも身体を傾ければ容赦なく首に鎖が食い込む。
だから、宝玄仙は腕をおろすことも、顔を下にさげることもできないということだ。
宝玄仙は懸命に自力で腕と肩にかかる重りを抱え続けた。
そして、足は正座だ。
足を崩せないように足の指を縛られ、腿に分厚い鉄板の塊を数枚乗せられて、落とせないように固定されている。
さらに、正座になっている脛の下には丸い鉄管が並べてあり、いやでも宝玄仙の脛に痛みを与えてくる。
さらにいやらしいことに、鉄管には不規則に電撃が流れるようにもなっていた。
この状態にされたのは、宝玄仙が御影の屋敷から雷音大王の後宮だというここに移された直後だから、昨日の夜中のことだ。
それから半日以上──。
宝玄仙は、監禁された部屋でこの状態で放置されていた。
そこにやっと御影が扉を開いて現れた。
ひとりだった、
御影が宝玄仙の嵌口具を外した。
「……お前の申し出を受けることにするわ。拒否できない誓い──つまり、道術契約を結ぶことに同意よ。お前は服従の首輪を受け入れる。その代わりに供四人を解放する──。それでいいわね?」
御影が正座になっている宝玄仙の腿の上の重りに片脚を置いて揺り動かすようにした。
強い痛みが脛に加わり、宝玄仙は呻き声をあげた。
「うぐっ……。な、
宝玄仙は痛みに耐えて言った。
「そうだったわね……。いいわ。それで。だけど、もう一度訊ねるけど、お前は、以前に独角兕大王とお前の言葉に従うという道術契約をしているというのは確かね?」
「な、何度も……宝玉に……確かめたんだろう……。あ、足をどけな、御影……」
宝玄仙は苦痛に顔をしかめながら言った。
御影が腿の上の重りを踏んでいた脚をどかした。
だが、断続的に流れ続ける電流はそのままだし、長時間の正座で感覚が消えるくらいに身体がつらいということに変わりはない。
「お前の口から確かめたいのよ。確かね?」
「た、確かだよ……。独角兕とは……ま、前に揉めたことが……ある。あ、あの馬鹿と……、道術契約をして……いろいろと……誓わせたんだ」
宝玄仙は苦しい息をしながら言った。
独角兕には道術契約で今後は宝玄仙には逆らわないと約束させるとともに、あの男が集めていた女で故郷に戻りたい者は戻らせ、これからは無理矢理に女をさらって自分のものにはしないと誓わせた。
それを条件に一時的にとりあげていた霊気を戻したのだ。
随分と以前の話だ。
「と、ところで、その独角兕が……城壁の外にいる……らしいじゃないかい……。そ、そして、わたしの身柄を……要求しているそうだね……?」
宝玄仙は言った。
「な、なんで知っているのよ──?」
御影が声をあげた。
「な、鳴智が……教えてくれたのさ……。お、お前に……禁じられない限り、あ、あいつは……なんでも……わたしに教えてくれるよ……。まあ、独角兕については、あのときの……道術契約があるから……無理矢理にわたしを連れていくことは……できないと思うね……。だ、だけど、お前の首を捩じ切ることはできるさ……。わ、わたしは、お前を殺すななんて約束させてないからね……」
宝玄仙が笑いかけたつもりだった。
だが、あまりの身体の苦しさに頬を歪めることができなかった。
「鳴智が……。余計なことを……」
御影が舌打ちした。
どうやら鳴智が言ったのは本当のことだったようだ。
あの独角兕が宝玄仙を助けに来た……?
宝玄仙にとっては意外すぎる事実だが、昨日から焦ったようにいろいろなことを宝玉に御影が問い質しているのはそのためらしい。
「……いずれにしても、お前は独角兕大王に引きあげるように指示することはできるわね、宝玄仙?」
「ま、まあね……。ただし、宝玉にはできないよ……。ど、道術契約を結んだのは……わたしだしね」
「宝玉もそう言っていたわ……。それともうひとつ。お前の中にいる三人目の人格。これは外に出てくることはない。これは確かね?」
「し、知らないと言ってるだろう──。三人目の人格のことなんか──。どんなに拷問をしても、知らないことは知らないんだよ──」
宝玄仙は最後の力を振り絞って叫んだ。
昨日、服従の首輪を受け入れる道術契約を交わしてもいいと言ったあと、御影はしつこく三人目の人格のことを質問してきた。
宝玉は知っていることを答えたようだが、宝玄仙は知らないで通した。
それで始まったのがこの拷問だ。
ただ、いずれにしても宝玄仙の三人目の人格について承知していることはほとんどない。
三人目の人格と思われる幼い宝玄仙と心の中で会ったことはある。
ただ、本当に怯えていて、外に出るのを嫌がり、そして、母親に恋焦がれていた。
あれは母親を探す人格なのだと思う。
もう、三人目の人格が外に出ることはないと宝玄仙は確信している。
「……宝玉は、三人目の人格が外には出ることはないと思うと言っていたわ」
「ほ、宝玉がそう言うんなら……、そ、そうなんだろうよ……。宝玉については……嘘をつくなと……お、お前が服従の首輪で……支配したんだろう……?」
「あたしは、お前の言葉を聞きたいのよ──」
御影が思い切り宝玄仙の腿の上の重しを一度踏みつけた。
「ぐああっ」
脛に激痛が走るとともに、衝撃で身体が揺れて鎖が喉に喰い込み、宝玄仙は悲鳴をあげた。
「で、出てこないよ……。た、多分──。わ、わたしもそう思うよ……」
なおも重しを踏みつける御影に対して、宝玄仙は大きな声で言った。
御影が脚をどかす。
「くっ……」
宝玄仙は歯を食い縛って、少しでも安定した体勢に戻そうとした。
もう出てこない……。
宝玄仙はそれを知っている。
昨日、宝玉が出現する直前に、宝玄仙はあの幼い宝玄仙の人格の心と意識の中ですれ違ったのだ。
そのとき、ほんの一部だが、あの宝玄仙……、つまり、原宝玄仙とも呼べる人格の心が入ってきた。
それでわかった……。
あの三人目の人格は、宝玄仙も宝玉も知らないところで、これまで何度か出現していたのだ。
それは鳴智と一緒のときのようだ。
あの幼い人格は、かつて宝玄仙が闘勝仙の性奴隷だった頃、鳴智とふたりきりのときだけ出現しては、鳴智を「御前」と呼んで甘えていたのだ。
「御前」というのは、幼い宝玄仙が母親を呼ぶときの言葉だ。
宝玄仙たちの母親は、「お母さん」などと呼ばれるのが嫌で、宝玄仙やお蘭に「御前」と自分を呼ばせていた。
幼い人格の宝玄仙は、とても臆病だ。
本来であれば、心を閉ざして外には出てこないはずの人格だった。
それが表に出たのは鳴智がいたからだ。
鳴智は知らなかったようだが、幼い宝玄仙の人格は鳴智に母親の姿を重ねていたのだ。
その理由も宝玄仙にはわかる。
鳴智を初めて見たのは、まだ、宝玄仙が闘勝仙に捕まる前であり、父親の事業の失敗で奴隷に身を売ろうとしている鳴智を帝都の道端で見かけたのだ。
宝玄仙はびっくりしたものだった。
鳴智は、宝玄仙が別れた母親にすごく顔立ちが似ていた。
もちろん、年齢は違う。
しかし、宝玄仙は鳴智に、宝玄仙の母親の面影を感じた。
それですぐに鳴智を買い取り、自分の本当の奴隷にした。鳴智の家族の生活基盤を支えてやったのはついでのことだ。
鳴智を奴隷にした宝玄仙は、幼いころに虐げられた母親に復讐をするつもりで嬉々として鳴智を嗜虐した。
だが、鳴智が宝玄仙を逆に嗜虐する立場になると、それを母親の仕打ちに重ねた三人目の隠れた人格が鳴智に苛められるために、鳴智とふたりだけのときに限り、こっそりと表に出てきていたようだ。
あの人格にとって、母親に嗜虐されるということは、母親に愛されるということと同義だったのだ。
だが、闘勝仙に復讐を果たすことで、鳴智と宝玄仙は別れることになった。
そして、三人目の人格も表に出ることはなくなった。
もう一度、三人目の人格が外に出たのは金凰魔王のときだ。
あのとき、金凰魔王に捕えられた鳴智を惨たらしく金凰魔王や金凰妃が目の前で拷問した。それで「母親」である鳴智を救おうと、三人目の人格が外に出たのだ。
それらのことを宝玄仙は、心の中で三人目の人格とすれ違うことで一瞬にして知った。
だが、もう出てこない。
昨日、鳴智は、御影に命令されて宝玉を御影に売り渡すと告げた。
宝玉というのは宝玄仙の本名だ。
その言葉を幼い三人目の人格は鳴智が自分を裏切ったと思ったようだ。
さらに、そのことで、三人目の人格は鳴智が母親でないという当たり前の事実に気がついた。
すれ違った三人目の人格から宝玄仙に伝わったのは大きな失望だった。
だから、もうあの人格は出てこない。
宝玄仙は確信している。
御影は少しのあいだ考えていたようだった。
「……わかった……。道術契約を結ぶわ……。お前は奴隷の首輪を受け入れるとともに、道術石の入った袋を開かせる。それを条件として、あたしはお前の供、鳴智とその子供、魔凛を解放し、二度と命令を与えないと誓う」
御影の言葉を同時に、宝玄仙の腕の重りと拘束のすべてが消滅した。
宝玄仙は、疲労困憊で引っくり返りそうになるのを必死になって、気力を奮い起こして身体を保持した。
「……そ、その約束の証として……、か、解放する者たちは……ど、道術石の袋の開錠と……、わ、わたしが、奴隷の誓いを受け入れるのと同時に……、摩雲城に『移動術』で……転送されること……。そ、それを条件にして……道術契約を……う、受け入れる……」
「いいわ……。受け入れる……」
御影が腕を伸ばした。
宝玄仙も痺れている腕を懸命に伸ばして、指を御影の腕に接触させた。
その瞬間、道術契約が成立したのを宝玄仙は感じた。
「……これで、お前は首輪を受け入れるしかないわよ。じゃあ、一度首輪を外すわ。供たちの処置をしなさい」
御影がそう言って、宝玄仙の首に装着したままだった服従の首輪を外した。