「
結界の外に出た朱姫は、二匹の使徒を出した。
人の二倍以上はある巨大な猪公と、人間大の背丈の
「主殿……。おお――」
「そっち見るな、猪公――。鳴戸もだ」
朱姫は声をあげた。
「だって、ありゃりゃあ……。あの主殿の主殿が、孫さんの下袴を緩めて、中に手を入れているね。樹に吊るされている素っ裸の沙那さんは、苦しそうだね」
「見るなって、言っているだろう――」
朱姫は絶叫した。
猪公と鳴戸が、視線を慌てて視線を外に向ける。
「鳴戸、行け――。この先に、魔力を担ったなにかがいる。確認しろ――。猪公はあたしと一緒だ。声をかけたら、走って相手を捕まえろ」
「わかったね」
鳴戸があっという間に樹にのぼって、枝と葉の間に身を隠した。
そのまま、樹木から樹木を渡って進んでいく。
鳴戸によって動く樹木の葉の音が遠くなる。
「行くよ、猪公――」
朱姫は走った。
猪公の大きな足音が、背中を追ってくる。
五間(約五十メートル)ほど先で、鳴戸が地上に向かって跳んだ。
そこで声がする。妖魔の声だ――。
獣じゃない。
人だ。
魔力を帯びた人間……。
つまり、妖魔だ。
草むらに飛び込んだ鳴戸がなにかを捕まえている。
「フガアアァァァ――」
猪公が吠えた。
戦いの嫌いで、本当はとても臆病な猪公は、その恐怖を振り払うために、その前に大声をよく出す。
だが、巨大で凶暴な顔をしている猪公の咆哮は、それだけで身体が動かなくなる相手は多い。
今度の相手も、猪公の大声で身がすくんでしまったようだ。
鳴戸の腕の中で動きが小さくなった。
「猪公、剣を抜け――」
猪公が駆けながら剣を抜く。
剣の大きさだけで、朱姫よりもでかい。
もっとも、猪公は剣は遣えない。
できるのは虚仮脅しだけだ。
朱姫も猪公が剣を振るのは見たことない。
鳴戸が取り押さえている“もの”に、猪公の大剣が伸ばされる。
猪公ができるのはここまでだ。ただ、突き刺すということだけだって、余程のことがなければ猪公できないだろう。
だが、そんなことはわからない相手は完全に静かになった。
鳴戸がその相手から離れる。
ただ、逃げられないように、猪公と鳴門に挟ませる。
「誰だ、お前?」
鳴戸と猪公のあいだから、朱姫は言った。
緑色の上下の服に身を包んだ痩せた妖魔が、こっちに視線を向けた。
「あれ?」
その顔に思わず朱姫は声をあげる。
「や、やっぱり、お前は、
そいつは地面に倒れたまま言った。
「あんた……」
朱姫は、その顔に見覚えがあった。
「……もしかして、
数年前に、ほんのしばらくだけ一緒に旅をしたことのある小妖の少年だ。
いまは、青年といっていいくらいに背も高くなっている。
「なんで、ここに?」
「そんなことより、お前――」
日値は、目を丸くしている。
「能生、お前、女の子だったのか?」
「そ、そうだよ」
そう言えば、日値と旅をしている間は男で通していた。
いまは、宝玄仙の命令で、膝までの丈の貫頭衣を身につけた女の格好をしている。
「か、可愛い……。こ、こんな可愛い雌妖と旅をしながら、俺は、それに気がつかなかったなんて――。俺は、なんという愚か者だ」
日値が頭を抱えている。
「それより、なんで、ここに日値がいるんだよ? 西域に向かうと言っていたじゃない」
旅をしていた時間は、それほど長いものではなかった。
西域というのは、魔域ともいい、そこでは妖魔と呼ばれている魔力を帯びた亜人間たちが、自分たちの国を作って暮らしているらしい。
日値は、その西域で強い妖魔の家来になると言って、西に向かった。
妖魔の家来になるなど、絶対に嫌だった朱姫は、同行を拒否した。
また、日値は、妖魔の中でも珍しい植物の妖魔であり、自分ひとりだけなら、森や林の緑に自分を憑依させて、物凄い速さで自分を運ぶことができるのだ。
とてもじゃないが、その移動法には、朱姫は同行できない。
それで別れた。
「そうだよ。俺は、あれから、魔域……つまり、こっちでいう西域に入って、そこで、運良く
「じゃあ、魔王の家来になれた、そのお前がここにいるんだ?」
西域なんて、ここからずっと先だ。
建前上は、宝玄仙はそこに巡礼のために向かうことになっているらしいが、とても遠い場所であり、まともに進んでも、おそらく一年以上はかかる。
随分と距離がある。
「移動術だよ。おふたりが、こっちに出てくることになったので、みんなと一緒にやってきたんだ。俺はこっちの土地のことにそれなりに詳しいし」
「こっちにって? 西域に勢力を持っている妖魔王が、人間の世界の東側に棲み家を移すの?」
妖魔は、世界のあちこちにいるが、西域以外では、蔑み、あるいは、虐げられる存在だ。
特に、妖魔を忌み嫌っている天教の影響が強いこの東側世界は、妖魔にはとても棲み難い世界なのだ。
わざわざ出てくるというのは、どういうことなのだろう?
「違う――。ある仕事を請け負ったらしい。こんな遠くまで、大勢の妖魔軍を移動してくれたのも、その依頼人の能力なんだ。でも、請け負った仕事が終われば、また、魔域に戻ると思う。まあ、もしかしたら、このまま、この一帯を根城にするかもしれないけど。そんなことを言ってたかも……」
「妖魔軍? 妖魔軍って、なにさ?」
朱姫はびっくりして言った。
そんなものが、この山のどこかにいるのか?
「妖魔軍は妖魔軍さ。金角様と銀角様の家来さ。すごくたくさんいるよ。俺もその中のひとりだけど……」
「ふうん……。それで、その金角と銀角って強いの?」
「まあね。魔域にいる妖魔の中でも強い方だと思う。それに美人だ」
「美人? 銀角だけでなく、金角も雌妖なの?」
「そうだよ。でも、俺は能生の方がいいな。なんで、雌妖だと教えてくれなかったんだよ――。しかも、こんなに可愛いだなんて。知っていたら、別れやしなかったのに」
日値は顔を膨らませる。
なぜか、朱姫は自分の顔が赤くなるのを感じた。
「そ、そんなこと、どうでもいいじゃない。それで、なにしに来たのさ? その金角、銀角っていう妖魔が妖魔軍と一緒に、この近くにいるの?」
とにかく、これは大変なことだ。一刻も早く、宝玄仙たちに知らせなけれは……。
沙那や孫空女をいたぶっている場合じゃない。
「いるどころじゃない――。この一帯は、すでに、おふたりの妖魔軍の領域だ。能生たちは、その真っ只中にいるんだ」
「妖魔軍の領域?」
「そうだよ」
日値ははっきりと言った。
朱姫は、とにかく大変なことだというのを理解した。
「鳴戸――。お前、ご主人様に、いまの話を知られて来い」
そばでずっと、ふたりの話を聞いていた鳴戸に朱姫は怒鳴った。
「わかったね」
鳴戸が走り去ろうとした。
その鳴戸の身体に、地面に生えていた草が延びて絡み始める。草に捕らわれた鳴戸は動けなくなった。
日値の得意の術であり、『草縛り』といって、草に魔力を送り込んで、それを自在に操って、相手を拘束する技だ。
あらゆる自然地物には、魔力が備わっているが、自然地物そのものに魔力をかけるのは誰でもできる魔術ではない。
植物の妖魔である日値だからこそ、できる技だ。
「動けないね、主殿」
「主殿――」
そして、『草縛り』で身体を絡まれているのは、鳴戸だけじゃない。
巨大な猪公も、身体中を草に絡まれている。
しかも、朱姫の両膝から下も草が絡んで地面と拘束された。
「ど、どういうこと、日値? 離しなさいよ」
「ねえ、能生……。お前も、金角様と銀角様の家来になれ」
日値が言った。
「あたしは、宝玄仙様の家来だ」
「あの女法師は死ぬ。金角様と銀角様に捕えられ、教団からやってきた
「鎮元って……。鎮元仙士?」
あいつが戻ってきたのか――。
朱姫は、孫空女とともに鎮元仙士に捕まって、さんざんになぶられたことを思い出した。
「そう言えば、金角、銀角が仕事を請け負ったって言っていたね、日値?」
「ああ」
日値は懐から一枚の羊毛紙を出して朱姫にかざした。
闇の中だったが、朱姫の眼には、そこに描かれている宝玄仙の顔がはっきりと見えた。
「こ、これは、ご主人様……」
朱姫はじっとそこに描かれている宝玄仙の顔を見ていた。
なんだろう、これ?
「鎮元仙士が持ってきた。いまは、金角様と銀角様だけじゃなく、たくさんの妖魔が持っている。俺でさえ持っているくらいだ。宝玄仙を捕えれば、あの天教教団が、貴重な宝物を渡す。そういうことになっているんだ。金角様はそれに興味を抱かれて、今回の仕事を引き受けたんだ」
「冗談じゃないよ」
「そうだよ、能生。冗談じゃない――。あの天教の女法師を捕えようと、たくさんの妖魔が待ち構えている。西に向かうらしいが、生きて辿りつけるわけがない。もっとも、東側の妖魔にも、いまは同じ話が知れ渡っているらしいから、こっちの世界でもあの女の居場所はないと思う。いくらなんでも逃げ切れないよ。金角様と銀角様だけじゃなく、どんどん妖魔が来るはずだ。そんなのと能生が一緒にいたら大変なことになる」
「ふざけるな――」
朱姫は叫んでいた。
日値に言ったわけじゃない。
教団の仕打ちに腹が立ったのだ。
宝玄仙は、帝都にいたときに、
その挙句、彼らに「調教」されるという屈辱を二年間味わったのだ。
しかし、宝玄仙は、二年間それに耐えながら、彼らを殺すことに成功し、帝都を脱出して、西方に向かうことを決めた。
闘勝仙らは、天教教団の最高幹部だったから、彼らを殺した宝玄仙には、教団の支配する地域には、もう生きていける場所がないからだ。
それなのに、宝玄仙が唯一、安住できる可能性のある場所――、西方からも宝玄仙の生きる場所を消そうとしている。
「……主殿、誰か来るね」
もう完全に草に絡まれている鳴戸が言った。
確かに、なにかの集団が近づいてくる足音がする。
「ものすごく、大勢いるよ、主殿」
猪公も言った。
その猪公と、そして、鳴戸が突然に炎に包まれた。
「鳴戸――。猪公――」
朱姫は絶叫した。
朱姫の二匹の使徒が火だるまになっている。
「戻れえっ――」
朱姫は叫んだ。
胴体と足は『草縛り』のために動かないが、術は遣える。
二匹の使徒が板に戻った。
しかし、その板はまだ燃えている。
板から感じる使徒の気配が微かになった。
そして……。
……消えた――。
朱姫は、膝から下を草の蔓に捕らわれたまま、その場にがっくりと跪いた。
その朱姫の眼の前に、銀の具足に身を固めた美しい雌妖が立った。
背後には、百匹ほどの妖魔軍の集団がいる。
「銀角様――」
日値が直立不動の姿勢をとった。
「こいつは宝玄仙の供のひとりだね……。お手柄だよ、日値」
「あっ……。は、はい。あのう……。この先に宝玄仙も……」
日値が言った。
「わかってるさ。女戦士ふたりを相手に遊んでいるらしいね。よく知らせてくれたよ、日値。宝玄仙は、結界の中というので安心しきっているらしいさ。だけど、天教の術遣いから預かったこいつで、石にしてやるよ」
銀角が瓢箪の形をした霊具らしきものを見せて、けらけらと笑った。
「それはなによ――?」
朱姫は跪いたまま叫んだ。
「ほう、こりゃあ上玉じゃないか。可愛らしい顔をして、なかなかの美形だね。人間? いや、まとっている魔力は妖魔のものだね……。何者だい……?」
銀角が朱姫の前にしゃがみこんだ。
そして、いきなり、朱姫の貫頭衣の裾をまくって、朱姫の股間に手を伸ばす。
「ひ、ひゃあ――。な、なにすんのよう――」
朱姫は悲鳴をあげた。
銀角の手をどかそうとするが、もの凄い力で朱姫にはびくともしない。
「どれ、味見をしようかね。いい味だったら、この銀角様の飼い猫にしてやってもいいよ。まあ、飽きて殺すまでの短い間だけたけどね」
あっという間に、下着を引き千切られて捨てられる。
股間に風が当たり、羞恥に襲われる。
「いやだっ」
朱姫は捲られている裾を懸命に、両手で押さえようとした。
しかし、銀角の力が強くて、裾を持ちあげている銀角の腕はびくともしない。
すると、銀角のもう片方の手が貫頭衣の裾の中に入り込んで、朱姫の肉芽をさすりあげながら、淫孔に入り込んできた。
上下左右に動かされる指を朱姫は避けることができない。
しかも、足は『草縛り』のために閉じられない。
「いやっ……。ひゃん……ああっ……」
たちまちに情感が込みあがる。
とにかく、朱姫は懸命に貫頭衣の裾を押さようとした。
だって、すぐそばに日値がいるのだ。
だが、やっぱり、銀角の力は強い。
銀角は、朱姫の恥ずかしがる仕草が愉しいらしく、さらに貫頭衣の裾を上にあげて、股間を剝き出しにする。
「あの女三蔵の仕込みだけあって、かなり感度もいいねえ。お前をあたいの猫にするよ」
「は、離せっ――。ああっ……あはあ……」
朱姫はもがくが、うねうねと指を動かされて、どうしても感じてしまう。
股間がびっしょりと濡れるのがわかる。
「お前の真名は?」
真名を知って、支配しようとしているのだろう。
だが、すでに朱姫は宝玄仙と真名を介した主従契約術を結んでいる。
真名の支配を二重に受けることはないはずだ。
しかし、教える気はない。
「う、うるさい――」
「の、
日値が横から言った。
「それは、真名じゃないね、能生」
銀角は、朱姫の股間に指を入れたまま言った。
「い、……いい加減に……」
朱姫は喘ぎながら言った。
銀角は、にやにやしながらやっと指を抜いた。
その指を朱姫の眼の前にかざす。
指には、べっとりと朱姫の愛液がついている。
「汁も多目のようだね。へえ……」
その指をぺろりと舐めた。
「まあいい。お前のことは後だ。そのまま捕まえていろ、日値――。みんな、行くよ」
銀角が声をあげた。
その銀角を先頭に、妖魔軍が動き始める。
その背を見ながら、朱姫は、銀角が天教の霊具を遣うとか言っていたのを思い出した。
いま、宝玄仙は、沙那と孫空女に対する淫行に耽っている。
知らせなければ――。
「
朱姫は、最後の使徒を出した。
横の日値がなにかを叫んだが無視する。
「ご主人様に知らせろ。妖魔軍が迫ってるって――」
奏羽はすぐに夜の空を飛んでいった。
*
宝玄仙の前に吊りあげられている沙那が、小便を洩らしながら、口から泡を吹き始めた。
しかも、白眼を剥いている。
さすがに、宝玄仙は、慌てて『溜め袋の護符』を取り払った。
「はぎゃげがぎいいいいっ」
すると、霊具の護符を外すことで、それまで溜まっていた快楽が一気に爆発したようだ。
沙那は、この世の者とは思えない奇声をあげて、さらに小便を洩らしながら激しく痙攣した。
そして、今度こそ完全に気を失った。
ふと気がつくと、孫空女の叫び声も常軌を逸した響きに変わってきている。
宝玄仙は、我に返って、痒みを与えていた道術を取り除く。
四肢を束ねていた『拘束環』も外して、宝玄仙は椅子代わりにしていた孫空女からおりた。
だが、ほとんど孫空女は姿勢を変えない。
気を失っているわけではないが、ほぼ同然の状態にあるようだ。
「こりゃあ、やり過ぎたね……」
宝玄仙は、屍体のようになったふたりの供を前にして呟いた。
「ねえ、朱姫……、あれっ?」
朱姫に後始末をさせようとして、宝玄仙はその朱姫がいないことに気がついた。
そう言えば、朱姫を妖魔の偵察に行かせたような気がする。
争いごとには不慣れな朱姫だ。大丈夫だろうか。
考えてみれば、随分と時間がかかっている。
「宝様――」
その時、結界の外から闇を貫いて、空を駆ける鳥妖の声を聞いた。
朱姫の操る『使徒』の一匹の
遠目で様子はわからないが声は血相を変えている。
瞬時に、朱姫になにかがあったのだと悟った。
その奏羽が、結界の目前の空中で炎に包まれた。
「
宝玄仙は叫んだ。
襲撃――?
しかし、眼の前には、使いものになりそうのない女猛者ふたりが、あられもない恰好でいるだけだ。
宝玄仙は、沙那を吊るしていた『魔縄』を道術の力で消滅させた。
沙那の身体は、その場で崩れ落ちる。
だが、やはり、身動きひとつしない。
結界の周囲をあっという間に、数十匹の武装した妖魔に囲まれた。
いや、もっといるか?
百匹はいるんじゃないだろうか?
とにかく、結界の周り全体を夜闇のずっと向こうまで、妖魔兵が続いている。
なんだ、これ?
宝玄仙は、結界を強くした。
もう一度見るが、やはり、足元のふたりは役に立たない。
仕方なく、結界の中に『移動術』のための道術紋を刻む。
『移動術』は、跳躍のための道術紋から道術紋のあいだを瞬時に移動する術だ。
原則として、あらかじめ両方に移動術のための道術紋を刻んでおかなければならないので、いつでもどこにでも移動できるわけではない。
なにしろ、道術紋などは一度刻んだだけでは、時間が経てば、簡単になくなってしまうのだ。安定させるためのやり方もあるが、非常に処置に時間もかかるものであり、旅では簡単には設置できない。
それほど自由にどこでも行けるわけじゃないのだ。
だから、いつかの天教の襲撃以来、宝玄仙は『移動術』の出口を、昼間、道中で昼餉をとるために休息をした場所など選んで、道術紋を刻むということをしている。
そのやり方だと、道術紋を半月も保てないが、食事のついでに簡単に刻むことができる。
それで、出口側の道術紋が残ってるうちに、こちら側に新たに道術紋を刻んで繋げば、移動術で逃亡できるというわけだ。
結界を取り囲んでいる妖魔兵たちは、宝玄仙の道術に阻まれて、入ってこれない。
しかし、彼らが敵意のあるものなのは、態度でわかる。
宝玄仙は、開いた移動術の出口の向こう側に、まずは沙那、次いで、孫空女を蹴り転がして転送した。
このまま宝玄仙も移動をしてしまえば、宝玄仙自身は守れるが、しかし、朱姫を取り残してしまうことになる。
まあ、結界の中にいる以上、妖魔も手出しはできない。
宝玄仙は、このまま残って、妖魔たちに向き直った。
すると、大勢の妖魔兵の中からひとりの雌妖が現れた。
口に牙がある。
全身を銀の具足と兜で身を包んだ美しい女の妖魔だ。
だが、怖ろしいほどの魔力が漲っている。
もっとも、宝玄仙には遥かに及ばない。
宝玄仙はほっとした。
これなら、それほど恐れる必要はない。
軽くあしらえるだろうし、場合によっては、この雌妖でちょっとばかり遊んでもいい。
「お前、なんだい?」
宝玄仙は結界越しに言った。
「あたいは、この
銀角と名乗った妖魔は、結界の外でにやにやと笑っている。
その笑う口元が月明かりに照らされて、大きな牙が光った。
もはや、結界の周りには、風景が見えない程にびっしりと、武器を前に出した妖魔がいる。
これだけの数の妖魔だ。
結果の外にいる朱姫は、連中に捕えられたと考えて間違いない。
その危険を知らせるために、朱姫は奏羽を送ったのだろう。
だが、その奏羽は宝玄仙の眼の前で炎に変わっている。
もう、奏羽が落下した場所は、小さな炎があるだけで、奏羽の姿はない。
「その銀角が、わたしらになにか用かい?」
「ああ、用だよ。あんたには、あたいらに捕らわれてもらう。褒章が出てんだよ、あんたにはね」
「褒章?」
「そうだよ。あんたは、あの天教から手配されている。それだけじゃない。あんたらを捕えれば、大層な身分を貰えるらしくてねえ。あたいは、
「坊士に、上士だあ? それは天教の戒名じゃないかい?」
宝玄仙は驚いた。
天教の敵である妖魔に戒名――。
いったいどういうことだろう?
「あんたという法師を捕えれば、そういう身分になるのさ。別段、あたいら妖魔は、あんたらに恨みがあるわけじゃない。でも、姉貴は天教の戒名が貰えるということに有頂天になっているのさ。なんたって、あたいら妖魔を、あの天教の神官として高く迎え入れるというんだからね」
銀角は言った。
肩には、なにかの霊具のようなものをぶら下げている。
しかし、その霊具が背中側なので、なにを持っているのか判断できない。
「馬鹿じゃないか、お前。坊士に、上士といえば、天教では下っ端の階級だよ。天教に入って、廊下磨きや庭掃除でもしたいのかい?」
教団の階級は、上から“八仙”、“仙士”、“蔡士”、“高士”、“上士”、“坊士”だ。銀角が言った階級は、最下層の階級とそのひとつ上だ。
銀角の顔色が変わった。
「下っ端? それなりの戒名と聞いたよ――。あたいは?」
「さっきまでいた、沙那と孫空女でさえ、蔡士の階級を持っていたんだよ。上士というのは、その二個下。坊士なんてのは、さらに下で、十歳で出家した子供が最初にもらう戒名じゃないか。もしかしたら、お前は、まだ十歳の娘さんなのかい?」
銀角の顔がますます赤くなる。
それにしても、妖魔に戒名というのはどういうことなのだろう?
しかも、宝玄仙を捕えれば、天教の戒名を与える――?
教団と妖魔がそういう取引きをしたということなのだろうか?
「ところで、お前の戒名をもう一度教えてくれるかい、銀角?」
宝玄仙は言った。
「うるさいねえ。銀鎮坊だよ」
銀鎮――。
弟子に戒名を与えるときに、自分の名の一字を含ませるというのはよくある。
沙那と孫空女の戒名の“
間違いない。
あの鎮元仙士だ。
あいつなら、得意の移動術で、道術紋なしで記憶だけでどこまでも瞬時に跳躍できる。
宝玄仙たちを大きく先回りして、西域まで行って、妖魔軍を連れてくることだってできると思う。
どうやら、教団は、まだ宝玄仙を殺すということを諦めてはいなかったようだ。
「ところで、お前たちは、さっき鳥妖を殺したね? なぜだい?」
朱姫がどうなったのか?
気にしているのはそれだけだ。
無事だということがわかれば、このまま、目の前に道術紋からから『移動術』で飛ぶだけだ。
「朱姫? もしかして、
「能生?」
能生というのは、朱姫が宝玄仙の供になる前に使っていた呼び名のはずだ。
一方で朱姫というのは、宝玄仙がつけた名前だ。
朱姫は“八戒姫”という真名を宝玄仙に知られ、さらに、それを変えることで、宝玄仙に支配されたことになっているのだ。
宝玄仙の家来となり、いまは“朱姫”で通しているが、能生というのは、少し前まで朱姫が使っていた名だ。
それを銀角が口にするということは、朱姫が銀角の手に渡っていると判断すべきなのか、それとも、まだ、無事だと判断すべきなのか……。
「能生はどこだい?」
宝玄仙は言った。
「それよりも、宝玄仙――。これを見て、返事しな――」
銀角が言った。
宝玄仙は、銀角の持っているものを見た。
なにかの容器の口の部分をこっちに見せている。
「ああ? なんだい、それ?」
その瞬間――。
なにかが起こった。
銀角が向けているのは
そこから、強い風が出て、結界の中の宝玄仙に当たったのだ。
吹き飛ばされてもおかしくない風にも関わらず、宝玄仙は、まったく、身動きすることができない――。
いや、身体が動かない――?
どういうことだ――?
「大したものだねえ。天教の最高神官の霊具とかいうやつは――。この女法師の霊気もすっかり消えちまったよ」
銀角が結界のあった場所を通り抜けて、宝玄仙のすぐ前に立った。
それでも、宝玄仙はまったく動くことができない。
それだけではない。
口を開くことさえできないのだ。
銀角が、宝玄仙の胸に手を伸ばした。
だが、なにも感じない。
触られているという感覚さえ存在しない。
「これじゃあ、役にも立ちやしない。折角、こんな人間の美女を捕えたというのにさあ。天教に引き渡す前に、たっぷりと可愛がってやろうと思ったのにねえ――」
銀角は不満そうに言いながら、宝玄仙の股間の部分にも手を伸ばした。
だが、なにも宝玄仙は感じることができなかった。
それどころか、首を曲げることもできやしない。
「いずれにしても、あの
身体が数名の妖魔たちによって持ちあげられた。
やっと宝玄仙は、自分の身体が石像のように固まっていることに気がついた。
そのとき、銀角が肩に担いでいた霊具がはっきりと目に入った。
紅い|瓢箪――。
『紅ひさご』――。
思い出した。
あれは間違いなく、いまの教団の最高神官の八仙の中の八仙――つまり、現在の帝仙である
瓢箪の口を見た者を石像に変えてしまうという宝具である。
なぜ、この世にひとつしかないはずの、曹国仙の宝物を妖魔が持っているのか――?
宝玄仙は「物」のように担がれながら、懸命にそれを考え続けた。